sagarihuji寺内町についてsagarihuji


  久宝寺に一歩足を踏み入れると道路がほぼ碁盤の目状に通っている事に気づきます。これは寺内町の名残です。周囲に濠を巡らし内側の各家には門が無く、顕証寺を中心に壮大な自治組織を形成していた当時の面影があちらこちらに偲ばれます。

 久宝寺寺内(現、八尾市)の基を開いたのは、本願寺蓮如である。もともとこの地には真宗の開祖親鸞の二四輩と呼ばれる高弟の一人、信願房法心の創建と伝える一向道場の慈願寺があった。

 明応年中(1492〜1501)河内国布教のため久宝寺地域を訪れた蓮如上人は、慈願寺や土豪安井氏の協力によって新たに一寺を建て西証寺と命名、第二一子実順を住持に任命して、この地の本願寺教団を支配させ、慈願寺は西証寺の世話寺となった。

 実順の跡はその子実真が継いだが、享禄二年(1529)早世したため、近江国大津の顕証寺住持だった蓮如第六子の蓮淳を迎え、寺号も近松山顕証寺と改めた。

 天文八年(1539)、蓮淳は近江へ帰ったが、その子実淳は石山寺内にならい、顕証寺から西・北・東に広がる門徒の屋敷すべてを含めた久宝寺地域の周囲に、大和川の水を引いた二重の濠を巡らし、濠と濠との中間に土居を連ね、四方の出入り口には木戸門を設けて厳重な防備を固めたと伝える。

 やや時代は下るが、享保八年(1723)の寺内絵図には、四囲の濠と土居の中に、北から南へ大手町・米屋町・馬追町・表町・中之町の五町があり、北に北口、南に南口、東に東口と今口、西に古口と西口がみえ、大手町から南に直進する広小路のほか、碁盤の目のように街路が通じている。創設時から計画的な町づくりが進められたものと思われる。

 寺内の支配権は久宝寺御坊顕証寺と本願寺教団にあったが、直接の支配は創設に協力した安井氏に任せた。

 慶長七年(1602)、本願寺は東西二派に分かれ、顕証寺は西派に属したが、同十一年には、久宝寺寺内も分裂した。

 寺内の住民森本七郎兵衛ら十七人が安井氏の支配に反抗し、森本らを支援した慈願寺は久宝寺を離れて長瀬川対岸に移り、八尾寺内を開発したのである。翌十二年、東本願寺の教如が八尾に大信寺を建てると慈願寺はその法務をつかさどった。

 こうして、きわめて近いところに、東西二つの御坊を中核とする寺内が並立したが、やがて久宝寺寺内は安井氏の衰退により慶長十七年(1612)に検地を受け、八尾寺内もまた寛文年間(1661〜73)に支配権を返上して、ともに寺内としての特権を失った。

< 津田秀夫責任編集「図説大阪府の歴史」より >

久宝寺寺内町図はこちら

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