李基允さんと「相度さんを追悼する19回目のつどい

 

追悼碑と横断幕
つどいの様子
歌う李陽雨さん
熊野市民会館でのパネル展

 2012年12月1日、午後2時10分から、1994年11月20日に除幕した李基允さんと「相度さんを追悼する碑の前で、

 お二人を追悼するつどいが開かれました。

 司会の徐文平さんが、1年をふりかえって開会のあいさつをし、参加者が全員で献花し献杯しました。

 そのあと、参加者全員が、それぞれの思いを語りました。

 きょうのつどいは、1994年の除幕集会を1回目として、19回目になります。

 この19回のつどいで、多くの出会いがありました。

 毎年の追悼のつどいで語られたことは、それからの1年間の運動の基点になってきました。 一人ひとりが簡潔に語ったあと、

 李陽雨さんが、「おれのオヤジは炭焼きオヤジ」など、在日朝鮮人の歴史の歌を歌いました。

 寒い日でしたが、晴れた日でした。

 追悼のつどいのあと、木本トンネル、「相度さんが虐殺された笛吹橋、李基允さんと「相度さんの遺体が一時放置されていた

 木本町の有本湯のあった場所、朝鮮人が抗議の集まりを開いていた木本神社などを回って、極楽寺に行きました。

 極楽寺の墓地の片隅には、当時、有本湯前から運ばれてきたお二人の遺体が置き捨てられていました。

 追悼集会と合わせて、熊野市民会館で、1日と2日まで、「木本事件」、「紀州鉱山への朝鮮人強制連行」などに関する

 パネル展を開きました。

 参加者の多くが、夕刻、紀和町の湯の口の宿所に移動し、夕食後、午後7時版から、意見交換会が開かれました。

 そこでは、つぎのような発言がありました。

・ 日本がアジア太平洋の各国で侵略戦争をおこなったことを反省する政府ができなかったことが現在の問題の根本だ。

・ 日本が朝鮮を植民地とした100年前と、日本はそんなに変わっていない。同じような差別状況がある。差別に悩み、苦しんでいる人が多い。

・ 日本は、植民地にした国で悪いことをした。この問題から、日本人として逃げないようにしたい。

・ 日本は侵略を続けてきたが、それに抵抗した日本人は少なかった。日本で植民地主義はまだ翼をもぎとられていない。

   その翼をもぎとるネットワークを強くしていきたい。

・ 李基允さんと「相度さんの追悼碑を除幕するとき、「相度さんの二男の「敬洪さんは参加できなかったが、その子の?哲庸さんは、

   「父は、”追悼碑のある場所に粟1斗を撒いてほしい。粟の1粒1粒が全部爆弾と飛行機になって……”」と話した。先日海南島に行ったとき、

   父を殺された人が、「父を殺した日本人を殺したい」と言った。この思いに、すこしでもこたえられる運動を進めていきたい。

・ 1926年に熊野で殺された2人の「コンチクショウ」という気持ちの深さを、朝鮮人である自分がどれほどわかっているか。

   ほとんどわかっていないと思うが、この思いを思うのがわたしの運動の原点だ。

・ 日本政府・日本軍・日本企がアジア太平洋各地で殺した人たち、その遺族、1人ひとりの人生と、日本人である自分の人生を

   かせね合わせて考えながら、これまで運動を続けてきた。

                                         佐藤正人