イギユンさんとペサンドさんを追悼する21回目の集会の報告

 

 11月22日午後2時から、21回目の追悼集会を開きました。

 昨年は曇り日でしたが、今年は晴れており、空は真っ青でした。

 あまり広くない追悼碑前の広場に、各地から約60人の参加者が集まりました。

 追悼碑は、木本トンネル入り口の高台にあるので、その前の広場に行くためには、狭い石段を30段ほど登らなければなりません。

 昨年は、石段の一部がぐらついており、危ない思いをしたのですが、今年は、石段を固定し、てすりをつけたので、安心でした。

 この工事は、11月20日に終わったばかりでした。工事にあたって、おおくの方から費用のカンパをいただきました。

■開会にあたって、会員が、つぎのように述べました。

 「1923年9月の関東での朝鮮人・中国人虐殺と、1926年1月の三重県木本での虐殺は、その地域に住んでいる日本人が異民族を

 虐殺した同じ事件です。

 しかし、いくらかの違いがあります。その違いは、1923年9月から1926年1月までの間の歴史によるものだと思います。

1925年2月に在日本朝鮮労働総同盟が結成されました。在日本朝鮮労働総同盟は、木本事件に抗議し声明文を出し調査団を送りました。

関東大虐殺のときには、そのようなことはありませんでした。また、関東大虐殺のとき、朝鮮人を襲ってきた日本人に対して、日本人が

朝鮮人と共にたたかったという記録はありません。

 木本虐殺のときには、襲撃してきた日本人にたいして、ダイナマイトでたたかった朝鮮人のなかには日本人もいました。また、

関東大虐殺のときには、裁判にかけられた日本人はいませんでしたが、木本虐殺のときには、日本人が裁判にかけられました。

同時に、朝鮮人も裁判にかけられましたが、そのとき、朝鮮側の被告として、日本人の杉浦新吉さん、林林一さん、高橋万次郎さんが

裁判にかけられ有罪になりました。

 1923年から1926年における日本と世界における政治的経済的状況を考えることは大事と思います。わたしたちが、

この碑を建立した10年後の2004年に、群馬県で鉱山や現場で命を落とさせられた朝鮮人を追悼する碑が、

群馬県立公園に建立されました。その碑は10年後に群馬県が設置許可を更新することになっていました。

今年は10年目ですが、群馬県は更新を認めず、碑の撤去を要求しています。

 日本における異民族虐殺も追悼碑の建立・維持も日本・アジア・世界の情勢を反映していると思います。

 追悼碑は、わたしたちが、共にたたかっていく一つの拠点だと思います。

 21回目の追悼集会の日を、新しい未来を切り開いていく第一歩のはじまりの日にしたいと思います」。

■開会のあいさつに続き、参加者全員がひとりずつ献花し、献杯を行いました。

 そして、参加者からメッセージをうけました。

★熊野市市議会議員

 「この事件は、祖父から聞いていた。祖父は「春山は、ええ男やった。可哀そうだった。あんな群集心理になると、

もう止めようがなかった」と言っていた。そういうことがないように、これから頑張っていきたいと思います」。

★桑名・四日市の平和学習の会の会員

 「今日、見て、聞いたことを伝えていきたい」。

★東京八王子からの参加者

 「5回目の参加になります。日本人と朝鮮人、奪ってきた者と奪われてきた者。この関係をどうしていくのか、

私は、日本人がどう責任をとっていくのかを考えていますし、答えを出さなければならいと思っています」。

★三重県いなべからの参加者

 「朝鮮と日本の歴史を学ぶことで、自分の考えが浅はかであったことを思い知りました。朝鮮を征服したということが、

いかに人間らしくない、平和を守るうえでどれだけ罪の深いことであったかを学んだ。これから日本社会がどんな道を

歩んでいくかを、この事件を通じて考えていかなければならない」。

★京都からの参加者

 「この会の活動は、20年前から会誌を通して知っていた。在日朝鮮人として、父や母が同じ運命を辿っても不思議で

ないという大変身近な問題として感じています。この場で育つ草花を植えたいと思い、白いユリの種を持ってきました」。

★松阪からの参加者

 「20年前よりも、今の方が社会の状況がだんだん悪くなっている気がします。戦争の悲惨さが若い世代の人に伝わっていない。

このあと20年経ったらどうなるだろうかと懸念する。今、日本は戦争できるに国なったといわれるが、

福島の原発事故の問題を隠すために、そういうことをやるのではないかと本気で思うわけです。若い世代が、

戦争の悲惨さを知らない時代になってしまいました。ですから、こういう活動が大切と思います」。

★東京八王子からの参加者

 「今、日本が戦争に向かっているということは、誰が見ても明らかなことですが、それを生半可なことで止めることは、

ほとんどできない。もう、ほとんどが、その熱に浮かされて、どんどんその方向に走っていっている。

このままいけば、木本の町民のように愛町心だ、愛国心だといって、人を殺して自分の繁栄を確保しようということに

確実になっていくと思います。

 第2次世界戦争に至る明治以降の侵略の歴史にたいして、“あれは時代がそうだったから仕方がなかった”、

“今は、違う”と多くの人は言いますが、そんなことはない。

 侵略をして自分の栄華を確保しようと、自分が生き延びようという、侵略によって自分の正義を実現しようという、

そういう手前勝手な政治を求める、そういう侵略の心というのは、生き続けてきている。

 しかし、安倍が先頭になって戦争に突き進んでいっても、止めることができる。杉浦新吉さんたち3人のように

ダイナマイトで抵抗した人たちを、どうやって強固につくっていくのか。このような人が、1万人、10万人、

100万人いれば、とめることができる。

 3人は、これからどうしたらいいのか、どうすべきなのか、そういう大問題についての道しるべになっている。

かれらのたたかいを道しるべにして、今の時代、どういうふうにして生きていくのかを考えていきたい」。

★松阪からの参加者(20年前の悼碑除幕集会のとき碑文を暗唱。今回も碑文を暗唱)

 「20年前に苦労して建った碑です。建てて終わりではなく、この碑のことを自分の職場で教育の現場など

で伝えてきましたが、10年後、20年後に、この碑が正しく伝えられるのか、最後にはどうなっていくのか、

歪んだ歴史とか歪んだ見方でみられないよう、次の世代に伝える心の準備をしなければいけないと思っています」。

★大阪からの参加者

 「僕の一番上の姉は、1945年前に日本で生まれた。戦後、朝鮮に帰って、姉だけが韓国に残って、

両親はふたたび日本に出稼ぎにきた。僕らは日本で生まれた。姉は韓国人になり、僕らは在日韓国人となった。

なんで、きょうだいなのに交流できないのかといえば、朝鮮戦争が始まったからだ。戦争というのは、肉体も壊すが、

精神も気持ちまでも踏んづけてメッタ打ちにする。こういうことが、二度と起こらないよう、これらからも吠えていきます」。

★宝塚からの参加者(メセージのあと、尺八で追悼の曲を吹奏)

 「拙い演奏ですが、心の耳で曲を聞いて、日本人・日本社会の横暴・暴虐によって殺されたお二人の悲痛さを慮ってほしい。」

★千葉からの参加者

 「熊野市に、『熊野市史』を書き換えさせることは、この問題をどう捉えていくのかということを問うことだと思います。

そのためには、同時に、私自身がどう捉えていくのか、まずは自分の問題として、どのよう立場で生きていくかを考えて

いかないといけない、と思っています」。

■閉会のあいさつ

 「この碑を建立することによって、それまで地域で隠されてきた事件の背後にある問題を露わにする空間を、

この地元に生み出すことができました。

 追悼碑が20年間立ち続けていることの重みをつくづく感じています。この碑は、地域に根差しているがゆえに地域を

超えた広がりの中で大きな意味を持っている、今後も、そのような碑の意味を大切に育てていきたい」。

■追悼集会のあと、木本トンネル・笛吹橋・有本湯跡、など「事件」に関係した場所をまわって極楽寺に行きました。

 「事件」当時、極楽寺には、虐殺されたイギユンさんとペサンドさんの遺体が一週間も放置されていました。

                                                   竹本昇 記