ふたりはなぜ殺されたのか
    −熊野から朝鮮人虐殺を問う− 

   

 

このホームページで私たちが紹介しているのは、アジア太平洋戦争を20年ほど
さかのぼる1926年に、紀伊半島の南端にある熊野地域で起きた、地元住民によ
る朝鮮人労働者の殺害事件です。この事件は地元でもほとんどかえりみられること
なく、殺害されたふたりの無縁仏の墓石と郷土誌の記述の中にわずかに事件の痕跡
を見ることができるだけでした。わたしたちはこの痕跡をたどり調べる中で、この
事件が今日の日本の地域社会の中で今もなお深く根を下ろし、再生産されているこ
とを知ったのです。70年以上も前に日本の地方の諸都市で起きたこの事件を今日
のわたしたちが掘り起こそうとする意味はそこにあります。わたしたちはこの事件
をたどり直し、地元に残された痕跡を調べる中で、地域社会に根深くしみこんだ
民族差別の根を探り出し、地域の歴史を再認識して、差別をのりこえた新しい地域
社会のきずなを築き上げなければならないことを知りました。
ここでもういちど事件の経過を振り返りながら、なぜこの悲惨な事件をうみだし
てしまったのか、その根本原因について、私たちの会の考えを述べてみたいと
思います。また「木本事件」を掘り起こすわたしたちの運動が、紀州鉱山における
朝鮮人の強制徴用や、中国の海南島での日本軍による朝鮮人の大量虐殺に関する調
査の運動へと発展していった経緯についても、述べたいと思います。

  事件の根にある地域住民の差別意識

事件が起きたのは、今から75年前の1926年の正月のことでした。現在の熊野
市(当時は木本町と呼ばれていました)には、木本トンネルの工事作業のために多く
の朝鮮人労働者が関西方面からやってきて、トンネルの近くの宿舎(当時は《飯場》
と言いました)で暮らしていました。当時の日本は朝鮮の主権を奪って植民地にし
て、朝鮮の土地をわがものとし、朝鮮人の生活を破壊しつつありました。そのために
朝鮮で暮らすことのできなくなったひとびとが日本の移住して道路工事や建設工事に
従事するようになっていました。木本町にやってきた朝鮮人もそのようなひとたち
だったのです。
正月にこの労働者のひとりが映画館に入ろうとして、酒に酔った日本人といさかい
になり、日本刀で切りつけられ重症を負います。このまったく個人的ないさかいが、
その翌日以降、地元住民集団による朝鮮人労働者への集団的な襲撃へと発展していき
ます。住民は武装して無抵抗の朝鮮人が住む宿舎を襲い、宿舎を破壊して、かれらを
山に追いやります。そしてこの襲撃の中で、李基允さんと 相度さんという二人の
朝鮮人の若者が町民の手によってなぶり殺されるという痛ましい結末が引き起こされ
たのです。
たんなる個人的ないさかいが、町ぐるみの町民による朝鮮人労働者への集団的な
襲撃へと発展してしまったのは、なぜでしょうか。
事件を引き起こした最大の原因は、地域住民による朝鮮人の民族差別意識が地域の
日常生活の中に根づいていたということです。わたしたちは、そのことを事件が終
わった後の新聞報道や、この事件について地元の記者や住民が残した文書から、うか
がい知ることができます。新聞報道では、ふたりの朝鮮人を殺害した木本町の住民が
「わが民衆の先駆者」とされ、記者はかれらを「町の義人」と呼んでいます。これら
の記述の中では、殺人事件の犯人が、「平和な郷土生活を脅かす」朝鮮人から《郷土
を守った救済者》であるかのように扱われています。また地元の別の住民は、事件に
ついての手記の中で、住民による二人の殺害を、「あながち無理と言えない」と弁護
し、その理由を朝鮮人の《日頃の態度に目に余るものがあり、住民は不安を抱いてい
た》ということに求めています。日頃の態度の善し悪しは個人の問題であり、地域住
民についても言えることですが、朝鮮人をひとまとめにして《日頃の素行の悪さ》を
あげつらい、それを理由にして《朝鮮人を殺してもかまわない》存在とみなすとした
ら、それはもう差別意識以外のなにものでもありません。
またそこには、朝鮮と日本の生活慣習や文化のちがいから生ずる理解不足もあった
ものと思われますが、このちがいは地元の住民にとって排除されるべきよそ者の生活
慣習や文化としてとらえられていたものと推測されます。
住民が朝鮮人にうとましさや不安を感ずるのは、朝鮮人に対する差別の裏返しの表
現にほかなりません。住民は何かあればこの感情を攻撃的なエネルギーに転じて朝鮮
人を襲撃する可能性をつねにもっていたわけです。逆に地域の住む朝鮮人のほうが、
トンネル工事の仕事にたずさわりながら、地域住民のこの不安感という名を借りた差
別意識を浴びながら、いつ襲われるかもしれないという極度の不安に脅えて暮らして
いたのです。
「木本事件」の三年前の1923年、関東大震災のさなかに、「朝鮮人が井戸に毒
を投げ投げこんだ」という流言飛語から端を発して、数千名もの朝鮮人・中国人が
関東地域の住民によって殺されましたが、この事件もやはり、日本の地域住民が日常
的に抱く差別感情がその根にあります。差別感情が不安意識を支え、その不安意識が
何かの出来事をきっかけとして朝鮮人に対する集団的な攻撃へと転ずる。この図式は
「木本事件」においても、同じようにくりかえされました。その意味で、当時の日本
の地域社会は、無数の「関東大震災」や無数の「木本事件」が生み出される可能性を
つねにはらんでいたということができます。
地元住民のこの意識を公式に代弁したのが、『熊野市史』における「木本トンネル
騒動」です。そこでは、地域住民がとった行動が、「まことに素朴な愛町心の発露」
である、と述べられています。ふたりを殺害した行為を「郷土愛」の表現であると
言いくるめる理屈は、たんに事件の後でこの事件を弁明するための記述であるだけ
ではなく、実はこの事件を生み出した根本原因でもあるのだと思います。ふたりは
住民によって「殺されてもやむを得ない存在」である、と日ごろみなされていたから
こそ、殺されたのです。事件後の弁明が、事件の原因をもっとも端的に語り出してい
るのです。地域住民の子供たちは当時書き残した手記の中で「殺されたのが朝鮮人
であるとわかってほっとした」と述べています。このような地域住民の意識の中で、
朝鮮人はつねに日常的に「殺害」されていたのではないでしょうか。木本事件はこの
日常的な「殺害」が具体的な形をとってあらわれたものにすぎません。
このような差別意識は、地域の中だけで自然発生的に生み出されたわけではありま
せん。この差別意識は、近代日本が朝鮮を植民地として統治し、その主権を奪って
従属下に置く、という国家戦略と並行して深まっていきます。地域住民による朝鮮人
の集団的な襲撃は、日本国家による朝鮮半島の主権の剥奪行為が、日本の地域社会に
おいて地域住民による朝鮮人の生命と生活権の剥奪として具体的にあらわれたもので
あるということができます。


 
      地域行政の責任

地域住民による集団的な襲撃は、住民の手だけによっておこなわれたわけではあり
ませんでした。この襲撃は、警察や行政が住民と一体となっておこなわれたのです。
というよりも、たんなる個人的ないさかいを地域住民による朝鮮人への集団的な襲撃
にまで発展させたのは、行政だったのです。行政は、「治安」という名目で住民の不
安意識をあおり、すでに収まったいたトラブルにふたたび火を注ぎ、住民を武装集団
として組織することによって、地域住民を集団的な襲撃へと導いていきます。行政が
この事件の責任を負うべきである、と私たちが考える最大の理由はそこにあります。
映画館でのトラブルは仲介者によっていったん和解しかけていました。しかしその

翌日、加害者の日本人を逮捕しないことに不満をもった朝鮮人が木本神社に集まり、
住民との小競り合いも生じました。そのために朝鮮人が町を焼き払うといった流言
飛語がとびかうようになり、この流言飛語に呼応するようにして木本町長が先頭に
立って在郷軍人会や消防組の出動を要請したのです。在郷軍人会は軍事訓練を受け、
地域の「治安維持」のために組織された組織で、日本刀や銃剣を備えています。消防
組も、とび口など火消しに使う道具をもっています。このように武器をもって武装し
た住民集団が、流言飛語にかりたてられて、朝鮮人が住んでいる宿舎を襲いバラック
の建物をぶちこわします。そして中で寝ていた人たちを袋だたきにし、備品や食料を
踏み荒らしました。
ふたりが殺害された後も、木本町が招集した武装集団が山狩りをして朝鮮人をとら
え、全員を町から追放したのです。たんなる個人的なけんかを武装集団による襲撃事
件にまで発展させ、二人の死者まで出すに至った責任は、木本町の行政が下した判断
と行動にある。これは否定することのできない事実ではないでしょうか。

   紀州鉱山の強制労働

20世紀に入って、日本は朝鮮を植民地支配して、政治上・軍事上・外交上の主権
を奪いさり、朝鮮の文化や言語や生活慣習まで奪いつくす動きを推し進めます。そし
て日本の軍事体制を強化するために、朝鮮人を日本国内の産業に全面的に動員してい
きます。20世紀初頭から、紀伊半島でも、トンネル工事や道路工事に多くの朝鮮人
が働いていました。木本トンネルで働く朝鮮人労働者も、そのような日本の国家が、
植民地支配を基盤にして国内と国外の双方で展開する軍事的・政治的戦略の流れの中
でとらえる必要があります。木本事件の後、1930年代になるとこの動きはますま
す加速されて行きます。日本国民を国家総動員体制へと組み込んでいく過程と、日本
の産業発展とアジア太平洋地帯へのさらなる侵略のために朝鮮人労働力を全面的に動
員する過程とが同時進行していきます。朝鮮人は、軍需産業の労働力として強制労働
に駆り立てられ、さらには軍隊にも駆り出されて、直接に日本軍の軍事力として利用
されます。
わたしたちは熊野市のすぐ近くで、このような朝鮮人の動員を裏づける事実を見つ
け出しました。熊野市から車で30分ほど山中に入った三重県と和歌山県の県境に、
紀和町という町があります。この町に、かつて紀州鉱山という銅山がありました。現
在はすでに閉山されていますが、木本事件が起きてからほぼ10年後に、石原産業と
いう会社によって大規模に開発された鉱山です。そして、30年代後半から戦争が終
わる45年までの間に、この鉱山で1000名以上の朝鮮人が強制的、半強制的に仕
事をさせられていたことがわかりました。朝鮮人は、本人の意思に反して、またただ
同然の安い賃金で鉱山労働を強いられ、その中には病気や事故でケガをしたり、死亡
した人たちもいました。
わたしたちは「紀州鉱山の真実を明らかにする会」を結成し、紀州鉱山で働いてい
た朝鮮人の名簿を手に入れ、その名簿の本籍地を手掛かりにして、韓国に渡って出身
地の役場の戸籍簿を調べ、生存者の何人かに直接お会いして、話をうかがうことがで
きました。その中には、夜中に寝ている最中に連れて行かれたり、昼間畑で野良仕事
の最中に連れていかれた人もいました。
しかし朝鮮人が紀州鉱山で働いていた事実について、石原産業の社史にも、紀和町
の町史にも、わずかな記述があるだけです。同じころ、マレー半島で捕らえられたイ
ギリス軍の捕虜が300人ほど紀州鉱山に連れてこられ、働かされていましたが、こ
の捕虜については、地元のひとびとが戦争が終わったあとで労働のさなかに病気やけ
がで亡くなった人達の慰霊碑を立てたり慰霊祭を行っています。ところが、朝鮮人に
ついては、石原産業も、紀和町も、調査もしなければ、慰霊や謝罪もおこなっていま
せん。

    海南島での朝鮮人虐殺

だがそれだけではありません。紀伊半島における1926年の「木本事件」と19
30−40年代の強制的・半強制的な鉱山労働は、さらに日本の外のアジアにおける
朝鮮人の虐殺行為へとつながっています。
紀州鉱山を経営していた石原産業は、紀州鉱山の開発に先立ってすでに1930年
代の初頭から東南アジアに進出し、マレー半島をはじめとして各地で大規模な鉱山開
発を推し進めていました。またアジア太平洋戦争が始まり、日本軍が中国の海南島を
占領するとともに、それに乗じて海南島でも鉱山開発を進めます。そこでも、島の先
住民や中国人や朝鮮人が、日本の国内における強制労働と同じようにして、厳しい労
働条件で労働を強いられたのです。
わたしたちは木本事件・紀州鉱山の調査に続いて、石原産業が海南島の鉱山開発で
おこなった朝鮮人・中国人の強制労働について調査するために、海南島にわたりまし
た。そしてその調査を進める中で驚くべき事実を知りました。
石原産業が開発した鉱山(田独鉱山)の近くに海南島の先住民(黎族)が住む村が
あり、その村の名前が「朝鮮村」と呼ばれています。朝鮮人がひとりもいないその村
がなぜそのように呼ばれているのかを調べてみたところ、アジア太平洋戦争中にそこ
で日本軍によって多くの朝鮮人が殺されたということがわかりました。日本軍は19
39年に海南島を占領した後、海南島の道路工事や飛行場建設や鉱山開発を担う労働
力源として、朝鮮から刑務所の服役囚を《朝鮮報国隊》として組織し、海南島に連れ
てきました。そして道路工事や飛行場建設の仕事をさせた後に、敗戦の直前になって、
これらの朝鮮人をひそかに抹殺したのです。その数は1000人を下らないと言われ
ています。わたしたちは先住民の当時の体験者から話を聞いて、その虐殺が事実で
あったことを確かめることができました。先住民の当時の体験者から日本軍の兵士が
朝鮮人を殺害した場所や殺害の様子を聞くことができました。殺された朝鮮人の遺骨
は今もなお朝鮮村に埋められています。その数も、身元も正確なことは何もわかって
はいません。

紀伊半島の南端で起きた「木本事件」から始めて、紀州鉱山における朝鮮人労働者
の強制労働や中国海南島での強制労働および虐殺事件をたどることによって、わたし
たちは「木本事件」を、20世紀前半における近代日本のアジア侵略の時間的な流れ
の中に位置づけ、またアジアの空間というひろがりの中でとらえることができました。
わたしたちは、今後アジアの時間と空間の広がりの中で、記憶のかなたに葬り去ら
れたこれらの歴史を掘り起こす作業を続けていきたいと考えています。また同時に、
地域で歴史認識を改める運動を展開していくつもりです。「木本事件」については、
事件に関する資料を熊野市の図書館に設置すること、『熊野市史』における事件の記
述を書き換えること、「木本事件」を学校の人権教育における教材として利用するこ
と、などが課題です。さらにまた紀州鉱山については、徴用された朝鮮人の犠牲者を
追悼する集会や碑の建立、鉱山資料館における朝鮮人労働者の関連資料の展示、『紀
和町史』における記述の書き換え、そして海南島については、遺骨の発掘もふくめた
虐殺の事実に関する調査、資料集の作成など、が課題として挙げられます。これらの
課題について、わたしたちのような弱小の市民運動にできることは微力ですが、今後
できるかぎりの努力を重ねていきたいと考えています。
わたしたちの運動にご理解とお力添えをお願いすると同時に、読者のみなさんがそ
れぞれの地域で歴史を掘り起こす作業に取り組んでいただくことを期待しています。

   2002年11月
    三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会