熊野市の話し合いの拒否に強く抗議する 

  



 熊野市は「木本事件」に関する話し合いをこれまで10年以上にわたって拒否してきました。熊野市の行政責任問題、『熊野市史』の書き換え問題、熊野市図書館における事件の資料の閲覧拒否問題、追悼碑建立の予算問題など未解決の問題が山積しているにもかかわらず、です。

 これに加えて2006年からは熊野市と紀和町が合併したために、《紀州鉱山における朝鮮人の強制労働》に関しても熊野市の行政管轄となり、わたしたちは「木本事件」と併せて紀州鉱山にかかわる諸問題についても熊野市に話し合いを求めてきました。しかし熊野市はこの件についてもまったく応ずる姿勢をみせようとしませんでした。

 わたしたちは毎年11月あるいは12月に現地で開催する追悼集会で熊野市に話し合いを要望する抗議要請文を送付して話し合いを求めてきました。しかし熊野市はそのたびに「話し合いの余地なし」といって拒否を続けてきました。

 今年は、11月23日−24日の追悼集会に先立って、22日に話し合いを設けようと事前に熊野市に文書で申し入れをおこないました(『会報』本号3頁を見てください)。

今回の申し入れは、わたしたちの会だけでなく、大韓民国民団三重県本部伊賀支部団長・

伊賀コリアン協議会会長・伊賀市外国人住民協議会会長の申載三さんと、在日本朝鮮人総聯合会三重県本部副委員長の朴三浩さんとの連名でおこなわれました。

 

要望書提出後、熊野市に電話をしたところ杉松教育長が出ました。

杉松教育長は2005年12月から教育長に就任しているということですが、22日は都合が悪い、この件については話し合いに応じないということで前の教育長から引き継ぎを受けているので応じられない、と回答しました。杉坂教育長には、みずからの責任において「木本事件」にかかわる諸問題に主体的に取り組もうとする姿勢がみじんも感じられませんでした。

 今回の話し合いの内容は、紀州鉱山で亡くなった朝鮮人労働者の追悼集会を来年3月9日に開催するために熊野市に協力を要請するという新たな課題も加えられていましたが、この課題についてもまったく話をする余地がないままに一方的に拒否が通告されたわけです。

 このような長期にわたる熊野市や熊野市教育委員会の姿勢は、熊野市が《木本事件》と《紀州鉱山の強制労働》にかかわる行政責任をひたすら回避しようとしていることを示しています。

市民団体の主張に耳を傾けようとせず、自分とは異質なものを排除して行政を進めようとする姿勢は80年前の「木本事件」を引き起こした熊野市の体質がなんら変わっていないことを如実に物語っています。

 わたしたちは22日に予定通り熊野市に集合して市役所に赴き、私たちの要望事項を熊野市に伝えたいと思います。すでに社会教育課長には電話で市役所の訪問の連絡も伝えています。この話し合いに参加できる方は協力をお願いいたします。

2007年10月13日

熊野市長 河上敢二 殿

熊野市教育長 杉松道之 殿

■三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允氏・?相度氏)の追悼碑を建立する会

■紀州鉱山の真実を明らかにする会

■大韓民国民団伊賀支部団長・伊賀コリアン協議会会長・伊賀市外国人住民協議会会長 申載三

 ■在日本朝鮮人総聯合会三重県本部副委員長 朴三浩



  要望書

前略

 1994年に「三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允氏・?相度氏)の追悼碑を建立する会」が

おふたりの追悼碑を建立して以来、毎年11月あるいは12月に熊野市を訪問し、追悼碑の前で追悼集会を

開催し、市内で展示会をおこなって、事件をふりかえる意義を熊野市民とともに考えてきました。

同時に熊野市の行政を担当する貴殿たちに対しても、事件を振り返る前向きな対応を求めて抗議要請文を

送ってまいりました。しかし貴殿たちは話し合いを受け入れず、長期にわたって話し合いができない状態が

続いております。

今回は11月23−24日に熊野市で追悼集会をおこなう予定にしていますが、その前日の22日(木)の午後に

貴殿らとこれまでの要望事項および新たな課題について話し合いをおこなうように提案いたします。

なお、参考までに昨年提出した要望事項についての文書を再度添付いたします。

この要望書が届き次第、こちらから電話を差し上げますので、ご検討ください。

以上