熊野市への2005年12月3日付公開抗議要請文  

  


2005年12月3日

熊野市長    河上敢二 殿

熊野市教育長  鈴木昶三 殿

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・?相度)の追悼碑を建立する会

紀州鉱山の真実を明らかにする会

12回目の追悼集会の参加者一同


公 開 抗 議 要 請


 2005年12月4日、わたしたちは1994年11月に李基允氏と?相度氏の追悼碑を建立して以来12回目の追悼集会を追悼碑の前で催しました。

この追悼集会に参加した全員、および三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・?相度)の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会の連名で、抗議要請文を公開で送ります。

 また昨年11月に熊野市と紀和町が合併しました。そのため、これまで紀和町に申し入れていた問題についても、この抗議要請文に加えさせていただきます。

 わたしたちの会は1989年に「木本事件」についての調査活動を始めましたが、その頃、この「事件」に関して熊野市で発表されていたものは、『木本小学校百年誌』、『奥熊野百年誌』、『熊野市史』、『ふるさと物語』における事件の記述にかぎられていました。これらの記述は、お二人を殺害した住民の行動を弁明し正当化する姿勢に貫かれていました。

わたしたちが運動を始める前には、熊野市においては、『熊野市史』などにおける「事件」の記述について、何の疑念も抱かれず、それらが当然のものとみなされ放置されていました。

また、極楽寺には、お二人の「墓石」が残されていましたが、わたしたちが調査をはじめたころには、階段状の無縁墓地の上部に離ればなれに置かれ、容易に見ることができなくなっていました。この「墓石」にはお二人の本名は刻まれておらず、お二人の日本名と「鮮人」という蔑称と四文字の差別戒名が刻まれていました。

 わたしたちはこの「墓石」と『熊野市史』などの記述に疑問を投げかけるところから運動をはじめました。

1994年秋、わたしたちは、生きてふたたび朝鮮の故郷に帰ることのできなかったお二人の無念の心をわずかでもなぐさめ、熊野市民による朝鮮人労働者虐殺の歴史的原因と責任をあきらかにするための第一歩として、追悼碑を木本トンネル前に建立しました。

 碑の建立運動は、それに呼応しようとするさまざまな動きを呼び起こしました。

三重県は『三重県史』の新たな編纂に当たって、社会運動編において「事件」に関する資料を収録しました。

 また大阪の人権博物館(リバティおおさか)では、極楽寺にあるおふたりの「墓石」を、日本社会の朝鮮人差別を物語るものとして展示し、さらに1999年には、企画展《木本事件−熊野から朝鮮人虐殺を問う》を開催しました。その後、人権博物館は展示施設改造のため休館し、昨年12月5日にリニューアル・オープンしましたが、「在日コリアン」のコーナーを充実させ、そのコーナーに「墓石」が説明文とともに再展示されています。

 また1996年に設立された三重県人権センターも、やはり「木本事件」に関する写真パネルを人権コーナーに展示しています。

 また三重県内のいくつかの図書館(県立図書館、名張市図書館など)や和歌山県の新宮図書館などは、わたしたちが収集した事件に関する資料一式をまとめて購入し、県民がいつでも閲覧できるようにしています。

 また地元の熊野市では、追悼碑が建立されて以降、自発的に碑の付近の草をむしり、花を捧げて下さる住民の方もおられます。

 また極楽寺の現在のご住職は、差別戒名が刻まれている「墓石」があることに大変心を痛められ、2000年に、ご自分の手でおふたりの本名を刻んだ墓石を境内に建てられました。

 四日市の小学校の教師は、この「事件」を人権教育の教材としてとりあげ、みずから教材を作成して、授業で生徒と対話しました。

 2004年9月には東大阪市立太平寺夜間中学校の生徒さんたちが、わたしたちの会の案内で追悼碑を訪れ、「木本事件」について熱心な学習に取り組んでくれました。

 熊野市はこのようなさまざまな試みをどのように受けとめているのでしょうか。事件を「あってはならぬこと」としながら、事件を二度と引き起こさないために、一体どのような努力をされてきたのでしょうか。わたしたちは、熊野市が行政の当事者としてこの事件に深く責任を負うものであると考えます。

 地元住民が朝鮮人をふくむトンネル工事の労働者を襲撃し虐殺したことを「誠に素朴な愛町心の発露」として正当化する記述が『熊野市史』の中でいまもなおそのままに放置されています。わたしたちが15年間にわたって、記述の訂正を要求し続けてきたにもかかわらず、貴職は、それを一貫して拒み、話し合いにも応じようとしません。

 昨年1月27日に貴職から回答をいただきましたが、「協議の余地なし」という回答は、「木本事件」に対して熊野市はどう対応すべきか、という当会の質問に対する回答にはなっておりません。したがって、再度以下の要望と質問をいたします。

1 『熊野市史』の事件に関する記述を、文言の部分的な削除ではなく、全面的に書き換えることを要求します。

2 遺族に対する熊野市の公式の謝罪を要求します。

3 熊野市はこのような事件を二度とおこさないようにするために、どのようなことをなさろうと考えているのでしょうか。

4 熊野市が追悼碑の建立予算として計上した200万円弱をなぜ執行せずに市の財政にもどしたのでしょうか。

5 事件を歴史教材としてとりあげることについて、「教育委員会として一律的に取り上げる意志はありません」と答えておられますが、「一律的に」ではなく、どのような取り上げ方をするつもりなのでしょうか。三重県では、実際に小学校の歴史の教材として「木本事件」ととりあげ授業をおこなった教員もいます。具体的に地元の学校教育で事件を取り上げることがどのようにして可能であるのかをお答えください。

6 新屋英子さんのカンパの扱いについてですが、新屋さんが「何か慰霊のために役立ててほしい」と言われたのは、わたしたちの会に対してではなく、熊野市に対して言われているのです。

わたしたちの会が新屋さんのカンパ金を使うことは新屋さんの意志ではありません。そのことを貴職はどうお考えになるのでしょうか。昨年1月の回答はこの質問に答えておりません。「会が受け取らなければ新屋さんに返す」という回答は熊野市の責任を放棄するものです。熊野市の誠意ある回答を要望します。


  紀州鉱山について

紀州鉱山の真実を明らかにする会は、紀州鉱山への朝鮮人強制連行の事実などを明らかにするために、朝鮮人と日本人が1997年2月に結成した民衆組織です。

紀和町での聞き取り調査、および植民地朝鮮から強制連行された人たちからの聞き取りによって、アジア太平洋戦争中に、紀州鉱山で1000名を越える朝鮮人が強制連行されており、そのうち20名近い朝鮮人が紀州鉱山で死亡しているという事実が明らかになりました。

 この調査を踏まえて、会は1998年4月1日に紀和町と教育委員会に対してつぎのような要請をおこないました。

 一 紀和町と紀和町教育委員会は、紀州鉱山への朝鮮人強制連行の歴史的事実を早急に調査し、『紀和町史』にその事実を明記すること。

 二 紀和町鉱山資料館には、紀州鉱山への朝鮮人強制連行に関する事実を示す展示がない。紀和町と紀和町教育委員会は、紀和町鉱山資料館に紀州鉱山への朝鮮人強制連行に関する資料・文書を展示すること。

 三 紀和町と紀和町教育委員会は、紀州鉱山への朝鮮人強制連行に関する資料を探索し開示すること。

 四 紀和町と紀和町教育委員会は、紀州鉱山に強制連行され亡くなった朝鮮人の追悼碑を建立し、定期的に追悼式をおこない、また追悼碑の維持・管理に責任をもつこと。

また、追悼式に、遺族および紀州鉱山に強制連行された朝鮮人の参加を保証すること。

 この要望に基づき紀和町との話し合いがおこなわれ、紀和町は次の点を約束しました。

 一については、紀和町は歴史的事実の調査の必要性を認めて、当時の久保幸一教育長はご自分で関連資料をファイルし資料収集作業を進められました。

『紀和町史』における朝鮮人強制連行の記述の書き直しについては合意を得られていませんが、現行の記述がきわめて不十分なものであることは紀和町も認めています。

 二について、紀和町は鉱山資料館に朝鮮人の強制連行に関する資料の展示に同意し、会のほうで石原産業が内務省に提出した朝鮮人の名簿、会の調査資料集、韓国のテレビ局(安東文化放送)が1998年に制作したドキュメンタリー『紀伊半島に隠された真実』(紀州鉱山の真実を明らかにする会協力)などを提供しました。すでにこれらの資料は鉱山資料館に展示されています。

しかし、紀州鉱山への朝鮮人強制連行に関して、わたしたちの会が作成した解説文を送ったにもかかわらず、いまだに鉱山資料館に掲示されていませんので、早急に掲示していただくよう要望いたします。

 三については、紀和町から

「石原紀州鉱山、三重県町、県史編纂室などに出向いて資料収集に努めたが、入手できなかった。今後とも努力していきたい。強制連行についての事実確認はそちらでやっていただきたい。また資料、情報等があれば提供していただきたい」(2002年1月29日付)

という旨の回答をいただいています。

みずから調査をするという約束をしておきながら、「調査はそちらでやっていただきたい」という回答がどうしてできるのか理解できません。

当時の紀州鉱山で就労経験のある人に聞き取り調査をすることは、紀和町としてすぐにでもできることであり、すべきことです。この調査について再度要望します。

 四については、追悼式を紀和町としてやることはできない、と回答しています。

しかし、紀州鉱山に捕虜として強制連行され死亡した16人のイギリス人については、紀和町は1987年に町の指定文化財「史跡 外人墓地」としています。

また「紀南国際交流会」が主催して「慰霊祭」を開催しています。朝鮮人の強制労働による犠牲者についても、紀和町はどうして碑の建立や追悼式をすることができないのでしょうか。

  わたしたちは紀和町とのこれまでの話し合いの経過を踏まえて、上記の四つの質問をあらためて熊野市に対して行います。

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 「木本事件」における朝鮮人虐殺と紀州鉱山における朝鮮人の強制労働は、近代日本によるアジア植民地支配の歴史の一環として熊野地域に起きたもので、その歴史的事実を明らかにし、未来に向けて教訓化することは、当該地域の行政機関である熊野市に課せられた責務であると考えます。当時の存命者がしだいに少なくなっていく中で、事実の調査を早急に進める必要があります。

 

以上の要望・質問に、2006年1月末までに回答してください。