ごろごろと苦しそうに、貨物列車が止まった。
隙間なく詰め込まれた人間の群れ。
絶え間なく漏れ出る苦痛の声。
四日間の旅は、飲まず食わず、もちろんシャワーもなし、新鮮な空気さえも。

ハンガリーの民族問題にケリをつけるべく、運び込まれてきた人たちだ。
大戦中のこの時期まで、珍しく手をつけられていなかった、ユダヤ人居住区の住人たち。
彼らの長旅は、ここアウシュヴィッツで終わる。
ポーランド南西部にある、ナチ最大の処分工場。
ユダヤ人問題最終解決に向けて稼動するその効率のよさは比類がない。

マシンガンを手にしたナチ親衛隊の兵士たちによって、それぞれの貨車のドアが乱暴に開け放たれた。
「外へ! 外へ!」の叫び声。
怯え、戸惑うユダヤ人たちは、拳で小突かれながらあたふたと表に出る。
羊の群れを前にしたシェパードさながら、ドイツ兵たちは叫び続ける(←この訳はたぶん間違っている。どうやら現場には本物のシェパードがいたらしい)
空気がねっとりと濃く感られるのは、その耳をつんざくような怒号のせいだけではない。

その煙は、敷地内にある「工場」の煙突から吐き出されていた。
24時間休みなく働き続ける5つの焼却炉。
燃焼する肉と毛髪から発せられる煙だ。

家族といえど即座に引き離され、男性の一列、女性の一列に分けられる。
愛する者の生きた姿を見られるのはこれが最後だと、気づいている人間はほとんどいない。
最後の"good bye"を言い忘れたと、気づいている人間はほとんどいない。

せきたてられるように囚人たちが行進を始める。

そこに、やや場違いな将校が一人。
整った顔にはいくらか笑みがうかんでいる。
丁寧に仕立てられた制服は折り目も正しく清潔そのもの。
呑気に吹かれる口笛の旋律は、お気に入りのワーグナーのオペラ。
囚人たちを見つめる彼の目は、どちらかといえば退屈な日々の定型業務に向かう人間のそれだ。

これから始まるドラマの、ただ一人の主役。

手には乗馬用の鞭が握られている。
ただしそれが目の前を通り過ぎていく囚人たちの体に直接触れることはない。
それは単に、囚人たちがこれから向かうべき方向を指し示すために使われる。
左か、右か。

囚人たちは何も知らない。
そっけない態度で遂行される、この人好きのするハンサムな将校の、アウシュヴィッツでの日課。
お楽しみの日課。

すなわち新着囚人の仕分け。
強制労働か、即ガス室行きか。

新着の10〜30%は左、命は保留、少なくともしばらくは。
70〜90%は右、裁判官は一人一人と目をあわせることもしないまま次々に判決を下していく。

囚人たちの運命を一手に握る、この端正な顔立ちの将校が、ドクター・メンゲレ。
死の天使と呼ばれた男。


バヴァリア地方ギュンツブルクで、ヨーゼフ・メンゲレは生まれた。
カール・メンゲレとヴァルブルガ・メンゲレの間にできた長男で、下には弟が二人いた。

農機具製造工場を営む父カールは頑固者で知られていたけれど面倒見のいい経営者で働き者だった。
妻ヴァルブルガのほうが、従業員たちにとっては恐ろしい存在だったようだ。
癇癪持ちで、たびたび工場に乗り込んできては、怠慢や手抜きがあった従業員を、他のみんなの前で責めたてた。
ヴァルブルガが工場に近づいてくると、あっという間に「来たぞ来たぞ」の警報が行き渡り、従業員たちは血祭りに上げられぬよう、それぞれの持ち場にもどるのだった。

その気性の激しさで、ヴァルブルガは家庭内も支配した。
自分に対する尊敬と服従を、ヨーゼフたち三兄弟に強いた。
熱心なカトリック教徒として、息子たちにも誠実な教会活動をしつけた。

夫に対しても威圧的な態度で臨んだ。
ある日の午後、カールは真新しい車に乗って帰宅した。
それは工場の成功を祝って買ったものだが、妻の反応は、驚きでも感動でもなかった。
自分に一言の相談もなしに浮かれてこんな買い物をするなんて馬鹿にもほどがある。
カールは嫌味たっぷりに説教された。
夫も含め、ヴァルブルガは生活のあらゆることを支配しようとしている、そんな印象を与える出来事だった。

母の態度や父とのやりとりは、幼いヨーゼフの記憶にはっきりと刻まれた。

工場で仕事に没頭する父親に、ヨーゼフは距離を感じていたようで、冷たい人間だというようなことを書いている。
母親については、愛情の足りない人間だと。
彼女としては、聞き分けのいい息子になってほしかったのだろう。
一方でその教育方法は、長じて彼がナチの冷血な殺人ドクターに成り果てた事実とも関係しているのかもしれない。

家庭内での愛情の不足にもかかわらず、ギュンツブルクでの彼は、明るく元気な少年として村人に記憶されている。
「ベッポ」の愛称で呼ばれる人気者の美少年だった。
学校で一番というほどではないにせよ、成績もよく、一目おかれる存在だった。
さらにいえば野心家だった。
いわゆる模範生徒で、厳しいことで恐れられた教師でさえ、彼のきちんとした振る舞いを誉めそやした。

少年ベッポは、周囲とうまくやっていく技術に磨きをかけながら、魅力的な青年に成長していった。
言動は自信にあふれ、村の若い女性たちを魅了した。
整えられた黒髪、無邪気な目の輝き、愛嬌のある笑顔が、洗練された社交術とあいまって、その魅力をカリスマ的なものにまで高めていた。

この時期すでに彼は独自のファッションで身を飾るようになっていた。
念入りに仕立てられた服、そして刺繍の入った白い綿の手袋。
この手袋は、後年、アウシュヴィッツにおける彼のトレードマークとなるもので、囚人たちはこれによりメンゲレを他のナチ親衛隊と見分けていた。

工場の会計係になってくれることを望む父親と、ヨーゼフの野心は折り合いがつかなかった。
彼は、こんなバヴァリアの片田舎のちっぽけなビジネスに骨をうずめる気はなかった。
ギュンツブルクを飛び出し、科学、文化人類学の分野で一旗あげるのが彼の夢だった。
彼はこの野心をあけすけに口にしており、将来自分の名を百科事典に載せるというようなことまで友人に話している。

1930年、ギムナジウムを卒業し、プライマリーカレッジ入試に合格した。
特に好成績というわけではなかったけれど、ミュンヘン大学に入るには充分な得点だった。

ミュンヘンはバヴァリアの州都で、当時勢いを伸ばしていたアドルフ・ヒトラー率いる民族社会主義運動の中心地だった。

1930年10月、ヨーゼフはミュンヘン大学で学ぶべく故郷ギュンツブルクをあとにした。
哲学および医学という、ここで得た学位が、最終的に、アウシュヴィッツへの道を開くことになる。

彼が学び始めたばかりのころ、ミュンヘン市内は思想革命のただ中にあった。
1930年の時点で、ナチスは最大野党になっていた。
ヒトラーは、ミュンヘンを全国支配の拠点と捉えていた。
彼の熱狂的な演説が民族主義をあおっていた。
ドイツ人至上主義による新ドイツ帝国という幻想が、バヴァリアの民衆を酔わせていた。

この時期までメンゲレは政治にはまったく興味がなく、学究の喜びだけで満足していた。
名声への憧れが、いつしか学問の閉ざされた世界と葛藤になり、いともあっさりナチのヒステリーに感染してしまったと、のちに彼は書いている。

もともと私の政治的なよりどころは、家族の伝統、民族保守主義だったような気がする。
政治団体なんてものには加わったことがなかった。
しかし激動期にあっては、いつまでもそんな状態でいるのは不可能だった。
自分の国が共産主義赤軍の攻撃にさらされるなんてとんでもない。
この単純な政治思想が私の人生では決定的な役割を果たした。

この単純な政治思想が、と彼は続ける。
探求者、科学者として名声を高めるための、絶好の「乗り物」になった、と。

1931年、彼は迷うことなく、スティールヘルメットと呼ばれる民族主義組織に加入した。
テーマ音楽をバックに制服姿で行進するスティールヘルメットは、その時点ではまだナチの関連団体ではなかったけれど、ほどなく、その狂暴な思想をナチと共有するようになる。

政治に対する意識の目覚めに合わせて、医学のほか文化人類学、古生物学にも興味を向けるようになった。
治療技術などというものは、この時期の彼にとって二の次でしかなかった。
遺伝の秘密を解き明かすこと、奇形や不具の原因を探ることに、情熱が注がれるようになった。

この頃ドイツの学会では、「ある種の生命体は生きるに値しない」、「無価値な生命」というような考え方が広まりつつあった。
いつしか彼の努力は、名声を得ること、ドイツ民族至上主義をさらに推し進めること、この二つに向けられるようになっていた。
とはいえ、のちにあらわれる数々の狂気のうち、どの一つをとっても、この当時の彼の情熱によっては説明できそうにない。
彼の学友、ハンス・グレーべも言っている。
「当時のメンゲレには、アウシュヴィッツでのふるまいと繋がるような気質はまったく見られなかった」と。

彼はナチ党内のある程度以上の地位を得たことで、上から見おろすように狂気の力を振るったけれど、その悪魔の思想は、下から見上げるような形で学んだものだ。
彼が師事したドクター・エルンスト・ルービンは、「無価値な生命」という思想からさらに一歩進めて、医者にはそれを除去する責任があると考えていた。
この途方もない考え方がヒトラーの目にとまり、健全な遺伝子保護のための法案作成に、ルービンも加わることになった。
法案は1933年に可決。
同じ年、ナチは与党となり、ドイツ政府を完全に支配下におさめた。
苛烈な社会ダーウィン主義者ルービンが大きな役割を果たしたナチの法令とはすなわち、精神病患者や遺伝的な身体障害者など、ドイツ民族の遺伝子を汚す者たちは、これ以上再生産されないよう断種せよというものだった。

死のキャンプ、アウシュヴィッツは、惨めな奴隷の群れによって成立している気味の悪い王国だった。
宿舎棟と住人たちの衛生状態は最悪で、シラミや蚤がそこらじゅうにはびこり、チフスなどの伝染病がたびたび流行していた。
ドクター・ヨーゼフ・メンゲレは、そんな王国を統治しようとしていたのだ。

アウシュヴィッツでの彼の使命は遺伝子の研究だった。
この研究は、フォン・フェアシュア教授によるドイツ研究評議会への働きかけを通じて、1943年、メンゲレのアウシュヴィッツ就任と同時に開始された。
最終目的は遺伝子操作技術の開発、および、完璧なドイツ民族をつくるための劣等遺伝子絶滅技術開発。
しかしけっきょくメンゲレは、人類残酷史に自分の名を残しただけで、遺伝子研究に関しては何一つ意味のあることは成し遂げられなかった。

着任したときから、彼は他のSSドクターと少し違っていた。
自分が他人からどう見えるか、どう思われるかということにこれほど気を使ったナチ・ドクターは他にいない。
勲章で制服を飾り、アウシュビッツに赴任するまでの、戦士としての経験をたびたび口にした。
とはいえ、他のSS兵士も恐れる冷血な殺人鬼としての評判を支えていたのは、軍人としての経歴だけではなく、とりつかれたような研究に対する熱意だった。

到着した翌日にはさっそく、チフスが蔓延していたこのキャンプで、暴君としての才能を発揮した。
罹患した1000名のジプシーをガス室に叩き込んだのだ。
いっぽうでドイツ人のジプシーはこの生贄から除外した。
この出来事は二つの意味を持っている。
ナチの信条に心酔していたメンゲレにとってジプシーは劣等種族であり、「無価値な生命」だった。
ドイツ人のジプシーだけ除外したという事実は、彼自身が、やや黄色身を帯びた皮膚や黒い瞳、黒い髪といった、ジプシー的な身体特徴を持っていたことと関係しているのかもしれない。
金髪に青い目という、ナチがドイツ人の理想としていた身体条件を、メンゲレはまったく満たしていないのだ。
いずれにせよ1000名もの命をあっという間に奪ったその意思は、心理的にのっぴきならないものがあったことを示している。
それは自己嫌悪の浄化だったのではないだろうか。

理由はなんであれ、この一件が、生死の決定権をもつ王になるという野心に火をつけてしまった。
それは囚人たちを乗せた列車が到着した時、彼がとっていた行動に、最も顕著にあらわれている。
すなわち仕分け、選別作業。

ドクター・エラ・リンゲンス(彼は友人のユダヤ人をかくまった罪でアウシュヴィッツに連れて来られた)によれば、メンゲレは仕分け作業を楽しそうにやっていたという。

ワーナー・ロードやハンス・コニグといった連中はこの作業を嫌がっており、プラットフォームにやってくる前には必ず飲んだくれていた。
二人のドクターだけが、この選別作業に対してまったく良心の呵責を示さなかった。
ドクター・メンゲレと、ドクター・フリッツ・クライン。
メンゲレはとりわけ冷たくシニカルだった。
あるとき彼はリンゲンスにこんなことを言った。
「世界には二つの優れた民族がいる。ドイツ人とユダヤ人だ。問題は将来どちらが上に立つか。そりゃユダヤ人に破滅してもらう他ない」

この仕事が好きだったのだろう、当番以外の日でも、ナチの制服姿でプラットフォームに現れた。
光沢のあるブーツ、きれいにプレスされたトラウザーにジャケット、そして白い綿の手袋。
芋荒い状態でくたくたになった囚人たちの群れを見下ろすように、彼は余裕の表情でふるまった。

ドクター・オルガ・レングェル(もうひとりの囚人ドクター)が苦々しくそのとき記憶をよみがえらせている。

傍若無人な態度、鳴り止まない口笛、氷のような残酷さを、我々はどんなに軽蔑したことか。
来る日も来る日も、彼は自分の定位置に立ち、哀れな囚人の群れが通り過ぎていくのを見つめた。
動物のように運搬され、長旅の末に最後のステージへと向かう囚人たちだ。
その一人一人に、「右」「左」と、方向を指し示した。
楽しんでいるようにしか見えなかった。

氷のような残酷さという言葉をドクター・レングェルはたびたび使うが、メンゲレは、秩序を乱す者があらわれると、突如として怒りを爆発させた。

同じく囚人ドクターのギセラ・パールの記憶にある、ひとつの事件。

キャンプ内で、ある女性が、ガス室行きのトラックから6回目の逃亡を企てた。
メンゲレは彼女の首をつかまえ、血まみれになるまで殴った。
拳で、平手で、ひたすら顔だけを殴り続けた。

「逃げられると思っているのか。お前も他の連中と同じように燃やされるんだよ。ガス室でカエルみたいに鳴くんだ。薄汚いユダヤ人!」

メンゲレは金切り声で叫んだ。
自分は何もできずにただ見ていた。
血で覆われたその奥で輝く、彼女の美しい瞳を、ただ見ていた。
あっという間に彼女の鼻は平たくつぶれ、血の塊になった。
しばらくして医務室に戻ったメンゲレは、バッグから芳香剤入りの石鹸を取り出し、陽気に口笛を吹きながら手を洗い始めた。


冷たさ、残酷さ、以外に、メンゲレには呑気で魅力的とさえいえそうな一面もあり、同僚に対しても囚人たちに対しても時おりそれを示していた。
たとえば降車場で、疲れた女性や子供を見ると、手を貸してやったりするのだ。
数分後にはガス室送りにする相手なのに。

彼の整った顔立ちや、自信にあふれた身のこなしは、拷問を受け殺されていく女性たちの目にさえ魅力的にうつっていた。

何をしでかすかわからないこの性格が、囚人や他の職員を統治する強力な武器になっていた。
彼と接触するすべての人間に、これは恐怖として浸透していった。

新着囚人の仕分けと違反者の折檻だけが彼の仕事だったわけではもちろんない。
主要な仕事は別にあって、時間の多くはそちらにさかれていた。
子供の生体解剖、少年や成人男性の去勢手術、女性の囚人には高電圧ショックテスト。
ポーランドの尼僧グループに避妊処置をほどこしたさいには、X線照射状態のまま放置した。

1981年、西ドイツのナチ戦犯オフィスは、人間の尊厳に対する冒涜として、メンゲレを78個の罪状で告発した。

衰弱した囚人の非人道的な扱い。
彼らに無理な労働を強制したあげく、健常な囚人用の生活空間を確保するため、注射、銃、青酸ガスなど、様々な方法で殺害。
注射は、循環器、とくに心室に多く打たれた。
使用した薬剤はフェノール、ガソリン、Evipal(?)、クロロフォルム、空気など。
メンゲレ本人が手を下すこともあれば、SS衛生兵に命じることもあった。
・・・・・・
・・・・・・
等々。

性的虐待の話も伝えられている。
女性囚人たちは全裸で彼の前を行進させられた。
一人ずつ呼び止められ、卑猥な質問を浴びせられた。
メンゲレはユダヤ人女性のことを「汚い売春婦」と呼んでいたが、この虐待行為はどう考えても、彼女たちに対する性的欲望の屈折したあらわれだろう。
ユダヤ人女性との性交渉は、もちろんドイツ第三帝国の法律によって禁じられていた。

メンゲレがいかに命令秩序を重視する人間だったか、それを証明する例は無数にある。
秩序維持のためなら彼はどんな無茶なことでもやってのけた。

ガス室に送られるはずだった数人を、こっそり労役側に移そうとした雑用係がいた。
メンゲレは激怒し、その雑用係を拳銃で撃ち殺した。

次から次へと送り込まれてくるユダヤ人に、もはや焼却炉が追いつかないと分かると、メンゲレは地面に巨大な穴を掘らせた。
その穴にガソリンを注ぎ、点火したうえ、死体も生きた人間おかまいなしで次々に放り込んで行った。

メンゲレのしたことの中でどれがいちばん悪質か決めるのはほぼ不可能だけれど、この男の悪魔的な性格を顕著にあらわしている事例がある。
目撃したのは、アネイニ・スロヴィッチ・ペッコというロシア人の囚人だ。

ナチ親衛隊グループが、立ちのぼる炎を取り囲んでしばらくすると、トラックがやって来た。
後ろの荷台にはぎっしり子供が積まれている。
トラックは全部で10台ほどだろうか。
命令に合わせ、トラックがバックで炎のほうに突進し始めた。
荷台の子供たちは、炎を上げる穴の中に放り出された。
叫び声が響き渡る。
穴から這い上がろうとする子供もいる。
彼らは棒で突付かれ、押し戻された。


メンゲレ告発の証拠となる死体は、数も種類も膨大だ。
その残虐行為を描写しつくすことも、動機の分析も、まず不可能だろう。
ナチ・ドクターとしての役割、研究者としての役割を喜んで受け入れていたわりには、さらにいえば、ナチの規律にあれほど執着したわりには、自分がおこなったことの結果には驚くほど無関心なのだ。

心理分析家のドクター・トバイアス・ブロシャーによれば、メンゲレは相手を痛めつけることに喜びを感じていたわけではなく、相手の生死に対してまで決定権を持つその力におぼれていたのだという。
彼の恩師、フォン・フェアシュア教授に研究を託されて、アウシュヴィッツにやって来たはずなのだが、いつの間にか、本業は囚人列車到着時の生死選別作業になっていた。
その本業に注がれたものと、同量のエネルギーでもって、メンゲレは研究者としての化けの皮を維持し続けたのだ。

メンゲレと最も近かった人物、フォン・フェアシュア教授の研究テーマは双子だった。
彼の研究活動は、双子の動作の観察に限られていた。
ナチが政権を握るまでは、倫理上の観点から生体実験が禁じられていたのだ。
ずっと夢見ていたそれが解禁になったことで、フォン・フェアシュアは、愛弟子メンゲレのアウシュヴィッツでの活躍に期待した。

長年、恩師の喜ぶ姿を見たいと願っていたメンゲレは、託された使命の重大さを痛感しつつ、アウシュヴィッツにやって来たのだった。

囚人列車到着時には双子をさがすようにと、出迎えアシスタントに命令が下された。
列車から囚人たちが吐き出されると、"Zwillinge, zwillinge", "Twins, twins" の声が響き渡った。
ハンガリーから移送されてきて最後まで生き残ったエヴァ・モーツェスは、そのときのことをよくおぼえている。

エヴァとミリアムの姉妹は、囚人の一群から引き離され、メンゲレに引き渡されたのだった。

家畜車のドアが開くと、SS親衛隊たちが「急げ、急げ」と叫ぶのがきこえてきた。
私とミリアムは母に抱きしめられていた。
母はずっとこうして幼い私たちを守ってきた。
人の流れはとても速く、見回すと、父親も年長の二人の姉もどこかにいなくなっていた。
"Twins, twins"
叫んでいたSS兵が立ち止まり、私たちを覗き込んだ。
「こいつらは双子か?」
「そうだったら何か良いことがあるのですか?」
母の問いにSS兵はうなずいた。

即ガス室おくりの難から逃れた双子たちを待ち受けていたのは、別の過酷な運命だった。
メンゲレは、双子のほか、こびと、不具者など "exotic" な者たちを収容する特別な宿舎を用意していた。
「動物園」というあだ名はメンゲレ自身がつけたものだ。
双子はメンゲレの好みの検体で、衣類の所持を許されたり、通常は丸刈りにされるところそれを免除されたり、食事の量が配慮されたり、数々の特別待遇を受けていた。

折檻は厳禁、一人たりとも罹病、死亡させるようなことがないよう、細心の注意が払われた。
愛する検体に何か間違いが起こると、メンゲレは怒りを爆発させた。
双子は皆、「メンゲレのこどもたち」と呼ばれた。

子供たちはこの動物園で、他の家族がガス室おくりになったことを知らされるのだ。
一方を殺し、もう一方を生かす。
メンゲレは、自分がその両方を支配する人間であることを思い知らせていた。

「メンゲレのこどもたち」は虐待とも強制労働とも無縁だった。
人道主義的な観点からそうしたわけではなく、単に検体の損傷を防ぎたかっただけなのだが、そうやって大切に守った理由はといえばもちろん実験のためであり、まさにその実験が、子供たちの死体の山を築いていたのだから、皮肉というほかない。

他の囚人については、実験にあたって何の前置きもなし、どんな苦痛を与えるのも無制限と考えていたメンゲレだったが、「こどもたち」に対してはどうだったのか。

まずは、ありきたりの情報収集。
こどもたちはいくつかの質問に答えさせられ、体重身長が測定される。
恐ろしいことになるのはその先だ。
メンゲレは日々こどもたちから血液を採取し、それをベルリンのフォン・フェアシュア教授に送った。

双子の一方から採取した血液を、違う血液型を持つもう一方に注入し、その反応を記録した。
これによって引き起こされた激しい頭痛と高熱は、数日間続いた。

瞳の色の違いが本当に遺伝だけによるものなのかどうか確認するために、何組かの双子の目に染料を注射した。
これは何度やっても、ただ無駄に苦しめるだけの実験だった。
失明した子供もいる。
こうして失明した子供が死亡した場合は、眼球を引き抜き、生物学者が昆虫の標本をつくるように、それをオフィスの壁にピンでとめた。

檻に閉じ込められ、どんな刺激にどんな反応をするか、実験された子供たち。
四肢や内臓を麻酔なしで切り取られた子供たち。
伝染病の潜伏期間調査のため、病原菌を注射された子供たち。
メンゲレがアウシュヴィッツにやってきた本来の目的はいつのまにかどこかに消し飛んでしまったようで、実験はもはや科学とは別の、何だかよくわからないものになっていた。
これらの実験は、ひとりの男の野心と、ナチのドイツ民族至上主義が生み出したものだ。

メンゲレの実験の検体にされながらどうにか生き延びたアレックス・デッケルが、次のようなことを言っている。

メンゲレは、あれで真面目な仕事をしているつもりでいたのか。
仕事中の態度といったら、公式行事に靴のかかとを踏み潰して出席する連中と同じようなものだ。
ただ力を見せつけていただけじゃないか。
麻酔なしで外科手術なんて、まるで屠殺場だ。
切り裂いた腹からメンゲレが何か取り出しているのを見たことがある。
心臓を取り出しているところも見た。
もちろんいつも麻酔なしだ。
恐ろしい話だ。
メンゲレは、力を与えられたことで頭がおかしくなった医者だ。
誰もメンゲレに尋ねない。
あの患者はなぜ死んだのか。
別のあの患者はなぜ死んだのか。
メンゲレにかかった患者の数は誰にもわからない。
科学のためだとメンゲレは言う。
その科学というのは、メンゲレの中の狂気じゃないか。

たしかにそれは狂気だろう。
遅かれ早かれ残酷な実験の生贄にすることが分かりきっている子供たちに、愛情をふりまき、気配りをする。
その子供たちを台無しにしてでも、遺伝子情報を探求したかった。
しかしけっきょくそれは、ナチズムの幻想の中にしか存在しないものだった。

やさしいおじさんだった、子供好きなおじさんだった。
生き延びた双子の中には、そんなふうに記憶している者も少なくない。
こんな狂気がどこから湧いて出てくるのだろう。
ひとつの人格の中に、こんな正反対のことを示すものが同時に存在するなどということが、どうしたら可能なのだろう。

アウシュヴィッツの目撃者、生き残った人たち、歴史学者や心理学者の言葉を借りれば、ドクター・メンゲレは単にアウシュビッツの中にいた人物というだけではない。
メンゲレはアウシュヴィッツそのものだった。
動作の一つ一つを通して、ドクター・メンゲレは、正反対のものがぶつかり合うこの薄気味悪い死のキャンプを体現していたのだ。

到着した囚人は、キャンプ内の囚人オーケストラが奏でるワルツに迎えられた。
その一方で、すぐそばの火葬場では、夥しい数の死体が片っ端から灰にされていた。

「動物園」の子供たちには、溢れるほどの愛情が注がれた。
その子供たちは、頓珍漢な実験の生贄にされた。

メンゲレは愛する子供たちを自分でガス室に連れて行った。
子供たちはこれを、「煙突に向かう道」と名づけられたゲームだと思っていた。

この気まぐれな横暴さ、残酷さ、命を何とも思わないというだけではない、いくら殺しても殺したりないといわんばかりの破壊欲求は、とても人間のものとは思えない。
ホロコーストは歴史に謎を提示している。
信じられないような出来事と、化け物のような人格を提示しているのだ。
それは説明や意味づけを拒否しているように見える。
しかし、二度とこういったことが起こらないようにするためにも、どうしたら人間はそんな行動がとれるのか、動機の解明が必要だろう。

ヨーゼフ・メンゲレは野心家だった。
一目置かれる大人になりたいと、幼いころから考えていた。
ナチ党員としての経歴を通じて、彼はのちの人生を決定するようないくつかの選択をしている。
彼は軍に入隊したというだけではない。
SSを選択したのだ。
それだけではない。
Waffen SS(武装親衛隊)を選択したのだ。
そうしてアウシュヴィッツ着任を命じられたとき、彼は選択をしなかった。
他の選択肢もあったはずなのに。

メンゲレは、他の誰とも同一線上に並べられずに済む、独自の立場がほしかった。
そこには、自分と同じような熱意を持つ人間が一人でもいてはならなかった。

しかし、ここから一足飛びで、若い野心家の科学者が殺人鬼になれるものかどうか。
ベッポと呼ばれた愛想のいい少年が冷血な悪魔になったことを説明できるものかどうか。
作家でもあるロバート・ジェイ・リフトン教授がひとつの仮説を立てた。
メンゲレのような二面性は、"doubling(人格二重化?)"と呼ばれる現象によって引き起こされる可能性がある、と。

ナチのドクターがどんなふうにしてアウシュヴィッツの悪魔になったのか、理解する鍵は、心理学でいうところの"doubling"にある、とリフトン教授は続ける。
自己が二つに分裂し、両方が人格として完全な機能を持つ。
つまりどちらの人格も、一人前の自己として働く。
メンゲレが、この"doubling"のプロセスを辿ったとするなら、殺人鬼でなおかつ研究者ということもあり得るだろう。
ナチ・ドクターとして、それまで持っていた倫理観と正反対の環境で、心理的にうまく機能するためには、アウシュヴィッツセルフとでも呼ぶべき新しい人格が必要になった。
同時に、まともな生身の人間の科学者としてあり続けるため、元から持っていた人格、プライオールセルフも、引き続き必要だった。
アウシュヴィッツセルフはそれ自体一人前の人格となって、プライオールセルフと結合した。

医者としての教育を受け、医者としての倫理観を身につけた者が、死のキャンプでどうにかやっていこうとしたら、それはアウシュヴィッツセルフのようなものが必要になってくるだろう、という主張には確かに一理ある。
一方でリフトン教授は、メンゲレの異常なほどの仕事への愛着ぶりにも目を向ける。
メンゲレは、プライオールセルフから都合のいいときに現れてくれるアウシュヴィッツセルフを、作り上げる必要があったのだ。

アウシュヴィッツセルフのスイッチがオフの状態のメンゲレは、気さくな人間だった。
仲良くなった子供を、ガス室に連れて行くためには、どうしても"doubling"が必要だった。
メンゲレが職場に抱いていた愛着がどんなものであれ、まともな状態でなら、「ちょっとサディスティックなドイツ人医師」程度ですんでいたかもしれないところ、アウシュヴィッツで飽くなき殺人者となるためには、新しい人格をつくり上げなくてはならなかった。

メンゲレの"doubling"に関して注目すべき点は、彼のプライオールセルフが、たやすくアウシュヴィッツセルフに呑み込まれてしまうようなものだったということだ。
ナチの思想や研究への忠誠心が、たびたびアウシュヴィッツセルフのスイッチをオンにした。
この傾向は他のナチ・ドクターよりも顕著で、戦後も数年間続いた。

いちばんの謎は、メンゲレの中で起こった"doubling"のプロセスではなく、それが無意識のうちに起こっていたという事実だ。
さらに、アウシュヴィッツセルフが、プライオールセルフからの分裂派生ではなく、まるで単独で生まれてきたように見えることだ。

メンゲレはどうしてあれほど簡単にアウシュヴィッツセルフに乗っ取られてしまったのか。

アウシュヴィッツセルフのスイッチがオフになるのを待たずにプライオールセルフのスイッチがオンになる、つまり両方の人格が同時に現れることがあったという事実は、どう説明したらいいのか。

逮捕されることもなく、取調べを受けることもないまま、メンゲレが死んでしまった以上、言えるのはこれだけだろう。
要するに彼は悪魔の化身だったからそれが出来た。
どうしてそうなったのか、説明できる心理学の便法は存在しない。

1945年1月17日、ソ連軍が国境のドイツ軍を粉砕しベルリンに向かったその日、ドクター・ヨーゼフ・メンゲレはアウシュヴィッツから逃亡した。
戦後の数年間は、故郷ギュンツブルク近くの村の農家に身を隠した。
偽名のIDカードを手に入れ、故郷の旧友と密かに連絡を取り合いながら、農夫として暮らした。

信じられない話だが、彼は初め科学者として研究を続けたがっていたらしい。
メンゲレのような悪名高い戦犯が、罪の償いもなしに戦中戦前と同じ生活を続けようとしているのを、連合軍が見逃すはずはなかった。
ヨーロッパにいてはもはや命の保証はないと悟ったメンゲレは、イタリア経由でアルゼンチンに逃れた。

アルゼンチンに入国したのは1949年のこと。
当時この国は、有名な独裁者ジュアン・ペロンが統治していた。
ペロンは、ヨーロッパにいるナチの残党や、アルゼンチン国内に居住する亡命ドイツ人たちと、友好的な関係を築いていた。
メンゲレが追っ手から気付かれることもないまま楽々と事を運ぶことができたのもそのためだ。
あっという間にナチ支持者と連絡を取り合い、南米で暮らすための新しい偽名IDカードを入手した。

この後30年は逃亡生活となる。
アルゼンチン、パラグアイ、ブラジルなどのネオナチネットワークから援助や避難所提供を受ける一方で、西ドイツ、アメリカなど、追っ手側の素人ボランティア追跡員から、うっかり援助を受けたこともあった。

同じ追っ手側でも、イスラエルは戦犯追跡を素人に頼ったりはしなかった。
1960年代前半、イスラエルの諜報部員は何度も、逮捕一歩前のところまでメンゲレを追い詰めている。
決定的だったのは、世界中が大騒ぎになったナチ戦犯アドルフ・アイヒマンの逮捕。
アルゼンチンに潜伏していたアイヒマンをイスラエルに連行する煩雑な手続きと、中東戦争のどさくさで、メンゲレ逮捕は見送られてしまった。

サイモン・ヴィーゼンタールのような、ナチ・ハンターと呼ばれる人たちも、メンゲレを血祭りにあげるべく活動を続けていたが、いつしか彼の消息は、世界中の追跡レーダーのスクリーンから消えていた。

1985年1月17日、アウシュヴィッツを生き延びた人たちが、この死のキャンプに集結し、亡くなった友人や家族を弔う式典を行った。

その一週間後、エルサレムでは、メンゲレを亡き者にするための集会が開かれた。
この模様は四日間にわたって放映され、同時に、メンゲレの残虐行為の証拠画像が世界中の電波にのせられた。

これらの出来事からさほど時をおかず、アメリカの訴追委員会とイスラエル政府は、メンゲレ追跡の再開を宣言。
ナチ・ドクターを裁きの場に引きずり出す作戦が再び開始された。

1985年5月31日、西ドイツの警察は、メンゲレの生涯の友人であったハンス・セドルマイヤーの自宅を急襲。
ブラジル潜伏時代のメンゲレや、亡命ドイツ人から、セドルマイヤーのもとに送られてきた手紙を差し押さえた。
これにブラジルの公安機関もすぐさま反応。
ブラジルの警察は、メンゲレをかくまっていた家族を見つけ出したが、それによってけっきょく何が突き止められたのかといえば、彼が埋葬されている墓地の場所。

メンゲレは1979年に事故死していたのだった。

法廷は、遺骨をメンゲレ本人のものと断定した。
アウシュヴィッツでメンゲレの手にかかりながら生き延びた人たち、戦後何十年もこの男の悪魔の肖像と向き合ってきた人たちは、その死を認めたがらなかった。

たとえ死亡が確定しても、メンゲレが裁かれるのを待ち望み、それをよすがに生きている人は、今でも大勢いる。

何事も自分でコントロールしなくては気がすまなかったメンゲレは、すべてをコントロールできる究極の手段によって、地球上の裁きから逃げおおせた。
すなわち地球上の生命体でなくなることによって。
死によって。