アウシュヴィッツ

1930年代後半、ナチスは、身体に障害を持ったドイツ人数千名を、注射や毒ガスによって殺害した。

1941年6月、ドイツ軍はソ連に侵攻。
軍の快進撃の後を追うように開発されたモバイル銃殺ユニットが、占領した町の郊外の野原や渓谷に設置され、夥しい数のユダヤ人、ジプシーが犠牲になった。(←「モバイル銃殺ユニット」の意味が後日判明。これはたぶんモノじゃなくヒト。殺人部隊とかそんな感じのもの))

ナチスが最後につくりだしたのは、より隔離された状態で使用される、システム化された殺人装置だ。
すなわちエクスターミネーションセンター。
占領下のポーランドに建設されたそれは、大量殺人に特化した装置を備えた、巨大な死体生産工場だった。

死のキャンプは六ヶ所につくられた。
アウシュヴィッツ-ビルケナウ、ベルゼック、チェルムノ、マイダネク、ソボビル、トレブリンカ。
うちトレブリンカでは、大規模なガス殺と死体焼却が、ナチとヒトラー親衛隊の指導のもとで組織的に行われていた。

生贄たちは、西ヨーロッパのユダヤ人ゲットーや、ナチスが占領した東ヨーロッパの国々から送り込まれてきた。
ゲットーやコンセントレーションキャンプでも、無理な労働や飢餓などで、数百万人が命を落とした。

(訳者註〜どこかで読んだ解説によれば、「コンセントレーションキャンプ」と「エクスターミネーションキャンプ」とは別ものらしい。コンセントレーションキャンプというのは従来型の強制労働施設。エクスターミネーションキャンプは、直訳そのまんま、絶滅キャンプ。おそらくナチが歴史上初めてつくったもので、強制労働もあることはあるけれど、主目的は大量殺戮。ただ実際には、用語として厳密な使い分けはされていない。アウシュヴィッツやトレブリンカをコンセントレーションキャンプと書いている記事もたくさんある)

最も多くのユダヤ人の命を奪ったのが、アウシュヴィッツ-ビルケナウだ。
1942年の半ばあたりには、すでにサイクロンBを使った大量ガス殺が始まっていた。
近代工業生産のような規模で殺戮が行われ、最終的には300万人がガスや飢餓や病で命を落としている。
そのうちの9割はユダヤ人だった。
ジプシー、ソ連兵、政治犯などもガス室に送られた。

ポーランドのガラシア州オシュヴィエシム近郊にあるアウシュヴィッツ-ビルケナウは、ハインリヒ・ヒムラーの命令のもと、1940年4月27日に完成した。
ナチスの二人の最高幹部、ヒムラーとゲッベルスの日記を、ソ連の秘密警察が押収しており、そこには、ヒトラーからユダヤ人絶滅の命令が下されたというような記述がある。
ゲッベルスの日記中の言葉によれば、「ユダヤ人問題に関して総統の御決断が示すところはすなわち一掃・・・」

アウシュヴィッツ-ビルケナウと、そこにいた狂信的で残忍なSS兵たちに関する恐ろしい話は、いくつも伝わっている。
また逆の話も伝わっている。
子供たちを最後まで守り抜いた聖女、ジェーン・ハイニングの話。
300人の女性を救い出したオスカー・シンドラーの話(到着したらそこで死ぬ以外なかったエクスターミネーションキャンプで、これは唯一の「出発」事例だ)



カール・クラウベルク(訳者註〜たぶんヨーゼフ・メンゲレの前任者)

第二次世界大戦前、カール・クラウベルクは女性生態学の権威で、婦人科医としても輝かしい経歴を持っていたが、アウシュヴィッツでは、医者から殺人者に変わってしまった。

カール・クラウベルクは1898年、ヴッペルタルの職人の家に生まれた。
第一次世界大戦に歩兵として従軍したのち医学を修め、キエルの大学病院婦人科でチーフ・ドクターになった。
1933年にはNSDAPに入党(訳者註〜ナチスの別名じゃないかと思ってた。それでもすごく間違ってるわけではない気がするけど、正確には、国家N社会主義SドイツD労働A党Pらしい)、その後、ケニンスベルク大学の女性生態学教授に任命された。

1942年12月、アウシュヴィッツにやってきたカール・クラウベルクは、研究活動の場として第10区画をあてられた。
主な仕事は、子宮への薬物注射。
多くのユダヤ人やジプシーの女性が検体にされ、発熱や痙攣や出血などの苦しみにのたうちながら不妊にされた。
この注射により損傷を受けた子宮は、取り出されてベルリンに送られた。

気密室での変圧テスト、薬物テスト、低温テストなど、さまざまな実験が行われた。
男女問わず生殖器に繰り返しX線を照射するというようなことも行われた。
このX線によるダメージで労働が不可能になれば、即ガス室に送られた。
男性の生殖器ももちろんベルリンに送られた。

カール・クラウベルクはソ連の法廷に引き出され、25年の禁固刑を言い渡された。
7年後、彼は、ボンとモスクワの間で取り決められた恩赦により出獄を許され、西ドイツに戻った。
帰国した彼は、マスコミ相手にアウシュヴィッツでの仕事ぶりを自慢げに吹聴した。

1955年、生き延びた人たちの抗議により逮捕。
しかしその裁判が始まらないうちに、カール・クラウベルクは死んでしまった。



エヴァ・モーツェス

エヴァ・モーツェスとミリアム・モーツェスの姉妹は、アウシュヴィッツでドクター・ヨーゼフ・メンゲレの遺伝子実験のモルモットにされながらどうきか生き残った、一卵性双生児だ。
彼女たちの両親、祖父母、二人の姉、従兄弟たちは全員殺された。

エヴァとミリアムに対しては様々な実験が行われた。
メンゲレは主に双子を相手に仕事をしていた。
エヴァは追想する。

5回の注射を受けたその晩、私は高熱を出した。
全身が震え、腕と足は大きく膨れ上がった。
次の朝、ドクター・メンゲレとドクター・コニグ、他に三人の医者が、私のところにやってきた。
ドクター・メンゲレが笑いながら言った。
「ダメだな。実験するには幼なすぎた。あと2週間もつかどうか」

エヴァはそれからジプシーの双子について語った。
メンゲレの診療室から戻ってきた二人は、背中と背中で縫い合わされていた。
メンゲレは、血管と臓器を結合してシャム双生児をつくろうとしていたのだ。
二人は痛みのために泣き続けた。
やがて傷口は壊死し、三日後に、二人とも死んだ。

終戦直前、キャンプ解放の時点で、生き残っていた双子がほんの数組だったことを考えると、エヴァとミリアムが生き延びたのは奇跡と呼ぶほかない。

成人してからのエヴァは数々の障害に悩まされた。
流産を経験し、結核をわずらった。
おまけに彼女の息子は癌に蝕まれた。

彼女の肝臓はまともに機能しなくなっていた。
1993年、医者も首をかしげるような珍しい癌により、彼女は死んだ。
メンゲレが注射した謎の薬物が無関係だとはとても考えられない。



ハルタ・ウベルハウザー

ドクター・ハルタ・ウベルハウザーは、オイルやevipan(?)注射によって、子供たちを殺害。
死後、四肢や内臓をバラバラに切り分けた。
注射してから死ぬまでにかかった時間は3〜5分。
最後の一瞬まで意識は失わなかったと考えられる。

彼女はほかにも数々の実験を行った。
それは主に傷口を痛めつける実験だ。
戦場での負傷を模して、木材、錆びた釘、粉砕したガラス、埃やおがくずなど、傷口にいろいろな物質をこすりつけた。

戦後、1946年10月から1947年8月にかけて、いわゆるニュルンベルク医師裁判が行われた。
1933年から1945年にかけて、赴任先の収容所で非人道的な実験を行った23人の医者が告発された。

判決は15人が有罪、8人が無罪。
有罪15人のうち7人は死刑、8人は投獄。

ハルタ・ウベルハウザーはただ一人の女性被告で20年の刑を言い渡されたが、けっきょく1952年に釈放されている。
その後、ドイツ国内のとある家の専属医になったが、1958年に資格を取り消された。



各収容所で行われた実験

高度実験。
人間はどこまでの高度に耐えられるか。
気密室に閉じ込め、そこから高度上昇の状態をシミュレート、徐々に空気を抜いていく。
多くは死亡。

焼夷弾実験。
リンによる火傷にはどんな薬剤がどんな治療効果を示すか。
焼夷弾によってリンを撒き散らし、やけど負わせる。
リン火傷より先に、普通の炎で火傷を負う者多数。

低温実験。
低温状態にさらされた人間に対しては、どんな手当てをするのが効果的か。
被験者は氷水を入れたタンクに3時間つけられる。
極端な低温ならもっと短時間でもよい。
大体は手当てを受ける前に死亡。
生き延びた者の低体温状態がひどい場合は、いろいろな手段で暖めることが試みられた。
冷やし方としては、零下の野外に裸で放置というやり方もあった。

海水実験。
飲料水として海水は使えるかどうか。
被験者は化学的に処理された海水だけをのまされた。

マラリア実験。
免疫をつくれるかどうか、さらに感染発病した場合はどんな手当てをするのが効果的か。
蚊本体を使って、または抽出した分泌液の注射によって、まずは感染させる。
感染が確認できたら、いろいろな薬剤で効果を確認。
多くは死亡。

マスタードガス実験。
これによってできた傷には、どんな手当てをするのが効果的か。
一部は死亡、他は重症。

サルファ剤実験。
どれぐらい抗菌効果があるか。
被験者の傷を、連鎖球菌や炭疽菌、破傷風菌などに感染させたうえ、菌の吐く毒が他に回らないよう、患部を挟んだ二箇所をきつく縛る。
さらに傷口に木屑やガラスの破片を擦り込んで症状を悪化させる。
ここにサルファ剤他の薬剤を適用して効果を確認。
多くは死亡。

チフス実験。
ワクチンにどれくらい効果が期待できるか。
9割以上は死亡。

毒物実験。
密かに被験者の食事に混入する。
多くは死亡、生き残っても殺害。
死体は結果検証のため解剖に供された。
毒を仕込んだ銃弾を撃ち込むという実験も行われた。



犠牲者

ホロコーストとは、第二次大戦中、ナチの支配下で組織的効率的に進められたユダヤ人絶滅作戦のことだ。
大戦でドイツが侵攻した21カ国には、戦前1933年の時点で900万人のユダヤ人がいた。
1945年までにその3分の2が殺された。

最大の犠牲者はもちろんヨーロッパのユダヤ人だが、他にも50万人のジプシー、25万人以上の身体的精神的障害者、300万人以上のソ連兵捕虜などが虐殺された。
エホバの証人、同性愛者、社会民主主義者、共産主義者、労働組合員、ポーランドの知識人なども迫害の対象になった。

殺された子供の数はわからない。
殺害以外の死因も含めた悲劇の総数は、永遠に不明だろう。

子供だけで150万人とする説もある。
うちユダヤ人が120万人以上。
ジプシーが数万人。
障害者が数千人。

以下、第二次大戦中に殺害されたユダヤ人推計

ドイツ(開戦前1938年時点の領土)・・・130,000人
オーストリア・・・65,000人
ベルギー&ルクセンブルク・・・29,000人
ブルガリア・・・7,000人
チェコスロバキア・・・277,000人
フランス・・・83,000人
ギリシャ・・・65,000人
ハンガリー&ウクライナ・・・402,000人
イタリア・・・8,000人
オランダ・・・106,000人
ノルウェー・・・760人
ポーランド&ソ連・・・4,565,000人
ルーマニア・・・ 220,000人
ユーゴスラヴィア・・・ 60,000人
ユダヤ人合計・・・6,017,760人


1930年代、アメリカ大陸とイギリスには、ひっきりなしにユダヤ人迫害の報道が届いていた。

1942年の時点で、イギリスとアメリカの政府は、ドイツの「最終解決」に関する報告の信憑性を確信していた。
ドイツがヨーロッパじゅうのユダヤ人を皆殺しにしようとしているのは、どうやら間違いなさそうだった。
しかし反ユダヤ主義の風潮は、当時アメリカにもイギリスにも蔓延しており、難民大量流入に恐れをなした両国は、その受け入れ枠をひろげようとはしなかった。
1944年、高まる世論におされて、ようやくアメリカが救出作戦に乗り出すまで、虐殺は誰にも邪魔されることなく続けられた。

ヨーロッパでは、ドイツ占領下の市民たちが反ユダヤ主義に煽られ、ナチの虐殺に協力していた。
ただ、どの占領下の国にも、危険を顧みずユダヤ人をかくまう者が大勢いた。

1943年、デンマークでは、夜間救出作戦によって多くのユダヤ人の命が救われた。
彼らはすぐ隣の中立国スウェーデンに、小さな釣り船で運ばれた。



証人

マルク・ベルコヴィッツ(男)とフランチェスカ(女)も、ドクター・ヨーゼフ・メンゲレの手にかかった双子の一組だ。
1941年3月、母親とともにチェコスロヴァキアから移送されてきた。
この12歳の双子は、アウシュヴィッツに到着するなり、メンゲレの実験のために隔離された。
以下、マルクの記憶。

実験の前に、囚人ナンバーの刺青をされた。
それから冷水入浴させられて、皮膚に何か薬みたいなものを塗られて。
でも、そんな恐ろしいという感じじゃなかった。
注射はどれぐらいされたかおぼえていない。
はじめは数えていたけど、150回ぐらいのところで、どうでもよくなって数えるのをやめてしまった。
ある朝、ガス室行きの列に混じって行進している母親を見つけ、思わず呼び止めた。
メンゲレは自分を呼びつけ、焼却場に行ってちょっと雑用を足して来いといった。
自分が母を見てしまったことを、彼は知っていたのだ。
二日後、メンゲレは自分に尋ねた。
「それでも神を信じるか?」

数年後、マルク・ベルコヴィッツは、メンゲレに打たれた注射が原因としか思えない数々の痛みに悩まされるようになる。






ナチスがハンガリーに侵攻した1944年、イザベラ・リトナーは家族とともにゲットーに押し込められ、ほどなくアウシュヴィッツに移送された。
まだ幼かった妹と母親はガス室おくりになった。
イザベラはホロコーストについて何冊か本を書いている。
以下は到着したときの記憶だ。

アウシュヴィッツに向かう旅支度をしたのは1944年5月28日、私の二十歳の誕生日だった。
母、兄、四人の妹と一緒に家畜車から降りると、そこにメンゲレがいた。
番犬のようなSS兵を引き連れ、拳銃と乗馬用の鞭を手にしたメンゲレは、圧倒的な存在感を放っていた。
母親は即処刑決定。
アウシュヴィッツでこの先いきていくには年をとりすぎていた。
末の妹、ポチョも。
13才の彼女は、メンゲレから見ると幼すぎた。
メンゲレは一見、洗練された物腰の紳士だった。
邪悪さを見抜ける人間はまずいない、天才的な殺人者。

復讐よ、と、イザベラは言う。

あれほどの目にあわされた私が、今こうして母親になっていること。
可愛くて賢い二人の子供の母親になっていること。
これが復讐。
この事実を知ったら、メンゲレは卒倒するんじゃないかしら。

イザベラは生き延びた。
精神を破壊されることもなく、トラウマに押し潰されることもなく、幸せな女性として。





メンゲレの手にかかりながらも生き延びた、モシェ・オファーが、死んだ双子の兄について語っている。

ドクターメンゲレはいつも自分よりティビのほうに関心を向けていた。
はっきりとは分からないけれど、同じ双子でも、弟より兄のほうに興味があったのではないだろうか。
脊柱除去手術のおかげでティビの体は麻痺し、二度と歩けなくなった。
医者たちはその体から生殖器を取り出した。
四回目の手術以降、ティビの姿は見ていない。
その時点で、父も母も年長の二人の兄もすでにいなくなっていた。
ティビも、いなくなってしまった。





アイリーン・ヒズム(女)と、双子の兄レーネ・スロットキンは、チェコスロバキアで生まれた。
母親と一緒にセアザインシュタットに連れられてきたのは四歳のとき。
しばらくしてアウシュヴィッツに移送された。
到着早々引き離された母親とは、その後二度と会っていない。
彼らはここでメンゲレの検体として三年近くもの月日を生き延びた。
アイリーンは思い出す。

はじめてメンゲレを見たとき、彼は緑色の服を着ていた。
とても濃い緑だった。
あと憶えているのはブーツ。
それは大体私の目の高さだった。
きらきら光沢のあるブーツだった。
"twins, twins" と、彼は双子を探しまわっていた。

はじめてメンゲレの診療所に入ったとき、血をとられた。
とても痛かった。
腕や背中に注射をされた。
あとX線も浴びた。
それからしばらくは病気になったみたいに具合が悪かった。

戦後アイリーンは、ロングアイランドの家族に養子として引き取られ、数年間、兄レーネの消息を求め続けた。
レーネはヨーロッパで生きていた。
1950年、ようやく二人は双子として「再結成」された。
今では二人とも結婚し子供もいる。





フランツ・クラインは7ヵ月間をアウシュビッツで過ごした。
駅での記憶を次のように語る。

メンゲレに初めて会ったのはアウシュヴィッツに到着したその日だった。
私の他、双子の兄のオットー、母、叔父、姉が、一緒に到着した。
駅のプラットフォームを歩いていた男が、私とオットーは双子かと、母に尋ねた。
母がそうだと答えると、男は「すぐ戻って来るからここで待つように」と去っていった。
数分後、その男が連れてきたのがメンゲレだった。
それからしばらく、私たちは「仕分け作業」を見ていた。
母はガス室おくりになった。
叔父もだ。

私とオットーは生き延びた。
キャンプを出てからも、メンゲレがオットーを連れて行ってしまう夢を何度も見た。







4泊5日の長旅の果て、エルンスト・ミヒャエルはアウシュヴィッツに到着した。
1943年3月19日のことだった。
彼は1923年、マンハイムのユダヤ人の家に生まれた。
ドイツで300年以上続く古い家系だ。
彼が捕まったのは1939年、第二次世界大戦勃発の3日後。
その後、5年半を奴隷として過ごした。

「アウシュヴィッツナンバー 104995」、診療所当番として働いたエルンスト・ミヒャエルの記憶。

1944年の夏のある日、私たちは、8人の若い健康な女性を実験室に連行した。
何名かに囲まれて、メンゲレが軍の制服姿で立っているのが見えた。
私たちが一人ずつ室内に送り込むたび、将校の一人が次々に鞭で打ちのめした。
しばらくすると、室内からの叫び声は止んだ。
8人のうち、死んだ2人を、私たちは運び出した。
5人は意識不明。
もう一人は、ベッドに追い詰められたような格好でまだ鞭打たれていた。
メンゲレはくつろいだ様子で他の兵士と立ち話をしていた。
「実験」という言葉だけが、かすかに聴き取れた。

エルンスト・ミヒャエルの両親、祖母、叔父、叔母は全員ガス室で殺されていた。
彼がアメリカに渡ったのは1946年のこと。
生き延びた人たちが集まるコミュニティで活動を始めた。
1981年にイスラエルで開催された、ホロコースト生存者世界集会の議長もつとめた。






アレックス・デッケル

まるで屠殺場だ。
切り裂いた腹からメンゲレが何か取り出しているのを見たことがある。
心臓を取り出しているところも見た。
もちろんいつも麻酔なしだ。
恐ろしい話だ。
メンゲレは、力を与えられたことで頭がおかしくなった医者だ。
誰もメンゲレに尋ねない。
あの患者はなぜ死んだのか。
別のあの患者はなぜ死んだのか。
メンゲレにかかった患者の数は誰にもわからない。
科学のためだとメンゲレは言う。
その科学というのは、メンゲレの中の狂気じゃないか。



死の天使

ヨーゼフ・メンゲレは死の天使と呼ばれたが、ホロコーストでは、他のナチ・ドクターも拷問や実験に手を染めた。
生贄たちは、気密室に閉じ込められ、薬物を試され、去勢され、凍えさせられ、そして死んだ。
子供たちは麻酔なしで体中を切り裂かれ、あちらからこちらへと医者たちの気の向くままに血液を入れ替えられ、監禁され、もてあそばれた。
医者たちは、致死性の病原菌を注射し、性転換手術を施し、臓器を取り出した。

ヨーゼフ・メンゲレはアウシュヴィッツで双子相手に数多くの実験を行った。
五歳かそこらの子供たちが、モルモットにされ、実験が終わって用済みになると殺され、バラバラにされた。

瞳の色を変えられないものかと、メンゲレは子供たちの目に薬物を注射した。
双子の一方から一方へ輸血を試みた。
双子を一体として縫い合わせた。
去勢、断種もした。
多くの双子が麻酔なしで臓器摘出手術を受けた。

生き残った少数の双子たちの記憶に残っているこの医者の姿は、キャンディや洋服をくれる笑顔の「メンゲレおじさん」だ。
彼は子供たちを研究所まで連れて行くのにも、いろいろな種類の自動車を使って喜ばせた。

メンゲレはアウシュヴィッツのガス室の責任者でもあった。
ある区画にシラミが大量発生したという報告を受けると、メンゲレはそこの女性囚人750名をまとめてガス室おくりにした。

やや痩せ型の体格、乱れのない髪、きちんとプレスされた深緑色の長い上着、念入りに手入れされた顔、ちょっと粋にかぶったSS帽、そんな彼の姿は、アウシュヴィッツ到着時の選別仕分けで生き残った人たちの記憶に、鮮やかに刻まれている。
きれいに磨かれたブーツを少し離した立ち姿で、ピストルベルトに親指をかけたまま、そのギムレット色の目は、生贄の品定めしていた。
左は死、右は生、と。

メンゲレも他のキャンプ・ドクターも(これがホロコーストのもっとも恐ろしい点だが)、心理学的には何ら問題のない人たちだった。
彼らは立派な地位にある先進国の文化人であり、朝晩には妻とキスを交わす夫であり、子供をベッドに寝かしつける父親でもあったのだ。





ミクロス・ナイアスリ

アウシュヴィッツ囚人のユダヤ人医師、ミクロス・ナイアスリは、皮肉な運命のいたずらで生き残った一人だ。
医者としての腕を買われ、解剖役、実験助手としての役割を与えられたのだ。

ナイアスリは奇跡的に生き残り、そして驚くべき事実を公にしてくれた。
これはナチの死のキャンプの恐ろしさを最も明確に伝えてくれる一冊だ。
「アウシュヴィッツ、医師の目撃証言」と題されたこの本の、114ページから120ページに、それは記されている。



第一焼却棟ガス室には、3000人分の死体が積みあがっていた。
雑役兵が、絡み合った死体をほぐしにかかっていた。
エレベーターの昇降音や、あわただしいドアの開閉音が、私の部屋にまで届いていた。

作業は二巡目に向かっていた。
次の到着がすでにアナウンスされている。
ガス室はとっとと片付ける必要があった。

ガス室係の兵士が、私の部屋のドアの蝶番を捻じ切りそうな勢いで入ってきた。
見開かれた彼の目には恐怖と驚きが浮かんでいた。
「ドクター、すぐに来てください。死体の山から生きた女の子が出てきました」

私は用具ケースを掴んだ。
いつでも使える状態で用意してあるものだ。
すぐさまガス室に走った。
広いガス室の入り口近く、半分は他の死体に隠されていたけれど、たしかに少女が、壁に向かって苦痛のうめき声を上げ、体を痙攣させていた。

私の周りにいるガス室係の兵士たちはパニック状態だった。
こんな作業に従事している彼らにとっても、初めての出来事だった。

数人で協力して、まだ生きているその身体を死体の山から引きずり出した。
私は小さな体を両腕に抱え上げ、ガス室の続き部屋に移した。
普段はガス室係の兵士たちが更衣室として使っている場所だ。

少女をベンチにのせた。
子供のようにか細い体だった。
15歳にもなっていないのではないかと思った。
注射器を取り出し彼女の腕を掴んだ。
意識はまだ回復していない。
呼吸も苦しそうだった。
その静脈に注射を3回打った。

少女の体が氷のように冷たくなっているのを知って、誰かが分厚いコートをかけてやった。
暖かい飲み物を求めて台所に走る者もいた。
誰もが少女を助けようとしていた。
誰もが彼女を自分の子供と錯覚しているようだった。

反応はすぐにあらわれた。
彼女の口から漏れ始めた咳は、特に異常なものではなかった。
その咳はついに肺から球体の粘液を飛び出させた。
彼女は目を見開き、視線を天井に固定した。

私は目を凝らし、彼女の体に生命の証を確認した。
呼吸は深く、規則正しくなっていった。
ガスで痛めつけられた肺は、貪欲に新鮮な空気を求め続けた。
注射が効いてきたのだろう、脈も正常に戻り始めた。

私は苛々しながら待った。
数分以内に意識を取り戻すと踏んでいた。

血管の脈動が頬に色を戻した。
彼女の繊細な顔はもう間違いなく生きた人間のものだった。
私は居合わせた兵士たちに、ひとまず下がるよう合図をおくった。

負けが分かりきっているような賭けに、私は挑もうとしていた。

マスフェルドという男は、熟練したプロの医学技術を大いに尊重する人間だ。
そのことを、私はこれまでの付き合いから知っていた。
私の話に耳を傾けてくれるはずだと思った。

さらにマスフェルドは、私の上司がドクター・メンゲレであることを知っている。

メンゲレは自分のことをドイツで最も重要な科学使者の一人だと考えている。
ユダヤ人をガス室おくりにすることが愛国者としての義務だと考えている。
人の体をバラバラに切り裂くことがドイツの科学の発展につながると考えいる。

そういう男を、向こう側にまわす話なのだ。
一人の命を救うために、彼の目をどうにかくらます。
メンゲレという名は口に出さないまでも、そういう含みを持たせて、話を進めなくてはならない。

私はマスフェルドに、現在直面している非常事態について穏やかに話してきかせた。
マスフェルドの慈悲に訴えた。
いま更衣室にいる少女がどんな苦痛を味わったか、ガス室でどんな悲惨な光景を目にしたか。

部屋が真っ暗闇になり、ガスが発生し始める。
もちろん少女もそれを吸った。
たぶんほんの少しだ。
小さな体は、死と戦う周囲の大群にふりまわされた。
結果、湿ったコンクリートの床に顔を向けて倒れた。
そのわずかな湿気が彼女を救った。
サイクロンガスは、湿った状態では活性を失うのだ。

そういった見解を話した後、私は、少女のために何かしてやれないかとマスフェルドの反応をうかがった。
彼は熱心に話を聴いてくれた。
そして何か提案はあるのかと問い返してきた。
彼の表情から、私はとんでもないことに巻き込んでしまったと感じた。

少女をいつまでも第一焼却棟に置いておくわけにはいかない。
第一焼却棟の玄関のすぐ外に連れて行くというのはどうだろう。
そこでは女性囚人たちが雑役をこなしている。
雑役が終わったところで、宿舎に戻る車に紛れ込ませることはできないだろうか。
自分の身に何が起こったか、少女はわかっていないと思う。
大勢の女性囚人の中に一人ぐらい新顔が混じっていても、気づかれる心配はまずない。
全員の顔を覚えている者なんているはずはないのだから。

あの少女がもう少し大人だったら、二十歳ぐらいだったら、もっとよかった。
二十歳にもなれば、自分の身に起こった奇跡のような出来事を理解できるだろう。
これは他人に話すべきでないという分別も身についているだろう。

少女はここから出られる日が来ると信じている。
他の何千の囚人たちがそうであるように。
彼女がここから出て、自分の身に起こった奇跡を堂々と話せる日が来ると信じたい。
かなわない夢でもつぶしてしまいたくはない。

しかしマスフェルドは首を横に振った。
十代の小娘が口をつぐんでいられるはずはない。
彼女と出会った最初の一人目から、この事件を知ることになるだろう。
彼女が何を見たか。
何を経験したのか。
噂はあっという間にひろまる。
そうなったら我々は命を差し出して償わなくてはならない。

「この話はおしまいだ」とマスフェルドは言った。「死んでもらうほかない」