ヨーゼフ・ルドルフ・メンゲレ(1911/03/16 - 1979/02/07)
ドイツSS将校、ナチ・コンセントレーションキャンプ・アウシュヴィッツの医師。
ミュンヘン大学で人類学、フランクフルト大学で医学の博士号を取得。

アウシュヴィッツの囚人の選別仕分け監督として悪名が高い。
囚人列車の到着に立会い、即処刑か強制労働かをその場で決定した。
さらに彼の悪名を高めているのはキャンプ内での生体実験。
これにより、死の天使と呼ばれるようになった。

1940年、予備医療部隊に、続いて東部戦線の第5SS装甲師団に配属される。

1942年、ソヴィエトで負傷、戦場での勤務には不適と判定された。
ドイツ兵士3名を救命した功績で親衛隊大尉に昇進。

第二次大戦を生き延び、数年間のドイツ国内潜伏を経て南米に亡命。
ナチ戦犯として追跡を受け続けたが、死ぬまで捕まることはなかった。



生い立ち、家族

1911年3月16日、ヨーゼフ・メンゲレは、ドイツ・バヴァリアのギュンツブルクで生まれた。
カール・メンゲレとヴァルブルガ・メンゲレの間にできた長男で、下には弟が二人いた(カール・ジュニアとアロイス)
父カールは、メンゲレ・アンド・サンズ・カンパニーという農機具製造工場の創立者だった。

1935年、ミュンヘン大学で文化人類学の博士号を取得。

1937年1月からは、フランクフルトの遺伝生物学民族衛生学研究所で、ドクター・オトマール・フォン・フェアシュアの助手を勤めるようになる。
ドクター・フォン・フェアシュアは、遺伝、とくに双子の研究で知られていた。
さらにメンゲレは、テオドール・モリソン、ユーゲン・フィッシャーの下でも学んでいる。
この二人は南西アフリカ、現在のナミビアで、ヘレロ族を相手に人体実験を行っていた。

1939年1月28日、メンゲレはイレーネと結婚。
イレーネとはライプツィヒで一緒に学んでいた。

一人息子ロルフが生まれたのは1944年。

その5年後の1949年、南米ブエノスアイレスへ亡命。
イレーネはドイツに残り息子ロルフと暮らし続けた。

1958年7月25日、ウルグアイのヌオヴァ・ヘルヴェシアで、メンゲレは再婚。
相手は、亡くなった弟カール・ジュニアの元妻、マルタだった。
マルタは1956年、息子のカール・ハインツと共にブエノスアイレスに亡命していた。



従軍時代

1937年、ナチに入党。

1938年、医学の博士号取得、さらにSS入隊。

1940年、軍に新兵として入隊。
その後 Waffen-SS(武装親衛隊)で、戦場での医療業務に従事、戦士として名を上げた。

1941年6月22日、ヒトラーはソ連に宣戦布告。
同月、メンゲレはウクライナ前線で従軍、その功績で第二級鉄十字章を受けた。

1942年、第5SS装甲師団と共にソ連国境で従軍中、二人のドイツ兵を燃えさかるタンクから救出、これにより、第一級鉄十字章、黒色戦傷章、ドイツ国民救出功労メダルを授与された。
この戦線での負傷で戦地不適の判定を受けたメンゲレは、ベルリンの Race and Resettlement Office に配置換えとなった。

恩師ドクター・フォン・フェアシュアとの関係はずっと続いていた。
この頃、フォン・フェアシュアは、ベルリンのカイザー・ウィルヘルム協会で人類学、遺伝子学、優生学などを研究していた。

1943年、アウシュヴィッツへの配属が決まる直前、メンゲレはSS大尉に昇進。



アウシュヴィッツ

ナチ・エクスターミネーションキャンプ・ビルケナウのドクターが病に倒れ、後継としてメンゲレに白羽の矢が立てられた。

1943年5月24日、メンゲレは、アウシュヴィッツ-ビルケナウのジプシーキャンプ医官になった

1944年8月、ジプシーキャンプは閉鎖、ここに寝泊りしていた囚人は全員ガス殺。
メンゲレは、ビルケナウのメイン診療所で主任医官をつとめるようになる。
が、アウシュヴィッツの主任ではない。
彼の上司は、駐屯医、エドワード・ヴァースだった。

21ヶ月の任期中、彼は囚人たちからホワイト・エンジェルと呼ばれていた。
アウシュヴィッツの駅で、到着する囚人を品定めする彼の白衣姿と、指図するときに伸ばされる白い腕が喚起したイメージだった。

到着する囚人の出迎えは、何人かのSSドクターが交代でつとめていた。
強制労働のために残すか、ガス室おくりにするか、到着と同時に医者たちが決定していた。

メンゲレは自分の当番以外の日でもおかまいなしでたびたびプラットフォームに現れ、実験に使う双子を探した。
囚人たちの間をかき分け、"Twins out!", "Twins step forward!" と叫び続けるその顔は、助手の話によれば、気が狂っているとしか思えなかったという。

メンゲレを記憶を語るとき、誰もが口にするのが、駅のプラットフォームでの姿だ。
囚人仕分け作業で彼が見せた流麗な動作が、いかに印象的だったかを物語っている。


子供を収容する宿舎で、メンゲレは壁に線を引いた。
床から150cmのところに引かれたその線に頭が届かない子供はガス室におくられた。

"I am the power"
メンゲレがそう言っているように思えてならなかったと、生き延びた一人は語っている。
たとえば、どこかの一画でシラミが大量発生しているという報告を受けたメンゲレは、そこに住む750人の女性囚人をただちにガス室おくりにした。


生体実験

メンゲレにとってアウシュヴィッツは、囚人を使った生体実験の場でもあった。
特に一卵性双生児に興味を示した。
双子たちは特別な一画に隔離された。

ユダヤ人小児科医のベルソルト・エプスタイン、同じくユダヤ人病理学者のミクロス・ナイアスリの二人を、実験助手として採用した。

メンゲレ監督下の強制労働囚人として、エプスタインは、"Noma"と呼ばれる、特に子供たちの間で広まっている病気について研究していた。
"Noma"の本当の原因はいまでも不明だけれど、栄養失調や免疫機能低下の状態で多く発生していることはよく知られている。
はしかや結核のような別な病気にかかった後、さほど間をおかずに、この"Noma"が発症する。

メンゲレは、囚人の中から時々発見される、正常でない形状の身体に興味を持っていた。
たとえば、こびと。
ルーマニアの旅芸人の子孫、オーヴィッツ一家には、七人のこびとがいた。
アウシュヴィッツに移送されてくる前は、リリパット・トゥループという名前で東ヨーロッパを巡業していた。


メンゲレの実験は多岐におよぶ。
あるときは瞳の色を変えようと子供たちの目に注射を打った。
四肢切断、腎臓除去などの手術を麻酔なしで行った。

1943年10月にメンゲレが女性囚人相手に行った、断種とショック実験について、レナ・ゲリセンが証言している。
多くは実験中に、あるいは後遺症で、死亡した。

メンゲレの助手が、14組のロマ(ジプシー)の双子をかき集めたことがある。
メンゲレは子供たちを大理石の解剖台にのせ眠らせた。
心臓にクロロフォルムを注射して、あっという間に殺害。
解剖して、双子の臓器を念入りに比較した。

双子の実験は他にも数多く行われている。
実験が終わると子供たちは殺されて解剖された。

結合双生児の作成が試みられたこともある。
メンゲレの監督のもと、ロマの双子が背中と背中で縫い合わされた。
血管を無理やりジョイントした双方の手のあたりから化膿を起こし、壊疽がひろがった結果、どちらも死んでしまった。

七歳の女の子の尿管と結腸をつなげたこともあった。

実験台にのせられるまでは、双子たちは大切に扱われた。
1945年、生き残った子供たちはソ連赤軍によって解放されている。

双子たちは他の囚人よりも優遇されていた。
充分な食事と清潔な宿舎を与えられた。
すぐにガス室おくりにされることがないかわりに、実験に使われ、よりいっそう悲惨な死を遂げた。

メンゲレおじさんだよ。
そう言って、彼はよく子供たちに菓子を手渡していた。
彼らの「保護者」とも呼ばれていた。

妊婦相手の実験もしていた。
生体解剖をしたのちガス室におくった。

囚人だったアレックス・デッケルはこんなことを言っている。

メンゲレは、あれで真面目な仕事をしているつもりでいたのか。
仕事中の態度といったら、公式行事に靴のかかとを踏み潰して出席する連中と同じようなものだ。
ただ力を見せつけていただけじゃないか。
麻酔なしで外科手術なんて、まるで屠殺場だ。
切り裂いた腹からメンゲレが何か取り出しているのを見たことがある。
心臓を取り出しているところも見た。
もちろんいつも麻酔なしだ。
恐ろしい話だ。
メンゲレは、力を与えられたことで頭がおかしくなった医者だ。
誰もメンゲレに尋ねない。
あの患者はなぜ死んだのか。
別のあの患者はなぜ死んだのか。
メンゲレにかかった患者の数は誰にもわからない。
科学のためだとメンゲレは言う。
その科学というのは、メンゲレの中の狂気じゃないか。


こんなことを言う囚人ドクターもいる。

彼は子供たちにとてもやさしかった。
子供に好かれる才能があったといってもいい。
甘いものをプレゼントし、細かいところまで気を配っていた。
拍手をおくりたいほどだ。
そうして次は何をしたのか。
結果があの火葬場の煙だ。
喜ばせて、30分もしないうちに、そうでなくとも翌日には、もう焼却炉に叩き込んでいる。

ルセット・マタロン・ラグナドとゼイラ・コーン・デッケルの共著、「炎の中の子供たち」には、1500組の双子を相手にメンゲレが行った実験が記されている。

1980年代には、生き残った双子は100組ほどになってしまった。
彼らが思い出すのは、メンゲレの気さくな態度と、プレゼントのチョコレートだ。
いま考えればあれは偽りのやさしさ。
やさしさの仮面をかぶった、生殺し耐性実験。
自分たちだって殺されていたかもしれない。
メンゲレの助手に注射されていたかもしれない。
メンゲレ自身に射殺されていたかもしれない。
殺されて、バラバラにされていたかもしれない。
一晩に14組もの双子を殺したことがある男なのだ。



1960年、パラグアイのアスンシオンから戻ったハンス・セルドマイヤーは、メンゲレからの声明を伝えた。

「私は殺人など犯していない。傷を負わせてもいない。結果として傷を残すようないかなる行為もしていない」

メンゲレは繰り返し、自分は無実であり巨大な陰謀の犠牲者だと主張し続けた。

1985年にはメンゲレに同情的な立場からドキュメンタリーが作成されている。
そこでは、ブラジルに潜伏していた頃の彼の言葉が伝えられた。

「生体実験なんて冗談じゃない。全部ウソだ。血液サンプルだって、みんな謝礼の食事目当てに自分からすすんで献血してくれたんだ」

「キャンプでは医者として多くのユダヤ人の命を救っている。銅像を立ててもらってもおかしくないほどだ」



アウシュヴィッツ以降

1945年1月27日、ナチはアウシュヴィッツ・キャンプを放棄した。
メンゲレはグロス・ローゼン・キャンプに移り、そこでふたたび医者として働いた。

同年2月末、ソ連赤軍が間近まで進撃してきたことで、グロス・ローゼン・キャンプも解散。
メンゲレはしばらくいくつかのキャンプを転々とした。

5月2日、陸軍病院部隊に合流。
これを率いていたハンス・オットー・ケラーは、遺伝生物学民族衛生学研究所時代の、メンゲレの同僚だった。
部隊はソ連軍から逃れるため西方に移動。
けっきょく待ち構えていたアメリカ軍の捕虜となった。
登録書類では「フリッツ・ホルマン」という偽名を使った。

6月には釈放され、以後、1949年5月まで、バヴァリアのローゼンハイムで農夫として暮らした。
その間、妻や旧友ハンス・セドルマイヤーと連絡を取り合った。
このセドルマイヤーの手配により、インスブルック、ミラノ、ジェノヴァなどを経由して、アルゼンチンに逃れることができたわけだが、もしかしたら他にオデッサネットワークの援助もあったかもしれない。



南米

1956年時点のメンゲレの顔写真がある。
アルゼンチン国内の指名手配用として、ブエノスアイレスの警察が撮影したものだ。

メンゲレはブエノスアイレスの建築現場で働き始めた。
まもなく現地で影響力を持つドイツ人と連絡を取ることができ、その後数年間は、裕福な生活ができた。
ハンス・ウルリッヒ・ルーデルやアドルフ・アイヒマンなど、ブエノスアイレスに潜伏中の他のナチ残党とも面識を持つようになった。

1955年、ファドロ農場の半分と、製薬会社を買い取った。
同年、イレーネと正式に離婚。

さらに3年後、ウルグアイでマルタ・メンゲレと結婚。
マルタは、亡くなった末の弟カール・ジュニアの元妻で、戦後、息子のディーターと共にウルグアイに渡っていた。

1958年から1960年まで、メンゲレは家族と共にブエノスアイレス郊外のヴィセンテ・ロペスにあるドイツ人所有の家で暮らした。
その頃メンゲレは、ふたたび医師としての仕事をするようになっていた。
アルゼンチンも含む多くの国々で違法とされていた堕胎も行っていた。
堕胎によって患者が死亡したこともあり、彼は法廷に引き出されたが、短期の拘留だけで済んだ。

アルゼンチンでほぼ不自由なく暮らすことができたが、メンゲレは常に追跡者の影に怯えていた。
アイヒマン逮捕の知らせで恐怖は頂点に達した。
メンゲレはアルゼンチンを脱出しパラグアイに逃れた。
パラグアイ国民としてのパスポートの名前は、「ジョゼ・メンゲレ」だった。

アイヒマン逮捕の直後、1960年5月ごろには、メンゲレの住処はイスラエルのモサドによって突き止められていた。
アイヒマンと同様メンゲレをすぐに逮捕するべきかどうか、モサドの諜報部員の間で意見が分かれた。
アイヒマンのことはすでにアルゼンチン国内の家に監禁してあったが、諜報部員の人数を考えると、同時に二人を捕まえるのは不可能と判断された。
アイヒマンがイスラエルに向けて移送される頃、メンゲレはパラグアイに向けて逃亡を始めていた。

イスラエル秘密警察の主任アイザー・ハレルは、アイヒマン逮捕にいたる部下たちの健闘を賞賛していた。
1960年の発表では、メンゲレについては言及していないが、もし部下たちがもっとすばやく行動していたら捕まえることができたのではないかと、多少の不満も抱いていたかもしれない。

アイヒマンをイスラエルに移送した機長から、メンゲレのことはどうするのかと問われたとき、ハレルはこう答えている。

「もし作戦があと数週間早く開始されていれば、メンゲレのことも同じ飛行機に乗せることができたはずだ」

アイヒマン移送を済ませたのち、諜報部員たちは、アルゼンチンにおけるメンゲレの最後の居場所まで突き止めたが、彼は二週間前にそこを後にしていた。

パラグアイの独裁者アルフレート・シュトロスナーは、ドイツ人の血を引いており、国家発展に向けてたびたびナチ残党を要職に抜擢していたほどだから、ここはメンゲレにとっても身の安全が期待できる国だった。
イタプア地方、エンカルナシオンの北にあるドイツ人居住区、ホヘナウで生活を始めた。

モサドの上級諜報部員によれば、メンゲレはブラジルにいるという情報がイスラエルに入っていたが、当局はそれを握りつぶした。
この情報に不信を抱いたせいもあるが、それよりも1967年のいわゆる六日間戦争で人手が足りなくなっていた。

この戦争が終了したところで、イスラエルは、パラグアイの首都アスンシオンに大使館を置いた。
メンゲレ追跡の拠点にしようという意図があった、とも考えられるが、パラグアイのイスラエル大使、ベンジャミン・ヴァイザー・ヴァロンは次のように言っている。

大使として任命されるあたって、イスラエル外務省は、メンゲレに関して何一つ情報をよこさなかった。
話題にすらされなかった。

さらにヴァロンは続ける。

今だから告白するが、私はメンゲレ発見にさほど真剣に取り組んでいなかった。
彼の存在はそれ自体やっかいなジレンマだった。
メンゲレに関して、イスラエルは、ドイツほど熱心ではなかった。
けっきょく彼はドイツの一般市民で、その犯罪は、第三帝国の名のもとに行われたものだ。
彼の手にかかった犠牲者の中に、イスラエル国民は一人もいない。
イスラエルは大戦が終わってからできた国だ。

(訳者註〜ずいぶん間抜けな大使だと思ったけど、別な記事を読んでようやく分かった。この人には別の重要な使命があって、イスラエル政府としては、メンゲレなんかに関わって欲しくなかったらしい。メンゲレの追跡は、外務省とは無関係にモサドが勝手にやってた。きっとすごく一生懸命やってた)

その年、メンゲレはブラジルに移った。
サンパウロから200kmほどのところに位置するノヴァ・エウロパに移り、ハンガリーからの移民、ゲザ・スタマー、ジッタ・スタマーとともに生活を始めた。
二人は農場のマネージャーだった。

このブラジルの隠れ家では、比較的安心して暮らすことができた。

1974年、この農場との関係が切れたのを機に、ハンス・ウルリッヒ・ルーデルとウォルフガング・ゲルハルトの二人から、移住の話を持ちかけられた。
ボリヴィアに行ってクラウス・バルヴィエと一緒に暮らさないかというこの申し出をメンゲレは断り、サンパウロの郊外のバンガローで暮らすようになった。

1977年、先妻イレーネとの間に生まれた一人息子のロルフが、ドイツから訪ねてきた。
終戦直前、アウシュヴィッツ赴任中に生まれたロルフは、父親の顔を知らずに育った。
はるばる南米までやってきたロルフがそこで見たのは、「人を傷つけたことはない」と言い張る、無反省なナチ残党の姿だった。

メンゲレの健康状態は悪化していた。

1979年2月7日、メンゲレはベルティオガで死んだ。
水泳中に溺れたか、あるいは心臓発作の可能性もある。
1976年以来使用していたIDカードの名前、ウォルフガング・ゲルハルト(ナチ残党仲間の名)として埋葬された。

ほんのわずかだが、メンゲレは、後悔あるいは自責の念と呼べるかもしれないもの見せている。
ヒトラーの参謀の一人で陸軍大事でもある、アルバート・スピア。
そのスピアから命じられた、アウシュヴィッツ配属。
メンゲレは、これに対する驚きと嫌悪を、手紙に書き残している。
(訳者註〜細かいことは分からないけど、配属命令に対して驚いたというなら、それは後悔でも自責の念でもないと思う)

アルゼンチンの歴史学者、ジョージ・カメラーサが、2008年に出したメンゲレの伝記でこんなことを書いている。

ヨーゼフ・メンゲレ、当時の別名ルドルフ・ヴァイスは、南米でも生体実験を続けていた。
その結果、ブラジルのカンディゴ・ドゴイでは、双子が生まれる確率が非常に高くなっている。
五人の妊婦がいれば必ず一人は双子を生む。
おまけに生まれてくる子供は相当な割合でヨーロッパの白人の顔だ。

この説はブラジルの科学者によって否定されている。
彼はこの地域の双子について研究していた。
要するに元からそういう村だったらしい。




追跡

メンゲレは1944年の時点ですでに連合国側の戦犯リストに加えられている。
ニュルンベルク裁判でも、彼の名はたびたび引き合いに出されたけれど、ギュンツブルクで暮らす妻イレーネの証言から、メンゲレはすでに死んでいると、連合軍は考えていた。

1955年、イレーネとの離婚、マルタとの再婚といった情報から、にわかに生存説が浮上、西ドイツ当局は逮捕状を発行した。
フリッツ・バウアーたち西ドイツの諜報部員、イスラエルのモサド、サイモン・ヴェーゼンタールのような私立探偵など、様々な方面から、「死の天使」の追跡は行われた。

パラグアイでの目撃情報が、信用できそうなものとしては最後になった。
そのときは、ナチ残党ハンス・ウルリッヒ・ルーデルや、パラグアイの独裁者アルフレート・シュトロスナーによって匿われているのではないかと考えられていた。
以後、数々の目撃情報が世界中から寄せられたが、全部でたらめだった。

1985年、西ドイツの警察は、ギュンツブルクにあるハンス・セドルマイヤーの自宅を急襲、住所録や手紙、墓地の在処が記されたメモなどを押収した。
「ウォルフガング・ゲルハルト」の墓があばかれたのは、同年6月6日のこと。
UNICAMPの技官により、遺骨はかなりの高確率でメンゲレのものであるとの判定が下された。

息子ルドルフは、間違いなく父の遺骨であると証言。
南米にメンゲレが潜んでいたことを知りながら黙っていてくれた人たちに対して、不利なことが起こらぬよう、ことは慎重に進める必要があった、と、ルドルフは語っている。
1992年、DNAテストで再度確認。
34年間逃亡を続けたすえ、ついに捕まらないままその生涯を終えていたことが、これで確定した。

墓があばかれた後、遺骨はひとまずサンパウロの法廷医学協会に保管された。
ドイツの故郷で暮らす家族に対し、送還が打診されたが、遺骨の引取りは断られた。
メンゲレの遺骨はいまでもサンパウロにある。
埋葬記録によればメンゲレの遺体は火葬されていた。
その灰についても、家族が受け取りを要求してこなかったため、ブラジル無名戦士の墓に埋められた。




21世紀

2007年9月17日、アメリカホロコーストメモリアル博物館は、アウシュヴィッツ資料館から貸し出されたアルバムの写真を公開した。
そこにはメンゲレの写真も8枚ふくまれていた。
博物館によれば、アウシュヴィッツ時代のメンゲレと断定できる写真が公開されるのは、これが初めてだった。

2010年2月、コネティカットで開かれたオークションにメンゲレの遺品が出品された。
1960年から1979年に死ぬまで書き続けられた日記、息子ルドルフやウォルフガング・ゲルハルトに送った手紙など、一式の落札価格は20万ドルだった。
落札者は東海岸に住むユダヤ人慈善家だったが、この件に関しては名を明かしたがらなかった。
いっぽう出品者に対しては、「極悪人の遺品で金儲け」と、ホロコーストを生き延びた人たちから抗議が殺到した。
出品者はメンゲレ一家に近い筋の人間だといわれている。
どうやらブラジルで入手したらしい。
(訳者註〜そんなにもったいぶらなくてもいいと思う。どう考えたって・・・)