「悪魔が猶予をくれたおかげで、救われたの」
ホロコーストを生き延びたペルラ・オーヴィッツの言葉だ。

家族ともどもガス室に連行され、裸にされたときのことを、彼女は事細かに何度も話してきかせてくれた。

重いドアが開き、彼らは私たちを中に押し込んだ。
薄暗い、浴室みたいな部屋だった。
私たちはシャワーが出てこないことを不思議に思って、天井を見上げたりしていた。
そうしたらとつぜんガスの匂いがした。
息が苦しくなってきた。
何人かは気を失って倒れた。
最後の力を振り絞って私たちは叫んだ。

ドアの外からメンゲレの怒鳴り声が聞こえてきたのは、一分ぐらい経ってからか、もしかしたらほんの数秒後だったかもしれない。
「私のこびとたちはどこだ?」
ドアが開き、その向こうにメンゲレが立っているのが見えた。
私たちは外に出され、冷たい水をかけられて、ようやく生き返った。

オーヴィッツ・ファミリーはトランシルバニア、ロツァヴリア村からやってきた。
記録に残っている中では、史上最も大人数のこびと家族だ。
10人兄弟姉妹のうち7人がこびと、その中で1921年生まれのペルラはいちばん年下だった。

20世紀初め、ルーマニアの辺境地で、畑仕事や家畜の世話をして生きていくのは難しかった
身長90センチもないのでは、それこそ絶対に不可能だった。

彼らが力を合わせて生きていけるようにするにはどうしたらいいか。
社会からのけ者にされないようにするにはどうしたらいいか。
子供たちの行く末を按じた母親は、全員に共通の技術を習得させようと考えた。
女5人、男2人、揃って端正な顔立ちをしていたうえ、音楽の才に恵まれていた。
となれば、舞台活動以上にふさわしいものはない。
他では無理でも、舞台でなら、彼らも拍手喝采を浴びることができるかもしれない。

ショービジネスの歴史の中で、こびとは大体サーカスや寄席芸の脇役、賑やかし役として使われてきた。
しかしオーヴィッツ・ファミリーは、ステージの全てを自分たちで取り仕切った。
彼らのミュージカル・アンサンブルは、見た目そのままにわかりやすくリリパット・トゥループという名がつけられた。
15年もの間、リリパット・トゥループは、中欧の人気者だった。
2時間のステージの内容は、最新のヒット曲をはじめ様々な音楽、風刺ふう寸劇など、盛り沢山だった。

ペルラが弾いていたのはおもちゃのようなピンクの4弦ギター。
ロジカとフランジスカは1/4サイズのヴァイオリン。
フリーダがツィンバロムを叩き、ミッキはチェロとアコーディオンを曲にあわせて持ち替えた。
疲れを知らないエリザベスがドラムを鳴らし続けた。
長兄のエイブラムは、脚本家、俳優、マネージャーを兼ねていた。

オーヴィッツ・ファミリーは、こびともそうでない者もみんなまとまって一つ屋根の下で暮らした。
誰かが結婚すると、配偶者は、自動的にこのファミリー企業の一員として組み込まれた。
こびとたちがステージで脚光を浴びるいっぽう、カーテンの向こうでは通常の背丈の家族が裏方として活躍した。
こびとだけで構成されたアンサンブルが、ワンステージをフルに受け持ったというのは、エンターテイメントの歴史上でも他に例がない。

ナチが台頭してくると、オーヴィッツ・ファミリーは二つの意味でT-4プログラムの脅威にさらされた。
ドイツ政府は、肉体的精神的障害者を「無価値な生命」「社会の重荷」として、抹殺しようとしていた。
さらに彼らは、ユダヤ人ということで、「最終解決」のターゲットにされた。

彼らがアウシュヴィッツにやってきたのは、1944年5月19日のこと。
ユダヤ人という理由で連れて来られたのだが、何という皮肉か、肉体的障害が理由で救われた。
家族全員アウシュヴィッツに収容されたとして、一人でも生還できれば幸運とされるのに、オーヴィッツ・ファミリーは、生後18ヶ月の子供から58歳になるその叔父まで、12人の家族全員、生きて出てきたのだ。

アウシュヴィッツからの生還者の話はどれも恐ろしいものばかりだが、歴史家たちは、口述を証拠として取り上げることには慎重な態度を見せている。
証人たちの記憶は時間の経過とともに不正確になる。
事実を忘れたり、他人の経験を自分の経験と取り違えたりする。
出来事の渦中に居たために、そこで負った心の傷の詳細を伝えることが困難になっている。
決定的な出来事が忘れられ、些末な出来事が大きく取り上げられる。
羞恥心や罪悪感が伴うようなものだと、かなり重要な出来事でも忘却のかなたに追いやられることがある。

七人のこびとがアウシュヴィッツで経験した出来事を辿るにあたっても、その口から語られる内容が、別な歴史的資料と整合性が取れているかどうか、確認する必要がある。
同じ出来事に対し、他の生還者や医者たちはどう言っているか、直接話が聴けなくとも、何か資料があるならそれと突き合わせてみるべきだ。
我々は、ポーランドやドイツの医学資料まで引っ張り出している。
その一方で、自身ホロコースト生還者でもあるエウダ・バウアー教授の、こんな助言にも従った。
「生還者と議論を戦わせてはならない」

七人のこびとを含む十二人のオーヴィッツ・ファミリーは、アウシュヴィッツの駅に降り立つと、ただちに他の集団から引き離された。
「ドクターがやってくるから待っているように」
と言われた。

ドクター・メンゲレは、他の何人かのドクターと交代で、移送されてきた囚人たちの処遇を決定していた。
処遇の決定といっても、選択肢は、死刑か強制労働か、二つに一つだ。
他のドクターと違って、メンゲレにはもう一つすることがあった。
囚人の集団から、傴僂、両性具有者、巨人、こびとなど、ちょっと目を引くものをつまみ出すという作業だが、これは彼が非番の日でも別な誰かが代わりをつとめてくれた。
いってみれば巨大自動ピンセットを使っていたようなものだ。

オーヴィッツ・ファミリーが到着した晩、メンゲレはすでに眠りについていた。
降車場の兵士たちは、彼の収集熱を熟知しており、この珍種ハンターの機嫌を取りたいと考えていた。
メンゲレの「動物園」を、より賑やかにできるような獲物がいないかどうか、常に目を光らせていた。
こびとというだけでは、真夜中にメンゲレの部屋のドアをノックする理由としては不充分だが、七人となれば話は別だ。
おまけに、同じ血を引きながらこびとでない者もいる。
これではドクターを起こさないわけにはいかない。

到着した囚人たちに対して乱暴に振舞っていた兵士たちも、こびとたちには甘かった。
オーヴィッツ・ファミリーと同郷の、二つの家族が近づいてきて、自分たちも血縁があるというようなことを将校に告げた。
でたらめだったけれど、オーヴィッツ・ファミリーは口をつぐんだ。
こうして一家は22名になった。
新しい獲物を見ようと飛んできたメンゲレは、一家を前に歓喜した。
「これであと20年は研究材料に困らない」

一家は収容所内の別な場所に移され、部屋に閉じ込められ、裸にされ、そうして煙のようなものを吸い込んだ。
この出来事を、迫り来る死の記憶として刻んでいるのは、ペルラだけではない。
我々がインタビューを試みた別のグループのうち、少なくとも三名がそうだった。
さらに長女エリザベスも、回顧録の中で書いている。
ガスで殺されそうになった。 もしメンゲレがやって来なかったら私たちは死んでいた、と。

こうして我々は、「ガス室から生きて還ってきた」という五人の証言を得ることになったわけだが、これはどうやって確認したら良いのだろう。
ただ一つの方法は、ガス室と呼ばれるもののオペレーション・マニュアルにあたることだ。
ガス室というのは、どうやら500名から2000名の人間を一気に殺害できる設計になっていたらしい。
毒ガス、サイクロンBが有効に働くためには、室温は27℃前後でなくてならない。
この27℃という温度は、ぎっしりと詰め込まれた人間の体温によって、どうにか得られるものだった。
たかだか22名のためにガス室は使われない。
これだったら射殺という方法が選ばれたはずだ。

さらにSS兵作業員たちの安全のためのマニュアルというものがある。
サイクロンBを使用するさいには、ガスマスクの着用が義務づけられていた。
閉じ込められた囚人たちが死亡するまでにかかる時間は約15分。
SS兵作業員たちは通常30分待ったのち、強力な排気ファンを回してガスを室外に追い出した。
これだけのことやって初めてドアは開けられるのだ。
その先の作業はSS兵ではなく、雑役囚人に任される。
死体を引っ張り出し、焼却炉へと運搬する。
このエクスターミネーション・プロセスは、ひとたび開始されたら中断はありえない。

ペルラの語るそれは、消毒、害虫駆除のための、サウナだったのではないか。
赤熱した石に水がかけられ蒸気が発生する。
人によっては気を失う程度のところまで、室温は上昇する。
このサウナの効き目は、小さな子供やか弱いこびとたちにとっては、死の恐怖としてトラウマになるほど強烈だったのではないだろうか。

ここでメンゲレが登場してくるのはどう考えたら良いのだろう。
アウシュヴィッツにいた期間中、こびとたちは彼のことを命の恩人と考えていた。
じっさいメンゲレは、後日、彼らの命を何度か救っている。
収容所内でのギリギリの命拾いは、すべてメンゲレのおかげというような思い込みが出来上がっていったのではないだろうか。

メンゲレは、いつでも自由に扱える双子を何百組もかこっていた。
双子たちのことは手当たりしだい残酷な実験の生贄にし、死体の山を築いていった。
しかし家族としてまとまったこびとというのは、オーヴィッツ・ファミリーしかいなかった。
こびとたちは大切に扱われた。
特別な宿舎を与えられ、食事も多めに配分された。
髪を刈られることもなかった。
自分の服を着ることも許された。
ただ髪に関しては、実験に必要だっただけ、服に関しては、サイズの合う囚人服がなかっただけ、ということだろう。
元囚人の一人が、こびとたちの印象を次のように語っている。
「優雅に散歩でも楽しむように、盛装して並ぶこびとたちの姿は、幻覚としか思えなかった」

双子の研究については、ベルリンにいる恩師、オトマール・フォン・フェアシュア教授からの指示によるものだったが、メンゲレは独自の研究もおこなっていた。
さらに彼は、その研究意欲の矛先をこびとたちにも向けていた。
遺伝学、病理学的にこびとの謎を解き明かそうとしただけではなく、これを人種上の問題として大々的に示そうとした。
すなわち、「ユダヤ人は退化していくのだ、最終的にこびとや不具者の集団になるのだ」と。

オーヴィッツ・ファミリーの人たちは、研究所でおこなわれる採血がいかにつらいものだったか、我々に語ってくれた。
気を失うと水をかけられ目を覚まされた。
この時代の医学は、一に血液、二に血液、誰もがその組成解明に躍起になっていた。
血漿に遺伝情報のすべてが含まれていると、本気で信じられていた。
しかしメンゲレの華麗なサインが入った実験記録には、まともな研究の痕跡がまるでない。
腎臓、肝臓、チフス、梅毒、ありきたりな検査記録ばかりだ。

他の囚人ドクターたちの記録はさらにお粗末で、身長体重の測定記録、こびととそうでないものの比較といったようなものばかりが延々と繰り返されている。
彼らは髄液を取り出し、歯を抜き、髪や睫毛を抜き、心理テストにかけた。
結婚している4人の女性こびとには、性生活に関する質問が浴びせられた。

いっぽう十代の若い女の子たちは、こんな噂におびえていた。
こびとの男性との性交渉を強いられたうえ、新しく宿る生命がどんなものになるか、子宮の観察が行われる。
じっさいメンゲレは他の実験でこれに近いことをしたと言われている。

アウシュヴィッツの囚人たちは、自分たちの技術をいろんなところで生かそうとしていた。
理髪業の者は、一切れのパンや煙草を求めて、囚人監督の髭を剃りたがった。
針子の女性は、宿舎長の服を修繕したがった。
画家は、SS兵の肖像画を描いてソーセージの切れっ端を手に入れた。
チェスのチャンピオンは、メンゲレの相手をつとめるためにガス室行きから逃れた。


囚人監督や宿舎長が寝泊りする区画で催されていた宴会について、元囚人の歴史学者、イズラエル・ガットマンがこんなことを言っている。

会場は卑猥なジョークであふれ返っていた。
歌の上手い各国の囚人が、それぞれの国の言葉で戦前のヒット曲を歌った。
囚人監督は特に悲しいメロディーを好んだ。
いちばん喜ばれたのはやはり有名なスターで、多くの投げ銭が集まった。

自分たちはこの種の宴で舞台に上ったことはない、とペルラは言う。
彼女がおぼえているのは、1944年7月30日に行われたイベントだ。
日ごろからユダヤ教のカレンダーを注意深くチェックしていたメンゲレは、 、イスラエル最後の神殿が破壊されたこの日を冒涜すべく、はりきってオーケストラに指示を出していた。
演奏されたのは哀愁を帯びたドイツの音楽だった。
姉たちが客席で涙を流していたのを、ペルラはおぼえている。

しかし、このときステージに立った歌手のファニア・フェネロンは、自伝の中で違うことを書いている。

ショーはフォックス・トロット・ダンスで始まった。
メンゲレが指揮者のように腕を振っていた。
こびとたちもステージにいた。
他の人たちのダンスは、それはひどいものだった。
男たちが客席に向かって下品なお辞儀をすると、女たちもそれに続いた。
会場は光と音のカオスだった。
クララやロッテや私の歌に合わせてみんなも金切り声をあげた。
オーケストラの演奏が行進曲になると、みんな手拍子を打ち、足を踏み鳴らした。

荒涼とした死のキャンプでこんな狂乱イベントが催されたのだから、他の生還者たちだって記憶しているに決まっている。
アイザック・タウブは、客席の椅子を並べる双子グループのひとりだった。
ショーの間、十代の少年たちは最後部での立ち見を許された。
タウブによれば、ステージには確かにこびとたちがいたという。

しかしペルラはこれを否定する。
敬虔なユダヤ教徒から見れば、神殿破壊の日に行われたこのショーは、嫌悪の対象でしかない。
墓場で歌ったり踊ったりするのと一緒だった。
命令されて仕方なくやったことなら恥ずかしがらなくても良いというものでもない。
ショーの間も、焼却炉は止まることなく煙を吐き続けていたのだ。
ペルラはこの出来事を記憶から消し去ってしまったに違いない。

死が、アウシュヴィッツの支配者だった。
収集を待つ生ゴミのように、死体は誰もが見える戸外に積み上げられた。
前日まで埋まっていたベッドがある日突然からっぽになっても誰も驚かない。
ある日を無事に過ごした人は、次の日も何とか生きられますようにと祈りながら、見えない壁に囲われた、限られた空間を歩き回ったのだ。
じっさい収容所内での労役囚人たちの行動範囲は、それぞれの役割に応じて限定されていた。
こびとたちは特異な存在だった。
彼らは、互いに交流のない多くの囚人たちの目に触れていた。
戦後、アウシュヴィッツから生還した多くの人が、こびとたちの運命に言及している。

サラ・ノンブルク・プリツィティクは、自伝、「アウシュヴィッツ、この奇怪な王国の実話」の中で、オーヴィッツ・ファミリー中の二人の死について、こんなことを書いている。
ひとりは、メンゲレの実験の犠牲になった、生後18ヶ月の男の子だ。

小さな遺体をかこんで、いろんな人が石柱のように並んでいた。
背の高い女性もいた。
隣には今にも壊れそうな彼の母親の姿があった。
小さな椅子にかけたこびともいた。
焼却炉行きを待つ死体の山に、その晩、男の子の遺体も混ぜられた。

ノンブルク・プリツィティクは、こびとのリーダー、エイヴラム・オーヴィッツの死についても書いている。

この年長のこびとは、脱走しようとする妻を追った。
有刺鉄線をくぐり抜けるつもりらしい。
衛兵はすでに気づいていた。
充分近づいたところで、銃が火を吹いた。
けっきょく撃たれたのはエイヴラムだけだった。

男の子も、その叔父であるエイヴラムも、実際には殺されていない。
解放された日、二人とも生きた姿が確認されている。
ノンブルク・プリツィティクは一体どういうつもりこんなことを書いたのだろう。
おそらく彼女の記憶には、いろんな出来事が圧縮されたような形でごちゃ混ぜに詰め込まれていたのだ。
死んだ子供を抱く母親、射殺される脱走者。
これらはアウシュヴィッツではありふれた日常の光景だった。
それが何かのはずみでオーヴィッツ・ファミリーの記憶と重ねられてしまったのではないだろうか。

オーヴィッツ・ファミリーの死については、レネ・ファイアストンによるこんな記述もある。

こびとたちはアウシュヴィッツに移送され、射殺された。
彼らの死体は、他の死体と共に三日間放置されたのち、焼却炉に運ばれた。

事実と記憶の食い違いについて、ひとつの面白い解釈がある。
アウシュヴィッツにいた人間にとって、生還できたというのは、いってみれば奇跡だ。
か弱いこびとたちが、あの過酷な環境を生き抜けるはずはない。
他の生還者がそう考えたとしても不自然ではないだろう。
さらに、こびとたちは収容所内で何度か「引越し」をしている。
この死のキャンプで、前日まで見えていた姿が、ある日突然見えなくなれば、それが何を意味するかは考えるまでもない。

七人のこびとは他の家族ともども戦争を生き抜き、1949年、イスラエルに移住した。
舞台に復帰した彼らが、客席に向かって最後のお辞儀をしたのは1955年のことだ。

体の小ささと寿命はあまり関係ないようで、ロジカは98歳、フランジスカは91歳まで生きた。
ペルラがなくなったのは2001年9月、80歳だった。