強力なライトが、到着客の姿を明るく照らし出した。

ナチ親衛隊の兵士はわが目を疑った。
ぽろり、ぽろりと、こぼれ落ちるように、小さな体が列車から降りてくる。

全部で七人、うち五人は女性だった。
五歳児ほどの背丈もない。
しかし顔にはしっかりと化粧が施され、優美なドレスをまとっている。
まるで細密描画された人形だった。

プラットフォームの一隅で小さく円陣を組んだ七人のこびとたちは、兵士の鞭によって掃き溜められていく大群とは、距離を置こうとしているようだった。

団体行動に従うかわりに、というよりもおそらくは従わない理由として、七人のうちの男性こびとが、兵士に色紙を差し出した。
数々のショーでヨーロッパ中を沸かせた、リリパット(こびと)一座のサイン入り色紙だ。
しかし兵士にしてみれば、「それがどうした」と言うほかない話だった。

三日間の長旅を共にした他の多くの乗客と同様、こびとたちも、ここが悪名高いナチの最終キャンプ、アウシュヴィッツだとは気づいていなかった。

将校がやってきて、この小さな七人の兄弟姉妹が、全員オーヴィッツ・ファミリーの者であることを確認した。
「ドクターを起こして来い」

1944年5月19日、まもなく日付も変わろうかという時刻のこと。

ドクター・メンゲレはすでに眠りについていた。
両性具有者や巨人など、珍種のコレクションに情熱を注ぐメンゲレに協力するのが、兵士たちの重要な仕事になっていた。

こびとというだけならドクターの眠りを妨げる理由としては不充分だったかもしれない。
しかし一人ならともかくも家族だ。
七人だ。
まるでお伽噺だ。

メンゲレを呼びに向かわせた将校の判断は、間違っていなかった。
獲物の最新ニュースに、三十四歳のハンサムなドクターは飛び起きた。

いっぽうこびとたちは、自分たちの叔父や叔母、従兄弟、友人が、他の到着客に混じって行進するのをじっと見つめていた。
彼らが行進するその先では、二本の煙突が休みなく煙と炎を吐き出していた。

「あれはパン屋さんかしら」

いちばん若いこびと、23歳のペルラが言った。
それに答えたのは、同じ列車に乗ってきたユダヤ人だ。

「パン屋ではありません。ここはアウシュヴィッツです。みんなあっという間に殺されてあそこで焼かれるのです」

ペルラは回想する。

とつぜん、炎のひとつひとつが人間のかたちに見えだした。
空に向かって蒸発していくような気がした。
ぼんやりしていく意識の中で、これからやってくるドクターという人のことを想像した。
ここが墓場だとして、墓場にいるドクターというのは、そもそも何をする人なのか。

実際に問われたとしたら、メンゲレは、将来学会をあっといわせる重要な遺伝の研究をしていると答えたに違いない。

何しろしろことは重要な研究、相手は無限に供給される検体だ。
苦しもうが死のうが知ったことではない。
冷酷さにおいて、メンゲレは他のキャンプ・ドクターとは確実に一線を画していた。

彼の初仕事は、女性囚人棟に蔓延していたチフスの退治だった。
このときメンゲレは、一棟分まるごと498人の女性囚人をガス室送りにした。

研究用の眼球サンプルがほしくてジプシーの家族を皆殺しにしたこともある。

しかしそんな裏の顔を知らないオーヴィッツ・ファミリーにしてみれば、メンゲレは最後の希望だった。
彼に見放されたらきっとオーブンで焼かれてしまうのだ。
メンゲレがやって来ると、こびとたちは彼を取り囲み、数々の質問に、得意のコーラスで一生懸命こたえた。

こびとたちの語るオーヴィッツ・ファミリーの歴史は、メンゲレの好奇心を刺激した。

こびとのユダヤ教司祭、シムソン・エジクの、二度の結婚相手は、ともに通常の体格の女性だったという。
二人が産んだ十人の子供のうち、七人がこびとで他の三人は人並みの背丈だった。

「これであと20年は研究材料に困らない」
メンゲレは嬉しそうに叫んだ。

さらに彼は、将校にこんなことをささやいた。
七人のこびとはもちろんのこと、その家族親戚全員、ガス室おくりから除外。
さらにオーヴィッツ一家の雑用係や近所の人間で、血縁がある者も除外。
計22名の命がひとまず救われた。

到着から三時間が経過した時点で、3500名のうち100名がすでに殺されていた。
メンゲレの質問から解放されたこびとたちは、トラックにのせられ宿舎へと移送された。


これは第二次大戦の最も驚くべき生還物語ひとつだ。
ただ何十年も前の話で、発表に至るには広汎な調査を必要とした。
ペルラ・オーヴィッツほか何人もの生還者から話をきいた。


収容所内の囚人は、通常丸刈りにされるのだが、こびとたちはそれを免れている。
衣類の所有も許された。
日常生活では、小さな体だと難しいことがたくさんある。
ベッドも二段目、三段目となると上ることさえ出来ない。
そういったことは、一家の雑用係サイモン・スロモヴィッツにまかされた。

食事は他の囚人と同じような水っぽいスープだが、はるかに清潔で、食べる場所も区別されていた。

通常の便器が使えないので赤ん坊用のそれが与えられた。
毎朝の洗顔のためのアルミ・ボウルも用意された。
こびとたちの衛生環境保持に、メンゲレは特に気を配った。

メンゲレは、収容所内のエンターテイナーとして自分たちを舞台に上げたいと考えているのではないか。
こびとたちはそんなことを想像していた。
何しろ彼らは1930年代からヨーロッパ中の人を楽しませてきたのだ。
ブカレストでは国王カロル2世の前で芸を披露した。

そんなリリパット一座の興行を中止に追い込んだのは、ナチのユダヤ人締め出し法だった。
さらに一家は故郷のロツァヴリア村からも追い出されてしまった。

この先ユダヤ人に対する迫害はますます厳しくなる。
彼らはそう考えた。
故郷を出る前、穴を掘って全財産をそこに埋めた。
スーツケースに衣装を詰め、ポケットに化粧品を詰め、そうして彼らは出発した。


囚人宿舎からメンゲレの研究所に出かける日になると、こびとの女性たちは念入りに化粧をし、いちばん華やかなドレスを着た。
こびとたちを引率するやせ衰えた一般労役囚人からすれば、その姿は幻覚としか思えなかった。

白衣の男たちが出入りする研究所は、少なくとも見かけはどうということもないものだった。
はじめに行われるのは採血。
これで命が救われるなら安いものだ。

しかし採血は繰り返し行われた。
それも毎週。
合わせてX線が何度も何度も照射された。

「採られた血は全部合わせるとどれぐらいになるのか、見当もつかないわ。空腹で倒れることもあった」

ペルラは思い出す。

「気を失って倒れてもメンゲレは止めなかった。目を覚ますのを待ってまた搾り出しにかかるの」

「いい加減な針の刺し方をして血を無駄にしたこともある。気分が悪くなって吐いたことも一度や二度じゃない。宿舎に帰るともうベッドに倒れ込むしかなかった。そうして体力が戻らないうちに、もう次の週がやってくるの」

メンゲレは自分が何を求めているのか分かっていなかったのではないか。
こびとの遺伝の謎を解くために、何か意義のある研究がなされた形跡はない。
腎臓に問題はないか、肝臓の機能はどうか、チフスに感染してはいないか。
残された検査記録はそんなありきたりのものばかりだ。

知能検査のために、精神科医からは質問攻めにされた。
梅毒検査も受けた。
熱湯と冷水を交互に耳に入れるという意図不明な実験も行われている。

ペルラによれば、この水攻めは特につらいもので、気が狂いそうだったという。
さらに呆れたことに、ドクターたちは、健康な歯を抜いたり睫毛を抜いたりと、もはや虐待としかいいようのない行為に及ぶようになっていた。

最年長の男性こびとエイヴラムの妻、ドーラは、通常の体格だったために別な嫌がらせを受けている。
性生活に関するメンゲレの質問はしだいにエスカレートし、その表情はもはや医者のものではなかったという。

リリパットたちより三ヶ月ほどあとに、二人の男性こびとが到着した。
この二人の身に起こった出来事が、リリパットたちを震え上がらせた。

ベルリンの博物館に彼らの骨格標本を送ることが決定されたのだ。
殺された二人の体は、肉が骨から離れるまで煮続けられたという。

この出来栄えに満足したメンゲレは、自分の部屋に飾る骨格標本がほしくなった。
別なもう一人を殺し、その体をこんどは強酸に浸した。

「恐ろしくて宿舎から一歩も出られなくなってしまった」とペルラ。

「私たちの骸骨がベルリンでさらしものになるなんて、想像したくもなかった」

彼らが生き残ることが出来たのは、ひとえにこの悪魔のドクターの気まぐれによる。
リリパットたちが寝泊りする棟の一斉ガス室おくりが決定されたとき、メンゲレは彼らを別な棟に移している。

リリパットたちは、メンゲレの前ではつとめて陽気にふるまうようにしていた。
メンゲレのことを「閣下」と呼び、彼の好きな歌をうたって聴かせた。

七人のこびとに対するメンゲレの態度は温和で如才がなかった。
こびとたちの姿を賛美することもたびたびだった。
「きょうはまた一段と綺麗じゃないか」
フリーダに対してはよくそんなことを言っていた。
こびとたちのなかで彼女はいちばんの美人だった。

フリーダもそれに合わせて答えた。
「閣下がおいでになると分かっておりましたので、失礼にあたらぬよう特に念を入れて化粧をいたしました」

フリーダがたまに手抜きの化粧をしていたりすると、メンゲレは心配そうにたずねた。
「きょうはブルーな気分なのかな。綺麗な口紅をつかえば気分も晴れるのに」

メンゲレは、よく子供たちにキャンディやおもちゃをプレゼントしていた。
オーヴィッツ十人兄弟姉妹のうち、こびとではない長身の姉、リーには、生後十八ヶ月になる息子がいた。
その息子シムソンもまた、メンゲレがたびたびプレゼントを渡していた相手だったが、彼は栄養不良と劣悪な環境のおかげで、泣きもしない言葉も発しない子供だった。

あるとき、シムソンはメンゲレのほうに向かってヨチヨチ歩きを始めた。
「ダディ、ダディ」

その言葉に、メンゲレはやさしく微笑んだ。
「お父さんじゃない、メンゲレおじさんだ」

悪魔の魅力、と、ペルラは呼ぶ。

「ドクター・メンゲレは映画スターのようだったわ。ただハンサムという以上の何かがあった。みんなあっという間に好きになってしまうの。あの美しい顔の裏に獣が隠れているなんて、誰も想像もしなかった」

「でも私たちは知っていた。冷酷でどんな惨いことでもやってのける男だということ、怒れば気が狂ったような叫び声をあげる男だということを」

「ただ、どんなに機嫌が悪いときでも、私たちの宿舎に一歩足を踏み入れると、とたんに穏やかになるの」

「メンゲレの機嫌がいいと、他の人たちはよく囁き合ったわ。あの小っちゃな人たちに会ってきたんだろうって」

ある日の夕暮れ、メンゲレは封筒を小脇にかかえて、こびとたちの宿舎を訪ねた。

明日すばらしいところへ連れて行ってあげる、とメンゲレは言った。
リリパットたちの顔がいっせいに蒼褪めたが、彼はおかまいなしという感じでにっこりと笑顔を見せ、話を続けた。

明日は頑張ってもらわなくてはならない。
偉い人たちがやってくるんだ。
その人たちの前で、舞台に上がってもらいたい。

メンゲレは封筒を置いて去っていった。
五人の女性はそれを開封して歓声を上げた。
出てきたのは、パウダーコンパクト、口紅、マニキュア、香水、ターコイズブルーとグリーンのアイシャドウだった。

9月1日、金曜日の明け方、女性たちはドレスに身を覆い、舞台仕様の重ね塗りで完璧な化粧を済ませた。
巡業していた頃の華やいだ気分を取り戻した彼女たちは、大はしゃぎで迎えのトラックに乗り込んだ。

トラックはSS兵住居区画の大きな新築のビルに直行した。
彼女たちは芝生の上におろされ、そこで食事が振舞われた。
陶器の皿、銀のナイフとフォークで供されたその食事は、中身も量もすばらしいものだった。

リリパットたちはそれから建物内のステージに招き入れられた。
客席を埋めていたのはSS高官たちで、メンゲレがステージ上の最前部に立っていた。
いまから何をすればいいのか。
彼女たちがメンゲレの背中に恐る恐る視線を送ると、彼は突然向き直り、鋭い口調で言った。

「脱げ!」

しばし茫然自失。
それから彼女たちは、震える手でボタンをはずにかかった。
すべての覆いを取り外したところで、彼女たちは身を屈め、胸と股間を隠した。

「直立!」

メンゲレが叫んだ。

彼は聴衆に向け、「研究成果一例」というタイトルで講義を始めた。

震えるこびとたちの体のあちこちを、ビリヤードのキューで突付きながら、それぞれの部位について解説した。

ユダヤ人は、こんなふうにこびとや不具者という形に退化していくのだと、メンゲレは結論付けたいらしかった。
研究としては何一つ具体的な成果が出なかったため、こびとたちの裸体のインパクトに頼ったのだ。

講義が終わると、聴衆は拍手と共に立ち上がり、ステージに殺到した。
取り囲まれ、指で突付かれるのを、こびとたちはじっと我慢した。

聴衆が去り一段落したところで、冷たい飲み物を出されたが、こびとたちは口をつけなかった。

宿舎に戻るまで、誰も一言も口をきかなかった。
顔をあわせた囚人仲間から、「ガス室から生きて還ってきたのか?」と言われた。

そんなことがあってからも、メンゲレはリリパットたちを守り続けた。
SS高官たちを相手にしたメンゲレの「大成功」を嫉妬した別のドクターが、エイヴラムとミッキのリリパット兄弟をひそかにガス室おくりにしようと企んだときも、彼はこれを阻止した。

メンゲレが休暇をとってしばらく姿を見せなかったとき、こびとたちが不安や恐怖を感じたというのは、不思議といったらいいのか皮肉といったらいいのか。
彼が戻ってきたとき、フリーダは精一杯の猫なで声で言った。

「質問をお許しください、閣下。私たちは、いつ家に戻れるのでしょう?」

メンゲレは眉をひそめた。

「どういうことだい、マイ・ラヴ。僕だって好きでこんなところにいるんじゃない。命令で仕方なくいるだけだ。不満を言うものじゃない」

最後の日はすぐにやってきた。
それはいつかといえば1945年1月。
ソヴィエト軍の接近を知ったメンゲレは、すべての研究レポートを持ってアウシュヴィッツから消えた。

七ヵ月後、オーヴィッツ・ファミリーは故郷の村に戻った。
埋めておいた金や宝石はすべて無事だった。
しかしロツァヴリア村が元の姿に戻るとはとても考えられなかった。
650人いたユダヤ人のうち、帰還したのはたった50人だった。

1949年、一家はイスラエルに移住した。
そこで数年間、体力の続く限りステージ活動を続けた。

ペルラの口からこの驚くべきアウシュヴィッツの経験が語られた頃には、一家のほかの人たちはすべて亡くなっていた。

南米に逃れたメンゲレは、裁きを受けないまま、1979年に事故死していた。
もし捕まったとしても、メンゲレが自分たちに謝罪するとは思えない、とペルラは言った。

「彼を死刑にするべきか、もし裁判官から問われたら、私は首を振ると思う」

「私たちは悪魔に救われたの。彼が一時の思いつきで与えてくれた猶予期間のおかげで、何とか生き延びることが出来たのよ。彼がどう償うべきかは神様が決めること」

2001年9月9日、ペルラは幸福な80年の生涯を終えた。