死の天使、ヨーゼフ・メンゲレ。
ポーランドにあるナチ強制収容所、アウシュヴィッツで、極悪非道の限りを尽くした男だ。
最優等民族国家完成に向けて、遺伝子操作技術を探求するナチの医師として、数々の残酷な実験を行った。
人間をモルモット同様にあつかうそれらの実験は、主に双子を相手に行われた。
さらに彼は、アウシュヴィッツに到着する囚人の選別仕分け役としても知られている。
使い道がありそうだったら生かす、そうでなければ処刑。
この決定権は彼の手に握られていた。
第二次大戦後は逃亡生活に入る。
終戦から34年間、1979年に死ぬまで、彼はついに捕まらなかった。
その死が明らかになったのは1985年のこと。
彼の墓がブラジルにあることを示す文書が、バヴァリアで発見された。

メンゲレの日記、通信記録、生き残った友人や家族へのインタビューをもとに、一冊の本が書かれた。
彼がいかに連合軍の手から逃れたか、いかにその後の追跡から逃れたかが詳細に記されている。
以下の記事は、同じ著者によるものだ。


(訳者註〜どうでもいいけど、メンゲレ一家には同じファーストネームの人間が複数いる。ヨーゼフの父親の名はカール、末の弟の名もカール。これを「カール・シニア」、「カール・ジュニア」とか、お手軽に分ければ済むと思っているのは、あっちの人間だけで、こっちにしてみりゃ、そんなことするなら名前変えろよと言いたくなる。さらにカール・ジュニアの息子の名は、「カール・ハインツ」ときたもんだ。もう勘弁してくださいよ)


ソ連軍の進撃に先立つこと10日。
アウシュヴィッツを出たメンゲレや他のキャンプ・ドクターたちは、西に向かうドイツの敗走兵と合流した。

1945年1月27日午後3時、ソ連の精鋭部隊はアウシュヴィッツの門を突破。
ソ連兵が死体の山に唖然としていたころ、メンゲレたちは、北西200kmのところにある別の収容所に到着していた。

シレジアのグロス・ローゼン・キャンプでは、1942年から捕虜を相手に細菌実験が行われていた。
非常時ではあったけれど、このグロス・ローゼン行きは、メンゲレにとっても他のアウシュヴィッツ・ドクターにとっても、職務であり正式な配属だった。
断末魔にあっても、SSは殺人システムの正常稼動を目指していたのだ。

しかしグロス・ローゼンも長居できる状態ではなかった。
メンゲレがここを出たのは2月18日、ソ連軍がやって来たのは8日後のことだった。

メンゲレがグロス・ローゼン・キャンプを出たころ、彼のアウシュヴィッツ配属を後押しした人物が、証拠隠滅に向けて動き始めていた。

オトマール・フォン・フェアシュア教授は、1937年以来のメンゲレの恩師であり友人でもあった。
彼はベルリンの研究所からトラック2台分の資料を持ち出した。
そのさい、アウシュヴィッツのメンゲレから送られてきた文書は残らず破棄した。

メンゲレは西へ西へと逃亡を続け、撤退するドイツ正規軍の兵士たちと合流した。
SSの制服から正規軍の制服に着替え、2ヶ月ほど、彼らと共にチェコ・スロヴァキア中央部にとどまりながら、ソ連軍が諦めるか弱体化するのを待った。
しかし赤軍の進撃はとどまるところを知らず、さらに西へと移動しなくてはらなかった。
その後、正確な日付は不明だけれど、遅くとも5月2日までには、ズデーテン地方でドイツ陸軍病院部隊に合流している。
ここで主任医官を勤めていたのは、旧友、ハンス・オットー・ケラーだった。

ケラーとメンゲレは、戦前、フランクフルトにあるフォン・フェアシュアの研究所で双子の研究をしていた。
8分の1ながらユダヤ人の血を引くケラーは、ナチには入党していない。
ケラーの仕事ぶりに感服していたフォン・フェアシュアは、ナチの圧力から彼の地位を守ってやった。
師を同じくする二人の間に築かれた友情が、このときのメンゲレを救った。

ケラーは、メンゲレがSS隊員であることをすでに知っており、正規軍の制服を着用している不自然さにも気づいていたが、何もいわなかった。
ケラーの中では、このメンゲレとの再会と、5月2日にラジオで報じられたヒトラー自殺が、同じ重みで記憶されている。
「メンゲレはひどく取り乱していた。ヒトラーの死を信じたくない様子だった」

その晩、メンゲレはケラーに相談事を持ちかけている。
「この病院部隊で働けないか。内科医として役に立てると思う」

ここでメンゲレはひとりの若い看護婦と親しくなっている。
彼女はメンゲレの手記の中でも触れられておらず、名前はわかっていない。
メンゲレは彼女のことを信用していたようだ。
この場所も安全ではなくなり、病院部隊ともども、さらに西に向けて出発となったとき、メンゲレは最悪の場合を想定して、アウシュヴィッツの研究ノートを彼女に託している。
連合軍に捕まり、ノートが相手方に渡れば、それはそのままキャンプ・ドクターとしての彼の身分証明になってしまう。
同じ捕虜になるにしても、女性なら持ち物検査も甘いだろうと考えた。

カールスバート街道を北西に進み、追ってくるソ連軍の目と鼻の先で寝泊りした。
1945年5月8日、ドイツが無条件降伏したその日の晩、メンゲレたちは、チェコ・スロヴァキアから東ドイツのザクセン地方に入った。
すぐ先には細長い緩衝地帯がある。
アメリカとソ連の間で非公式に浸入禁止を取り決めた一帯だ。
40キロにも満たない距離が、連合軍を分断していた。
いっぽう、ここになだれ込んだ15000人のドイツ兵は、籠の鳥としかいいようのない状態となった。

チェコ・スロヴァキアから緩衝地帯に向かう混乱の中で、一行はいくつかの小部隊に分かれていた。
緩衝地帯の森の中に腰を落ち着けたところで、メンゲレは、ケラーと離れ離れになってしまったことを知った。

ケラーのいないこの新しい部隊で、メンゲレはSS兵としての身分が発覚するのを恐れ続けた。

ドクター・フリッツ・ウルマンは、メンゲレのことを、変装したSS兵ではないかと疑っていた。
後日、メンゲレの逃亡を助けることになるウルマンは、このときすでに、彼の滑稽とさえいえる言動に気づいていた。
部隊は毎朝一人ひとりから名前をきき出し、脱落者がいないことを確認していた。
ウルマンによれば、メンゲレは毎回違う名前を口にしていたという。

前日言った名前すら思い出せない様子だった。
4つ、5つ程度の名前を使っていたのではないだろうか。
これはどう考えたって怪しい。
私はSS兵だと確信した。

森の中にいた6週間、メンゲレはこれで無理やり押し通した。
6月15日、アメリカ軍はついに緩衝地帯に突入し、10,000人のドイツ兵を捕虜にした。
しかしメンゲレは逃れた。
部隊とともにひたすら逃げ続けた。
そのときのことをメンゲレは日記に記している。

食料は乏しくなる一方、ソ連がこの一帯を支配するというような噂も立ち始めた。
私たちは行動に移る決心をした。
数台の車両を先頭に隊列を組み、何くわぬ顔でアメリカ軍の横を行進しながらすりぬけた。
道路にはいくつも関門が設けられていたが、すべて同じ方法で通り抜け、どうにかバヴァリア地方に辿り着いた。

しかしここまでだった。
アメリカ軍の支配はドイツ全土におよんでいた。
メンゲレ自身の記録によれば、彼らの部隊はホーフの近くで捕らえられた。
アメリカ軍のキャンプに入れられたメンゲレは、そこでケラーと再会することになる。
彼もまた同日、同じエリアで捕らえられたのだった。

メンゲレがアウシュヴィッツ・ノートを託した看護婦も、アメリカ軍に捕らえられていたが、彼女はわずか数時間で釈放されている。

メンゲレは、アメリカ軍のキャンプに何という名前で登録したのか。
ドクター・ケラーとドクター・ウルマンの記憶は食い違っている。
ここで偽名を使うのはよくないと、ケラーはメンゲレに言ったらしい。
理由は何であれ、メンゲレが本名で登録したことは間違いなさそうだ。

アメリカ軍は、メンゲレがSSのメンバーだとは気づいていなかった。
戦地での非常時に備えて腰に血液型の刺青をするというSSの規則に、メンゲレが従っていなかったせいだ。
SSのメンバーでなければ特に注意を払う必要はないと、アメリカ軍は考えていた。

自分がどれだけ幸運だったか、メンゲレは理解していなかったはずだ。
捕まる2ヶ月前、1945年4月の時点で、彼はすでに主要戦犯として名が知られていた。
運良くアウシュヴィッツから生きて出た人たちが、ヨーロッパ各国で、その悪魔の所業を触れ回っていたからだ。
さらに彼は、連合国側の戦犯リストにもその名が記されていた。
ただ連合国側も混乱しており、手配リストのうち誰と誰がキャンプ医官かというようなことは、1945年の夏まで、完全には整理されていなかった。

(訳者註〜誰がキャンプ医官か整理されていなかったなんて、この場合はどうでもいいことだと思う。問題は、捕虜リストと戦犯リストをしらみつぶしに突き合わせれば答は出たはずなのに、アメリカ軍がそれをしなかったということではないだろうか。ただ、捕虜リストが10000名だとして、戦犯リストが1000名だとして、それをしらみつぶしに突き合わせるというのは、コンピュータなしできっついかもしれない。「とりあえず元ナチだけさがせ、腰に刺青のあるやつが元ナチだ、そいつの名前が戦犯リストにあるかどうか調べろ」みたいな調子だったんだろう)

アメリカ軍の雑な処理に気づいていなかったメンゲレは、自分の正体など遅かれ早かれ割れてしまうだろうと落ち込み、極度の鬱状態に陥ってしまった。
ドクター・ケラーは、神経科医であるドクター・ウルマンに、何とかしてやれないものかと相談した。
アウシュヴィッツのドクターが戦後のドイツを生き延びるためには、しっかりした偽名が必要だろうと、ウルマンは考えた。
自分の名前で、アメリカ軍に身分証の再発行を申請、入手した2枚目をメンゲレに譲渡した。

(訳者註〜この身分証が役に立つのはずっと後のこと。この時点でそんなものを用意してやっても、メンゲレの欝状態は治らないような気がする。まあ未来に向かって頑張ろうぜと、多少の激励効果が期待できる程度じゃなかろうか。ついでにいうと、ケラーとウルマンの記憶が一致しないというのは、このあたりの事情が絡んでいると思われ)

1945年8月、メンゲレは釈放された。
後から考えればこれは永遠の解放、さらに、その時点で彼が考えていたより、はるかに幸運な解放だった。
アメリカ軍のキャンプを出たメンゲレは、故郷ギュンツブルク、ドナウワース近くの町まで歩いていくことに決めた。
学生時代の友人、アルベルト・ミラーに会いたかった。
かつて安らぎの場所だったミラーの家に向かって、メンゲレは何日も歩き続けた。

ミラーの妻はメンゲレが訪ねて来たときのことをよく覚えている。

ドアを開けると、そこに兵士姿の男が立っていた。
「こんにちわ。メンゲレといいます」
しばらくすると夫が帰宅して、一緒に夕食をとった。
メンゲレがこんなことを言っていたのもおぼえている。
「私に関するどんな噂も信用しないでほしい。ぜんぶ嘘だ」

さらにメンゲレは、自分が無事であることを家族に伝えて欲しいと、ミラーに頼んだ。

「家にはすでに連合軍の手が回っている恐れがあるので、直接連絡を取るのは難しい。私は無実だけれど危険は冒したくはない」

しかし何もできないうちにミラー自身が逮捕されてしまった。
9月初め、メンゲレが到着したその晩のことだ。
ミラーもまたナチ党員だった。
戦時中果たした役割について取り調べたいとアメリカ兵は言った。
ミラーが玄関から連れ去られたそのとき、メンゲレはすぐ裏の部屋に隠れていた。

ミラーの逮捕に恐れをなしたメンゲレは、真夜中のうちに家を出た。
アウシュヴィッツ・ノートを託した看護婦に会うべく、ソ連占領下の地域に向けて危険な旅を始めた。
ゲラ(現在ドイツ)まで、それは3週間以上を要する長旅だった。
いっぽうミラー夫人は、ギュンツブルクに住むメンゲレの弟、カール・ジュニアに連絡を取り、彼が無事であることを伝えた。
この知らせはさらに、カール・ジュニアから、メンゲレの妻イレーネほか家族全員に伝えられた。

解放されて最初に接触したのが、ギュンツブルクエリアに住むミラー家だったというのは、メンゲレにとって幸いだった。
家族に無事を知らせてくれたというだけではない。
メンゲレの帰郷を、アメリカ軍に秘密しておいてくれた。
ミラー家のこの好意は、ギュンツブルク全体の雰囲気を代表していた。
ここは、ナチ台頭以降、309世帯のユダヤ人を追い出した地域だった。
メンゲレを悪人とする噂はぜんぶ嘘であり、BBC放送がナチの極悪非道ぶりをドイツじゅうに伝えているのは、思い上がった戦勝国が敗戦国をなぶりものにしているだけだと、住人たちは考えていた。

戦犯追跡頓挫で泥沼にはまっていたアメリカ軍を尻目に、メンゲレは大切なノートや実験資料を取り戻し、ミュンヘンに向かった。
ミュンヘンでは、口の堅い友人のアパートに数週間滞在した。
どうにか体力も戻ったころ、次なる自由獲得の機会が訪れた。
これに協力したのは、ドクター・ウルマンの義弟、メンゲレの手記の中では「ヴィーラント」というコードネームで記されている人物だ。
計画はきわめて単純だった。
戦争による若年層人口減という事情もあって、ドイツ国内の農地の多くは打ち捨てられた状態になっていた。
ローゼンハイム南部のそういった地域で、人手を求めていそうな農家を探してはどうか、というのがヴィーラントの提案だった。

新しい生活を始めるには、役所に居住申請をしなくてはならない。
そのさい必要になるのが、アメリカ軍から発行された身分証だ。
メンゲレは用心のために身分証の複製をつくった。
二枚目については、名前を、「フリッツ・ウルマン」から「フリッツ・ホルマン」に、書き換えておいた。
Uに縦線を少し足してHとし、隙間にoとlを押し込んだだけの、単純な細工だ(Fritz Ulmann → Fritz Hollmann)
メンゲレとしては、役所への登録を「ウルマン」の名ではしたくなかった。
この先、アメリカ軍が捕虜名簿の一人一人について、追跡調査をしないとも限らない。
捕虜キャンプにいた「フリッツ・ウルマン」の追跡調査が行われたとして、結果、二人の人物に突き当たってしまうようなことになっては、ウルマン本人にも迷惑がかかるし、自分も面倒に巻き込まれる。
「ホルマン」にしておけば、少なくとも捕虜名簿追跡の網にはかからないとメンゲレは考えた。

ローゼンハイムでの職探しはさほど難しくもなかった。
最初の2軒には断られたが、3軒目、ゲオルク・フィッシャーとマリア・フィシャー夫婦が営む農場で、あっさり採用決定。
1945年10月30日から、週10マルクの契約で働き始めた。
ジャガイモと小麦の栽培、十数頭の乳牛の世話といったあたりが、フィッシャー農場の主な仕事だった。
寝泊りする場所としては、3m X 4.5m 程度の、ベッドとカップボード以外何もない、殺風景な部屋をあてがわれた。

これほど一生懸命働いた時期というのは、彼の人生の中でもそうそうないかもしれない。
6時に起床して、最初の仕事が馬小屋の掃除、7時にみんなと一緒に朝食。

「力持ちで機転のきく男だった」とマリア・フィッシャーは言う。「ただミルクの絞り方は知らなかったみたい」

「フリッツ」は畑でも働いた。
ジャガイモを掘り起こし、丁寧に選り分けて裏庭に運んだ。
森でも働いた。
伐採をし、枝払いをした。
さらに干草を切りそろえて積み上げた。
要するに彼は何でもやった。
とても親切で、誰と喧嘩することもなく、いつも温和だった。

フィッシャー・ファミリーは素朴な農民だったが、この住み込み雇い人が過去を隠していることには薄々勘付いていた。
洗練されたバヴァリアのアクセントといい、綺麗な手といい、どう見ても力仕事を経験してきた人間のものではない。
ゲオルクの弟、アロイスは、指名手配中のナチ戦犯ではないかと言った。

「戦後の隠れ場所としてうちを選んだだけじゃないのか。あれは叩けば埃の出る男だ。間違いなく元ナチだ。それも高い地位にあった人間だ」

とはいえ、「フリッツ」の過去などフィッシャー・ファミリーにとってはどうでもいいことだった。

アウシュヴィッツで人間の生死を選り分けていた男が、ジャガイモを選り分けている。
落ちぶれたといえば落ちぶれたものだが、かわりに自由を得た。
ときどき、近くに住む医者仲間のヴィーラントに会いに行くことで、メンゲレは前向きな気持ちを持ち続けることができた。
さらにメンゲレの家族、彼の無実を信じてくれている家族が、ローゼンハイムまで会いに来てくれたことで、生きる意欲はいっそう高まった。
イレーネにしてみれば戦犯の夫に会いに行くというのはかなり危険な賭けだったはずだ。
もしかしたら尾行がついていたかもしれない。
それでも彼女は会いに行きたかった。

ローゼンハイム入りしてから一年も経つとメンゲレも気が緩み始めた。
1946年末、アメリカ軍もそろそろ自分のことなど忘れたのではないかと考え、イレーネと2歳になる息子ロルフに会うため、自分からオーテンリートに出かけて行った。

この旅行で"Fritz Ulmann"の身分証を使ったことに、ヴィーラントは激怒した。
「義兄の身に危険が及ぶとは考えなかったのか?」
これにメンゲレも怒りで答えた。
ポケットから"Fritz Ulmann"の身分証を取り出し、ヴィーラントの目の前で破り捨てた。
「これで満足か?」
しかしこの逆上は、メンゲレにとって高くついた。
破り捨てたのは本物の身分証だ。
この先、頼れるのは偽物の一枚だけというのは、あまりにも心細い話だった。

メンゲレは、アウシュヴィッツでの行為を正当化できるつもりでいたようだが、家族はもっと現実的な考え方をしていた。
逮捕はすなわち処刑を意味すると知っていた。
他のアウシュヴィッツ・キャンプ・ドクターが有罪ならヨーゼフだって有罪に決まっている。
そこで家族は一致団結、ヨーゼフ・メンゲレは死んだと思わせる作戦に出た。
この時期のアメリカ軍が混乱状態だったことにも助けられ、家族の努力は報われた。
戦犯ヨーゼフ・メンゲレの捜索は、早々に打ち切られた。

フィッシャー農場にいた時期、メンゲレを最も震え上がらせた人物は、アメリカ兵ではなく、他意のない住民調査のためにたまたまやって来た二人のドイツ人警官だった。
1946年のこと。
それは胸が張り裂けるような真正面対峙だった。
手記の中で、メンゲレは自分のことを「アンドレア」というコードネームで、第三者ふうに記述している。

サイドカー付のバイクで二人のドイツ人警官が農場にやってきた。
「戦時中の捕虜で解放された者がいると思う」
警官はそう切り出してきた。
「話がしたい」
「私がそうですが」とアンドレア。「何か?」
この言葉に対し警官は、アメリカ軍が発行した身分証の提示を求めてきた。
自分の部屋から取ってきた身分証を、警官の一人に差し出した。
それを確認する警官の態度に、アンドレアの緊張は一気に緩んだ。
警官はすぐに身分証を返してきた。
英語で書かれたもの、アメリカ軍のスタンプが押されたものに対し、この時期のドイツの官憲がいかに弱かったか、あらためて思い知らされる一件だった。

メンゲレは、1948年の秋ごろにはすでにドイツを出て新しい生活を始める決心を固めていたようだ。
安住の地としては、アルゼンチンを考えていた。
ナチズムに対する風当たりは穏やかな国だ。
農機具工場を経営する彼の父親は、アルゼンチンにビジネス上の拠点を持っていたわけではないけれど、利用可能な多少のコネクションがあった。

息子、ロルフ・メンゲレによれば、1948年の終わりごろギュンツブルクに戻ってきた父は、それから1949年の春まで、家の近くの森で暮らしたらしい。
ただ、この頃のヨーゼフ・メンゲレは、ロルフにとって父ではなく、「フリッツおじさん」だった。

「アルゼンチンで生活の基盤が出来たら、ロルフを連れて来ないか。あっちで一緒に暮らそう」
このメンゲレの申し出を、イレーネは断った。

逃亡の手配は、ギュンツブルク地域のナチ連絡網を通して、家族がおこなった。

旅はインスブルック行きの列車から始まった。
車中、どこから来たのかと乗務員にたずねられたメンゲレは、逆方向の、イタリアの地名を答えた。
「ブレッサノーネ」をわざわざドイツ語に直して、「ブリクセン」と言った。
特に怪しまれることもなく、身分証の提示も求められなかった。

(訳者註〜何だかわからないけど、これは、「アルプスを巨大な壁と感じるのは逃亡者だけ」みたいな意味なのか?「自分はドイツ人だけれどイタリアとはしょっちゅう行き来している。アルプス越えなんて日課みたいなもの。逃亡者なんて疑ってもらっちゃ困る」みたいなことが言いたかったのか?)

インスブルックで乗り換え、ブレンナー峠の麓にあるシュタイナハで宿をとった。
4月17日、イースター・サンデーのことだ。

この旅では、メンゲレを助ける謎の人物が数名登場するが、手記の中ではやはり全員コードネームで記されている。
その一人目が登場するのが、イタリア国境まで数百メートルの、ここシュタイナハだ。

翌朝、早起きをしたメンゲレは、謎のガイドに導かれブレンナー峠に向かった。
危険といわれていたアルプス越えだが、済んでしまえばあっけないものだった。
峠越えは1時間もかからなかった。
イタリア側に足を踏み入れると、次に向かった先は鉄道駅。
構内のレストランで時間をつぶし、5:45発のヴィピテーノ行きに乗り込んだ。

"Fritz Hollmann"の名で、ヴィピテーノの町のホテルが予約されているはずだった。
そのホテル、"Golden Cross Inn"に到着すると、一人のイタリア人が近づいてきた。
コードネーム「ニーノ」として記されている男だ。

「ローズマリー」という合言葉で、メンゲレは相手を確認した。

まずメンゲレが一枚の写真を差し出した。
するとニーノからメンゲレに、ドイツ人IDカードが渡された。

この"Golden Cross Inn"で、メンゲレは、「エルヴィン」という二人目の人物に会うことになる。
エルヴィンは、故郷の父親からの手紙を携えていた。
さらに、この先の長旅に備えて、ドル紙幣を用意しておいてくれた。
それともうひとつ、小さなスーツケース。
これにはアウシュヴィッツから持ち出した実験レポートが詰め込まれていた。

この「エルヴィン」については、ほぼ正体が明らかになっている。
メンゲレの学生時代の友人で、1944年から実家の農機具工場のセールスマネージャーを勤めていた男、ハンス・セドルマイヤー。
彼が「エルヴィン」に違いないと、のちに息子ロルフが語っている。

メンゲレは、エルヴィンから示された旅行プランを頭に叩き込んだ。
ヴィピテーノの町を後にしたのは、Golden Cross Inn"で一ヶ月ほど過ごしてからのことだ。

列車でボーツェンに到着したのは6月初め。
(訳者註〜原文ではBosen、これはたぶんBozenの誤り。調べてみるとBosenという地名もあることはあるけど、それはどこかといえばドイツ。せっかくアルプス越えてイタリアに来たのに、戻ってはダメだろ)

ここで会った男のコードネームは「クルト」。
クルトは、メンゲレのヨーロッパ脱出最終段階を担当する人間だった。

ノース・キング号の乗船予約は済ませてある、とクルトは言った。

船がジェノヴァを出るのは二週間後。
その前に解決しておかなくてはならない問題がある。
赤十字のパスポートが必要なのだ。
これはスイス領事館から取得できる。

クルトの言葉は確信に満ちていた。

(訳者註〜メンゲレとクルトはこの時点ですでにジェノヴァに到着しているはず。ボーツェンなんて田舎町に領事館があるわけない)

国際赤十字ファイルの、ヨーゼフ・メンゲレに関する部分は、戦後40年間隠されてきた。
作家ジェラルド・ポスナーが、アメリカ上院でその隠蔽の事実を明らかにしたことで、ようやく政府が動き出した。
秘書官ゲオルク・シュルツの書面による要請に応え、赤十字はメンゲレのファイルを公開した。
そこには、ヨーロッパ脱出前の、メンゲレの最後の苦労が想像できる、詳細な記述がいくつか含まれていた。

「パスポートは今日中に手に入る」とクルト。「明日はアルゼンチン領事館だ」

メンゲレの記述によると、スイス領事館の女性係官は「物分かりのいい大人」だったらしく、申請は滞りなく進んだ。
そうして翌日、アルゼンチン領事館。
申請に使ったのは、新しい偽名「ヘルムート・グレゴール」だ。
ここで係官たちは、ワクチン接種証明を要求してきた。
クロアチア人医師に発行させた偽の証明書を提出したのだが、これは日付が古かったようで、2週間以内の接種証明が必要だという。

さらに、イタリア出国申請でもつまづいた。
それまでクルトが賄賂で自由に操ってきた移民局の汚職係官が、休暇を取っていなくなってしまったのだ。

6月25日(訳者註〜原文は5月25日だけど、いくらなんでもそれはない)
ノース・キング号の出航を三日後にひかえ、メンゲレは死に物狂いの行動に出た。
クルトの助言に従い、20,000リラ(32ドル@1949年)を偽造申請書類に挟んで提出した。
係官は書類をあらため、紙幣を抜き出したうえ、突き返してきた。
それから、もうひとり別な係官と不気味な目配せを交わした。
賄賂が足りなかったか。
とっさにそんな考えが浮かんだが、係官が示した態度は、メンゲレからのどんな申し出も拒絶するものだった。
「3階に行こうか」
と、係官は言った。

メンゲレは小部屋に連れ込まれ、ポケットの中のものを残らず出すよう命じられた。
「いくら賄賂まみれのイタリア官憲でも、これは法外な要求だろう」
おどけて見せたが、けっけきょくそのまま鉄格子の檻に放り込まれてしまった。

三週間も拘留されては、亡命の望みも断たれたと考えるほかない。
移民局は、提出された書類が偽造であることを見抜いていた。
「クルト」に関しても尋問された。
その男はいったい何者なのか?
今どこにいるのか?
いくらで雇ったのか?

さらにとどめの一撃。
偽のワクチン接種証明を発行したクロアチアのドクターの正体が突き止められ、電話連絡が取られた。

「敷物のようにうずくまってしまった」とメンゲレは書いている。
ゲームは終了と見えた。

しかし劇的な運命の逆転が起こった。
これはその後の30年間、何度も彼の身に起こっていたものだ。
クルトが賄賂で操っていた汚職係官が、休暇を終えて戻ってきた。
最悪の結末に向かって暴走しかけていたストーリーを、彼は元の筋書きに戻してくれた。
一体どんな強引な手を使ったのか、何もかも立て直してくれた。
メンゲレは釈放され、出国申請も認められた。
そしてさらなる幸運。
ノース・キング号は、まだジェノヴァの港を離れていなかった。

1949年7月中旬、ノース・キング号はついにブエノスアイレスに向けて出航した。

ブエノスアイレスに着いて最初の一ヶ月は、アウシュヴィッツのことばかり考えて暮らした。
アウシュヴィッツで自分が何をしたかではなく、それが世界中に広まってしまっているということが、頭痛の種だった。
立場の不安定な逃亡者が、故郷から10,000kもm離れた奇妙な都市にやって来て新しい生活を始めるというのは、相当心細いものだろう。
そういったことと関係してか、気晴らしのつもりでか、メンゲレは南米に上陸してから日記や手紙など多くの文章を書くようになった。

初期の手紙の中で、メンゲレはブエノスアイレスの印象をつづっている。
亡命者としての不安な気持ちを残しながらも、新生活には比較的楽に馴染むことができた。
そのことにメンゲレは驚いていた。
亡命先としてアルゼンチンを決定する以前、彼が漠然と候補に考えていたのは、カルチャーショックを受けずにすみそうな国々だった。

1940年代後半、アルゼンチンは南米のうちでも最先端のテクノロジー王国になっていた。
南米にある電話の総台数、テレビの総台数、鉄道総延長の半分以上は、アルゼンチンに集中していた。
アルゼンチンの人たちの閉鎖的なエリート意識というのも、メンゲレの新たな発見だった。
思い出してみれば、それはかつてドイツ・ナチの中に最も強烈に現れていたものだ。
アルゼンチンの人たちは、パラグアイやペルーのことを後進国として軽蔑した。
ブラジルやチリへ行くときには、「南米に行く」という言い方をした。

それでも1949年頃のアルゼンチンは、深刻な問題に直面していた。
パリ風のファサードのすぐ向こうでは、掘っ立て小屋に閉じ込められた何十万もの人たちがどん底の生活をしていた。
貧富の差はひろがる一方だった。
経済は衰退し、失業者が増え、給料未払いも当たり前になっていた。
国は莫大な財政赤字に陥り、無計画で強引な税の取立てを行った。
闇経済だけが活況を呈していた。
メンゲレのような亡命者が口止めのために支払わされる賄賂は際限がなくなっていた。

これからの金儲けは隣国パラグアイだ。
そんな情報を伝えてきたのは、ハンス・ルーデルという元ドイツ空軍の大佐だった。

1954年、パラグアイへの旅で、メンゲレはアレジャンドロ・フォン・エクシュタインなる人物と接触している。
彼は当時パラグアイ陸軍の大尉だった。
1959年にメンゲレがパラグアイの市民権取得申請をしたさい、エクシュタインはこれに協力したと言われている。

パラグアイという国は、事実上、アルフレート・シュトロスナーのものだった。
シュトロスナーは、1940年体制で得た絶対的な力で、この国を支配していた。
戒厳令を敷き、人身保護令は棚上げにした。
この状態は現在でも変わっていない。
自分は生涯大統領であると、シュトロスナーは宣言している。
この44歳の独裁者とエクシュタインは親友同士だった。
共にドイツ人の血を引き、1930年代のボリヴィアとの戦いでは、共に銃をとった。

フォン・エクシュタインと知り合ってから、メンゲレは何度もパラグアイを訪れるようになり、そのうちシュトロスナーにも知己を得た。
メンゲレがはじめてシュトロスナーと顔を合わせたのは、何かの社交会合だったと、エクシュタインは言う。
「大統領はメンゲレのことを知らなかった。その時は握手をしただけだった」
それとは別に、エクシュタインは、ハンス・ルーデルがメンゲレに語った言葉をおぼえている。
「シュトロスナー支配下のパラグアイは、ジュアン・ペロン支配下のアルゼンチン同様、ドイツ人亡命者にやさしい」

メンゲレが南米で男やもめ暮らしを続けているとき、ドイツに残してきた妻イレーネは、別な男性と再婚しようとしていた。
相手はフライブルクで靴屋を営む男だった。
実家の父親から送られてきた手紙で、妻イレーネの離婚の意志を伝えられたメンゲレは、特に反対もしなかった。
代理人を通して手続きが進められ、1954年、デュッセルドルフ裁判所で、正式な離婚が承認された。
この一件は、メンゲレ個人にとっても、ドイツの実家にとっても、さほど大きなダメージにはなっていない。

このころメンゲレは、ブエノスアイレスにいる一人のドイツ系ユダヤ人とおかしな関係になっていた。
彼はメンゲレとの関係が誤解されるのを恐れ、匿名を希望している。
戦前、ヒトラーのユダヤ人迫害から逃れてアルゼンチンに亡命し、ブエノスアイレスで繊維業を営むようになった。

1950年代、このユダヤ人ビジネスマンは、若いドイツ人女性と知り合った。
この女性は、戦時中、看護婦をしていたらしい。
(訳者註〜終戦時のどさくさでメンゲレが資料を託した看護婦とはきっと別人)
当時ドイツの多くの若者がそうであったように、彼女もまたかつてはヒトラー・ユース・ムーブメントのメンバーだった。
それでもこのビジネスマンは、彼女に惹かれた。

彼女は両親と一緒にブエノスアイレスに住んでいた。
その両親と、メンゲレはたまたま知り合いになっていた。

あるとき、このユダヤ人ビジネスマンが彼女の家を訪ねると、そこにメンゲレがいた。
二人はそこで互いに自己紹介をかわした。
女性もビジネスマンも、「ヘルムート・グレゴール」ことヨーゼフ・メンゲレの正体は知らなかった。
グレゴールとビジネスマンは恋敵となるが、この争いは最終的にグレゴールの勝利で終わることになる。

二人の関係は恋敵というだけではなかった。
グレゴールは、このビジネスマンと仕事上の関係を築きたいと考えていたのだ。
新しい事業の可能性について何度か議論がかわされたが、けっきょくこの話は立ち消えになった。

カール・シニア・メンゲレは、息子ヨーゼフの再婚を望んでいた。
彼の頭にあったのはマルタ・メンゲレ、末の息子の未亡人だ。
カール・ジュニアは、1949年10月、37歳で亡くなっていた。
マルタは美しい女性だった。
「誰もが夢中になるほど美しかった」と、ロルフは叔母について書いている。
カール・ジュニアと恋に落ちたとき、マルタはウィリアム・アンスマンという男の妻だった。
1944年、マルタは出産する。
生まれたカール・ハインツは、どちらの子供なのか。
この問題は後々まで論争になった。
決着がついたのは、1948年にマルタとアンスマンが離婚してからのことだ。
念入りな調査の結果、メミンゲン地方裁判所は、カール・ジュニアの子に間違いないとの結論を下した。

当時マルタは、ギュンツブルク村の別な男と関係があったが、カール・シニアはそれを清算させ、スイス・アルプスのとある場所で、ヨーゼフと対面させる段取りを整えた。
一緒に連れて行かれたロルフは、このとき11才。
ながらく会わなかった「フリッツ叔父さん」と再会を果たすことになる。

カール・シニアのもくろみは、メンゲレ家の財産を一滴たりとも外にこぼさないようにすることだった。
マルタが他の男と再婚した場合、カール・ジュニアの財産の相続権は、その男の意思に左右されてしまう。
再婚の相手がヨーゼフなら、財産はすべてメンゲレ家におさまる。

スイス行きは数ヶ月前かけて計画された。
1955年4月、メンゲレは連邦警察に外国人特別パスポートを申請した。
この申請もなかなかやっかいで、不審人物ではもちろん通らない。
9月1日、警察はようやくメンゲレをまともな住民と認め、申請は裁判所にまわされた。
折悪しく、打倒ジュアン・ペロンを目指す政変が起こり、臨時政府に振り回された裁判所は、臨時措置として120日限定のパスポートを発行した。

1956年3月、メンゲレはようやく大西洋を渡ることが出来た。
ジェノヴァの空港で出迎えてくれたのは、生涯の友、ハンス・セドルマイヤーだ。
彼の運転でエンゲルベルクに向かった。
町いちばんの老舗、ホテル・エンゲルに到着すると、そこで待っていたのは、マルタとその息子、カール・ハインツ、さらにメンゲレの息子、ロルフだった。

それから10日間、「フリッツおじさん」は、南米のガウチョの話、第二次大戦でパルチザンとして戦った話など、様々な冒険憚で二人の子供を喜ばせた。
夕食時ともなればドレスアップし、数多くの冒険を経験し、小遣いをくれる、この「おじさん」は、ロルフに強烈な印象を残した。
彼はまた、「フリッツおじさん」が「マルタおばさん」に特別な関心を払っていることにも気づいていた。
このときのロルフから見れば、それは普通の家族どうしの愛情表現だったようだ。
エンゲルベルクをあとにしたメンゲレは、それからギュツンツブルクで、一週間を家族と共に過ごした。
故郷の家に戻るのは大戦以来だった。

アルゼンチンに戻ったメンゲレをまず安心させたこと。
それは相変わらず逮捕状発行の気配がないことだった。
もしかしたら本名で出直すことができるのではないか。
偽名で生活していると、色々なことが面倒になってくる。
マルタと共にまともな家族として暮らすため、賭けに挑むのも悪くないという気がしてきた。

本名にもどるためには、膨大な書類を相手にしなくてはならない。
西ドイツ大使館の承認も必要になる。
アルゼンチンの警察は、「ヘルムート・グレゴール」と「ヨーゼフ・メンゲレ」が同一人物であることの証明を要求してきた。
さらに西ドイツ大使館に対しては、この七年間偽名で暮らしてきたことを説明しなくてはならなかった。
本名、生年月日を明かし、イレーネとの離婚年月日を明かし、ブエノスアイレスとギュンツブルクのアドレスを明かした。
1956年9月1日、ボンでの審査が通り、西ドイツ大使館から、彼の本名と出身地ギュンツブルクが記された証明書が発行された。
新しいIDカードと西ドイツ発行のパスポートをメンゲレが手にしたのは、その半年後だった。

1956年10月、マルタとその息子は、メンゲレと生活を共にするべくアルゼンチンにやって来た。
その後の4年間、メンゲレは、立派にカール・ハインツの父親をつとめた。
二人の親子のきずなは、実の息子ロルフとのそれよりも強くなっていた。
メンゲレの生活は、心地よく安全で平凡な日常を繰り返す、家庭人としてのそれに変わった。
まるで朝9時から夕方5時まで堅実な職場で働く人のようだった。
13年間の逃亡の末、ようやく安らぎが得られた。

と思ったら、すぐに次の災厄が訪れた。
無資格医療行為疑惑で、ブエノスアイレスの警察に目をつけられた。
何が警察の注意を喚起したのか、正確なところはわかっていない。
記録としてはっきり残されているのは、「事情聴取のため拘束、3日後に釈放」ということだけだ。

同じ頃、西ドイツでは、メンゲレを法廷に引っ張り出そうという動きが出始めていた。
アウシュヴィッツの元囚人ドクター、ヘルマン・ランバインも、同じ目的のために、独自の捜索活動を続けていた。
ランバインは、イレーネとの離婚記録から、メンゲレが生きていることを明らかにした。
ただ、ブエノスアイレスのどこに住んでいるかまでは突き止めることができずにいた。
そもそもランバインの捜索がどこまでメンゲレ追跡の役に立ったのか、本当のところはわからない。
いずれにせよメンゲレは、1959年3月頃までには、アルゼンチンからパラグアイに移る決心を固めていたようだ。

1959年5月、メンゲレはマルタをブエノスアイレスに残し、ひとり本名でパラグアイに逃れた。
パラグアイ南東部、アルゼンチンとの国境をなすパラナ川の近くに、新バヴァリアと呼ばれるほどナチ色の濃い地域があった。
ここでメンゲレは、ハンス・ルーデルにより、アルバン・クラッグという男を紹介される。
農場を経営するクラッグは、地元の有力者でもあった。
国境の町エンカルナシオンから北に60km、ホヘナウの集落に、グラッグの所有する農家のひとつがあり、そこが、この先15ヶ月間のメンゲレの住処となった。

逮捕状はドイツじゅうの警察署に行き渡っていた。
(訳者註〜たぶんドイツ国内だけで通用する逮捕状。他国では通用しないと思われ)
ボンにある外務省にも届いていた。
もしアルゼンチン国内で見つかったら西ドイツに引き渡してほしいという要請も、外務省を通して行われた。
(訳者註〜たぶんこの要請は1959年6月はじめ)
ランバインは、メンゲレがアルゼンチンで生きていると信じていた。
ことはできる限り秘密に行うべきとランバインは主張したが、ロルフによれば、ギュンツブルクの警察内に密告者がいて、逮捕状発行の事実をメンゲレ一家に伝えてくれたという。

このドイツ国内の慌しい動きを、一家が南米のメンゲレに向けて手紙に託したころ、彼ははすでに、「ヨーゼフ・メンゲレ」の本名で、パラグアイの市民権取得申請を開始していた。
西ドイツが犯人引渡しを要求してきた場合、この市民権が盾になってメンゲレを守ってくれるはずだった。
両国の間には、犯人引渡しに関する正式な協定が結ばれていなかった。

1959年11月中旬の時点で、パラグアイの内務省市民権申請局と警察は、西ドイツが(アルゼンチンに)メンゲレの引渡しを要請している事実に気づいていた。
しかし、メンゲレの市民権申請手続きを凍結するような動きはどこからも出なかった。
たとえば、協定があるわけでもないのに引渡しなど要請をされる筋合いはないと考えた上層部が、末端までそれを伝えなかったため、受付処理が雑になっていたのか、あるいはエクシュタインあたりから圧力がかかったのか、真相はわからないけれど、いずれにせよ、11月27日、メンゲレの市民権は承認されている。

いっぽうで他国の政府は黙っていなかった。
アルバン・クラッグの農場でつつましく暮らすメンゲレも、落ち着いていられなくなった。
イスラエルのデヴィット・ベン・グリソン首相が、議会に対しメンゲレ追跡を宣言したことで、その恐怖はいよいよ本物になった。

パラグアイ永住の決断は、ブエノスアイレスにいる妻のマルタをがっかりさせた。
こちらでも安全に暮らせるはずだと彼女は主張した。
しかし、アルゼンチンには戻らないというメンゲレの決心は揺るがなかった。
1960年5月に起こった出来事が、その決心をさらに強固なものにした。
大戦中、ユダヤ人大量虐殺の直接責任者として悪名を轟かせたSS将校、アドルフ・アイヒマンが、ブエノスアイレスで、イスラエルの諜報部員モサドによって、身柄を拘束されたのだ。
(アイヒマンの一件は、ほとんどの英文で"kidnap"〜誘拐、という言葉が使われている。アルゼンチン政府から見れば、自分のところの住民が他国のならず者に連れて行かれてしまった、ということになるのか)

「メンゲレは武装護衛の地下ネットワークを利用していた」
「シュトロスナー大統領の保護があった」
といったようなことが、これまで言われてきたけれど、現実には考えにくい。
戦時中のメンゲレについて、いくらかでも情報を持っている人間が、パラグアイ政府内の有力者にいたとするなら、それは内務大臣、エドガー・インスフランだけだ。
さらに、保護者役としてメンゲレが頼りにできた人間は、アルバン・クラッグただ一人だ。
クラッグは屈強な男だったが、所有していた武器はたった一丁の拳銃だ。

メンゲレがパラグアイでびくびくしながら暮らしていたころ、ブエノスアイレスでは、西ドイツからの圧力で、ようやく当局が重い腰を上げた。
1960年6月30日、西ドイツがアルゼンチンに犯人引渡しを要請してから1年と23日後、一件はようやく、アルゼンチン第三地方裁判所の判事、ジョージ・ルークの手にゆだねられた。
これにより、晴れて警察は正式にメンゲレ捜査に着手できるようになった。
(訳者註〜ここで初めてアルゼンチン国内の逮捕状発行、という意味ではないかと思う)

この正式捜査開始がニュースで伝えられたとき、アルゼンチンのアルトゥーロ・フロンディツィ大統領は西ドイツを訪ねていた。
フロンディツィは記者会見でこんなことを言った。
「わが国は犯罪者の避難所になるつもりはない。犯した罪に相当する裁きは受けなくてはならない」
彼はまたこんなことも言っている。
「西ドイツは、メンゲレを法廷に出す前に、犯罪の証拠をそろえておかなくてはならない」

アメリカ西海岸で、ひとりの男が当惑していた。
男はブエノスアイレスから移住してきたユダヤ人で、繊維会社の経営者だった。
朝刊をひろげると、そこにかつての友人の顔があった。
一緒にビジネスをやろうという話で盛り上がり、まとまる寸前まで行った相手だ。
「信じられなかった。すぐに、我々を引き合わせてくれた女性の家に電話した」
これはグレゴールではないのか。
彼の言葉に、自分もすでにそれを見たと女性は応えた。
何かの間違いだろう。
二人ともそう考えるしかなかった。

同じころ、アスンシオンにあるドイツ大使館のタイピストが、メンゲレと顔をつき合わせていた。
コロニア・インディペンデンサのドイツ人居住区を訪ねたさい、足を捻挫したのだ。
「メンゲレという名のドイツ人医師に怪我の手当てをしてもらった」
アスンシオンに戻った彼女は、このことを職場のスタッフに話した。
彼女はメンゲレが指名手配中の元ナチだとは知らなかった。
知らなかったけれど、大使館の現状に苦言を呈した。
ドイツ大使館ともあろうものが、ドイツ人居住区にいる人間を把握していないのはおかしい、と。
これが引き金となって、ドイツ大使代理、ペーター・ベンシュが現地に送り込まれた。

ベンシュは以下のような報告をしている。

メンゲレは当たり前のように本名で暮らしている。
医者を本業としているわけではなさそうだ。
現地の人たちの善意に支えられて生活しており、時折おこなう医療行為は、いってみればその謝礼のようなものではないだろうか。
メンゲレ本人には直接会っていないが、アルバン・クラッグとは話をすることができた。
アルゼンチンからやって来た元ナチの何人かを、クラッグが援助していることは間違いない。
ただメンゲレに関しては知らないと言っている。

マルタがブエノスアイレスに居るのだから、メンゲレはアルゼンチンに必ず戻ってくると、西ドイツは考えていた。
1959年6月、アルゼンチンに犯人引渡し要請をしてから、逮捕状が発行されるまで、1年以上かかっている。
アルゼンチンがもたもたしているうちに、メンゲレはパラグアイに逃れ、クラッグのところに潜り込んでしまった。
これが西ドイツ側の言い分だった。
(訳者註〜メンゲレがアルゼンチンを脱出してパラグアイに向かったのは1959年5月のことだから、どっちにしても間に合わなかったんじゃなかろうか)

いっぽう西ドイツの姿勢も問われることになった。

ペーター・ベンシュがパラグアイで成果をあげていたころ、ブエノスアイレスにいるドイツ大使館の職員たちは、相も変わらずアルゼンチン警察の尻を叩いていたのだ。
メンゲレはアルゼンチンにいるのか、パラグアイにいるのか。
ボンの外務省は、諜報部員を派遣して確認しようともしない。
椅子に腰を落ち着けたまま、書類めくりと、大使館とのやりとりを繰り返すばかりだ。

アルゼンチン側の捜査は、事実上、ジョージ・ルーク判事の手にゆだねられていた。
ルークはそれなりに一生懸命やったのだが、何しろ逮捕状を出したのが1960年6月、まさかその1年以上も前に、メンゲレがパラグアイに逃れていたとは知らなかった。
ブエノスアイレス市内の捜査が空振りに終わったことを知ったルークは、アルゼンチン全土に範囲をひろげるよう、捜査員たちに指示を出していた。

メンゲレは、アルゼンチンのでたらめな捜査ぶりを知っていた。
たまにブエノスアイレスから訪ねてくるマルタとカール・ハインツが伝えてくれたのだ。
しかしアルゼンチン当局が混乱状態にあるからといって、安心できるものではない。
メンゲレが本当に恐れていたのは、アルゼンチンでも西ドイツでもなく、イスラエルだった。

メンゲレがひとつの決心をしたのは1960年9月のことだった。
いつまでもクラッグの農場に居ては間違いなくイスラエルに捕らえられる。
パラグアイを出て新しい生活を始めようと考えた。
行き先はブラジル。
「環境が変われば書く内容も変わる」と彼は日記に記している。
それから先1ヶ月ほど、彼の日記は空白になっている。
「この間いろいろな出来事がありすぎた」
後日、彼はそう書いている。
「理由あって、この間のことは文字にできない」
遅くとも10月24日までには、クラッグの農場を出発している。
「新しい環境」という言葉が示す巨大都市、たぶんそれはサンパウロだ。

ブエノスアイレスでのアイヒマン「誘拐」が1960年5月。
それからものの数ヶ月で、メンゲレはパラグアイを出ている。
アルゼンチン同様、パラグアイもまた身の安全を保証してくれる国ではない。
メンゲレはそう見切りをつけたのだった。

ブラジルでの援助者は、36歳の元ナチ、ヒトラー・ユースのチーフ、ヴォルフガング・ゲルハルトだ。
彼がブラジルにやってきたのは1948年のこと。
息が詰まりそうな連合国の占領政策に耐えられなくなってヨーロッパを飛び出した。
ただブラジルも決して好ましい国ではなかった。
「半分サルみたいなやつと病人と二流種族ばかり」
メンゲレをゲルハルトに紹介したのは、やはりナチつながりで双方の知人、ハンス・ルーデルだった。
ゲルハルトがメンゲレの避難所として紹介した家族は、ルーデルにとってもまたよく知った相手だった。

この先、メンゲレの人生は大きく変化する。
まず、マルタとわかれた。
マルタにとっても16歳になるカール・ハインツにとっても、これ以上の逃亡生活は無理だった。

さらに実の息子ロルフとの関係も変わった。
カール・ハインツと同じく16歳になるロルフは、自分の本当の父親が誰なのかわからず悩んでいた。
真相は継父の口から語られた。
母イレーネがようやくそれを許したのだ。
1956年、スイス・アルプスで会った「フリッツおじさん」
彼が本当の父親だと、継父は言った。
ロルフは4年前の楽しい出来事をよくおぼえていた。

父さんはソ連で亡くなったと、いつも言われていた。
父さんは、ギリシャ語を話し、ラテン語を話し、とても勇敢な、ドクター・メンゲレだと、いつも思っていた。
そして今度は、「フリッツおじさん」が父さんだと言われた。


ゲルハルトが、ゲザ・スタマーとその妻ジッタに会ったのは、1959年のことだ。
それは、ハンガリーからの移民であるスタマー夫妻にとって、特別な夜だった。
「反共産主義者と思ってもらって差し支えないわ」とジッタは言った。「でも元ナチじゃないわよ」
スタマー夫妻は、ゲルハルト同様、歴史見直し論者的なものの考え方をしていた。
「ホロコーストに関するいくつかは捏造だと思う」
ジッタは続ける。
「あれが全部本当にあったことだなんて、とても信じられない」

スタマー夫婦は、37エーカーの農場を買い上げようとしていた。
サンパウロの北西320km、ノヴァ・エウロパ近郊のドイツ人居住区にあるその農場は、コーヒー、米、果物などを生産するほか、乳牛の飼育もしていた。

「農場のマネージャーにふさわしい男だ」
ゲルハルトは、スイス人「ペーター・ホビッヒラー」ことメンゲレを、スタマー夫妻に紹介した。

ペーター・ホビッヒラーにはその道の経験がある。
さらに彼は、最近いくらか財産を相続して、近い将来自分でも農場を持とうと考えている。

ゲルハルトのこの申し出は、スタマー夫妻にとっても好都合だった。
夫のゲザは、測量士としての仕事で家を空けることが多く、その穴を埋める人手が必要だった。

話は簡単にまとまり、農場はさっそく「ペーター」をマネージャーとして迎え入れた。
ジッタ・スタマーによれば、到着したとき彼は、青ざめて病気のようだったという。
「たしかに病気だが心配ない」
ゲルハルトは言った。
「農村暮らしをしていればよくなる程度の病気だ」
だから、ということなのか、マネージャーとしての報酬はいらないという。
ペーターが出した顔写真なしの身分証は、かつて、オーストリア・イタリア国境を越えるときに使ったものだった。

名前を確認したのはその身分証一枚きり。
しかし夫妻は特に怪しみもしなかった。
要求してきたのは食事と洗濯だけ、多くは求めない人間だった。

身分証についても無報酬の件についても、最初は特に不審に思わなかったと、スタマー夫妻は言う。
ときどきドイツから手紙や新聞が届いていたけれど、それも気にとめるほどのことではなかった。
何かがおかしいと感じていたのは、ペーターの下で働く農夫たちのほうだった。
農夫たちによれば、ペーターは、哲学、歴史に通じ、古典音楽を好んでいた。
彼はまた苛々しやすい人間でもあった。
農夫たちに指示を出すさい、自分のポルトガル語がなかなか通じないことに、いつも苛立っていた。

「彼のことは嫌いだった」
と、フランシスコ・デ・ソウザは言う。
「人に命令するのは好きだった。たくさん働け、もっと働けと、口癖のように言っていた」
何より問題だったのは、このペーターという男が、農業というものを殆ど理解していないように思えたことだ。

スタマー夫妻や農夫たちは知らなかったが、メンゲレが初めのころ病気に見えたのは、この仕事を嫌がっていたからだ。
メンゲレにしてみれば、ブラジルに入った第一歩目からつまずいてしまったようなものだった。

ノヴァ・エウロパは比較的安全な土地だったが、それでもメンゲレは、イスラエルがいつ捕まえに来るかと怯えながら暮らしていた。
秘密裏に進行していたイスラエルの動きは、たしかに恐るるに足るものだった。
イスラエル・モサドは、1961年初めごろブエノスアイレスでメンゲレ捕獲作戦を展開、これを早々に失敗とみなして解散したのち、新たな追跡チームを組み直していた。
新チームのメンバーはアイヒマン作戦のときとほぼ同じ。
リーダーのツィヴィ・アローニは、アイヒマンがクレメントと名を変えブエノスアイレスで暮らしていることを突き止めたうえ、その住居も完全に特定、拘留後の取調べまで担当した男だった。

モサドはパラグアイにメンゲレ追跡の拠点を置いた。
メンゲレを良く知る者ひとりひとりに諜報部員をはりつけたうえ、連絡を密にし、その居場所について信頼できる情報が取れたら、ただちに行動に移れるようにする。
まずはこの連携がしっかり確立されないことには、次の段階すなわち「逮捕(誘拐)」を考えることはできない。

「自分たちは今現在どこまでメンゲレを追い詰めることができているのか」
「メンゲレはどの程度の護衛に守られているのか」
諜報部員の間では意見が分かれていた。
モサドの長官、アイザー・ハレルいわく、
「1961年の時点で、メンゲレはパラグアイでアルバン・クラッグに匿われていた。その年の末ごろまで、パラグアイとブラジルを行き来していた。アイヒマン逮捕でパニックに陥ったのだ」

(訳者註〜原文が間違っていないとするなら、この長官はメンゲレがパラグアイにいた時期について丸々1年間違えていたことになる。もちろん捜査する側の見解だから間違いがあるのは仕方ないとして、アイヒマン逮捕は1960年5月、このときメンゲレはどこにいたと長官は考えていたんだろう。いつパニックに陥ったと考えていたんだろう。いつから二国間行ったり来たりを始めたと考えていたんだろう。要するにアイヒマン逮捕を劇的な手柄話として宣伝したかっただけじゃないのか、と思えてしまう)

1960年代初頭、メンゲレの移動に関しては、数々の相反する説がまことしやかに語られた。
このことに関して、イスラエルの諜報部員が反省の態度を示すようになったのは、メンゲレの死が公表された後のことだ。
実はメンゲレは逃亡生活の大部分をブラジルで過ごしていた。
1985年6月に発見された彼の日記類は、イスラエルの失敗を痛いほどはっきり示してくれている。

いっぽうボンの外務省は、相変わらず椅子に腰を落ち着けたまま仕事を進めていた。
1965年2月、アルゼンチンだけでなくブラジルにも犯人引渡しを要請した。
CIAから、「メンゲレはブラジルのマット・グロッソに居ると噂されている」という報告があったためだ。

アスンシオンのドイツ大使代理ペーター・ベンシュも捜査を続けていた。

メンゲレは、パラグアイとブラジルを行き来しているような気がする。
ただ入ってくる情報はどれもあてにはならない。
もしメンゲレがパラグアイで見つかった場合、引渡しは無理だろうと、最高裁判所は言っている。

メンゲレの居場所について情報が錯綜するなか、イスラエルだけが正しい情報を掴んでいた。
モサドの上官によれば、たしかにブラジルにいるという報告を受けたという。
(訳者註〜西ドイツが掴んだ情報とさほど違いはないような気がする)
しかしけっきょくこれは内部で握りつぶされた。
アラブの脅威に向けて人員を集結しなくてはならないとする、モサドのチーフ、ジェン・アミールの予測は、1967年の6日間戦争によって現実のものとなった。
1960年代初頭に当時の長官ハレルが結成したような、メンゲレのための特別チームをつくるというのは、この非常時、無茶な話だった。

戦争勃発にあわせて、イスラエルは外交方針を大きく変えた。
パラグアイのアスンシオンに大使館を置くことを決定したのだ。
メンゲレを秘密裏に追跡するのに理想的な拠点になると考えられたが、大使として派遣されたベンジャミン・ヴァイザー・ヴァロンが述べた言葉は、次のようなものだった。
「友人をつくりに行くのだ」

イスラエルがアスンシオンに大使館を置いた1968年、弱小国だったパラグアイは、こと外交問題に関しては、不釣合いなほど大きな力を持つようになっていた。
国連安全評議会に名を連ねる南米二カ国のうちのひとつになったのだ。
ヴァロンの見たところ、この評議会は、「イスラエルいじめ」のために存在しているようなものだった。
彼の使命は、パラグアイを説得して、イスラエルに有利になるようはからってもらうことだった。
ヴァロンは毎週のようにパラグアイの外務大臣ドクター・サピーナ・パストゥールと会い、「イスラエルのための一票」を懇願した。
メンゲレの問題を持ち出すことは、この目的にそぐわない。
ヴァロンは大使として任命されるさい、メンゲレについて何ひとつ情報を与えられていなかった。

1960年から1962年まで、パラグアイとブラジルにモサドのチームがいたことも、ヴァロンは知らなかった。
ハレルが特殊部隊を使ってブラジルの農場を急襲しようと考えていたことも知らなかった。
ヴァロンが事実を知ったのは退任後のことだ。
1978年11月、メンゲレをあつかった特別番組がテレビで放映された。
そのときの感想をヴァロンは次のように述べている。

これをテレビで知ることになるとは不思議な話だ。
イスラエルとパラグアイの関係調整という、大使としての任務を考えれば、メンゲレの一件まで私に負わせるのは、確かに得策ではなかっただろう。
私たち外務省所属の人間とは無関係なところで、イスラエルの諜報部員たちは活動していたのだ。

1970年5月2日のこと。
PLOの2人組がパラグアイのイスラエル大使館に押し入り、銃を乱射した。
職員のうち1人が死亡、4人が負傷。
テロリストたちは、大使ヴァロンの部屋までやって来た。
ドアを蹴破り、ヴァロンの頭に銃口を向けた。
しかし、次にきこえてきたのは、虚しい引き金のクリック音だった。
二人ともすでに弾丸を使い切っていた。
再装填し終える前に、パラグアイの警察が乗り込んできて、あっという間に彼らを逮捕した。

この事件にイスラエル・モサドは登場してこない。
テロリストを撃退したのはパラグアイの警察だ。
異国で同胞が危機にさらされても、モサドは顔をのぞかせもしなかった。

メンゲレのことを何も知らされていなかったために、彼に関して何か問い合わせがあっても、大使館はあたりさわりのない答しか返さなかった。
イスラエル政府はメンゲレをさがしていない。
彼のことは西ドイツが勝手にさがしている。
ヴァロンはそう考えていた。

私はメンゲレ発見にさほど真剣に取り組んでいなかった。
彼の存在はそれ自体やっかいなジレンマだった。
メンゲレに関して、イスラエルは、ドイツほど熱心ではなかった。
けっきょく彼はドイツの一般市民で、その犯罪は、第三帝国の名のもとに行われたものだ。
彼の手にかかった犠牲者の中に、イスラエル国民は一人もいない。
イスラエルは大戦が終わってからできた国だ。

実はメンゲレにはかなりの蓄えがあった。
これはブラジルに来る以前、数々のビジネスで殖やしたものだ。
その一部を使って、スタマー農場の権利の半分を買い取った。
農場の権利を半分手放し、サンパウロに新築の豪邸を買っても、なお楽に暮らして行けるだけの余裕が、スタマー夫妻にはあった。
メンゲレと夫妻の関係は終わりに近づいていた。

メンゲレはさらに、サンパウロ中心部の高層ビルの一画を買い取り、賃貸収入を得るようになった。
新しく事業を立ち上げようとしていたメンゲレを後押ししたのは、単純な自信、安心感のようなものだった。
彼にそんな自信を与えたのは、一枚のIDカードだ。
1971年、メンゲレはこれをヴォルフガング・ゲルハルトから譲り受けた。

ヴォルフラム・ボザートは優秀なアマチュアカメラマンだった。
何十枚もメンゲレの写真をとり、念入りに見比べた。
IDカードに記載されたヴォルフガング・ゲルハルトの身体特徴と照らし合わせて、なるべく不自然に見えないものを選び出した。
次の作業はIDカードの加工だ。
ラミネートが慎重に切り開かれた。
口ひげを蓄えたメンゲレの写真が、ゲルハルトの写真の上にのせられ、そうしてラミネートはふたたび閉じられた。
カード中の指紋は、そのままゲルハルトのもの。
生年月日も書き変えてはいない。
こうして60歳のメンゲレは、「とても老けて見える46歳」になった。

緊張と不安の日々を過ごすうち、セイウチのような口ひげの先端を噛むというおかしな癖が身についていた。
噛み切られた髭は嚥下され、消化されないまま腸に蓄積したあげくその機能を麻痺させた。
1972年7月のことだ。
症状は重篤で、逡巡していられるような余裕はなかった。
メンゲレは、IDカード提示の危険覚悟で、サンパウロの病院に行った。
新しいIDカードが通用するかどうか、いってみれば最初のテストだったが、結果はほぼ失敗だった。
面食らった担当医師は、付き添って来たヴォルフラム・ボザートに、あんな老けた47歳がいるものかと言った。
あれは役所の単純なミスで、近いうちに新しいカードが発行されることになっている、というボザートの苦しい言い訳に、医師は渋々うなずいた。

1970年代初めは、メンゲレにとって出直しの日々だった。
故郷と手紙のやり取りをする頻度が急激に高まった。
相手はおもに、息子ロルフと、幼馴染みのハンス・セドルマイヤーだ。
1961年に南米を去った、マルタ、カール・ハインツ母子とも、定期的に手紙のやり取りをしている
なぜか実の息子より、カール・ハインツとのやり取りのほうが、親密の度合いは高い。
メンゲレはその埋め合わせをするように、多くの手紙をロルフに書いた。
何しろ、父はこんな人だったとロルフが語れるような親子関係を、これまで全く築いてこなかったのだ。

初対面の人間がロルフに見せる態度はいつも同じだった。
「ロルフ・メンゲレ?あのヨーゼフ・メンゲレの息子か?」
「そのとおりさ。ついでにアドルフ・アイヒマンの甥だったりすれば、もっと満足かい?」

ロルフとの初期のやり取りは、ぎこちない言葉で溢れている。
大袈裟に父親の愛情を示したかと思えば、次の手紙では叱りつけるような言葉に変わっている。
全体を通してみると、メンゲレはロルフに対して冷ややかに距離を置いている。
それは、メンゲレとその父カール・シニアの関係にも近いものがある。
ロルフの結婚を祝福する手紙がその良い例だ。

この写真を見れば、誰だって二人は幸福だと思うだろう。
こんなハンサムな若者とこんな愛らしい女性が一緒になるのだから、幸福でないなんてことはありえない。
新しく娘となるその女性に対して、私は手紙の中でわかるように、父親らしさを充分示してきたつもりだ。
ただ不幸にして、私は、娘となる彼女のことをほとんど知らない。
何枚か写真を見たきりだ。
だからといって、息子のことは良く知っているのかといえば、これもまた何ともいえない。
写真に添えられた祝福の署名は、もっと頑張ってたくさん集めてもよかったかもしれない。
その署名と同じく、役所への婚姻届提出に同行した人たちは、みんな二人の味方だ。


1974年末、スタマー夫妻は農場を100パーセント売り払い、サンパウロに買った家に引っ越すことに決めた。
メンゲレはとりあえず農場に残り、1975年2月までそこに住んだ。
夫妻との関係はいよいよ終わりのときを迎えた。
(訳者註〜たぶんだけど、メンゲレはこの時点で、取得していた農場の半分の権利はすでにどこかに売り払っている)

次の住居さがしには苦労した。
サンパウロの中心地に持っている、高層ビルの一画のアパートには、できれば自分では住みたくなかった。
ここから得られる賃貸料は重要な収入源だった。
ヴォルフラム・ボザートに頼む気にもなれなかった。
なにしろ彼の家はとても小さい。
1975年1月末、住居の問題はあっさり解決した。
あまりあてにしていなかった約束が果たされることになったのだ。
それは前年末のクリスマスに、スタマー夫妻から言われていたことだった。
農場を売って入った金のうち25,000ドルを使って、小さなバンガローを購入するから、そこに家賃を払って住んではどうかと。
黄色い漆喰が印象的なバンガローだったが、中身はといえば、ベッドルームひとつに古めかしい浴室とちっぽけなキッチンが付いているきり、掘っ立て小屋よりは少々ましという程度の代物で、サンパウロ郊外エルドラド地区の中でも、もっとも貧しい人たちが住む一画にあった。
それでもボザートの家まではほんの数マイル。
彼の一家以外、メンゲレがいつでも頼りにできる人間というのは全くいなかった。

最初の数年間は、近所に住む16歳の庭師が、よくメンゲレの話し相手になっていた。
その少年、ルイス・ロドリゲスは、テレビでディズニーや連続ドラマなどを見るのが好きだったが、帰ろうとする彼をメンゲレはたびたび引き止めた。
ロドリゲスによれば、メンゲレはとても音楽が好きで、ワルツに合わせ部屋じゅうどたばた動き回ったという。
年末近く、メンゲレは、24インチの白黒テレビを買った。
冬季オリンピックを見るのだという。
さらにメンゲレは、セドルマイヤーにあてた手紙に、「これで新しい話し相手を引き止めておくことが出来る」というようなことを書いている。

しかしテレビはメンゲレの寂しさを紛らしてはくれなかった。
テレビが入ったからといって、ロドリゲスがいつまでも傍に居てくれるようになったりはしなかった。
「テレビは単調な生活に少しは変化をもたらしてくれた」 メンゲレは日記に書いている。
「だからといって素直に楽しめるかといえばそれは全くない。 電波の状態は悪いし、コマーシャルが邪魔でしょうがない」

欝状態に陥ってしまったようで、1975年を締めくくるセドルマイヤー宛ての手紙には、ただ一言、「何をやっても気分は晴れない」とだけ書かれている。
身体も精神状態も悪くなる一方だった。
自殺を仄めかすようなことも口にしている。

死んでしまえばいろんなものから救われる。
精神的苦痛からも肉体的苦痛からも、自分のことをまったくかまってくれないこの世界からも。

「終わりの始まり」は、彼自身が考えていたよりも早くやって来た。
それはとある日曜日の晩。
スタマー夫妻の長男ミキ、その友人ノルベルト・グラヴェと一緒に外出し、帰宅したときのことだった。
バンガローの門の前で二人の少年とわかれたとき、メンゲレはめまいを感じた。
家の中に足を踏み入れたところで、頭の右半分に激痛がおそってきた。
視界が揺れ、顔の左半分と左腕に蟻走感のような疼きを覚えた。
呂律がまわらなくなり、ますます激しくなる頭痛が吐き気を誘発した。

メンゲレはこれが脳卒中の症状であることを知っていた。
「左腕と左足が麻痺して使えなくなってしまった」
と、彼は書いている。
ノルベルト・グラヴェは、「ドン・ペドロおじさん」を何とかしてあげてと近くの病院に駆け込んだ。

メンゲレがブラジルにやって来てスタマー農場で働くようになったとき、ゲルハルトは夫妻に彼の秘密を打ち明けていない。
グラヴェ一家もまた、ゲルハルトの知り合いだったが、こちらに対しても、メンゲレの過去は伏せてあった。
ノルベルトの父親、エルンストは、ドイツ人の血を引くアルゼンチンの工場主だった。
そのエルンスト・グラヴェに、あるときゲルハルトは言った。
1971年、ゲルハルトがブラジルを出る直前のことだ。
(訳者註〜彼がメンゲレにIDカードを譲ったのは、たぶんこのとき)

自分はヨーロッパに帰らなくてはならない。
息子が癌にかかってしまった。
自分がブラジルを去った後、この気の毒な老人の面倒を見てやってほしい。

1975年、ゲルハルトは妻を癌でなくした。
(訳者註〜なんでいきなり妻になっちゃうんだ。息子はどうなったんだ。息子も妻も両方癌だったのか。それとも、ブラジルを出るとき「息子が癌」と言ったのは、何か意図があっての嘘で、本当は妻だけが癌だったのか)

家庭内が危機的状態にあったにもかかわらず、ゲルハルトは、メンゲレのため再びブラジルにやってきた。
それは、メンゲレの息子からの頼みでもあった。

ゲルハルトがブラジルに来るための旅費はメンゲレが負担した。
IDカードの失効が迫っていた。
今後病院で治療を受けるためにも、更新されたIDカードが必要だった。
プラスティックのカードが数年ぶりに切り開かれ、ゲルハルトの写真の上にぴったりと密着していたメンゲレの写真が剥がされた。
閉じ直されたカードは、元通り、ヴォルフガング・ゲルハルトの身分を証明するものとなった。
ゲルハルトをこれを持って役所に行き、更新手続きを済ませた。

新しく発行されたカードはさっそく切り開かれ、メンゲレの写真がのせられ、そうしてふたたび閉じられた。
「もの言わぬ男」とメンゲレが呼んだこのカードは、相変わらず完璧とは程遠いものだった。
ほんもののゲルハルトは、メンゲレより14歳年下で、身長は15センチも高いのだ。

「ドン・ペドロ」という男は、何か暗い過去があってそれを隠しているのではないか。
そんな疑いの元になったのも、やはりこのカードだ。
「ドン・ペドロ」を病院に連れて行ったノルベルト・グラヴェ少年は、彼の使ったIDカードの記載名がおかしいことに気づいていた。
なぜ「ヴォルフガング・ゲルハルト」なのか。
ノルベルトはゲルハルト本人を知っている。
そもそも「ドン・ペドロ」をグラヴェ一家に紹介したのがゲルハルトなのだ。
さらにノルベルトは、「ドン・ペドロ」が病院の治療費を真新しいドル紙幣で支払ったことにも気づいていた。

入院は約二週間。
その後のリハビリ期間中、ノルベルトは「ドン・ペドロ」に付き添った。
狭いバンガローで、閉じ込められたような生活を続けるうち、この老人は少年を苛立たせるようになった。

(訳者註〜何だかこのあたりは流れにまかせて書いた感じ。ことの前後が錯綜している気がする。メンゲレは倒れてから即入院のはずで、その2週間の入院中に、ゲルハルトに連絡が取られたり、IDカードが更新されたり加工されたり、なんて絶対ありえない。前々から健康状態の悪化を自覚していたメンゲレは、更新されたIDカードをあらかじめ用意しておいたか、そうでなければ退院後、一段落してから、今後もこういうことがあるかもしれないと考えたか、そのどちらかだろう)

グラヴェ一家は、この頑固老人の正体に疑いをいだくようになっていた。
「きっかけは農機具製造会社のカタログだった」
エルンスト・グラヴェは言う。
「そこにはメンゲレという名が記されていた。ここから答えに辿り着くまでにさほど時間はかからなかった」

スタマー夫妻がそうであったように、グラヴェもまた、疑わしいから何かをするというタイプではなかった。
「私は行動に移すことが出来なかった。恐ろしかった」
1985年6月、エルンスト・グラヴェはサンパウロの警察に語った。
さらに彼は、1976年の夏に息子ノルベルトがバンガローを去ってからは、「ドン・ペドロ」といっさい接触していないと、警察に話している。

このエルンスト・グラヴェの話は嘘だ。
メンゲレの日記中、グラヴェ一家には、援助者として「サンティアゴ」というコードネームが与えられている。
日記によれば、メンゲレと「サンティアゴ」一家は、1976年の夏以後も、何度となく顔をあわせ、プレゼントの交換までしている。

メンゲレとの関係を暴露されたエルンスト・グラヴェは、ABCのニュース番組で次のようなことを語っている。

メンゲレとはあまり親しい友人になりたくないというのが当時の本当の気持ちだった。
私はユダヤ人に対して特に偏見を持っているわけでもないし、ナチを支持したこともない。
私の工場にはユダヤ人の従業員だっている。
ナチズムは過去のものだ。
援助するに値しない人間を援助してしまったと、今はただ反省するばかりだ。

エルンスト・グラヴェのこの話には、ひとつ重大な事実が欠けている。
彼はメンゲレから金を口止め料を取っていたのだ。
ハンス・セドルマイヤーからメンゲレ宛てに書かれた手紙の中で、その事実は見事に暴露されている。

サンティアゴの件。
援助を受けるために金を払わなくてはならないなんて気分が悪いと君は言う。
同じことを、"the tall man" に対しても、我々はしているのではないだろうか。
いま考えれば、"G + G"(ジッタ&ゲザ・スタマー) と何とか折り合いをつけながら一緒にやっていくという選択肢もあった。

"the tall man" に対するメンゲレの支払い額については、あやふやながら証言がある。
オーストリア、グラーツにあるゲルハルト家の女家主、マリアンヌ・フーバーによれば、IDカードの代金として7,000ドルが支払われたという。
何かと必要になる援助料、口止め料のために、メンゲレはサンパウロに持っていたビルの一画を売却しなくてはならなかった。

(訳者註〜エルンスト・グラヴェがメンゲレの正体を見破ったという話はどう考えても変。「偽のIDカードを持つ怪しい人物が身近にいた」というだけで、「あるときたまたまどこかでメンゲレという名前を見かけたら、突然ピンと来た」なんて、そんなアホな話はない。グラヴェは、ゲルハルトあたりから事情を知らされていたんじゃないのか?)


会いに行きたいという息子ロルフに対するメンゲレの指示は、まるで軍隊の命令のようだった。
計画が持ち上がったのは1973年。
偽のパスポートを使うべきだとメンゲレは主張した。
旅行中に残される足跡はすべて偽物でなくてはならない、と。
1977年5月、セドルマイヤーに宛てた手紙の中で、ロルフがサンパウロに到着してからのことについても、メンゲレは細かい指示を与えている。

実際にはそれほど神経を尖らせる必要はなかったのだ。
西ドイツは、メンゲレの家族に対しては全く注意を払っていなかった。
そうとは知らないメンゲレは、過去の経験から得た教訓として、しつこいほど指示を繰り返した。
地下鉄に乗ったらどんな態度をとるべきか、いかに自然に自分の姿を群集に紛れ込ませるか。
それはかつて列車でイタリアを走破したときのメンゲレの姿そのものだった。
ヴォルフラム・ボザートの家までの道順も伝えた。
そこまで辿り着ければ、あとはボザートがメンゲレのバンガローまで連れて来てくれることになっていた。

ロルフはフランクフルトからリオ・デ・ジャネイロに向けて出発した。
パスポートは、友人ヴィルフリート・ブッセものを使った。
その年のはじめ、一緒に休暇を過ごしたさいに、こっそり盗んでおいたのだ。

父からの指示に従って、ヴォルフラム・ボザートへの土産ものを用意した。
さらにメンゲレ本人に渡すものとして、ラテン語辞書、電気剃刀の替え刃、5,000ドルの現金。
この現金は、カール・ハインツから預かってきたものだった。

スイス・アルプスで最後に会ってから21年、父はすっかり変わってしまっていた。
バンガローの門の前で、老残の姿をさらしていた。
自分を抱きしめようと、おそるおそる両手を差し出してくる、その姿には、悲哀が漂っていた。
「父は壊れてしまった」とロルフ。「まるでおびえた小動物だった」

メンゲレは興奮で震えていた。
その目には涙が浮かんでいた。
ロルフはなぜか赤の他人を前にしているような気分だった。
その気分をどうにか振り払い、抱きしめようとしてくる父の動作に従った。

そこは小さく殺風景なバンガローだった。
滞在中はロルフがベッドを使い、父は床に寝た。
ききたいことは山ほどあった。
はじめは用心深く、なだめすかすようなアプローチを試みた。

アウシュヴィッツ時代のことに興味がある、と父に言った。
その時代のことをどう考えているのか。
そこで何をしたのか。
世間で言われているような罪を犯したのか。
慎重な手順を踏んで、この話題を取り上げた。
父が繰り出してくる曖昧な議論から、何とか意味を引き出そうと、ロルフはあがき続けた。

「審問」は来る日も来る日も続けられた。
メンゲレの口から出てくるのは、哲学の話や胡散臭い科学の話ばかりだった。
人種差別を正当化し、最後は有史以前の進化の話に落ち着く。
その繰り返しで、肝心な点はことごとくはぐらかされた。
疲れた、という調子でメンゲレが両手を広げると、ロルフは気を取り直して別な角度から質問を試みた。

そんなに自信のある主張なら、人目を忍んで閉じこもっているのはおかしい。
ロルフの言葉に父は答えた。
「裁判官はひとりもいない。いるのは血に飢えた復讐者だけだ」

たとえば、からだに障害を持っていても立派な人は大勢いる。
このことはどう説明するのか。
ロルフの質問に、父はこたえず、ただ曖昧な無駄話を繰り返した。

ある人種が他の人種よりも優れていると言い切れる証拠でもあるのか。
これに対する父のこたえは、社会学や歴史や政治の話題に終始した。
「そんなものは科学でも何でもない」
と、ロルフは一蹴した。

そもそも人種で区別するなんて、倫理的にも人道的にも認められるものではない。
アウシュヴィッツのことに話を持っていくため、ロルフはよくそんなふうに話の口火を切った。
もちろん父もそれに気づいていたはずだ。
さらに父は、自分の話がまともに受け入れられるはずはないということも、たぶんわかっていた。

二週間を共に過ごしたことで、ロルフは、父がいつ自殺してもおかしくないほど危機的な精神状態にあることを知った。
しかし戦時中のことについては、何ひとつ知ることはできなかった。
父は、自分が何をしたか語らないまま、それを哲学的な論法で正当化しようとし続けた。
罪はまったく認めなかった。
自分は何の罪も犯していないと考えている人間を相手に、罪や悪について議論するのは不可能だった。
世間で語られている一つ一つを口にする気にはなれなかった。
「父さんがアウシュヴィッツでしたことは断じて許されない」
できればそう言ってみたかった。
そうすれば、父が、一つ一つについて説明してくれるかもしれないと思った。
しかしそれはどう考えても無理な話だった。

1978年末ごろには、メンゲレはすでに生きる気力を失っていたようだ。
意識朦朧の状態で自宅の周囲を徘徊するようになった。
裏庭に倒れているところを発見されたこともある。
あるとき、鋭いブレーキ音に驚いた近所の人がおもてに飛び出すと、いかにも無理やりなかたちでバスが止まっていた。
埃が舞い上がるそのバスの前に、メンゲレが立ち尽くしていた。
自分の身に何が起こったか、まったく分かっていないようで、まもなくゆらゆらと立ち去っていった。

ベルティオガに向けて出発したのは、まさにそんな精神状態のときだ。
汗を搾り出すようなブラジルの盛夏。
海岸に家を借りたから一緒に行かないかと、数日前にヴォルフラム・ボザートから言われ、さんざん悩んだすえ、その誘いにのることにした。

1979年2月5日、メンゲレはひとりベルティオガ行きのバスに乗り込んだ。

「到着するなり怒り出した」
リゼロッテ・ボザートは言う。
「何かに苛立っているようだった」
最初の二日間、メンゲレは海岸の小さな家に閉じこもったまま過ごした。

2月7日、午後3時、ようやくおもてに出た。
「散歩して海岸の風景でも見れば、気分も晴れるんじゃないかと、私たちは考えた」
やはり暑い日だった。
焦げるような陽射しだった。
ヴォルフラム・ボザートと一緒にしばらく海岸を歩いた後、岩の上に並んで腰をおろした。
彼はドイツを愛していた、と、ボザートは言う。

ドイツに帰りたがっていた。
あの日、それがはっきりわかった。
彼は大きな岩に腰掛け、大西洋を見つめていた。
東の方向だ。
彼は独り言のように語りだした。

あの向こうに私の国があるんだ。
人生の最後の何日かは、ギュンツブルクで過ごしたいな。
どこか山の上の小さな小屋で、自伝を書くんだ。

ヴォルフラム・ボザートは適当に聞き流していた。
それを今でもはっきり思い出すことが出来るのは、直後に起こった出来事のせいだ。

火照りを冷まそうとでもしたのか、彼は大西洋の穏やかな波に身体をひたした。
水中でもがき始めたのは、その10分後のことだ。

「おじさん、そこはダメだ。流れがとても強いところだ」

息子アンドレアの叫びに、ヴォルフラム・ボザートは慌ててそちらへ目を向けた。
大丈夫かと問いかけたが、苦痛にゆがんだ表情が見えただけだった。
ボザートは海に飛び込み必死に泳いだ。
しかし辿り着いたときにはもう遅かった。
麻痺状態の体は手の施しようがなかった。
生気のない身体が波間で浮いたり沈んだりを繰り返していた。
その光景はアンドレアの記憶に鮮明に残っている。
メンゲレの命はけっきょく二回目の発作で完全に絶たれた。

メンゲレがブラジルで亡命生活を送っていたという事実、その死や埋葬も含めて、なぜ六年も伏せられてきたのか。
ハンス・ルーデルのような元ナチをはじめとして、少なくとも30名が事情を知っていると考えられるのだが、誰も口を開こうとしない。

1979年8月5日、パラグアイの内務大臣モントナロは、メンゲレの市民権剥奪に関する記者会見を開いた。
「メンゲレは今現在この国にいない、はるか昔に国外に出ている」
8月8日、モントナロは代理人を通じて最高裁判所にメンゲレの市民権剥奪を指示、これは同日のうちに結審された。
メンゲレは1960年以来この国にいないというのが、剥奪の理由だった。

同日、パラグアイのアメリカ大使、ロバート・ホワイトは、メンゲレは死んだに違いないと語った。
「メンゲレは死ぬまでずっとパラグアイにいたと思う」
死んだということに関しては、大使の言葉は正しい。
ただ彼は、メンゲレがブラジルにいたとは知らなかった。

問題は、パラグアイ大統領シュトロスナーがこれを知っていたかどうかだ。

メンゲレの市民権剥奪が、大統領の承認なしで行われたとは考えにくい。
パラグアイの市民権は神聖にして侵すべからざるものだと、シュトロスナーはみなしていたのだ。
「あの大統領が、易々とその取り消しを認めるはずはない」
アメリカ大使ホワイトのこの言葉が正しいとするなら、シュトロスナーは、メンゲレが死んだことを知っていたことになる。
知っていながら、その亡霊を6年間生かし続け、世界中のハンターを密かにあざ笑っていたことになる。

20年近くもメンゲレをかくまったとんでもない国だと濡れ衣を着せられ、腹いせにちょっとしたいたずらを仕組んだのだろうか。
たぶん事実はそうではない。

シュトロスナー大統領がメンゲレの死を知っていたとするなら、その情報の出どころは、親しい友人だったハンス・ルーデルということになるのだろうか。
ロルフによれば、ルーデルは、メンゲレの埋葬場所までは知らなかったらしいが、その死については確かに知っていた。
メンゲレ一家とボザート一家の間には、この死を秘密にするという堅い約束がかわされていた。
同様にハンス・ルーデルも口止めされていた。
相手が大統領ならばと、ルーデルはメンゲレの死をシュトロスナーに伝えただろうか。
口止めされている話だから、他には黙っていてくれと、大統領に言えるだろうか。
かりに言ったとして、大統領はその通り口を噤むだろうか。
黙っていれば、自分の国はいつまでもアウシュヴィッツの亡霊に取り付かれたまま、世界中から非難を浴び続けることになるのに。

シュトロスナーはやはりメンゲレの死を知らなかったと考えるのが妥当だろう。

(訳者註〜埋葬場所を知らないハンス・ルーデルからの情報だったら、公表してもあんまり意味はないんじゃないかなと、個人的には思う。「遺体も発見されていない?」「ただ勝手に死んだって言ってるだけじゃん」「誰が信用するかボケ」なんてことになったら、大統領としてはますます悔しい思いをすることになる。 だったらこのまま口を噤んでハンターの連中をこっそりあざ笑ってやろう、となってもおかしくない。だいたい死んだのが2月で市民権剥奪が同じ年の8月なんて、タイミングよすぎ。とりあえず死んだことは知っていたんじゃなかろうか。というわけで、いたずら説に一票)