無駄とは
このごろ、自分の中でちょっと気になる言葉がある。 「無駄」 普段は特になにげなく使っていることばではあるが、果たして「無駄」とはなんなのだろうか。 とりあえず近くにある岩波の辞書で調べてみると、 「無駄」 役に立たない(余計な)こと 効果、効用がないこと と出ている。 では、「何について」役に立たないのならば「無駄」であるのか。 仮にこの「何」を、人間が生きていく為に必要なものとしたとする。 人間が生きていく為に必要なもの。 人間という生命体が生きていく為に必要なものというと、水と食料、 そして最低限必要な環境(酸素だとか適度な温度とか地球そのものとか)ということになる。 ここでは便宜上、酸素だの温度だの地球だのは当たり前にあるとする。 余談ではあるが、人間が突然「酸素100%の大気の空間」に放り込まれると鼻血を出して死ぬらしいが。 ・・・話を元に戻して 人間というのは水と栄養さえ摂取していれば生命体としてとりあえず生きていける。 ということは他の物全てが人間にとって「無駄」なのだろうか。 一つの結論としてはそれが答えでもある。 しかし、人間もそれでは動物と同じ、いや、動物以下の原生動物同様になってしまう。 では、人間は生きる為に、そしてそれ以外にどのような事を行っているのか。 まず第一に「働く」ということ。 「働かざる物食うべからず」 なんて言葉を大昔に、たまに筆を誤ったりする坊さんが残しているように 現代世界では働くことによって金を得て、その金を消費して生命を、生活を維持している。 しかし、ほとんどの人は「生きる為」以外にも金を消費する。 今現在、人間は生命を維持する事以外の為にいろいろな事をする。 いわゆる「娯楽」というものである。 スポーツ、ゲーム、漫画、旅行、その他もろもろ。 少なくともそれらの金の消費は現代の経済において非常に重要であり、 人々がそれらに全くお金を使わなくなってしまったらあっけなく経済は破綻する。 しかし、「娯楽産業」だけが一方的に潰れることは無い。 人間は「楽しみ」というものがないと生きていけない。 少なくとも、「先になにか楽しみがある」からこそ人間は「働いて」いける。 娯楽という物も、今では生活に絶対必要な物で「無駄」では無い。 では、少し視点を変えてみる。 「娯楽」は必要であるとして、それ以外はどうだろうか。 「学校」というものは「無駄」であろうか。 極端な話、人間は学校に行かなくても死にはしない。 もしそうでなかったら不登校の子供はいまごろあの世である。 ではなぜ、人間は小さい頃「学校」に行くのか。 それが法律だからとか、周りがみんなそうだからというのが正解かもしれない。 しかしそれではあんまりではある。 他の考え方として、とりあえず生きるために、そして 現代社会に適応するために基礎的な知識を養う、というのが取りあえずの理由だろうか。 しかしそれなら、学校で勉強することは生きていく為に必要なのか、 もしくは将来役に立つのか、それらはよくいろいろな場面で問われる事である。 具体例をあげると「古文・漢文」を将来役に立てる人は極々一部である。 数学の高等知識なんてものもはっきり言って使わない人のほうが圧倒的に多い。 歴史は役に立つとしたら・・・将来子供ができて、 子供といっしょに「世界ふし○発見」を見ているときに、 「お父さんすごーい」と言われるぐらいであろうか? とりあえず一番役に立ちそうなものは「英語」かもしれない。 少なくとも私は学校で習った英語が役に立った事などほとんど無いが。 まあ百歩譲って「受験に必要」、ひるがえって「就職に必要」、 なんてことを正当化したとしても、それ以外のものはどうか。 しかし「生活に役立つ」という点で考えると、受験に必要ない物の方が有益ではある。 絵が描ける、歌が上手い、スポーツが得意、などなど。 これらは「技能」として様々な面で活躍できるかの要因になってくる。 それどころか前述の「受験」「就職」と言うものに対して、 学歴以上の有効性を発揮する事も少なくはない。 では、他にはなにがあるか。 「道徳」という授業がある。 道徳の授業は、学校では形式上結構ないがしろにされている場合が多い。 道徳の授業というのは週一回しかないのが普通であり、それどころか、 「遠足のバスの座席決め」や、「修学旅行の班決め」などには 道徳の授業を潰して行われる事が多い。 下手すると、避難訓練の為に潰れた数学の授業の代わりにあっけなくシフトされたりもする。 しかし、個人的には道徳の授業というものは非常に大事だと思う。 少なくとも、道徳の教科書に載っている話には本当に考えさせられる物がある。 しかも、単純に善悪を決められない話が多いのである。 ちょっとタイムリーな話になるが、今現在2001年9月中旬、 例のテロ事件を道徳の授業の題材にしている学校、教師の方々は多いかと。 子供の頃に、こういった事についていろいろと考えたりすることは大事だと思う。 少なくとも、「無駄」ではないはず。 これらのことからして、「無駄」というものはますます決めがたくなってくる。 果たして、「無駄」とは、「役に立たないもの」とはなんであろうか。 しかしこういう考えもある。 果たして「無駄」とは「役に立たないもの」であろうか。 「役に立たないもの」は「無駄」であろうか。 そんなこと言ったら、当ホームページ「格のマーチ」は 無駄の王者、役に立たないものの代名詞、ゴミ箱直行便、そんな感じであるか。 しかし、私は管理人として無駄であると薄々思いつついろいろとやっている。 今日も今日とて更新の為にこうして文を書いている。 それを本当に極僅かな人たちが見てくれている(と思う、多分、実際はどうか知らんが)。 その時点で、少なくとも私自身には決して「無駄」ではないと感じる。 他にも、私は様々な無駄を行っている。 大人からみれば私がやっているテレビゲームなんて無駄かと思うかもしれない。 自分でも無駄かとはすこし思いながらもゲームをやっている。 しかも、ゲームというのはクリアするのが目的であるのに、 それ以外の「無駄」もゲームの中で多く行っている。 絶対に自分からは使わない、役に立たないであろう 「死の宣告」や「死のルーレット」のラーニングに必死になったり、 3Dダンジョン形式のRPGで、オートマッピングの空白を埋めるために 一歩前に落とし穴やダメージゾーンがある事を知っているうえで そのマスに無謀にも突入したり、 アドベンチャーゲームで、選択肢が出てきたらセーブして あきらかにゲームオーバーへの片道切符であるような選択肢があっても とりあえず全ての選択肢を選んでみる、 などは私にとって日常茶飯事である。 いわゆる「わかっちゃいるけどやめられない」というものである。 「無駄」だとわかっていてもついついやってしまう事だが そこに楽しみ、充実をほんの少しでも感じたときに「無駄」では無くなるのだから。 「学校」もそうである。 一日の自分の勉強を終えて、その時に満足感や充実感があれば「無駄」とは感じないはず。 例えその日の勉強が全く役に立たない内容だったり、自分自身に身に付いていなくても。 それでは「無駄」とはなんなのか? 個人的な結論は 無駄とは少なからず必要なものである という結論に達する。 人間は、ある程度の無駄があってこそ生きていけるのだと。 その無駄にはゆとりや安心が含まれているのだから。 辞書どおりの「無駄」=「必要ないもの」ということは成り立たない。 「無駄」があったからこそ、人間は進化したのではないかと。 そして最後に、 某エロゲーの言葉を引用するのであれば 「無駄こそ快楽であり、快楽こそ無駄である」
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