欠点があればこそ




当たり前のことですが、世の中には完璧なものなんて存在しません。 どんな人でも、どんな物でも、欠点というものがあります。 完璧な人間であろうとしても、完璧な物を造り出そうとしても、 絶対にどこかに欠点が生ずるものです。 逆に言えば、もし完璧な物体が存在したら、それはこの世界の物ではありません。 それは、想像の世界の物でしかないのです。 つまり、この世の全ての事物は「不完全」な物の集まりで出来ています。 物の集まり、人の集団、いろいろな考えのまとまり、 これら全てが、不完全な要素の合成物として、不完全なモノとして存在しているのです。 不完全であるということは、しばしば不測の事態を引き起こします。 不完全であるが故に、人間は失敗をします。 不完全であるが故に、人間はコロコロと意見を変えます。 不完全であるが故に、人々は意見の食い違いから争いを起こします。 しかし、もしこれらの「不完全」な部分が無くなってしまったらどうなるでしょうか。 完璧で、絶対に失敗を起こさない人間。 完璧で、いつも同じ事しか言わない人間。 完璧で、意見の相違が存在しない人の集団。 そんな1と0しかない世界、いや、1しかないような世界、楽しいですか? 自分の言ったことに対して、心の無いロボットの様に常に同じ事しか答えない人なんて、 一緒にいてもおもしろくもなんともないじゃないですか。 不完全な物質の、不完全な性質に対して、不完全な対応をする。 欠点のある人間の、欠点のある意見に対して、欠点のある答えを返す。 これこそが人間であり、そして、この世に存在するモノである証なのです。 人間は、そしてこの世界にあるものは、不完全だからこそ、欠点があるからこそ、存在しうるのです。 完璧な存在なんて、必ずしもこの世には必要であるとは言えないのです。 そして、欠点があるから、完璧ではないからこそ、 人間はお互いに助け合い、お互いの欠点だらけの考えを出し合って話し合い、 完璧ではない力を出し合って、完璧ではない事物を扱う事で、現在を生きているのです。 生きていくということは、助け合うことなのです。 お互いがそれぞれ持つ欠点を、補い合うことなのです。 そして、人間の「愛」というのは、その欠点を認め合う事、相手の欠点を許す事です。 自分自身が相手の欠点を補って、そして自分自身の欠点を相手にも補ってもらって生きていくこと。 それが相手を好きであること、相手を愛するということなのです。 すこし余談になりますが、子供というのは、とてもわがままです。 大人の言う事なんて聞きゃしません。 はっきりいって子育てには苦労が伴います。 ですが、手のかかる子供ほどかわいいものです。 逆に、親の言う事をなんでもハイハイ聞くだけの子供なんてつまりません。 そんなのロボットと変わりないのですから。 親に反抗する、勝手な事をして親を困らせる、わがままを言う。 そんな子供であるからこそ、欠点があるからこそ、愛することができるのです。 完璧なものに「愛」は存在しません。 欠点があるから、不完全なものであるからこそ「愛」というものが存在するのです。 欠点を許す事、不完全なもの許す事、それが「愛」なのです。 で、私が最終的に何を言いたいかというとですね、 「臭くない納豆」とか「匂いがあまりしないニンニク」とかが最近スーパーで売られてますが、 そんな物もはや「納豆」でも「ニンニク」でもねえんだよボケ。 納豆は臭いからこそ、ニンニクってのはあの鼻にツンとくる 周りに迷惑な匂いがあるからこそ美味しいんだよ。 臭いっていう欠点があるからこそ納豆でありニンニクなんだよ。 試しに買ってみたら、味はともかく匂いがあまりしない分、はっきり言って物足りなかった。 (゚д゚)マズー 「臭い」「匂いがキツイ」という欠点を無くした時点で、アイデンティティ喪失。 「臭くない納豆」「匂いの無いニンニク」 私はこれらに「愛」を注ぐ事は出来そうにありません。 だってつまんないし。 そう、納豆が美味しいのは、ニンニクが美味しいのは、「臭い」って欠点があってこそ。
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