ゲームの製作者(あるいは製作者グループ)は、経済的な問題や、技術的な問題、また、役職的な問題をクリアした範囲内で、自由にゲームを作る権利を持っています。
「ゲーム」そのものは決して製作者だけのものではないと思うのですが、ゲームを作る行為は、間違いなく製作者のものです。数学的なプログラムとデジタルデータ化されたイメージの合成を、好きに行えるという、素晴らしくクリエイティブな権利を有しているはずです。
そして同時に、ゲームを作ることによって得ることの出来る、ありとあらゆる利益を受ける権利も持っています。たとえそれが製作者の意図したものでなかったとしても、あるゲームによって起こった経済的、あるいは社会的な現象とその利益は、その製作者に還元されるべきです。ゲームが一つの創作物である以上、当然のことです。

製作者とゲームのプレイヤーの間には、送り手と受け手という立場の違いがあります。ゲームが上手な人が、イコール、ゲーム制作も上手いという図式は、成り立ちません。逆も同じで、テトリスの作者パジトノフ氏が世界で一番テトリスが上手いということはないでしょう。
この、明確に異なる両者が協力し合うことで、現在のゲーム文化は成り立っています。人が二つに分かれている時、選択肢は2つしかありません。握手するか争うか。極端な話をしていますが、プレイヤーが製作者を侮り、製作者がプレイヤーを舐めてかかるような状態では、決して良いゲームは出てきませんし、良いゲーム文化は育ちません。
プレイヤーは製作者を尊敬し、製作者は自分が胸を張って発表出来る作品を作ることに全力を傾ける。これが、理想の状態だと思います。

実際には、市場主義経済の渦中に住む我々が、こういった理想の状況にたどり着くことは難しいです。ゲームは作品である前に商品なので、納期や、経費や、技術の問題を抱えた上で、適正な価格で市場に並ぶことを大前提としています。
しかし、時に理想を目指すことも必要です。理想があるから、現状をよりよくしていくことが出来るわけですし、それを見失ってしまったら、そこから前に進めなくなってしまいます。そこが、その人の世界の果てになってしまいます。

クリエイティブな作業には、本来、限界は無いはずです。遠く気高い理想と、経験を元にした具体的な方法論、そして現在自分の自由になる小さな「何か」を備え持って、なにものも恐れず前に進む人を、僕は応援したいです。


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