はじめに断っておきますが、これは、非常に不謹慎なこの「愚かな大衆」という言葉の存在にも、僕はそれなりに意味を見出しているという話です。

言葉というのは、発生した瞬間に、二つの対象をもっています。言葉の発し手と、言葉の受け手です。僕は、「愚かな大衆」という言葉に対して、まず自分が受け手であると考えます。極端な被害妄想ですが、「誰か偉い立場にいる頭の悪い人が、自分のことを愚かな大衆の一人としか見ていない」と、考えてみます。
そうすると、自分の自尊心がむくむくと膨らんできて、なにかしてやろうという気になってきます。人の気を引くこと、人の役に立つこと、人には出来ないこと。悪いことをしてもしょうがないですから、人に誉められることをしようと思います。
そして、何かをするには自分の能力が足りないということに気が付いて、勉強をはじめます。誰から見ても「愚か」と思われないように、思い込みで物を判断しないようにしたり、一つの物事を様々な角度から考えられるように訓練したりします。
ある程度勉強が進むと、だんだんと自分に自信がついてきます。他の人と違う意見が言えるようになったり、他の人が気が付かないことにいち早く気が付けるようになったりします。
すると、増長が始まります。この増長こそ、長い人類の歴史の中で多くの災いを引き起こした、人間の悪徳です。さてここで、もう一度「愚かな大衆」という言葉を、今度は送り手の立場で蘇らせてみます。
するとあら不思議、この増長が引き潮のように引いていくではありませんか。いつのまにか自分が、「愚かな大衆」という言葉を平気で使うような、「偉い立場にいる頭の悪い人」になっていたことに、気が付かせてくれるのです。

人は、その一人一人がそれぞれの顔と考えを持ち、「大衆」と一くくりに出来るものなんてこの世に存在しません。たとえ多くの人の中に良くない考え方をする人がいても、そのすぐ隣にいるのは賢者かもしれないのです。
世間にいる人一人一人の顔が見えなくなり、「大衆」と感じるようになってしまったら、それは、危険信号です。それは、「無い物が見える人」になりつつあるということなのですから。

「愚かな大衆」という、不謹慎で、ありえない言葉は、その不謹慎な響きとはうらはらに、人の向上心を活性化させ、そして醜い自我の肥大を抑制する働きがあるんだなあなんて、ある夏の日に、考えてみました。






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