不勉強の身ながらも、「こういう事が出来たら、きっと理想的だよね」というような話をさせていただきます。

特許というのは、技術的な新発見や、旧来無かったような何かのアイデアを特許庁に申請することで、「あなたが最初にそれを思い付いたので、そのアイデアを使う権利はあなたにあります」と、人に認めてもらうことですよね。
そうすることで、そのアイデアを獲得するまでにその発案者が費やした時間や労力が報われ、場合によっては、後からそのアイデアを使いたいと言ってきた人に対して、お金を取ってその権利の一部を貸し与え、一財産作ることも出来るそうです。
先に特許を取った者の権利というのは絶大らしく、後発の、あきらかに同じようなことをやっている人に対して、「それは私が先に考えたアイデアだから、勝手に使ってはいけません」とそのアイデアの使用を停止させることも出来るそうです。
では、二者のアイデアが、どちらが先かわからないような状態に陥っていたり、もしくは、ある特許にかなり似ているけれども、同じアイデアと言い切れるかどうか難しいといった場合はどうなるのか。しかも、その判定によっては将来にわたる多大な利益が左右されたり、既得権益が犯されてしまうような場合は。
この部分がどんどん膨らんでいくことで、結局、泥沼のような訴訟合戦になってしまうことが、ちょくちょくあるようです。

芥川竜之介の「蜘蛛の糸」で、主人公のカン陀多は、自分の後から蜘蛛の糸を登って来る地獄の罪人の群れをみて、このままではこの細い蜘蛛の糸が切れてしまうと、群がる無数の罪人たちを一喝した途端、糸が切れて再び地獄へと真っ逆さまに落ちていきました。
せっかくの救いを無に帰してしまうという、勿体無い話ですが、この小説の優れているところは、読んだ人のほとんどは、カン陀多の心理が理解出来てしまうところです。自分が掴まっているだけでも切れてしまわないのが不思議なくらいの細い蜘蛛の糸。自分にもたらされたそのか細い幸運を、何の努力も無しに亡者達が甘受する。そんなことが、あってたまるか。
ここで、「どうぞ皆さん、一緒に登りましょう」と言える人の心理の方が、不可解というものでしょう。そして、人はその業を背負って、地獄の底へ落ちていくのです。

蜘蛛の糸が切れないという保証はありません。特許を認定されたアイデアも、いつ、どんな新しいアイデアが現れることで無意味になってしまうかわかりません。しかしながら、僕らは、蜘蛛の糸を登り切れなかったカン陀多の惨めさも同時に理解しています。
「切れてしまうかもしれないけれど、一緒に登りましょう」と語り掛けることは、人間には不可能なのか。もし不可能だというのならば、その一点こそ、人間が新たに獲得しなければならない「勇気」ではないのか。

などと思っておりましたら、ちょっと目にした雑誌記事によりますと、現在の特許というのは、強力な権益ではなく、「私が先に考えたものだから、敬意くらいは払ってよね」といった程度の意味あいのものがほとんどになっているとか。
「あなたの考えたそのアイデアを使って、私はこういう事をしたい」
「どうぞ、僕の考えたものであるということさえ明記してくれるなら、存分にお使い下さい」
いやはや、世界は、僕なんかの思考の範囲内より、よっぽど先進的であったらしいです。

今回のような一人よがりにならないためにも、現代社会に生活する人類が、いかなる道徳を持って生活しているのかを、ちゃあんと勉強し続けなければならないという、よい教訓になりました。


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