今月に入って、全然更新が行われていないにもかかわらず、随分沢山の方がこのこどものくににいらしてくれています。
いつも大した話は出来ておりませんが、見に来て下さっている皆さんに感謝の気持ちを込めて、今回は少し自分の話をしてみようと思います。多くの優しい言葉をかけて下さった皆さんや、僕の事を気にかけて下さっている皆さんに、感謝を込めて、あまり人に語った事のない話をさせていただきたいと思います。

小学校5年生の終わり頃から、僕は「考え事」にとりつかれました。何も考えないでぼーっとしていることが出来ず、とにかく、何かいつもテーマをみつけて、頭の中でこねくり回していました。ただ、当時考えていた事は、ほとんど憶えていません。おそらく、答えのでないような問題について、堂々巡りをしていたんだと思います。その状態は、小学校を卒業するまで続きました。
中学で、ちょっとしたきっかけがありました。ホームルームの時間に、担任の先生がB4のわら半紙を配って、「普段自分が考えている事を好きに書きなさい」と言いました。僕は、とりあえず机の上にあった鉛筆の話から始めて、物質の成り立ち、時間の始まりと終わり、人間の行為を何かに記録する意味等について、思い付くままに書きました。もちろん、主観と思い込みに偏った、寝言みたいな内容の文章でしたが、細かい字で紙の3分の2ほどをびっしりと埋めました。
先生は、その紙に返事を書いて返してくれました。それは、内容に関する直接の返答ではなく、僕の文章を読んでいるうちに先生の頭の中に浮かんできたという、ガンと人間の総数の関係についての話でした。先生は、その話を紙の裏側まで使って赤いペンで書き連ね、最後に、僕が行っている思考は、「哲学」というものだ、と教えてくれました。先生がとても丁寧な返事をくれたことに僕は舞い上がって、友達にそれを見せびらかしたりしましたが、それと同時に、自分の中でずっともやもやしていた物に初めて名前を与えられて、とてもすっきりした思いでした。ちなみに、その担任の先生は、若くてきれいな方でした。
僕は考え事をする事にさらに熱中し、中学一年の終わり頃には、「釈迦や孔子でも、こんなに考え事はしなかっただろう」と、今考えると傲慢の極みのような気分を味わっていました。当然その頃の僕はまだ、釈迦や孔子が何をした人か、ほとんど知りませんでしたけど。
やっぱりこの頃の僕が何を考えていたのかは、今ではほとんど憶えていません。そのB4の紙も、最近までは引き出しに入っていたのですが、引っ越しなどをしているうちにどこかに紛れ込んでしまいました。

中学2年になり、友人が小説を書いてどこかに送ったら図書券が貰えた、という話をきいて、僕も小説を書き始めました。小説を書きながら、どんどん沸き上がって来る夢想を、あちこちのノートに走り書きするようになり、やがてそれらをまとめて「ネタ帳」を作りはじめました。ほとんど毎日何かを書き留めていたそれは、そのころの僕の日記のような役割を果たしました。人に見せるかどうかが違うだけですから、今も、あの頃も、やってることはあんまり変りませんね。
さて、その頃に作りはじめたノートは、書く頻度はだんだん減ったものの今でも続いており、その量は膨大なものになっているのですが、その中に「人でないものになりたい」という一文から始まるノートがあるんです。
それぞれのノートは、思い付いた事と、それを書いた日付だけが走り書きのように連なっているだけなのですが、やはり日にちが近いと関連のある話や文脈の繋がる話が多かったりして、当時の自分の事などが思い出せたりします。しかし、その「人でないものになりたい」は、どこから出てきた考えなのか、前後の脈絡も無くさっぱりわかりません。また、日付は付いているものの、具体的にいつ思い付いた事なのか、やっぱりよく分かりません。
しかし、この言葉は、今では僕にとって一番大切な魔法の言葉なのです。

「人でないもの」に、それ以上の定義はありません。例えば、大虐殺を行った歴史上の指導者等が、「悪魔のような人」と言われる事がありますが、それは人です。「悪魔」とまで言われたら、やっとそれは「人でないもの」です。そういう、表面上のことでもあります。同様に、「あの人は天使のような人だ」は、人だから駄目です。「天使だ」ならばOK。また、身体的に、人ならば100m走で九秒代後半くらいが限界ですが、「人でないもの」ならば七秒とか、一秒とかで走れるかもしれない、なんていうのも一緒に考えてしまいます。
そして又、内面の話でもあります。人であるならば耐えられないような悲しみも、「人でないもの」ならばそよ風が吹いたほどにも感じないかもしれません。極悪非道の犯罪者を、許したりできるかもしれません。
「人でないもの」は、空を飛ぶ事が出来るかもしれないし、地中を泳ぐ事が出来るかもしれません。世界から全ての苦悩を取り去る事が出来るかもしれないし、世界の真理にあっさり気が付けるかもしれないし、不死であるかもしれません。

きっと、読んでいて「何を言ってるんだこいつは」、と思われたことでしょう。内容が支離滅裂です。論理というより、詩に近いかもしれません。
中学の頃から、ずっと、ぼんやりとこんな事を考えていたんですが、哲学や論理学なんかを少々齧った頭でまとめているうちに、これはきっと、折に触れて突き抜けた価値観を持つ、ということになるんだと考え付きました。
人は生きて入る限り人の殻から逃れられませんし、死んでからだって、周りの人から「いい人だった」とか「やな奴だった」とか人として扱われ続けるわけですが、それに捕われず、自分が限界だと思う世界からさらに外に出てみる、という思想なんだと思うのです。単純です。

チーターなら、100m走七秒は簡単です。飛行中の宇宙ロケットなら一秒もかからないでしょう。仏像や十字架はどんな罪人をも許します。本物の天使がどこかにいたら、世界の苦悩を取り去ったり、真理を知っていたり、深い悲しみに傷つかないでいられるかもしれません。
「人でないもの」なら、どれも簡単な事なんです。
これを初めて思い付いた時、僕はなにかとても哀しい思いに打ちひしがれていたような気がします。「人でないもの」に憧れることで、僕は自分が人であることを強く意識し、悲しむ自分というものを、正当化したのだと思います。

人である限り、死ぬまで「人でないもの」になろうとする努力は終わる事がありません。「人でないもの」が普遍の、例えば「神」なんかであるならば、これは怪しい宗教になってしまいますが、「人でないもの」は、この世界に存在するあらゆる物のことですから、その答えや、目指す方向は無数にあり、一つの考えに凝り固まる事がありません。同じものを目指しても、正反対の方向を向く事すらあるでしょう。
大きな目標として「人でないもの」になることを掲げ、今の自分の行動の根元にも、それを同時に存在させます。
こうして自分で分析しているうちに、これはなかなかに優れた思想ではないかと思えてきました。いくつかの矛盾を内包したまま、思想として存在しうるような気がします。もちろん、僕個人の思想としてですけどね。

「人でないもの」になるには、他人の何百倍も努力しなければならないかもしれません。反対に、思い切り怠けて、他人のお世話になり続けているうちに、ふいになれるものかもしれません。まあ、そういう人は普通、「努力した人」や「怠け者」と呼ばれますけどね。「努力した人」は、それからさらに努力を重ねても、「努力」そのものになることはできません。やっぱり「努力した人」でありつづけるでしょう。
しかし、「人でないもの」になることは、実は不可能ではありません。
歴史上には結構、「人でないもの」になってしまった人がいます。菅原道真は天神様になってしまいました。徳川家康は大権現です。日本の歴史上には、このように神様になってしまった人がかなりいます。ぐっと格が下がりますが、民話などにはよく、物や動物になってしまった人の話が出てきます。中国の歴史には、「虎になってしまった男」の話が実名で出てきます。
後の人が何らかの目的で祭り上げた。面白い話になるように脚色された。おおいに結構です。「人でないもの」になるというのは、そういう表面上のことでもOKなんですから。
自分で自分の事を「人でない」と言ったら、大抵は狂人でただの幻想ですが、まわりからそう言われる事は、事実として希に存在するのです。


「人でないものになりたい」というのは、僕てなしもにとって、一番心の奥底にある言葉です。僕の考えや行動は、すべてここから始まっていると考えてもらって構いません。その根元が、こんなにもあやふやな概念だからこそ、僕はこんなにちゃらんぽらんなわけです。
12月1日からの本格再スタート後も、今まで通りのちゃらんぽらんな、寝言みたいな話が続くと思いますが、よかったら、これからもよろしくお付き会い下さいませ。


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