人は、目で見たり耳で聞いたり肌で感じたりしたことを、自分の中で再構成して、世界を認識しています。その外部から入って来る情報を、まとめて、一つの世界として僕らに認識させてくれるのが脳という器官です。
僕らが認識している世界というのは、すべて脳が見た世界です。脳を通さずに世界を認識する事は、人には出来ません。
脳は、外部から入って来る情報を体系化して、一つの世界を作り上げます。僕らはそれを世界そのものであると認識していますが、科学的にはそれは、世界の本当の姿ではありません。例えば、人の目では感知出来ない赤外線や紫外線、人の肌では触った事を感じる事が出来ない極小の物体、そして、僕らが知らない情報。それらのものが、僕らの認識している世界からは抜け落ちています。

さて、脳は、基本的には解剖学や脳生理学で扱う対象のモノです。しかし、脳というのは人間の活動すべてをその内側から起こさせている根元なわけですから、人間に関するありとあらゆる学問は、脳を研究対象としても良いはずなのです。
ある学者が、脳と社会学の関係に気が付きました。ある人物の脳とその人物をとりまくコミュニティーは相同関係にある、という事に、ある時ふと気が付いたのです。(相同:同じものを起源に持ち、同じ構造を持つということ。例えば、哺乳類の前足と鳥類の羽は、進化の過程で使用法が別れ、異なる機能を果たすようになったものだが、その骨格は今でも酷似しており、相同関係にある。)

生後間も無い幼児の脳は、生物としての基本的な機能以外は、ほとんど白紙の状態です。そこに、外部からどんどん情報を与える事で、その脳内に世界を再構成してやります。はじめのうちは意味も分からず、幼児はただ物を見つめ、音を聞き、体を動かすだけですが、ある瞬間、幼児の中の乱雑に積み重なっていた情報が、意味を持って有機的に繋がりはじめ、脳内にその幼児だけの世界を作りはじめます。そして人間は、そうやって作りあげた自分だけの世界を通して、外の世界を認識しはじめるのです。
だから、人間の脳は、その人をとりまくコミュニティーの構造と同じになります。

砂浜に住む生き物は、自分の体の形に合わせた孔を砂に穿って、そこに生活します。僕らも同じです。僕らは、脳にとって住み心地の良い世界を、僕らのまわりに作り出します。
厳しい自然から自分達の体を守るため、家を創ります。護身、防寒、装飾、その他30ほどの理由によって、衣服を着ます。食料を手に入れやすい土地を求めて移動し、確実に食料を手に入れるために飼育や栽培をはじめます。家の材料、服の素材、使い易い道具等を求めて、原始的な流通の仕組みが生れます。流通をスムーズに行うための輸送道具や、道が整備されます。それに合わせて、情報伝達の仕組みが発達しだします。
身のまわりを見渡してみて下さい。脳にとって不快なものは僕らのまわりから遠ざけられ、身近には、脳にとって心地よいものしか無いではありませんか。
こうして、人々の住む環境や、人々の構成するコミュニティーは、脳によって創られます。

お互いがお互いの元である。では、どちらが先なんでしょうか?・・・この二つのものの発生は、同時であると考えられています。どちらがかけても、残されたものは有効に機能しないからです。
酷く当たり前の理屈です。しかし、近年まで、こういったことに気が付く人はほとんどいなかったのです。それは、社会学と解剖学が異なる学問として別々に研究されていたからなんです。この理論に気が付いた社会学者が訴えているのは、異なる学問の研究者同士がお互いの研究を勉強しあう事で、1+1を3にも4にもしようという事なんです。こういう発表を、その社会学者は文理シナジー(相乗効果)学会で行いました。
『社会学の謎の一つに、「ムラの構造」というのがあります。人の社会は常に変化していて、人が生活している村の構造も、常に変化、進歩をしています。しかし、その構造変化は一様にはおこりません。現代社会の一端である現代の日本の農村にも、例えば江戸時代から変わらない風習というのがよく残っているのです。それが新しい社会の中でも何故消えずに残っているのか、そういう謎があります。しかし、脳生理学の成果を用いれば、この謎は簡単に解決出来ます。人の脳は、外側に大脳新皮質という高機能なものがありますが、その内側には旧皮質や脳幹といった古い構造の脳がそのまま残っているのです。だから、今の社会にも古い構造が残り続けるのです。細部の細かい状況などはもちろん色々と異なりますが、理論上、この二つは、同じ現象なのです。』
これらは、発表当時は「ヒューマンスマテリア(人物)」、今は「複雑系の社会学」と呼ばれている学説です。
今まで主に理系の分野で扱われていた複雑系という学問体系を、社会学に組み込んだ世界最初の学説です。数年前にはじめに日本語論文、ついで英語論文で発表され、世界の一部の社会学者の間でとても話題になっています。

さてさて、ここからが本題です。今まで述べてきたこのお話、すべては研究中の学説でしかありません。ですから、実はとんちんかんな大間違いであるかもしれないのです。現に、こんなのは出鱈目だ、という批判を浴びせて来る学者や、見向きもしない学者もごまんといます。
しかし、この学説は面白いのです。理論の展開をどんどん進めていくと、妖怪の話だとか、文学の話だとか、人は何故あくびをするのかとか、何故人は人を好きになるのかとか、ありとあらゆるものに、わりと簡単に答えが出てきてしまうのです。
この学説はてなしもの武器なんです。この学説を知っているのは、世界中でも現役の社会学者くらいだからです。同じ学者でも、他ジャンルの方々にはまだ全然認知されていませんし、一般にも、社会学の最新情報なんて、TVニュースレベルにまで落ちて来るには20年くらいかかります。
この学説を、物語の構造作りに利用したり、難解な文学の理解に利用したりする使用法は、おそらく、世界でまだだれも行っていません。僕だけです。実は僕、この点に関しては世界の最先端なんです。なんちゃって。

この学説を通してみると、世界は僕の知らなかった姿をいろいろと見せてくれます。世界を構成する理論を知る事で、人はより「客観」に近づく事ができます。それは科学の使命であり、究極的には「人でないもの」に至る道の一つです。
近年、また他の学者からのアプローチなどもあって、随分多角的な脳の研究が進んでいるようですが、その研究の成果を踏まえた誰かが創作の世界にそれを活かす事にやっとたどり着いた時、ううんと引き離しておいてやろうというのが、僕の目下の野望です。
まだまだ勉強しなければならない事が山ほどありますが、いつか、これを活かした他に類を見ない上質の少年少女向けファンタジー小説を上梓するつもりです。


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