僕らは、まず何より自分を大切にしなければなりません。
おぎゃあと生まれて此の方、嬉しいことも、楽しいことも、時には辛いことも悲しいことも、みんなこの体と精神があったからこそ感じることが出来たんです。
それらの感覚や、そういった記憶の蓄積は、他の誰でもない、自分だけのものです。例え親や兄弟だって、自分のこの感覚を全て共有してくれているわけではありません。
だから、自分で自分を守らなくてはならないのです。自分を守るためならば、何をしてもよいのです。自分を守ってくれるのは、まずは自分だけなのですから。

ところで、人は事ある毎に「人を殺してはいけません」と言います。
当然です。「人を殺してもいいですよ」と言ってしまうと、その相手に自分が殺されてしまうかも知れないからです。自分の大切な人を殺されてしまうかもしれないからです。
みんな自分を守るために、他人に対して「人を殺してはいけません」と言うのです。

ところで、本当に人って殺してはいけないものなんでしょうか。
論理的には、他人の存在の証明というのは、未だなされていません。そんな居るんだか居ないんだかわからない人の都合なんて、知ったこっちゃありません。「殺すな」って言われても関係ありません。そうすると、「自分が殺したいと思ったら人を殺していい」、ということになってしまうかもしれません。

でも、自分は死んでは駄目です。当たり前です。自分の存在証明というのは、有名な「我思う故に我有り」でなされているのですから、この世でただ一つ存在の確かな自分というものを、消してしまって良いわけは有りません。質量保存の法則だって、慣性の法則だって、そこにあるものは有り続けようとするし、そこに無いものは決して発生したりしないとしています。そこにあるものを消してしまうというのは、宇宙の科学の法則に反しているのです。

さて、論理では他人の存在は証明出来ていないわけですが、僕らは直感的には他人の存在を認めています。先天的に、他人が存在しているということを知っています。
論理や科学の世界ではありません。人ならば、自分以外にもこの世に他人というものがいるということを、知っているのです。
「他人」というのは、その「他人」自身にとっては「自分」です。想像力があるならば、他人の痛みや他人の悲しみを、自分に置き換えて想像することが出来るはずです。そうやって想像したとき、間違いなく他人は直感的に実在します。
論理だけで構築される世界を越え、自分の枠の外にあるものを想像したとき、人は他人をあらためて認識し、そしてやっと自分と世界との対話が始まるのです。

他人を殺すことは、自分を殺すことと全く等しいのです。
だから、人は人である限り、人を殺してはいけません。

コンピューターに計算させても、現時点でこの答えは出ません(いつか論理学が他人の存在を証明できるようになったらわかりませんけど)。
だからこそ、人は、人を殺してはいけないと、直感的に理解している限り、人なのです。
人種も民族も文化も常識も法律も関係ありません。意志あるものは、意志ある他者を殺してはいけないのです。
そしてそんな他人の存在を認めることができるほどの想像力の翼は、自分を守ると同時に、その持ち主にどこまでも豊かで美しい世界を見せてくれることでしょう。


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