11月の11日、12日にかけて、信州へ行ってまいりました。祖父の一周忌です。
 祖父は、病状が悪化する直前の去年の夏、考えあってカトリックに改宗したため、墓石には、苗字の前にペトロという洗礼名が刻まれています。
 宗教が違うわけですから、例えば高いお金を払ってお坊さんを呼んだりする面倒がなかったりとか、三回忌とか七回忌といった仏教の風習にも関係無かったりするので、いろいろと勝手が違うなあとは思いながらも、やはりある程度カタにはまったものがないとということで、墓前にお線香を上げたりはしました。

 おりしも信州は冬の入り口でした。
 紅葉は盛りを少し終えた頃。信州の秋の山々というのは少々慎みが深く、色づいた葉が落ちきる前に雪に埋もれることで、禿げ上がってしまったみすぼらしいその姿を覆い隠してしまいます。
 ちょうど去年がそうでした。
 山中の焼き場に向かう車の窓からは、祖父の好きだった紅葉が、やや時期が遅かったにもかかわらず、山という山を赤や黄色や山吹色に染め上げていて、そのあまりの華やかな美しさに、葬儀の席であるにもかかわらず、僕らは歓声を上げてしまったものでした。
 そしてその翌日、北信濃一帯はその年初めての本格的な降雪にみまわれ、山々は冬の装いになったのです。
 祖父は大変にわがままなところのある人だったので、僕らは口々に、「おじいちゃんは最後まで、自分の見たいものを見て、周りの人の迷惑なんて考えない人だったね」と笑いあったものでした。

 今年の冬は例年より温かくて、11月に入っても、長野市で最高気温20℃を記録する日があったくらいなのですが、僕らが訪れる数日前から急激な冷え込みがあって、当日の墓地の気温は6℃でした。
 風もありました。僕は祖母に寄り添って、その手を引くのが役目でした。
 その寒さは、ちょうど生前の祖父を思い出させる厳しさがありました。
 寒い代わりに、墓地の桜の紅葉が一際美しかったのでした。
 桜は年に二度咲くのだなあ、などと僕はぼんやり考えていました。

 祖父の墓前で、隣で手を合わせる従兄にも聞こえないような小さな声で、おそらく、生まれてから発した声の中でも一番小さな音量で、僕は祖父に、文章を書いてご飯を食べていく道の、小さな小さな第一歩を踏み出せたことを報告しました。
 祖父は生前、僕の小説家になりたいという夢を、あまり快くは思っていなかったようです。趣味でやる分にはいいだろうが、好きなことを仕事にしてしまうのは辛いぞ、と二度語ってくれました。
 しかし、僕がやりたいことをやって、それで食べていかれるのなら、父や母にとっても一番嬉しいことのはずだ、とも言ってくれていました。
 そんなことを言う祖父ですが、実は祖父こそが、僕の近しい人の中では一番好きなことを仕事にした人でした。
 僕が思い描いている人生は、祖父の人生をなぞるところが多くあります。

 祖父については、またいつかきちんと書こうと思っています。
 戦前、戦中、終戦直後、戦後、高度経済成長期、そして近年。それぞれに、「信念と実行」の人だった祖父の面白いエピソードは山ほどあるんです。
 そしてきちんと、大きな大きな結果を残した人でした。

 これからも、ちょうどこの紅葉の時期に、たびたび信州を訪れることになると思います。
 紅葉や秋の味覚といった祖父のもてなしを受けながら、僕はこれからも生まれ故郷の信州を愛しつづけます。
 どこに住んでいても、帰る場所はやはりここなんだなあと、その山々を見るたびに僕は思い返すのです。


 ちなみに、一泊二日の旅行中、ソバは四回食べました。
 あと、田中新知事で話題の長野県庁も見学してきました。田中さんがんばれ。


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