主人公、草薙素子少佐は作品内では特に言及されないが、死体として表現されている。
全体に明暗がはっきりした画面が多く、また、肌の白い登場人物が多いためにあまり目立たないが、彼女の肌は腐肉のように白く、彼女が特に感情表現をしない時、彼女の目は瞳孔が開ききって中空を見つめている。
映画の冒頭、裸でビルから飛び降りるシーンから、ラストの少女の姿になって街を見下ろすシーンまで、一貫して画面には死体の主人公が登場し続けている。
この表現は、観客の感情移入を無意識下で阻害しており、何の準備も無しにこの映画を見る人が楽しみづらくなっている一つの要因といえる。
普通、アニメのキャラクターは、その表情によって観客に感情を知らせるからである。
しかし、その狭い視野から離れて、一つの表現としてサイボーグ・草薙素子をとらえてみるとどうか。
彼女は作中、その外見の機械的な無表情とは相反する、多彩な感情の揺れを見せる。
自分の存在の不確かさにおびえ、「人形使い」の恋の告白にためらい、パートナーのバトーに助けを求め・・・「人形使い」のいささか色気には欠ける口説き文句に戸惑いながらも受け入れてしまう女心のはかなさは、士郎正宗原作のマンガ版に比べて、あまりにもか弱く描かれている。
彼女の人形的な表情と、重たいサイボーグの体を引きずったアクションシーンは一度脇において、彼女の声、そして行動に主眼を置いて鑑賞すると、草薙素子があまりに「普通の女性」である事にあなたも気付くことができるだろう。
このコントラスト。素晴らしい能力を得る機械の体のために、身体的な感情表現が乏しくなってしまっているという対比は、十分に面白い。
この辺りのアニメファンの死角とも言える表現をやすやすと使えるあたりが、押井守が「アニメ嫌いのアニメ監督」と言われる由縁だろうか。
こうして見ると、この作品を「単純な恋愛物語」と評する押井守の発言もよくわかる。また、アニメジャンル以外の批評家に好評だったのもうなずけるところだ。

作中の犬・鳥・魚などの表現や映画の主題に言及する論は、また次回以降の更新で。
それにしても恐ろしいのは、今回述べた内容はこの作品を理解する上で非常に重要な部分であるのに、それに私が気が付いたのが、今日(1999年8月9日)、この原稿を書きながらの何十回目かのリピート鑑賞中のたった今であったことである。
研究者を標榜するものが、こんなことでよいのだろうか(笑)
こんな僕の文章ですが、どうか見捨てないでくださいね。




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