とても有名な小説だけに、冒頭の「ある朝、グレゴール・ザムザが気がかりな夢から目を醒ますと・・・・・・」のところや、全体の大きな話の流れについては、知っているつもりでした。

すみません。ブンガクは、人に感想を聞くものではなく、自分で読まねばならぬものでした。

この読後の、後味の悪さと爽快感のない交ぜになった不思議な精神状態は何なのでしょう?途中から読者の感情移入を拒みはじめるグレゴールの虫っぽい行動と、そんなグレゴールをもはや家族と思えなくなっている両親と妹の醜いけれども理解出来る精神状態は、グレゴールの死によって解き放たれ、残された家族は前向きに活動をはじめてしまいます。
しかし、飢え死に直前のグレゴールが、最後にとった行動は、その妹のことを思ってのものではなかったのか。そんな風に、グレゴールが最後の瞬間まで人間らしい意志と感情を持っていたということを知るのが、乱暴な老家政婦だけであるというのは、悲劇ではないのか。これだけの悲劇のはずなのに、読後、僕の心に沸き上がる爽快感はなんなのでしょう?

僕は、最初、ある日突然毒虫になり、家族の厄介ものになってしまったグレゴール・ザムザが、他人のようには思えず、強い感情移入をして読んでいました。
仕事を辞めて、実家に戻ってしまった自分が、重なって感ぜられたからです。ただし、グレゴールが毒虫になってしまったというのは、現代に生きる僕が解釈しやすいような比喩表現ではなく、そのままの、SFのような出来事であるという認識ははっきり持っていましたから、無意識のうちに、どこかで感情移入に制限をかけてはいたと思います。
しかし、僕がそんな面倒な精神の働きをしなくても、僕はじきに感情移入を解いてしまったことでしょう。グレゴールの行動は、しだいに人間らしさが薄れ、だんだんと虫の意志になっていってしまうのです。このあたり、多くのホラー映画や小説なんかに引用されている描写だと思います。みんなきっと、そういうシーンでは「変身」がやりたかったんでしょう。
こういった、作品の内包する高度なブンガク性とは別の部分で他のものに影響を与えているというのは、なかなか興味深いことです。

これぐらいスムーズに心の中に入ってこられると、ずっと潜在意識の中に残っていて、あるとき何かの拍子に心の表層に飛び出してきて、僕に思いもかけない行動を取らせたり、突飛な発言をさせたりしそうな、そんな力を秘めた小説であると思いました。
まことに、名作ブンガク、おそるべしです。


back