ある人が優れた文学に出会った時、その作品に対する感想をその読後に求めるのは、あまりいいことでは無いような気がします。
優れた文学は、読み終わった直後から読者の血肉となってすでにその存在の一部に混ざり合っており、それについて意見を求められても、すでに自分と見分けのつかなくなっているそれについて語ることは、大して意味を持たないと思うからです。
これは、読者の年齢や、作品のジャンルに関わらない、普遍の原理ではないかと思います。

特に隠していたわけでもありませんが、僕は「とんび」というハンドルネームで、よくこのHPからもリンクを張らせていただいているすえさんのHPにお邪魔しており、よく、少々Hな小説を投稿させていただいています。
「Hな」といっても、別に高度な芸術性のある文章というわけではなく、普通の、ありていに言えば僕の妄想を文章化したものです。その上、主な題材として扱っているのは、このHPでも一つコーナーを設けているほど僕が「好きだ」と公言して憚らない某アニメーション作品のキャラクター達で、ここ「こどものくに」では真面目にそれについての作品論をぶちながら、一方では同じキャラクターに、いかに色っぽい格好をさせるかということに、心を砕いています。

そうして、自分のキャラクターとして動かしてみることで、色々と解って来ることがありました。
他人の創造した借り物のキャラクターだからこそ、僕の手の中に囲い込んでしまっても、僕の想像を超えて自由に動き回ります。そのキャラクター達に付き合っているうちに、彼女らと共に過す時間がこの上なく楽しいものになってきて、まるで連載小説のように続編が次々と書かれて、本来ならば9月中にも書き上げられるはずだった僕のオリジナル小説は、一向に物語が進行しません。そちらの登場人物達は、いつまで経ってもてなしもの精神世界から出られないことに苛立ち、H小説のキャラクター達を恨みはじめてすらいるかもしれません。
借りたキャラクター達は、とにかく快活に、僕の妄想を具現化して、のびのびと動き回ってくれるのです。僕の知らなかった彼女らの魅力を、僕に知らせてくれるのです。

僕は中学生の一時期、「本を読むために本を書く」という考えを持っていたことがあります。文章を書いた分だけ、本が読めるのだと自分に言い聞かせていたのです。普通は逆なんでしょうが、そうして入れ替わりが起こってしまうくらい、僕にとって文章の消費と生産というのは、密接な関わりを持つものでした。
今回、読書週間という企画を行ってみて、一番利益があったのは、僕の精神に、また幾ばくかの栄養を注入出来たことです。
借りたキャラクター達も、出番を待つオリジナルキャラクター達も、こうして精神土壌に新たな滋養が加わったことで、瑞々しい艶を持って改めて文章上に現れることができるでしょう。
問題があるとすれば、今回の企画で、僕が改めて読書という快楽を認識してしまったことで、読書に取られる時間が、又僕のオリジナル作品の創造の時間を狭めることになるかもしれないということでしょうか。まあ、それはそれで彼らには、ひたすら待ってもらうしか無いんですけどね。

というわけで、今回の秋の読書週間企画は今日でおしまいです。
きっといつか、HPのネタが無くなった時や僕の心が乾いた時なんかに、再び突発的に行うかもしれませんが、その時は又、この駄文にお付き会い下さいませ。
・・・・・・あ、「金閣寺」の感想がまだでしたね。
僕の好きな禅の「公案」の話がいくつか出てきて、その部分が特に興味深く読まれました。あとは、おいおい僕のH小説の中などで、この小説を読んだ成果みたいなものを吐露していくことと思います。一編の小説に、読む前と読んだ後でこれほど自身の変化を認識させられたのは、京極夏彦氏の「姑獲鳥の夏」を読んで以来でした。


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