押井守作品を鑑賞する際には、常に二つの視点を用意しなければなりません。
「その作品単体だけで読み解く視点」と「押井作品一連の流れの中で読み解く視点」です。
前者はその作品が上映されている時間にそって行使され、、後者は過去の押井作品を頭の中で横に並べ、その時見ている場面と比較しながら扱っていきます。
後者の認識を持つことで、無意味に感じたシーンが鮮やかな色彩をもって能弁に私達により難解な謎を語り掛けてくれるようになったりするわけですが、映画としての評価は、主に前者の視点によって下されます。
この前者がそもそも、なかなかに難解で、それが押井作品の世間一般の評価の辛さと面白さに繋がるわけです。

しかし、決して「後者の視点が入っているから押井映画は難しいのだ」などと勘違いしてはいけません。
「映画」を作ることにこれほど貪欲な監督が、「映画」であることに意味を成さないシーンを一秒足りとも作品内に入れるはずがありません。アニメ映画は、そのシーンをわざわざ技術のある人間が描かなければならないという性質上、実写以上に細かく作品内の時間が制限されます。画面の隅からすみまで設計図を引かれた状態で作られる映画なのです。
挿入されているシーンが難解であったり、無意味に感じられるのならば余計に、そのシーンには必然性があると考えなければならないし、実際に押井作品に登場するそういったシーンは、研究すればするほど、深い意味が現れてきます。(押井作品と少女革命ウテナ以外のアニメについては、知ったこっちゃございません。)

そして、「パトレイバー2・ザ・ムービー」は、僕の知る限りでは、押井作品の中で「一番無意味に見えるシーンが多い作品」なのです。
なぜ、延々と水族館なのか。なぜ延々と首都高速なのか。なぜ延々とあの男は鳥の映像を見続けているのか。
意味はあるはずなのに、解らない。ストーリーに整合性はあるが、必然性が解らない。
まさに押井守ファンの醍醐味が味わえる一本です。
僕の研究の成果は、また次回以降の更新で発表していきたいと思います。





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