私の歴史資料館 ( 第1回 )

始めに

 これは私が歴史上に存在した国や個人について、主に人になりますが、 それについて色々としゃべってしまおうというものです。 基本的な形としては、 この人はすごい人なんだよというものになります。
 今回はハンニバルついてです。 ですから彼について興味のない方は 読まない方が賢明でしょう。 でも、歴史の好きな方、彼に興味のある方、 もしくはもう知っていて、私の書いたことにつっこみを入れてやろうという方、 とにかく読もうと思った方、大歓迎です。 そして読んだ感想なんかを もらえればとってもうれしいです。 感想に限らず、それは違うぞという 反論、書いてある事への質問、この人について知りたい、興味がある といったもの、何でもかまいません。 気が向いたらお願いします。
 最後になりましたが、私の文を掲載させてもらえることになったてなしもさんに 心から感謝します。
                                                         1999年10月29日  Atsushi
ハンニバル。 正式な名は、ハンニバル・バルカ。 バルカとはフェニキア語で雷光を意味します。
ちなみに大学受験に使われる世界史用語集を引いてみると頻度は12。 なかなかに高い数字です。
しかし教科書を開いてみると、ハンニバルについて書かれている所はわずか7行。 抜粋してみると’カルタゴの名将ハンニバルのイタリア侵攻のため、何度も危機におちいったが’とありますが、これではハンニバルがどのくらいすごい人物であったかがわかりにくい。 しかし歴史というのは教科書に書かれていない所ほどおもしろいもの。 そうした所を私はしゃべりたいと思います。
 (なお、私が使っている用語集や教科書は1992、3年度版なので今のものとは違っているかもしれません)

 まずはハンニバルがローマ相手に戦った第二次ポエニ戦争前までの歴史を簡単ですが話してみたいと思います。

   ハンニバルは紀元前(以後BCと省略)247年、ハミルカルの長男として生まれた。 彼が生まれた当時の状況としては、ローマとカルタゴの間に位置するシチリア島を巡り、この2カ国が争っていた。 これは島の領有だけでなく、地中海の制海権を巡っての戦いでもあった。 後に世界帝国へなっていくローマもこの時はまだやっとイタリアを統一したばかり。 しかもローマはカルタゴと争うまで海に出たことがなかった。 一方カルタゴはアテネが衰退した今、地中海第一の海運国。 しかも地中海世界最強最大の軍船団を持っていた。 しかしローマは当時の人の予想を裏切って戦争を有利に進めていく。 理由としては色々あるが一番大きな理由はローマが海戦の不利を補った点にあると私は思う。 今回はローマの話ではないので詳しくは語らないが機会があればいつか話したいと思う。 とにかくローマは戦いを有利に進めた。 しかし状況は変化する。 BC247年、つまりハンニバルが生まれた年に彼の父親ハミルカルがシチリア戦線を担当することになったからである。 戦術史上最高の戦術家と言われるハンニバルの父親である。 彼はゲリラ戦により陸、海両方のローマ軍を苦しめた。
 しかしそのハミルカルを支援しなければいけないカルタゴ政府は2つに分かれていた。 カルタゴは通商で有名なフェニキア民族の伝承を継続して、優れた通商民族である。 しかしアフリカに根をおろしていた彼らは後のベェネツィアと違い、通商だけに頼らなくとも農業経営という手段があった。 今現在の北アフリカ一帯とは違い、古代のアフリカは雨にも緑にも恵まれていた。 しかもカルタゴ人の農業生産能力は高かった。つまりカルタゴ政府は通商と農業生産といわば2枚のエースのカードを持っていたのである。 しかしこのために皮肉にも国論は常に2つに割れた。 農業を支持する国内重視派のリーダーはハンノン一門、逆にバルカ一門は通商を支持する対外進出派のリーダーであった。 対外進出派は制海権の維持に敏感である。 国内が2つに割れたこの状態で、ローマ有利のこの状態をひっくり返すの無理と判断したハミルカルは、どうにか戦争前の状態に持っていこうとした。 しかし、カルタゴの派遣した援軍はローマ海軍に海戦によって破れ、これによりカルタゴ政府はローマとの講和に踏み切った。 この時講和をまとめる役目を負わされたのはハミルカルである。 これによってカルタゴは400年の間築き上げてきた、シチリアでの権益を全て失った。 これは地中海の東半分を失ったことを意味する。 これが教科書にも登場する23年も続いた第一次ポエニ戦争である。 この戦争後、ハミルカルは国内重視派の勢力が強い本国を去り、スペインに向かった。 この時ハミルカルは神殿にハンニバルを連れていき、生涯ローマを敵にすることを誓わせた後、スペインへの同行を許した。 この時ハンニバルは9歳である。
 この後ハンニバルは、スペインで成長していく。 そして父が死に、彼の姉の婿であったハシュドゥルバルが殺されると、ハンニバルがスペインの総督になった。 この時はBC221年。 ハンニバルはまだ26歳であった。 実権を握った彼はさっそくローマの同盟都市を攻撃する。 これにローマは当然のごとくカルタゴ政府に抗議を申し入れた。 しかしカルタゴ政府はこの抗議を一笑にふす。 逆に攻撃はそちらからされたと言ったようである。 ローマは見え透いた嘘を嫌い、カルタゴ政府に、戦争か攻撃を引くかの二者択一を迫る。 しかし使者がローマにつく前にこの都市は陥落した。 この事実によりローマはついに宣戦布告をする。 これこそがハンニバルの望むところであった。 これによってローマ人がハンニバル戦争と呼ぶ、第二次ポエニ戦争が始まった。 BC219年の事である。 

   さて歴史はひとまずおいておいて、ハンニバルという人はどんな人だったんだろうか考えてみたいと思います。
 様々な資料から、冷静で自己規制の出来た人だとか、頑固であったとか、女色に溺れなかったとか、鍛え上げられた肉体の持ち主であったとか、逆に残虐な人であったとか、色々と読みとれるようです。 しかし彼の外見についてはまったく現在に伝わってないらしい。 彼が大きかったのか、それとも小さかったのか。 色男であったのか、それとも外見は良くなかったのか。 こういった事が分からないのです。 最近までハンニバルと思われてきた像も、今では反対意見のが優勢らしい。 しかしはっきりしている事があります。 それは紛れもない戦争の天才であったことです。 過去でも現在でも古代世界で5本の指に入る名将と、その評価は非常に高い。 後に説明することになると思いますが、戦史研究上欠かすことが許されないとされている、ハンニバルがローマ軍を壊滅に追い込んだカンネ(もしくはカンエナ)の会戦などは、日本ではどうか知りませんが、ヨーロッパの士官学校では必ず学習するほど有名な会戦です。 
 それでは少し話を変えますが、戦争の天才とはどういった人たちを指すのでしょうか。
 戦史上、天才と言われる人たちは少なからず存在します。 例を挙げるなら、アレキサンドロス(英語読みではアレキサンダー)大王、フランス皇帝ナポレオン、モンゴル帝国のチンギスハーン、日本でなら織田信長、古いところで源義経などではないでしょうか。 ちなみに例に諸葛孔明の名がないことに変と思われる人がいるかもしれませんが、事実を言えば彼は部将ではなく一地方政権の宰相にすぎない人で、実際に兵を指揮したことは私の記憶が正しければ一度もない人です。 それが日本でこれ程有名になったのは三国志演義という正史ではない、いわばファンタジー小説のような本のおかげです。 話がそれたので元に戻します。 
 有名な人は例に挙げた人たちの他にも多々存在しますが、彼らに存在する共通点としては、もちろん戦争に強かったと言う事が一番でしょう。
 戦争とはプロシアの軍人、カール・フォン・クラウゼヴィッツが箸した戦争論によれば、政治の延長上にあるもので、戦争自体が目的ではないとされています。 そして戦争の原型は敵国の防衛力を無力たらしめるのが絶対戦争で、その原型に応じる形が決戦であるとされています。 そして戦争には二つの要素があります。 それが戦略と戦術です。 簡単に概略すれば戦略とは戦場以外の場所で戦いを有利に進めるために練る方策のことで、敵国の人的資源、工業資源、経済力、国際関係、自然環境にまで考えを及ばさねばなりません。 逆に戦術とは戦場で戦いを有利に進めるための方策のことです。 戦争においてどちらがより大きいウエイトが占められるかは、もちろん戦略の方です。 例えば日本が生んだ天才、奇才と言ってもいいと思いますが、織田信長。 彼は生涯のほとんどの戦いを、戦う前に勝敗を決しています。 その方法は、敵よりも遙かに多くの鉄砲を揃え、敵に数倍する大軍を召集し、それを、自分が望む戦場で、敵に叩きつけるといったものです。 いずれも戦勝のため必要条件ですが、それを確実に実行するために条件を整える作業が戦略と呼ばれるものです。 つまり戦略がしっかりしていれば戦いに勝ったようなものですが、一概にそうと言えないところに戦争の奥深さがあります。  そしてそうしたところに戦争の天才と呼ばれる所以があるのです。 卓越した戦略を駆使して、敵より多くの兵力を揃え、自分が望む戦場で戦闘に突入したのにもかかわらず、敗北した例は戦史上でいくつか存在します。 そしてそうなった多くの場合は、勝利者側にまわった者がそれまでの常識とされていた戦術を無視して、全く新しい方法を持って戦闘を行った場合が多いのです。
 意外に思われるかもしれませんが、戦争の技術とは、この世の中でもっとも保守的なものだと言われています。 少し考えてみれば分かると思いますが、一度確立した戦術は確立した以上、高い確率で勝利を得てきたことになります。 そうなればその戦術は天才的な戦術家が現れて、実際にその戦術を破ってみせるまで絶対のものとして君臨します。 それはそうです。 わざわざ有効と思われるものを使わず負けていたのでは話になりません。 ましてや賭けるものは人間の命に国の命運なのですから。 
 ではどんな周期で戦術は変わってきたのでしょうか。
 戦術の変化は人口の変化、工業技術の変化にも密接に関係していますが、基本的にはやはり人間であり、天才と呼ばれる人たちによって替えられます。 天才とは同じものを見て、凡人には気づかなかったものに気づく人たちのことです。  ですから変化する周期は非常に遅いものです。 戦争の才能は人間の持つ才能の中でもっとも稀有で、もっとも発揮されにくいものです。 戦争の天才とは、一時代に一人いればいい方で、全く現れないことのが普通なのです。 考えてみてください。 例え才能を持っていたとしても、常に世の中で戦争が起きている訳じゃありません。 例え起きていたとしてもその人が指揮する立場にいるとは限らない。 しかもやっかいなことに戦争の技術とは習得に非常にやっかいな技術なのです。 歴史上、特に近代以降は多くの国家が軍学校を設立して優秀な将校の育成に努めましたが、軍事技術とは本質的に教育で身に付くものではありません。 むしろ才能が全てといってもいいかもしれません。 ですからもしかしたらこれを読んでるあなたが、世が世なら英雄と呼ばれる人になっていたかもしれませんね。 私自身の場合はそんな才能は持っていないと思いますけど。
 この国にはこんな有名な話がありますね。 チンギス・ハーンと源義経は同一人物であると。 話としてはなかなかおもしろいものですし、確かに同時代に騎兵の天才がほぼ同じに現れることも希であるため信じたくなりますが、これは明らかにファンタジーの域はでませんね。  チンギス・ハーンは生まれた年ははっきりとしてないのですが、彼の父親も母親もはっきりしてますし、それに二人とも騎兵の天才ですがその種類が違うんですね。 チンギス・ハーンが行ったのは騎兵の集団戦法で日本のような国土では生まれるものではないし、仮にあったとしても役には立たないものです。 義経が行ったのは戦場までの騎兵による高速移動で、戦場では昔ながらの、やあやあ我こそは・・・なんてやってたんですね。 それでも騎馬の移動は堂々とゆっくりするものだ、なんて時代に馬を早足で駆けさせた義経は時代の破壊者であり、紛れもない天才ですね。 
 長々と語ってしまいましたが、ではハンニバルはどんな戦いを行ったか話したいと思います。
彼の戦いのやり方は彼自身が語っているように、基本的にアレクサンドロス大王の戦術を参考にしたようです。 ちなみにアレクサンドロス大王の戦術とは騎兵の運用のやり方にあるようです。 戦争の主役はあくまで歩兵、それも重装歩兵です。 それはアレクサンドロス大王の時代でも変わらないし、ハンニバルの時代でも変わりません。 しかし、アレクサンドロス大王はあくまで伝令や追撃に使われていた騎兵を、騎兵の持つ機動力に目を付け、その機動力を駆使して軍を有機的に結合させた。 それまでは歩兵は歩兵、騎兵は騎兵同士戦っていた。 これでは結局勝負を決めるのは数になってしまう。 そこでアレクサンドロス大王は騎兵の運用を従来のやり方から変えたのです。 騎兵に歩兵をぶつけたり、またその逆も。
つまりハンニバルが学んだのはこの騎兵の有機的活用にあったのです。 しかし優れた弟子は師匠のやり方に必ず何かを付け加えていく。 アレクサンドロス大王はだまし討ちはしなかったが、ハンニバルはやりました。 つまり戦争に勝つには何でもやるという姿勢があったのです。
 先ほど戦争には戦略と戦術の二つの要素があることをいいましたが、ハンニバルはどうであったかを話したいと思います。 戦術家としての彼はほぼ満点だと私は思います。 彼がアルプスを越え、ローマに来てから小さな戦闘を含めて、彼自身が指揮を行ったときは一度もローマに負けていないのです。
ちなみに彼がローマに来てから退去するまでの期間は彼が29歳から44歳までの間、つまり15年間あります。 敵国で補給もろくにない状態で、これだけでも彼のすごさは伝わってきます。 特に両軍がぶつかり合う会戦においてはローマは徹底的にやられます。 ローマはハンニバルに勝てる人材がいないことを自ら認め、ハンニバルに対して会戦を挑まない持久戦にでました。 ハンニバルに会戦で勝つのは後の天才スピキオを待たなくてはいけません。 ローマ人がハンニバル戦争と呼ぶ第2次ポエニ戦争においてローマの受けた被害は執政官クラス10名以上、10万人以上の戦死者になり、このほとんどがハンニバルの軍隊に受けたものです。 ちなみに執政官クラスとはローマの戦略単位である2個軍団15000を率いる資格がある者です。 ローマは最高権力者自ら戦場にでていく義務があるため死者が多いのは当たり前だが、それにしても10名以上はすごい。 ローマは市民集会において選挙で執政官を選ぶ。 現在のどこかの国と違い、ほぼ優秀な人物が選ばれます。 それがここまで戦死するとはローマの被害は相当なものだと言えると思います。 戦死者の方も相当すごいですね。
 先ほど挙げたヨーロッパの士官学校で必ず学習するカンネの会戦などは古代人の記録が正しければ7万ものローマ兵が戦死したのです。 これは戦術の芸術とも言えるもので、簡単に話せば中央でローマの誇る歩兵の突撃をくい止めている間に、両翼に配置された騎兵がローマ騎兵を壊滅させ、その後中央でローマ歩兵を止めていた兵が左右に分かれ後ろに配置されていたハンニバル軍の歩兵がローマ軍を攻撃。 左右に分かれた歩兵もそれがれがローマ軍の左右に攻撃を仕掛ける。 そして最後にローマ騎兵を壊走させた騎兵がローマ軍の後ろに攻撃を仕掛ける。
これでまるで絵に描いたようにローマ軍はハンニバル軍に囲まれたのです。 ここからは戦闘ではなく虐殺であったようです。 8万人以上繰り出し、生き残ったのは捕虜になった1万人と逃げ出した5千人あまり。ハンニバル軍の被害は6千人くらいだったそうだから、野球で言えばまさしく完全試合で、戦史上でもこれ程一方的な戦闘は類をみない。 ハンニバルはもともと包囲殲滅戦が得意なのだが、これ程みごとに決まったのはこれが最後だったようです。 ローマにとってもこれ程の敗北は、これが最初で最後になります。
では何故これ程まで一方的に、ローマが負けたのか。 それはもちろん戦場においてハンニバルの戦術の見事さもありますが、軍隊の構成にも問題があるのです。 ローマ軍はハンニバル軍よりも騎兵の量が少なく,その兵士の全体数からの比率もずっと少ないのです。 このカンネの会戦の両軍の構成はローマ軍歩兵8万、騎兵7千2百、ハンニバル軍は歩兵4万、騎兵1万というふうになっています。 数だけ見ればローマの優勢は明らかですが騎兵の数に差があります。 しかもハンニバル軍の騎兵は当時地中海最強といわれたアフリカのヌミディア騎兵。 それにガリア騎兵も参加していました。 ローマの人たちも騎兵には当然注目していました。 ハンニバルが何度も身をもって教えてくれたのですから。 しかしすぐには補強できませんでした。 なぜなら騎馬技術とは修得にとても時間がかかります。 そうではないと思われる人もいるかもしれませんが、ちゃんと理由があります。 当時はまだ鐙がなかったのです。 鐙とは馬に乗っているときに足を乗せる輪のようなものです。 これによって人は馬の上でも踏ん張って剣を振ったり出来るのです。 鐙がなかった当時、馬を乗るのに足で馬の腹を挟んで乗っていたので、とても修得に困難なのは分かってもらえると思います。 ですから子供の頃から練習でもしてなければとても馬になんか乗れなく、ローマでは貴族の子弟のみが可能な技術でした。 しかも当時地中海で馬の産地といえば、ガリアとアフリカ。 つまりハンニバルによって二つとも押さえられていたのですね。 ローマが騎兵を増やせないのはこうした理由があったのです。 ちなみに鐙が開発されたのは中世に入ってから。 鐙の開発が、華やかな中世騎士物語を作ったと言えるでしょう。
 それにしてもハンニバルの戦争の強さは信じられないもので、当時でもその後でもローマ人はハンニバルのことを悪魔のごとく呪っていました。 しかし文章を残したローマの知識人達は、ハンニバルの事を嫌ってはいても、彼の能力を認めない者はいませんでした。 ここはローマ人らしいのですが、ハンニバルはそれほどローマ人の心に残る存在だったのでしょう。 
 一度ハンニバルはローマの首都の城壁に迫ったことがあります。もちろんこれはデモンストレーションで、ハンニバルはすぐにローマを落とせるとは思ってませんでした。 しかし、これによって会戦に乗ってこないローマ軍を、誘い出そうとしたのです。 結果はうまくいきませんでしたが。 しかしこれ以後、ローマでは子供がダダこねたときに、いい子にしてないと戸口にハンニバルが来ますよと脅したそうです。 日本で言う鬼みたいですね。 とにかく戦術においてハンニバルは天才の名に恥じないものでした。
 では戦略ではどうだのでしょうか。 結果から言えばいいとは言えません。 何せハンニバルはローマを落とせなかったのですから。 しかし凡庸ではありません。 ハンニバルは常からローマに勝つにはローマで戦うしかないと思っていたそうです。 第一次ポエニ戦争はシチリア島が舞台でしたから、ローマの土地そのものは少しも戦火を浴びていません。 しかしローマに直接攻め込むには当時の状況から考えてとても難しいのです。 ハンニバルがいるスペインからローマを目指すにはそのまま行ったのではローマの同盟都市をいくつも攻略しなければいけない。 それでは第一次ポエニ戦争と同じ結果になってしまう。 では海はどうか。 当時の制海権は完全にローマが握っていた。 残るは北からしかない。 ローマは北のガリアをまだ制圧は出来ていなかったのです。 このためにハンニバルはアルプス越えという前代未聞の行動にでました。 そしてこれによってハンニバルはついにローマを攻める所までこれたのです。 しかしローマで戦うだけではローマに勝つことは出来ません。 ローマに勝つには、ローマとその同盟都市を分裂させる必要があります。当時のローマとその同盟都市が動員できる最大兵力は、70万近くであったそうです。 もちろん各人生活がありますから、全員が参加は無理ですけど、それでも5万そこそこのハンニバルにとっては、十分驚異的な数です。 だからハンニバルは戦場でとらえた捕虜で、ローマ市民は殺すか奴隷にするかしましたが、同盟都市の兵士は無傷で帰しました。 こうしてハンニバルは自分の敵はローマだけとアピールしていきました。 その結果、一つ二つの同盟都市はハンニバルに従うようになりましたが、ハンニバルの期待する雪崩現象は起きませんでした。 ローマとその同盟都市の関係は非常に強固で、ハンニバルの目算は甘かったのです。 つまり戦略に穴があったといえるでしょう。 当時のローマは後の歴史家が語る、理想といえる国家体制の一つを築いていました。 これが同盟都市を分裂の追い込まなかった一番の原因でしょう。 どんなものか詳しく書くと長くなりますから、ここは割愛させてもらいます。 
 ハンニバルは次々と勝利を収め、それを戦略に連動させていきましたが、最終的にはうまくいきませんでした。 結局、天才スピキオがカルタゴの本拠地アフリカを攻め、この敗戦でカルタゴは条約を結びハンニバルを呼び寄せざるをえなくなり、帰還命令を出しました。 これでハンニバルは15年間戦い続けたローマを去ります。 そして歴史上でも滅多に存在しない、優れた名将同士の直接対決であるアフリカのザマの会戦で、ハンニバルはスピキオに負けます。 ハンニバルがアレクサンドロス大王の弟子であるなら、スピキオはハンニバルの弟子でした。 スピキオがザマの会戦で使った戦術は、ハンニバルが生み出したものと言っていいモノでした。 しかもハンニバルは、この戦いで負けはしましたが、それは騎兵力の不足といった問題があったのです。 この時、ヌミディア騎兵は、スピキオの味方をしていたのです。 ハンニバルにはこの騎兵の不足した状態で勝のは困難だと分かっていたのでしょう。 その証拠にハンニバルはスピキオに戦う前に、講和の申し込みを入れ、断られているのです。 それでもハンニバルは戦う以上最大限の布陣をくみました。 それは名将の名に恥じないもので、自分の精鋭部隊を最後尾に配置しました。 つまり傭兵によって戦い仕掛け、ローマ軍が弱ったところを自分の精鋭部隊でとどめを刺そうとしたのです。 この考えはまだこの時代に存在していない予備兵力という考え方で、戦術に関してはやはり天才でした。 結局ザマで負けたことで第二次ポエニ戦争は、カルタゴの敗戦という形で終了します。   
 ハンニバルの敗因はどういったところにあったのでしょうか。 カルタゴという強大な国家にハンニバルという稀代の名将を要して勝てなかった。 ローマがすごいと言えばその通りだが、やはりカルタゴ側は挙国一致体制がとれなかったところが大きいように私は思います。 ローマは苦しくても最後まで国が一つになって戦いました。 一方カルタゴは常に国論が割れ、ハンニバルへの援護も徹底を欠きました。 ハンニバルへの補給で成功したのは、2回ほどであったようです。 ハンニバルはハンニバルで、勝手に戦っていたと思います。 やはりローマに勝つには、ハンニバルはまず政府の実権を握るべきだったと私は思いますね。 その上でローマに戦いを挑めば、違う歴史が存在したかもしれません。 
 ではハンニバルは、歴史に何ももたらさなかったのでしょうか。
 それはないと私は思います。 ローマはハンニバルと戦うことで戦争のやり方を覚えました。 そして戦い続けたことで兵士は戦いになれ、ひどく強い軍隊を形成できるようになったのです。 それがローマを地中海の覇者にしました。 そしてローマはこの後、ハンニバル戦争による危機感管理体制として、もともと助言機関でしかなかった元老院が実権を持ち、うまくいったため、後の改革はひどく保守的なモノとなり、ローマの迷走を生み出しました。 そしてそれを直すため、歴史家が嫌う、帝政ローマに移行していく。 つまりハンニバルがもたらした、ローマの歴史への影響力は、とても大きいと私は思います。
 ハンニバルは第二次ポエニ戦争後、カルタゴ政府の建て直しを計ります。 しかし、ハンニバルの政策は正しいのですが、強引なやり方を嫌う反ハンニバル派はローマにハンニバルはシリアと内通しているとして訴えました。 結果、ハンニバルは祖国を脱出し、シリアに亡命します。 この時51歳。 その後ハンニバルは亡命を繰り返し、最終的にはローマに捕まりそうになって毒をあおり、自殺しました。 稀代の戦術家は、64歳でその生涯を閉じました。 生涯ローマにとって敵対姿勢をとり、そしてそれを崩すことはなかった。 父親との誓いを最後まで守ったと私は思いますね。


 ハンニバル。 私的なエピソードはほとんど残さなかったが、2つのエピソードを紹介したいと思います。
ハンニバルとスピキオは会談をしたことがある。 この時スピキオは質問を投げかけた。
「 あなたは我々の時代でもっとも優れた部将は誰だとお考えですか? 」
ハンニバルは即座に答えた。
「 マケドニア王のアレクサンドロス。 小規模の軍勢しか率いられない身で、大軍を動員したペルシア軍を破っただけでなく、人間の考え得る境界を遙かに越えた地方まで征服した業績は、偉大としか評しようがない 」
スピキオは再びたずねる。
「 ならば、二番目に優れた部将は? 」
ハンニバルは迷わずに答える。
「 エピロスの王ピュロス。 まず戦術家として一流だ 」
ちなみにピュロスは優れた戦術家ですが、ローマに負けています。
スピキオはさらにたずねる。
「 それならば三番目に優れた部将は誰だとお考えですか? 」
ハンニバルは即答する。
「 問題なくこの私自身 」
スキピオはこれには思わず微笑する。
「 もしあなたが私にザマで勝っていたとしたら? 」
ハンニバルは当然というように答えた。
「 それならば私の順位はアレクサンドロス大王を越えて、一番目にくる 」
アレクサンドロス大王を越えるかどうかは別として、確かに戦術家としてはスキピオよりもハンニバルの方が上だと私も思う。 スキピオが使った戦術はハンニバルが生み出したものだからです。 もっともスキピオの才能があって初めて使えるのですが。 しかし、戦略家、政治家としてはスピキオの方が明らかに上でしょう。 これは歴史が証明しています。

 もう一つのエピソードを紹介します。 これはリヴィウスの著作の中の一カ所です。


 暑さも寒さも、彼は無言で耐えた。 兵士と変わらない内容の食事も、時間が来たからというのではなく、空腹を覚えればとった。 眠りも同様だった。彼が一人で処理しなければならない問題は絶えることはなかったので、休息をとるよりもそれを片づける事が、常に優先した。 その彼には夜や昼の区別さえもなかった。眠りも休息も、柔らかい寝床と静寂を意味しなかった。 兵士達にとっては、樹木が影をつくる地面に直に、兵士用のマントに身をくるんだだけで眠るハンニバルは見慣れた光景になっていた。 兵士達は、そばを通るときは、武器の音だけはしないように注意した。
 これだけでも少しはハンニバルの人間性に迫れると思う。 ハンニバルの軍隊はもともと傭兵がほとんどの、各民族の混成軍隊であった。 それなのにハンニバルを見限った兵士はほとんどいなかったという。

 ハンニバル。 一般的にはただ戦争の上手かった、ローマの敵というイメージがある。 もちろんそれは事実ですが、そのほかにも色々とある人だと私は思います。 何より私は彼を孤高でかっこいい男だと思います。 この私の駄文につきあってくれた人が、ほんの少しでも彼の魅力を感じてくれたなら、私はとてもうれしく思います。 

   最後に、ここまで読んでくれた方に心から感謝します。 そして次の機会があれば、またよろしくお願いします。

                                                            1999年11月14日     Atsushi

( なお、この文章は、塩野七生著 ローマ人の物語2 ハンニバル戦記を主に参考にして書いてあります。とても良い本ですから、興味を持った方は是非読んでみてください。)



世界史上の英雄の生涯、憧れますね。

中学や高校で習う世界史の授業が、いかに面白い部分をすっ飛ばして行われているか、よく分かります(笑)

こういう面白いお話をしていただけると、勉強になるし、何より楽しいです。

Atsushiさん、ありがとうございます。よかったら「第二回」もよろしくお願いしま〜す♪

(この原稿に関する、ご意見、ご感想等は、こどものくにの会議室のほうへお願いしますです〜)



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