私の歴史資料館

第2回  ガイウス・ユリウス・カエサル

 えーずいぶんと間が空いてしまいました。 第2回です。 そうそう、前回のハンニバルの時に感想をくれた方がいました。 すえさん、どうもありがとうございました。 お礼が遅れてしまいましたね。 ごめんなさい。 できれば今回もよろしくおねがいします。
 えっとそのすえさんから次はカエサルがいいんじゃないかとありましたので、今回はそのカエサルでいきたいと思います。 興味がある方は読んでってくださいね。

 さて、ガイウス・ユリウス・カエサル(以後カエサルと省略)とはいったい何者か。
 あまりローマ史に詳しくない人でも、クラッスス、ポンペイウス、カエサルの第一回三頭政治といえば、歴史の授業で少しは聴いたことあるのではないでしょうか。 このカエサルが私がこれからしゃべろうと思うカエサルと同じ人です。 カエサルは受験という歴史の中ではあまり有名人ではないかもしれませんが、でも世界の歴史の中では大変な有名人なんです。 日本で例えるなら坂本龍馬ぐらいの知名度は十分にありますし、スケール的には圧倒的に上だと思いますね。 嘘だと思う人たちにこんな話をひとつ。
 カイザーという言葉がありますね。 言わずと知れた皇帝という意味です。 このカイザー、響きがいいせいか色んな人の異名になってますね。 サッカーでいうとベッケンバウワーとか。 私なんかだとラインハルトをイメージしてしまいますけど。 ちなみに誰のことか分からない人は気にしないでください。 本文とはまったく関係ありませんから。 えっとそのカイザーですね。 これはCaesarのドイツ語読みですね。 英語ならシーザーになります。 さらにラテン語読みをするとあら不思議、カエサルになるんですね。さてなぜでしょうか。 答えは簡単です。 ローマ帝国の生みの親がカエサルだからです。つまりカエサルという言葉が皇帝を意味します。 いわゆるローマという国は建国が紀元前750年くらいで、滅びたのが東ローマ帝国の西暦1453年です。 約2000年くらい続いたんですね。 その長い歴史の中で政体が大きく3つに分かれます。 初めが王政、次が寡頭民主政、そして最後が帝政です。 ローマ帝国の初代皇帝はオクタヴィアヌス、つまりアウグストゥスですね。 このアウグストゥスはカエサルの指名した後継者なんです。 もしも状況が許せばカエサルが初代皇帝になっていたかもしれなかったんです。 これで少しはカエサルがすごい人だと分かったんじゃないでしょか。 分からなかった人でも最期まで読んでいただければ片鱗くらいは感じれられると思います。 それでは次はもっと具体的な話を交えながらカエサルについて語りたいと思います。   

 カエサルのことを話すにはまず、彼が生まれた頃のローマの状況を説明する必要があると思います。 これを知っていればその後のカエサルの行動が説明できるからです。
 なぜカエサルは長く続いた共和政を捨て帝政を目指したのか。 この問いに対する答えが、カエサルとはどんな人物であったかを一番理解できると私はそう思います。 それではローマの状況についていきましょう。

 カエサルが生まれたのは紀元前(以後BCと省略)100年。 この頃のローマは地中海を内海と呼ぶほどの領域を誇っていましたが、国力の低下が深刻となってきていました。 この原因となった理由の一つがローマの中核を成すローマ市民権を持つ者が減ったことによります。 ローマ市民権所有者の減少はローマ軍の減少に直接つながります。 ローマ軍の減少によって国が請け負う最低限の義務、国土の安全が困難になってきました。 それではなぜローマ市民権所有者が減少したのか。 簡単に言えばローマ市民権所有者はその財産によって資格を得ていました。 つまりローマ市民とは一定量の財産をもつ者を指します。これが減少するということはどういうことか。 答えの一つとして純粋に人口の低下という事が考えられますが、これは違います。 ローマの人口そのものは減っていないのだから。 ではどういうことか。 答えは簡単、ローマ市民の中に規定財産を維持出来ない者が増えたからです。 これによって無産階級者が増加しました。 無産階級者は何の権利を持たない代わりに、徴兵の義務がない者たちのことです。 つまり今で言う失業者が増加したということです。 それではその失業した理由はなにか。 それはローマの社会構造にあります。 ローマ人は基本的に農耕民族です。 つまりローマ市民の多くは農業に従事して生活していました。 ところがローマが度重なる対外戦争に勝利することにより属州が増加しました。 これによってローマに彼らの主食である小麦が大量に入ってきました。 これらの属州はローマよりも小麦の生産にむいた土地で、その価格はローマの小麦よりもずっと安いのです。 これによってローマの農家は大打撃を受けます。市場価格が下がり、生活できなくなりました。 それを解消するため借金をするが、もともと社会構造に問題があるのだからうまくいきっこありません。 彼らは借金を返すために土地を手放します。 これで無産市民の出来上がりというわけです。 
 国力低下のもう一つの理由はハンニバルがローマにもたらした置きみやげです。 ハンニバルによる本土侵攻という危機的状況に対応するのに適した組織は元老院しかありませんでした。 そして歴史が証明するとおりローマはこの危機的状況を乗り越えました。 その結果として本来助言機関にすぎない元老院に必要以上の権力が集中します。 具体的には外交権、人事権、財政権、そして軍事権。 ほぼ全ての機能が元老院に集まっているといっても言いと思います。 そしてこれがこのままうまくいけばなんの問題もなかったのですが、そうではなかったのです。 
 ローマの弱体化について最初に気づいたのは今となってはとても分かりませんが、行動を起こした人なら分かります。 ティベリウス・センプローニウス・クラッススとガイウス・センプローニウス・クラッススです。 この2人が歴史の授業でも登場するクラッスス兄弟です。 クラッスス兄弟の改革で有名ですね。 しかしこれだと2人で仲良く改革したように見えますが、実際には兄が始めて、弟が跡を継ぐという形で改革がなされます。
このクラッスス兄弟、詳しく話すとおもしろいのですが、今回は主旨が違うので簡単にいきたいと思います。 改革の目的を簡単にいうとローマの再生ということになります。 その手段として土地の所有に制限を設けて、それを小作農民に分け与える。 そして自作農をふやすことによってローマ市民権所有者を増やし、ローマの再建を試みました。 しかし広大な土地を所有しているのは元老院議員でもある大貴族。 改革は多少の成功を収めたものの元老院の強権の前に激的には変化せず、2人の死を契機に改革の芽はつまれました。 つまり元老院に権力が集まりすぎ、柔軟な対応が出来なくなっていたのです。 いわゆる保守主義がローマ世界を覆ってしまいました。 これがハンニバルがもたらした置きみやげの正体です。 
 次に現れるのはガイウス・マリウスという男です。 この人はクラッスス兄弟とほぼ同時代人です。 しかし彼は政治家であったクラッスス兄弟とは違い軍人でした。 しかし軍人であったせいでローマ軍の質の低下を敏感に感じていたと考えられます。 
 このマリウスは名前が示すとおり家門名を持っていません。 理由は分かっていませんがおそらく地方出身者であったと考えられます。 マリウスはユリウス一門の女性と結婚します。 この人はカエサルの叔母にあたる人だったようです。 マリウスは護民官、法務官などを経験して、執政官に当選します。 そこで出した改革が軍政改革です。 徴兵制であったローマ軍を志願制に代えました。 これに無産市民たちが志願し、失業者に職を与えることに成功しました。 ただこの志願制、今まで国家に属していた軍隊が、これからは指揮官に属すという意味あいが強くなりました。 マリウスは想像もしなかったと思いますが、これが帝政へ向かう足がかりの一つになったと考えることができると思います。 この後ローマはマリウスのもとで過ぎていきますが、ここにルキウス・コルネリウス・スッラという者が現れます。 彼もローマを再建しようと試みた1人です。 彼は軍事的な天才で、非常に優れた指揮官でした。 この人もすごい人で詳しく書きたいのですが長くなってしまうので簡単に書かせてもらいます。 このスッラとマリウスが対立し内乱になります。 スッラがギリシアに遠征中、執政官キンナとマリウスがローマを制圧します。 そしてマリウスが死ぬとキンナが独裁にはいります。 その後スッラがローマに戻ってくるとキンナは部下に殺されスッラがローマを制圧します。 そして独裁官に就任して改革に入ります。 彼の改革を一言で言えば、元老院システムの強化です。 この点でスッラは保守主義者でした。 そしてやることをやってしまうと自ら独裁官をおります。 独裁官というものがスッラが強化した元老院システムとは別の所にあるものですから、自分のやろうしていることを貫こうとするならば正しい選択だと思います。 

 さて、いよいよカエサルの話に移ろうと思います。 ここまでの状況は省いた部分が多く、わかりにくい所も多々あるとは思いますが、要するにローマの社会構造が変化していき、それに元老院が対応していけない。 それに対して何人かが何とかしようとしたということです。 この点は理解そてもらえると思います。 そしてこのカエサルも何とかしようとした1人であり、唯一成功した人でもあります。 カエサルの改革は簡単に言えば、元老院システムの廃止です。 しかし何も元老院をなくしてしまうということではありません。 厳密に言えば、元老院の持つ権力を廃止して、それを個人に移行する。 これがカエサルが考えた改革で、後の世で帝政と呼ばれるものです。 カエサルがこう考えたのには理由があります。 ローマは約700年の歴史の中で大きく成長していきました。 そしてその地中海を覆う広大な領域を治めるのに今の元老院システムでは非効率で対応していけない。 これを効率よく運営するには1人の人間に権力を集中するシステムがふさわしいと考えたのです。 実際この後ローマはより大きく成長していくので、カエサルの考えが正しかったことを歴史が証明しています。 

 少し堅い話が続いてしまいました。 ですから今度がカエサルの人間性について話したいと思います。 そこで私があれこれ言うよりも、もっと説得力のある人たちに話してもらいましょう。

モンテスキュー
 フランスの法律家、啓蒙思想家。 「法の精神」という有名な著書の作者。 三権分立を唱えた偉い人。

「 カエサルは幸運に恵まれていたのだと人は言う。 だがこの非凡なる人物は、多くの優れた素質の持ち主であったことは確かでも、欠点がなかったわけではなく、また、悪徳にさえ無縁ではなかった。 しかし、それでもなお、いかなる軍隊を率いようとも勝利者になったであろうし、いかなる国に生まれようとも指導者になっていただろう 」

バーナード=ショウ
 イギリスの劇作家で風刺、皮肉の達人。社会正義を重視し、フェビアン協会を設立した穏健な社会主義者。

「 人間の欠点ならばあれほど深い理解を示したシェークスピアだったが、ユリウス・カエサルのような人物の偉大さは知らなかった。 「リア王」は傑作だが、「ジュリアス・シーザー」は失敗作である 」

モムゼン
 ドイツの歴史家。

「 ローマが生んだ唯一の創造的天才 」

ルキウス・コルネリウス・スッラ
「 君たちにはわかかないのかね、あの若者の中には百人ものマリウスがいることを 」

イタリアの普通高校で使われる教科書
「 指導者に求められる資質は次の五つである。 知性、説得力、肉体上の耐久力、自己制御の能力、持続する意志。 カエサルだけがこのすべてを持っていた 」

 ここからカエサルという人物がどんな人であるか感じてもらえると思います。 私自身の感想を言わせてもらえば、紛れもない天才だと思いますね。 政治力は抜群、戦争も強い、演説は人の心を貫く、文章力はある、おまけに女の人にもてる。 この人が天才でないとしたら天才という言葉自体が必要なくなるんじゃないかと思うほどです。 だいたい政治力と軍事的才能を併せ持っていること自体が希なのに、そのほかの才能まで併せ持つ。
 カエサルの持っている才能のどれかひとつ持っているだけでもその世界でトップに立てると思いますね。 では欠点はなかったか。 そんなことはありません。 ただ欠点が欠点にならないところにカエサルのすごさがありますね。 例えば彼の借金は半端ではなかった。 彼の家はユリウス一門に属し、コルネリウス、ファビウス、クラウディウスといった名門貴族にも匹敵するほど古くまで遡れる名門貴族です。 しかしユリウス一門は共和政初期には活躍したようですがこのカエサルの生まれた頃にはさっぱりで、ローマの公式記録に現れるのはハンニバルと戦った第二次ポエニ戦役の頃になってからです。 その中でユリウス一門に属する者がカルタゴ軍相手に善戦した。 この戦功によってカエサルと綽名されました。 これが家族名となります。 ちなみにカエサルとはカルタゴの言葉で「象」を意味します。 しかしこの後はまたさっぱりで、一世紀の間にたったの1人。 先ほどでたコルネリウス、ファビウス、クラウディウスといった名門貴族からは何十人と出ていたようです。 BC1世紀になるとようやくルキウス・ユリウス・カエサルという執政官が現れます。 この人はカエサルの叔父にあたる人です。 ちなみにカエサルの父親は法務官の経験をもつだけの人だったようです。 しかしこの法務官という地位は決して低いものではあるません。 この地位は執政官に継ぐ地位で、法務官を経験した後、前法務官という地位に変わり各属州へ総督として派遣される。 そしてこの総督を経験した後初めて執政官に立候補できる資格を得ることができます。 しかしカエサルの父親は属州へ派遣されていないから、どうやら法務官のときに死んでしまったと考えられます。 どちらにしてもカエサルは有力者の息子ではなく、家のほうも名門ではあるがあまりぱっとしない。 だからカエサルが生まれ育った家も大きな屋敷ではありませんでした。 つまりあまりお金持ちではなかったのに、恋人達に気前よくプレゼントをしていきました。 ある女性に送ったアクセサリーの値段が当時の高級住宅地に家が建つ値段とおなじだったなんていう本当か嘘か分からない話があります。 そんな借金漬けのカエサルなのに借金で首が回らなくなったという感じはまったくしません。 カエサルの最大の債権者はクラッススでした。 私の崇拝する作家さんはカエサルの借金にたいしてこう述べています。 借金の額が少ない内は、債権者の方が立場が上だが、しかしその額が膨らみ債権者がすててしまうには惜しい額になると、その立場は逆転する。 債権者は債務者が破産しないように手を貸すようになる。 クラッススはカエサルが属州へ総督として出ていくとき債権者に囲まれ出発できなくなった時、それらの借金を立て替えてカエサルを属州に旅立たせています。 この借金もいつしか消えていったのだから、カエサルの器がでかいと言えばその通りなのです。 ただ、普通なら借金の重さにつぶれてしまうんではないかと思うのですが、物事は捉え方次第でどうとでも変わるという見本ですね。    
 さて、他の欠点といえば女癖が悪かったということがあります。 当時半数の元老議員の妻がカエサルと不倫していたという、これまた本当か嘘かわからない話もあります。 しかしカエサルのすごいところは、それほどの数の愛人がいて誰にも恨まれず、うまくやっていたというから驚きです。 女癖の悪さがまったくハンディにならないのです。 いまの政治家が聴いたらさぞうらやましがるでしょう。 もっも彼らとカエサルでは比べものになりませんが。 

   さて、もしも彼が「信長の野望」や「三国志」に出てきたら政治力100、武力98、知謀100としかつけられないキャラになることは間違いないと思いますが、今度は彼の軍事的才能について話そうと思います。 彼の戦争のうまさは同時代では間違いなく一番でしょう。 カエサルはガリア、つまり今のフランスからドイツあたりでガリア人、ゲルマン人と約8年間戦争しています。 もちろんカエサルは勝ち、ガリアを属州にしていますが、決して楽な戦いではありませんでした。 ガリア戦役が7年目に入ると、オーヴェルニュ族というガリアの中でも有力な部族の中に、ヴェルチンジェトリクスという1人の若者が歴史の表舞台に登場します。 オーヴェルニュ族はカエサルに反抗したことのない部族だが、それは部族内で親ローマ派と反ローマ派が対立していたからでした。 この対立していた者たちは兄弟で、親ローマ派が弟、そして反ローマ派が兄です。 弟は兄を公開処刑して自らは族長として収まり、部族は親ローマとして安定していました。 さてヴェルチンジェトリクスですが、彼はこの処刑された兄の息子で、つまり現族長の甥にあたります。 その彼がクーデターをおこし、叔父を殺して自らが族長として反ローマに立ち上がります。 そして彼は全ガリアを巻き込んで、カエサルに戦いを挑むことになりますが、その前にガリア人とはどんな人たちであったか簡単に説明したいと思います。
 ガリア人を想像しようとするなら、今のフランス人やドイツ人を思い浮かべればいいと思います。 そしてその彼らに獣の皮で出来た服を着せてあげてください。 そうすればローマ人が蛮族と呼んだ彼らができあがることと思います。 その彼らは現在の姿からも想像できるように、とても体格に恵まれていました。 一方ローマ人は決して体格に恵まれておらず、しばしばガリア人たちに馬鹿にされていたようです。 
 さて、ここまでの話から想像できるように、ガリア人は非常に勇猛で強かったそうです。しかも前回のハンニバルの時に書いたと思いますが、当時馬の産地といえば、アフリカかガリア。 だからガリアには非常のたくさんの騎兵がいました。 騎兵力の充実は当時の戦いでは勝敗を分ける重要な要因でしたから、戦闘力を測るならガリア人は相当なものです。 しかし戦いに勝つのは常にローマでした。 それはなぜか。 簡単に言うならば、戦いのやり方に問題があったのだと私は思います。 つまりガリアには戦術と呼ばれるものが存在しなかったと思いまし、例えあったとしてもそれはお粗末なものだったのでしょう。 だから戦いになれば、ガリア人は自らの強さと数を勢いにかえて突撃を繰り返します。 戦いの初めはいつもガリア優勢の状態になります。 しかし、その勢いを止められると次が続かなくなり、やがては劣勢になるのは常です。だからローマ側とすれば、初めを耐えてしまえばよいのです。 
 つまり戦いとは兵士の質だけでは決まらない。 勝敗を分けるのは指揮官の質ということになりますね。 まさに、一頭の羊に率いられたライオンの群れは、一頭のライオンに率いられた羊の群れにかなわないということです。
 さてヴェルチンジェトリクスの話に戻ろうと思いますが、彼はそんなガリアに現れたとても稀有な、戦略的思考を持つ者でした。 そしてカエサルがガリアで唯一その才能を認めた男でもありました。
 その戦略的思考を持つ男が考えたローマを倒すためのプランはこうです。 まずローマに勝つには全ガリアの団結が必要だと考えます。 しかし各部族がひしめくガリアで団結ほど困難な事はありません。 オーヴェルニュ族は確かにガリアの中でも1,2を争うほどの有力な部族ですが、それでも圧倒的というわけではありません。 だから力に任せて他部族を支配するというのは無理です。 そこでヴェルチンジェトリクスは民族意識に訴えます。 しかしそれだけではガリアの民はついてきません。 そこで彼は戦いに勝つことで自らの力を見せつけました。 そして彼は各部族をその強力な指導力をはっきしてまとめ上げます。 これだけでも見事なものですが、彼はそれだけではローマに勝てないと考えています。 そこで彼は全ガリアに焦土作戦をしきます。 そしてカエサル率いるローマ軍の補給を断ち、ガリアから撤退させようと試みました。 ナポレオンやヒットラーがこれにやられていますから、有効な戦略と言えますね。
 結果から言えば、カエサルが勝ち、そしてヴェルチンジェトリクスは負けます。 しかしヴェルチンジェトリクスの戦略は有効で、カエサルは一度撤退に追い込まれます。
 ここでさらに補給を絶つ戦略でいけば、少なくともローマ軍はガリアからの撤退に追い込まれたでしょう。 しかしそうはなりませんでした。 ヴェルチンジェトリクスは撤退したローマ軍に追撃をかけました。 その兵力はローマ軍を圧倒的に上回っていました。
 しかしカエサル率いるローマ軍はこれをさんざんにうち破ります。 やはり会戦においてガリア人はローマ人の敵ではありませんでした。 
 それではなぜヴェルチンジェトリクスは有利な状態にもかかわらず、追撃にでたのか。
 それは次のように考えられると思います。 この時ヴェルチンジェトリクスの頭には今後の展開が浮かんでいたと思います。 つまりもしここでローマ軍を撤退に追い込んだとしても、彼らはすぐに体勢を整えてガリアにやってくることは明白だ。 しかしその時にガリアは今の団結を保っていられるだろうか。 頭のいい彼のことだからガリア人の性質は知り尽くしていたことでしょう。 ガリア人は持久力に欠ける。 だからここでローマが再びガリアを訪れる気がしなくなるくらいの壊滅的打撃を与えなければいけない。 
 他の要因もあると思いますけど、一番大きな理由はこれだったと思います。 しかし逆にダメージを受けてしまいました。 ヴェルチンジェトリクスはそれでも軍をまとめ、ガリアの聖地とされるアレシアに立てこもりました。 ここでの戦いが、ガリア戦記のクライマックスとなる「アレシア攻防戦」です。
 ヴェルチンジェトリクスは騎兵のほとんどを各部族に向けて放しました。 各部族から援軍を要請するためにです。 騎兵は各部族の有力者の関係者が多いから、移動速度の点からも都合がよかったのです。 そして一度カエサルを撤退に追い込んだときも、籠城戦でしたから、彼は自信があったのでしょう。 しかしカエサルはカエサルでここで決着をつけれると考えました。 その理由を私自身はっきりとは分からないのですが、以前撤退した所よりも、アレシアの方が地形的に有利に闘えると考えたようです。 カエサルはローマ軍の持つ技術力を最大限にはっきして、アレシアを徹底した包囲網で囲みます。 壕や防壁、鉄鉤や水などで構成された7層もの防御網は内側、つまりアレシア側に16,5キロ、120メートルの幅に自軍を待機できるようし、その外側に同じ防御網を21キロ敷きました。 この戦史上でも前代未聞なこの防御網の完成に1ヶ月の期間がかかりました。完成してカエサルは兵士達に休息を与えました。 ちなみにこのアレシア攻防戦の防御網は、ナポレオン三世の発掘調査によってその全体像が明らかにされています。
 さて立てこもったヴェルチンジェトリクスですが、多くの非戦闘員を含んでいたせいか、1ヶ月の内に食料が欠乏し始めました。 援軍の様子を見ようにも、騎兵はいないし、ローマ軍の鉄壁な防御網に阻まれてどうにもなりません。 さぞかし心細かったでしょうね。人間というのは期限をくくられれば以外とがんばれますが、その期限が決まってないと、分からない分だけ不安が増加しますからね。 精神的にかなり追いつめられたでしょう。ついにヴェルチンジェトリクスはアレシアの住民を外に出しました。 住民達はカエサルに奴隷になるから食料をくれと提示したそうですが、カエサルは申し出を受けず、彼らを包囲網の外に出しました。 
 そうこうしている内についに援軍がやってきます。 援軍を見たアレシア側はさぞ狂喜乱舞したでしょう。 ヴェルチンジェトリクスはついに撃って出ます。 こうしてアレシア攻防戦は始まりました。
 さてここで両軍の兵力を明らかにしたいと思います。 アレシアに籠もったガリア軍、8万。 包囲網の外側にいるガリア援軍、26万。 一方それを迎え撃つローマ軍、本当かと思いますけど、約5万。 約というのは、正確には5万をきっていたからつけました。つまりアレシア攻防戦はガリア軍、内外併せて34万、ローマ軍5万弱の戦いなのです。この戦いは1ヶ月の準備期間と、3日の戦闘で決着がつきました。 その内容を簡単に記述すると、基本的には攻めるガリア、守るローマとなります。 ガリア側はその数を生かして徹底的に攻めますが、カエサルの的確な指示とそのカエサルの元で7年も戦い抜いた各指揮官、各兵士によって防御網はうち破れず、ただ兵だけが失われていきました。
 ヴェルチンジェトリクスは防御網の内、1カ所その防御の甘いところを見つけだし、6万の精鋭をもって攻めました。 カエサルもこの防御上の欠点には気づいていました。 だから全軍の1/5にあたる1万でここを守らせていました。  副将のラビエヌスがここを受け持っていましたが、カエサルに守りきれないときには攻め込んでいいと指示されていました。そのラビエヌスから攻め込むとの報告を受けたカエサルは、自らそこに兵を連れて急行しました。 赤いマントのカエサルは目立つため、前線に立つのは危険だが、カエサルはそれでも自らが現れることによる士気の向上を選択しました。 そしてここでこの6万をうち破り、この内側で壊滅していくガリア軍をみて、援軍に現れたガリア兵はちりじりに逃げていきました。 こうしてアレシア攻防戦はローマ軍の勝利で幕を閉じました。 カエサルはガリア戦記の中でこの時のことを次のように書いています。 「 もしもわが兵士たちが、この日を特徴づけた激闘の繰り返しで疲労困憊していなかったら、敵の全軍を完全に撃滅できていただろう 」
 5万にも満たない数で30万以上の敵を跳ね返した戦果はアレクサンドロス大王にも匹敵するもので、しかも内と外に挟まれていた事を考えると、戦史上でも初めてのことですね。 それを何より実感したのはヴェルチンジェトリクスだったでしょうね。 彼は逃げ戻ったアレシアでの会議で自らの行動はガリアのためであったことを発言し、しかしこうなってはしかたないとして、自らローマに投降し、他の人を助命させると提案しました。
 なかなか潔いと思います。 反乱を起こすのは別に悪いことではないと、私は思います。別によいことでもないですが。 とにかく善悪でくくれることではないと思います。 しかしそれに失敗し、助命を請うようではいけない。 こういうことは失敗したら死ぬぐらいの覚悟をしてやるべきだろうし、何よりそんな覚悟のない者の反乱がうまくいくはずがない。 それにそんなんでは見ている方が興ざめしてしまう。  その点ヴェルチンジェトリクスは見ていて気持ちがいい。 善悪は別として、人間こうありたいなっと思ってしまいますね。 潔さはある種の高貴さを感じさせます。 でも、中にはあきらめととる人もいるだろうし、あきらめずにあがくべきだと考える人もいるでしょう。 別に否定はしません。時と場合にもよるだろうし。 ただ私はこう感じたという話ですね。 少し話がそれました。 元に戻します。
 ヴェルチンジェトリクスはローマに投降します。 そこでカエサルと初めて顔を合わせたでしょう。この有能なガリアの若者を見てカエサルは軍団長に欲しいと思った可能性が高いですね。 ローマの弁護士として有名なキケロによれば、カエサルは自分の若い頃に似た性格のこの若者を愛したといいます。 結局、カエサルはこの若者の考えを入れました。ガリア側でローマに捕らえられたのはヴェルチンジェトリクスただ1人です。 彼はローマの牢に6年間入れられます。 そしてカエサルがガリアに対する戦勝の凱旋式を挙行した時、それに参列します。 そしてその後、殺されました。 ローマ人、中でもカエサルは寛容の文字が実によく似合う男で、この後も話すことになると思いますが、彼はほとんどの敵を許しています。 カエサルが許さなかったのは一度反乱を鎮圧され、再び逆らった場合です。 この時ばかりはカエサルも容赦はしません。 しかしその場合でも許されることもありました。 なぜヴェルチンジェトリクスは処刑されたのでしょうか。 この場合は彼の有能さが見事に表されていると思います。 生かしておくには有能すぎたということですね。 この点からも彼がカエサルが唯一認めたガリア人ということが判りますね。 認められたがゆえに処刑されるなんて皮肉な結果ですけど。 
 少し話がそれるんですけど、佐藤賢一という作家をご存じでしょうか。 「王妃の離婚」で直木賞をとった作家さんです。 この人が「カエサルを撃て」という書き下ろし出しました。 これがちょうどガリア戦記のカエサルとヴェルチンジェトリクスについての内容になっています。 もちろんアレシア攻防戦についても書いています。 内容について話すと、どちらかといえばローマ側よりもガリア側の作品ですね。 だから主役はカエサルではなくヴェルチンジェトリクスですね。 カエサルはライバルというところでしょうか。 結論から言いますと、はっきりいっておもしろくありませんでした。 冗談抜きで金返せコールですよ。1900円もしたのに・・・   別にいいんです。 ヴェルチンジェトリクスが主役でも。 私はカエサルのファンですが、彼も好きですから。 しかしこの作品私は読んでると腹が立ってきましたね。 どんな点が気に入らなかったというと、カエサルが情けない男として描かれていたんです。 その情けなさは半端ではありませんね。カエサルほど人間の性格について精通していた人も少ないと思うんですが、カエサルは非常に部下に慕われていました。 そうでなければ戦いに勝つことはできませんし、それでなくでも快適からほど遠いガリアで7,8年も過ごせません。 しかし佐藤賢一のカエサルは部下に不平不満を言われまくりです。 しかも部下に戦略を説かれています。 こんなの「蒼天航路」の曹操に言ったら、「わずかとはいえ、覇道をかたったな」といって首を切られているところです。 だいたいなんでカエサルがたかだか百人隊長に殴られるんだ。 しかも作中のカエサルはガリアにローマから女を連れてきています。その理由がローマにおいておくと誰かに寝取られないか心配だからだそうです。 確かにカエサルは快楽主義者です。 でもそれはプライベートにおいてです。 公務では非常にストイックでした。  カエサルの事ですから現地の女の人には間違いなく手を出しているでしょう。6,7代皇帝の頃にカエサルの子孫だと自称する者がガリアで出てくるくらいですから。しかしガリアに、しかも戦場に女を連れてくるなんて考えられませんね。さらに言うなら理由も理由ですね。 ローマにおいておくと心配? カエサルは一度、妻がある男に夜這いに近いことをされたことがあります。 厳密に言うと少し違うんですけど。その時当時の元老院議員はいい気味だと思ったそうです。 それはそうですよね。 いつもはカエサルがしていることをカエサルがされたのだから。 しかしこの時カエサルは妻と離婚しています。 しっかり確かめもせずに離婚したもんですから、周りが唖然としていると、カエサルはこう言ったそうです。 「カエサルの妻たるもの、疑わしいことはしてはいけない」 これを聞いた元老院議員はさらに唖然としたでしょう。 男なら一度は妻に言ってみたい台詞だそうですから。 そんなカエサルがそんな理由で女を連れてくるなんて考えられませんね。 
 この情けないカエサル君は作中でヴェルチンジェトリクスと戦う内に少しづつ変わっていくという書き方がされています。 そして最後のアレシア攻防戦で紙一重でカエサルが勝つというラストです。 その紙一重が戦略ではヴェルチンジェトリクスが勝り、カエサルに向けて放った矢がぎりぎりであたらなかったためカエサルが勝ったそうです。 カエサルは自分はやつに器で劣る。 策でも劣った。 向こうの弓兵の練度がもう少し良ければ自分は負けていただろうと思っています。 
 事実は見ていないのだから分かりません。しかし私の知るカエサルからあまりにかけ離れているため、ピンときませんね。 ヴェルチンジェトリクスをかっこよくしたいという気持ちは分かりますけど、カエサルをここまでおとす必要はないと思いますね。 確かにヴェルチンジェトリクスはすごい人だし、器も相当大きい人だったでしょう。 しかし客観的に見てもカエサルより大きな人には感じませんね。 そしてヴェルチンジェトリクスと戦う内に変わるカエサルというのも少し無理がありますね。 若い頃のカエサルも十分にすごい人です。 例えば、スッラが独裁官としてローマにやって来たとき、彼はリストを作りマリウス派の人間を殺しまくりました。このリストにまだ十代だったカエサルも載りました。 マリウスはカエサルの叔母にあたる人と結婚していましたし、カエサルもマリウス派の重鎮であるキンナの娘と結婚していたのだから、スッラから見れば立派にマリウス派に見えたのでしょうね。 しかしスッラの周りの人がまだ何も政治的なことをしていないのだから許してやってと嘆願しました。スッラもしょうがなく承知しましたが、その時次のように言ったようです。
「 君たちにはわからないのかね、あの若者の中には百人ものマリウスがいることを 」
 しかし、ただ許したわけではありません。 許す代わりにキンナの娘と離婚しろといったようです。 誰もがイエスというと思ったが、カエサルはノーと言いました。 おかげでスッラは怒り、カエサルはローマから脱出しなければいけなくなりました。 帰ってこれたのはスッラが死んでからです。 それにしてもなぜカエサルはノーといったのでしょうか。色々推論はされています。 子供を身ごもっていた妻をほっとくことは出来なかったとか。 ちなみにこの子どもが公式的にはカエサル唯一の娘、ユリアです。 しかしカエサルのことだから他にも結構いたと思いますね。 有名なのはクレオパトラの子、カエサリオンでしょうか。 まあいいや。 さて、他の理由は将来民衆派がカエサルの基盤になることをみこして裏切れなかったとか。 まあどちらにしら、時の権力者に逆らうのだから、カエサルが剛胆なのは間違いないですね。
 こんな話もあります。 カエサルがギリシアの方に留学するとき、カエサルの乗った船が海賊に襲われ、人質にされたことがありました。 このとき海賊の要求する身代金を払えなければ奴隷送りでした。 海賊はカエサルには20タレントという額をつけました。
 過去の貨幣価値を現在の価格に直すのは難しいですが、当時兵を5000人近く集められる額だというから相当な金額ですね。 しかしカエサルは海賊にこう言いました。
「お前たちは誰を捕らえているか知らないのだ」 そして身代金を50タレントに自ら上げたというから驚きですね。 そしてこうも言いました。 「お前たちを必ず捕らえ、絞首刑にしてやる」海賊たちは笑って聞いていたそうです。 自由になったカエサルは街で船と兵を集めると海賊たちを襲い、全員を捕らえました。 もちろん金は返してもらい、海賊たちの財宝まであったというから十分もとはとったでしょう。 カエサルは総督に報告したが、総督の興味は財宝にあったから、海賊たちの処分はカエサルに任されました。カエサルは彼らを全員絞首刑にしました。 まさか海賊たちも本当に絞首刑になるとは思ってみなかったでしょう。 このようにカエサルは若い頃から十分に大した人だったのです。 
 とまあ色々言ってきましたが、私は何もだから史実に即して書けと言っている訳ではありません。 歴史書ではなく小説なのだから。 佐藤賢一の言いたいことも分かります。確かにみんな一緒ではおもしろくないし、100人が書けば100通りのカエサルがあるでしょう。 しかし歴史小説を書く以上、その事柄を調べるのは当たり前です。 もちろん「カエサルを撃て」も調べて書いてあることは分かりますし、作中でローマ人はガリアの街で悪代官をしていますが、それも私には事実かどうか分かりません。 しかしそのように描くなら、読者がそれなりに納得できるように書く方がいいでしょう。 まあ司馬遼太郎みたいに本当か嘘か分からないとこまでやるのは難しいと思いますけど。
 とにかく要するに私は読んでて面白くなかったし、気に入らなかったのだから、少なくとも私にとってこの小説は失敗作としかいいようがありませんね。 私自身の定義ですけど、小説は面白くてなんぼのものと思っていますから。 もちろん感動したや為になったというもの面白いに入ります。 
 しかし今更ですけど少しフォローを。 この作品少し18禁入ってるんですけど、ただ女の人の書き方はうまいなと思いました。 読んだわけではないから何とも言えませんけど、きっと「王妃の離婚」はおもしろい作品なんだろうなと思います。 
 さて、少しどころかずいぶん外れてしまいましたけど、元に戻します。 カエサルの軍事的才能についてですね。  
 ガリアでの戦いが終わっても、カエサルの戦いはまだ終わりません。 今度の敵はローマそのものと言っていいでしょう。 カエサルはその年の執政官選挙への立候補とガリアに対する戦勝の凱旋式を元老院に対して要求しました。 カエサルの要求に対して元老院は強気に対応しました。 ここを詳しく概述するとすごく長くなってしまいますから、簡単にいきたいと思います。 執政官に立候補するにはローマに自ら出向いて立候補を表明する必要があるのですが、前執政官の官名を持つ属州総督は絶対指揮権という権利を持っています。 これは軍隊を率いる権利があるということですが、首都ローマは決して軍を率いて入ることが出来ないという決まりがあり、それはそのまま絶対指揮権をもつ者はローマに入れない事を意味します。 つまりカエサルが執政官に立候補するには属州総督の期限切れを待ち、凱旋式を挙行後、ローマで立候補を表明するという形になります。 しかしこれをするとカエサルは軍隊を率いる権利を失い、執政官選挙までの間、丸腰になってしまいます。 元老院は属州総督の地位を捨てる事を要求しましたが、カエサルはこれだけは避けたかったのです。 なぜなら元老院が取り込んだポンペイウスが元老院に認められ絶対指揮権を持っているからです。 だからカエサルはポンペイウスに対抗できる軍隊を手放すことは出来なかったのです。 カエサルは色々と手を打ったのですが、元老院はついにカエサルに対して元老院最終勧告という伝家の宝刀を抜き、軍隊の解散と元老院への出頭を命じます。 これは元老院の持つ強権の一つで、これに従わない場合は裁判をなしに殺害をしてよい事になっており、護民官が持つ拒否権も無視されるというものです。これによってカエサルは窮地に陥ります。 このまま勧告を無視すればローマの敵。 勧告に従えば死ぬことはないですが、彼の政治生命が絶たれ、彼の目指す改革は海の藻屑と化すでしょう。 元老院は自らの勝利を確信していたことと思います。 しかし元老院はなぜカエサルに対して、強く当たるのでしょうか。 その答えは元老院はカエサルの政策を恐れていたからだと、私は思います。 もちろんこの時の元老院はカエサルが帝政を目指していたことはまだ知らないでしょう。 しかし元老院に対して批判的であることは今までの行動から明らかで、カエサルは元老院にとって敵だという認識がありました。 カエサルが執政官であった頃、カエサルは次々と政策を法案化していきました。 ローマの執政官は言わずと知れた2人で行うものですが、カエサルとともに執政官になった者は元老院側の人間であったのですが、カエサルのやり方は絶妙で、彼は執政官としてまともに働けず、ついには任期が残っているにもかかわらずに引っ込んでしまい、カエサル1人に政策を牛耳られたという経験があります。 元老院は自らの権が犯される、このような状態がまた来ることをどうしても防ぎたかったのでしょう。
ここで元老院が取り込んだポンペイウスについて少し説明をしたいと思います。 彼はもともとスッラの配下の部将で、優れた指揮官でした。 スッラ亡き後はローマを牽引した人物で、主な功績として地中海から海賊を一掃、小アジア、パレスチナ、エジプトのローマ化など多大な功績を持つ人物で、当時非常に市民からの人気の高かったのです。 そしてローマ随一の将軍と呼び声が高い人物でもありました。 
 元老院は自らの強権とポンペイウスの持つ武力と人気によって、カエサルを失脚させられると考えたのも無理ありませんでした。  しかしカエサルという人物はそれらの予想を上回る人でした。 ローマの北側にルビコンと呼ばれる川があります。 この川が軍隊を率いて越えてはならない最終ラインで、これを越えるということは、勧告を無視することになり、それはそのままローマに対する反逆を意味します。 カエサルはこのルビコン川の境にたち、ローマの方を向いたことでしょう。 この彼に今従っているのは一個軍団のみ。 残りはまだガリアの地にいました。 ここでカエサルはおそらく一生に一度の大きな選択をしました。 その時、部下に対して次のような演説をしました。 
「 ここを越えれば、人間世界の悲惨。 越えなければ、わが破滅。 進もう、神々の待つところへ、我々を侮辱した敵の待つところへ、賽は投げられた! 」 いわゆる”賽は投げられた” の語源です。 こうしてカエサルはルビコン川を越えました。 
 こうしてローマ対カエサルの統治システムをかけた戦いが始まりました。 元老院側はカエサルがもしルビコンを越えたとしてもほとんどの兵が従わないだろうと考えていました。 しかし予想に反して脱落者はほとんど出ませんでした。 出たのはたった1人。
 それがカエサルの副将ラビエヌスでした。 ポンペイウスとの戦いの前にこのラビエヌスとカエサルの2人のドラマを紹介したいと思います。
 ティトウス・ラビエヌス。 前に紹介したマリウスと同様家門名を持たない男で、おそらく属州出身者であったのでしょう。 カエサルがルビコンを渡る前、このラビエヌスに接近したのはポンペイウスでした。 ローマの貴族にはクリエンテスとパトローネスという関係が存在しました。 パトローネスとはいわゆるパトロンのもとですが、ローマのこの関係はパトロンほど一方的なものではありません。 パトローネス、つまり保護者は多くの被保護者、クリエンテスを持っていました。 クリエンテスは親代々パトローネスに仕え、そしてパトローネスはクリエンテスの利益を保護する、いわゆる相互関係が成り立ち、これはローマ社会では重要なシステムになっていました。 だから一門の長が選挙に出る時はクリエンテスたちはこぞってローマに行って投票をしました。 そしてラビエヌスですが、彼はポンペイウスのこのクリエンテスだったのです。 ポンペイウスはどうしてもこのラビエヌスが欲しかったようです。 戦いは指揮官ただ1人ではできません。 多くの部下があってはじめて効率よく軍隊を運営できるのですが、ポンペイウスの部下たちはこの頃になると戦争を経験していない者が大多数を占めました。 いっぽうカエサルの部下たちはつい最近までガリアで戦ったいたので経験にはことかきません。 だからカエサルから彼の右腕と呼ばれた有能な部下を引き抜くこと以上に、ラビエヌスのような有能な実戦型の指揮官が欲しかったのです。 
このラビエヌスとカエサルの関係が始まるのはラビエヌスが護民官になった時からです。 どんな出会いをしたのか想像することも出来ませんが、ラビエヌスはこれ以後、カエサルと行動をともにします。 カエサルが属州総督をしてガリアに行くときも初めからついていきました。 ガリアでの戦いの中でラビエヌスはカエサルの期待に完璧に応えました。 当時カエサル指揮下の軍団長たちは、良家の子弟たちが多くいましたが、カエサルが支援に駆けつけなくていい前線は、ラビエヌスのところだけでしたし、軍を二つに分けた時の一方は必ずラビエヌスに率いさせました。 カエサルがガリアから属州に戻るときも、ラビエヌスはガリアに居続けました。 おそらくラビエヌスはカエサルが心からの信頼を置いたただ1人の男だったと考えられます。
 このラビエヌスはポンペイウスからの誘いがきたとき、心から悩んだ事でしょう。 彼は政治的な思惑など少しもなく、どちらにつくか悩んだ時も、元老院体勢を守るためにポンペイウスにつくのではなく、クリエンテス関係を守るためであり、たとえカエサルについたとしても、それはカエサルとの友誼を守るためであり、決してカエサルの考える帝政を目指すからではなかったでしょう。 
 結局ラビエヌスはカエサルがルビコンを渡ったあと、ポンペイウスや元老院が望んだカエサル陣営の切り崩しなどを一切やらずに、荷物も持たず身一つでポンペイウスの元へ行きました。それが彼に出来た唯一のことだったのでしょう。
 彼の離反を知ったカエサルは彼の残していった荷物を彼に届けるように命じました。
 これが13年間ともにいた同志の離反に対してカエサルがやった唯一のことでした。
この後2人は戦場で顔を合わしますが、その話はまたその時に語りたいと思います。
 さてルビコンを渡ったカエサルですが、渡った後の行動はまさに電光石火のスピードで進みます。 元老院側はまさかこの時期にカエサルがルビコンを越えるとは思っていませんでした。 カエサルが動くのはガリアにいる彼の軍団と合流してからだと踏んでいました。 だから準備はのんびりとしていたのです。 そこへカエサルの軍団が閃光のようにやってきました。 元老院はあわてます。 彼らは家財道具などをいっさいがっさい持ち出してローマから逃げだし、南イタリアにいるポンペイウスと合流しました。 カエサルは首都ローマに入り、9年ぶりに元老院議員たちを見たことでしょう。 元老院議員たちの中には当然政治的にカエサルと対立していた者も多くいました。 しかし、リストを作り反対派をまさに根こそぎ殺していったスッラと違い、カエサルは誰1人として危害を加えませんでした。 先ほど書いたようにカエサルは寛容の似合う男で、つまらない復讐心とは無縁でした。 しかしなにかと対照的なスッラとカエサル、政治的に見てどちらが楽であるかを示すらなら、おそらくはスッラの反対派の排除でしょう。 この虐殺という事実に自分自身が耐えることが出きるなら、自分の思う政策をすんなりと進めていくことが可能でしょう。 スッラは何も無関係の市民に手を出したわけではなく、反対派を一掃しただけなのだから。 それでもその数は相当なものですが。 一方のカエサルですが、何度も書きますが、彼は恨みや復讐心とは無縁の男でした。 ただ政策を行う上で、反対陣営がそのまま残っているわけですから、政策をとん挫させられる事はないものの、鬱陶しい事は間違いないでしょう。 しかしカエサルは全て承知の上で、自分のスタイルを貫きます。 これがやがて大きな災厄としてカエサルの身に降りかかるのですが、カエサルとしてもその可能性を十分に考慮していたに違いないでしょう。 しかしこれがカエサルという人間なのです。 人は分かってはいても、それをすることが出来ないと思うことがあるでしょう。 つまり、それはその人がその人であるためにゆずれない部分なのではないでしょうか。 ここでカエサルの言を紹介しましょう。
「 わたしが自由にした人々が再び私に剣を向けることになるとしても、そのようなことには心わずらわせたくない。 何ものにもまして私が自分自身に課していることは、自らの考えに忠実に生きることである。 だから、他の人々もそうであって当然と思っている 」
 人権宣言にも等しい言とは思いませんか。 しかし逆にこのカエサルの選択から、人は神になりえないことが実感できると私は思います。 さて、ローマから逃げ出した元老院議員たちですが、そのポンペイウスも準備が出来ておらず、カエサルの速攻に対応できずに、ついにはイタリアからみんなそろって逃げ出すことになりました。 これによってこの戦いの舞台はローマからローマ世界全体へと広がっていくことになります。 カエサルの思惑として、速攻で勝負を決めるつもりだったようですが、彼らのローマ脱出によってこれが不可能となりました。つまり、このローマ世界の行く末をうらなう内戦は、長期化を余儀なくされたのでした。

 さて、逃げたポンペイウス達ですが、彼らはギリシアに集結し今後の戦いの準備をします。 前に述べたポンペイウスの海賊退治からなる東方遠征のおかげで、ギリシアはポンペイウスのクリエンテスになっていました。 はやい話が、カエサルかから見れば敵地ということです。 そのポンペイウスには多くの元老院議員がついていった事は先ほど述べた通りですが、その内容となると現職の執政官を含む有力な元老院議員が多々いたという事ですから、ギリシアで元老院会議が開けるといった感じだったようです。 だからこの時の正統政府はギリシアにありました。 しかしカエサルの元にも幾人もの人々が集まってきました。 その内訳は、元老院議員たちの息子達で、言うならば次代をになう幹部候補生といった感じでしょうか。 これまた早い話が、キケロに言わせると、「 ローマの若き過激派達 」ということになります。 そのキケロにしても自分のかわいがっていた娘婿がカエサル側に走ったというのだから、大変でしょうね。 まあこんな所からも、この戦いが内戦であり、そしてローマのその後を賭けた戦いということになりますね。
 ポンペイウスの考えとして自分の勢力下にある北アフリカ、現スペイン、そして自分のいるギリシア。 ここからカエサルを包囲するというものだったそうです。 これに対してカエサルは攻めに出ます。 自分の部下をギリシアの制海権確保に、そして北アフリカに、そして自らはスペインを押さえるために出ます。 結論から言えば、自分が乗り出したスペイン戦線以外は壊滅します。 この理由をして対立する二つの陣営の構成にあると考えられます。 ポンペイウスの陣営は現職の執政官を初めとする元老院議員が多いため、戦線を任すことのできる司令官クラスの経験を持った人たちが多くいたということです。一方カエサル側ですが、若い者は体力ややる気は多くても、圧倒的に経験がたりません。だからつまり使ってみるしかないのですが、これが失敗したということですね。 つまりポンペイウス側は幕僚クラスには事をかきません。 カエサル側は唯一分隊を任せられたラビエヌスは引き抜かれたため、幕僚クラスはほとんどいず、いずれも30代の若者となります。 1人だけカエサルと同年代の人もいるんですけどね。 今回の話では特に紹介しなくてもいいとおもいます。 
 さて、それではポンペイウス側にはマイナス点はなかったのか。 それがあったんですね。 先ほど幕僚には事を欠かないと書きましたが、これが中堅の百人隊長クラスになるとこの割合が一転します。 カエサル軍の百人隊長達はガリアで戦い続けたベテランぞろいで、その練度は非常に高く、逆にポンペイウス軍は最近まで戦いそのものをしていなかったのだから、当然その力は圧倒的に劣りました。 だからポンペイウスは集めた兵士たちを訓練しなければいけませんでした。 これに一年近くかけたそうです。
 それに幕僚にはこと欠かないということは、要するに口が多いということです。 戦場を知らないが、気位だけは高い人々の意見が飛び交う軍議は、ポンペイウスから見たらさぞかし鬱陶しいことでしょうね。 しかもその中の1人が年齢や実績からポンペイウスと同等の司令官としてふるまっていて、これをポンペイウスも認めていましたから、指揮系統の統一といった点からも、何でも1人で即断できるカエサルに劣っていました。 しかし兵数となるとポンペイウス側は圧倒的に有利ですね。 カエサル軍が、歩兵2万5千、騎兵1千に対して、ポンペイウス軍は歩兵5万位、騎兵に至っては7千もいたというからカエサルは倍以上の兵力と戦うことになるんですね。 しかし歴史はカエサルの勝利を記しています。 ここからはカエサルがいかに勝ったかのプロセスの話になります。
 このローマの将来を占う戦いの舞台はギリシアになるのですが、制海権は完全にポンペイウスのものでした。 彼は6百隻からなる船を持っていましたが、カエサルは百隻をきる数しか持っていなかったようです。 2万5千くらいの兵を一度にローマからギリシアへ運べなかったようですから。 先にカエサルが率いる半数がギリシアに到着しましたが、残りの半数はカエサルの元で軍団長として戦ったアントニウスが率いていたのですが、風の関係や、ポンペイウス軍の妨害によってなかなか出航できません。 この頃の船は四角い帆を使った帆船だったので、風上に向かって航海することが出来ません。 この四角い帆の帆船は後ろから風が吹いてくれないと真っ直ぐに進めないのです。 ちなみに風上に向かって動けるのは三角の帆を使った帆船で、これはもちろん風上に対して真っ直ぐいけるわけではないのですが、風上に対して斜め前方に進み、今度は逆の斜め前方に進むことを繰り返すことによって目的地にたどり着けたようです。 もっと詳しく知りたい方は、月刊マガジンで連載されている「海皇記」を読んでみてください。 絵で説明してくれているので、私の説明より断然わかりやすいものになっています。
 さてギリシアの地で孤立してしてしまったカエサルですが、それでも行動を起こし、ギリシアの町を攻略していきました。 この時ポンペイウスは5万ぐらいの兵力で食料庫でもあるドゥラキウムの町にいました。 この時ポンペイウスがカエサルに対して攻撃をかけていれば、勝負はついたと考える事が出来ます。 この時、カエサルの率いる兵は1万2千くらいなのだから。 しかしどういった理由があったのか分かりませんが、ポンペイウスは動かず、そしてカエサルも動けませんでした。 こうしている内にアントニウスがギリシアにたどり着き、ついにカエサルと合流します。 これを見たポンペイウスはドゥラキウムの町へさがります。 ここでドゥラキウム攻防戦がなされます。 
 戦いが長期化すれば不利になるのはカエサルの方でした。 なにせギリシアの地はポンペイウスのクリエンテス。 つまり敵地で戦うことになり、補給という点で圧倒的不利な立場にありました。 しかも制海権は完全に敵側のもの。 海からの補給も期待できません。 カエサルは部隊を分けます。 一部は各町に送り出し、食料の提供をお願いする。もう一部は敵の別働隊を足止めするためです。 そして残りでドゥラキウムの町を包囲していきました。 全長25キロになったといいますから、まるでアレシア攻防戦のようです。 しかしポンペイウスも防御網をしきます。 その長さは22キロ。 カエサルより短くてすんだのはその陣地が内側にあるのだから当然ですね。  つまりこの戦いは敵より圧倒的に少ない数で包囲するといったものになりました。 これではカエサルの兵は百メートルに1人しか配置できない計算になります。 そして補給を断つ目的はいっこうにはたされません。 ポンペイウス側は海からひっきりなしに船が補給に入ります。 食料がなくなったのは逆にカエサルのほうでした。
 こんな感じで進んでいき、ついには直接戦闘が始まります。 カエサル側は何とか奮闘しますが、仲間の裏切りによる情報漏れによってついには撤退に追い込まれました。
 ドゥラキウム攻防戦はカエサルの敗北で幕を閉じます。 負けた直接的な原因は裏切りによるものですが、もともと戦略的にも非常によくなものであったことは間違いありません。後にナポレオンが言っています。 数で優勢な敵を包囲するなど、戦略として誤りだと。しかしこれで終わらない所にカエサルのすごさがあります。 カエサルはポンペイウスと違ってガリアの地でも撤退に追い込まれたことがあります。 カエサルは失敗はするのです。 しかしそれが致命的なものにならないところが彼のすごいところです。 
 以前すえさんがカエサルは史上「最高」の戦術家と言っておられましたが、私としては「最高」が「有数」となると賛成なのですが、最高となると肯けません。 このようにカエサルは戦術的ミスを侵します。 この点でハンニバルやアレクサンダーといった人たちには劣るのではないかと思うからです。 しかしだからといってこれらの人にカエサルが勝てないといっているわけではありません。 これらの人たちを戦えば、一戦場では遅れをとることもあるでしょう。 しかし最終的に勝っているのはカエサルだと思います。 それはカエサルの本質は戦術家ではなく政治家だと思うからです。 カエサルは戦場で負けてもそれは致命的なものにはしないだろうし、戦術的勝利はすぐにそれを政治レベルに活かし、戦いそのものを有利に進めていくことでしょう。 だからハンニバルにとって戦術は芸術であったけど、カエサルにとって戦術は政治の延長にすぎないものであったと思います。
 ここで一つのエピソードを紹介します。 このドゥラキウム攻防戦でカエサル側の兵士が何人か捕虜になりました。 そこでラビエヌスはポンペイウスに捕虜の処分は自分に任せてくれと願います。 ポンペイウスは許可します。 ラビエヌスがカエサルの部下を口説いて味方にしてくれると思ったのでしょう。 しかしラビエヌスはその捕虜達に向かい、「 今日の戦いがカエサルの兵士たちの戦い方か 」と言い、全員を殺しました。 これを見てポンペイウスはさぞかし唖然としたことでしょう。 このラビエヌスの行動を私の崇拝する作家さんはこのように言っています。 カエサルの兵士を殺すことで自らの行動を追いつめたのではないかと。 つまりカエサルに対して、後戻り出来なくしようとしたということです。 私の意見としてはこれと少し異なります。 確かにそんな気持ちもあったと思いますが、実際には言葉どうりだったんじゃないかと思います。 自分がカエサルを助けることが出来ないのに、そのカエサルの兵士たちの不甲斐ない戦いに腹がたったのではないでしょうか。 お前らがそんなことでどうする、といった感じだと私は思います。 ラビエヌスの言葉は残ってませんから想像するしかありませんけど、この方が彼らしいと思いますし、何より男って感じでかっこいいと思いませんか。 みなさんの考えはどうでしょうかね。
 さて撤退に追い込まれたカエサルですが、この後はポンペイウスを会戦に誘い出すことを考えます。 カエサルは分けた自分の部隊と合流する事は出来ましたが、ポンペイウスも別働隊と合流しました。 その数を比較してみると、カエサル軍歩兵2万2千、騎兵1千。 ポンペイウス軍歩兵4万7千、騎兵7千であったようです。 数字を見るまでもなくカエサルは圧倒的に不利です。 ハンニバルやスキピオは敵対勢力に対して、歩兵力では劣っていましたが、それでも騎兵力では上回り、それを活かすことで勝利を得てきましたが、カエサルは歩兵力、騎兵力ともに劣っていますから、過去の2人の事例に倣うことはできません。 カエサルはまだ誰もしたことのない戦法を考えなければいけませんでした。 ポンペイウス側は安全なドゥラキウムをでてカエサルを追撃します。 これによって両軍はファルサルス平原で向かい合います。 このファルサルス平原は山の多いギリシアの地では珍しく大軍が自由に動ける場所です。 こうしてファルサルスの会戦が始まります。 この戦いはまさしくローマの将来を決定づける世紀の一戦で、これ以後も戦いはありますが、それはもはや戦後処理といってもよいものでした。
 さて戦う前、ポンペイウス陣営では軍議が開催されていました。 その内容はいかにしてカエサルに勝つかではなく、勝利を得た後、どうのように勝利を食い物にするかといったものだったようです。 具体的に言えば、カエサルの持つ最高神祇官の地位に誰が就くかとか、次の執政官に立候補は誰がするかとか、カエサルに味方した元老院議員の資産を奪いどう分けるかとか、こんな感じでもはや勝利は疑うものではなかったようです。
 こんな中で、ポンペイウスのみ話には加わらなかったようです。 彼の頭にはいかにカエサルに勝つかが詰まっていたでしょう。 
 このファルサルスの会戦はカエサルを勝利者と明記するが、それがどうのようになされたか、少し詳しくいきたいと思います。 さて騎兵が多いとなぜ有利なのが。 騎兵最大の長所はその機動力にあることは言うまでもないことでしょう。 そして戦いの場ではこの騎兵の機動力を活かし、まずその突進で敵を突き破り、そしてその後その背後に回り自軍と呼応して挟撃するのが基本的な騎兵の扱い方になります。 戦いの基本は敵をいかに包囲にもっていくかですから、包囲された敵がいかに弱いかはアレキサンダーが証明しています。わかりにくにのであれば自分に置き換えて考えてください。 まず一対一で喧嘩していたとしましょう。 相手はそうですね、自分より弱いものを想像してください。 戦いは有利に進みますが、突然背後から襲われたらどうでしょう。 相手は弱いのだからすぐには負けませんが、それでも前後に意識しながら戦うのですから、きつい事は容易に想像できるでしょう。 その数が何千となればその混乱は非常に大きなものに変わっていきます。 これが包囲殲滅が非常に有効な戦法である所以です。 一度混乱した軍はすぐには元に戻りません。 例えその数が相手より上回っていたとしても、実際戦っている兵士には分かりません。 周り中敵になればさぞかし心細いでしょうね。
 そんなわけで騎兵力はそのまま軍の強さに置き換えられますが、それはもちろん騎兵が騎兵としての力を発揮できた場合です。 だからカエサルはこの騎兵を封じる手に出ました。 普通陣をくむうえで、騎兵は両側に配置するのですが、ポンペイウスは左側に全騎兵を配置し、その指揮をカエサルをもっとも知るラビエヌスに一任しました。 これに対してカエサルの騎兵は1千しかいないのだから、まともにぶつけることはできない。 だからカエサルは騎兵による敵後方襲撃をとりあえず止めます。 そして敵の騎兵をつぶす手を考えました。 まず全軍の中から400人の若者を騎兵とともに行動させます。 彼らは若いから馬の後ろから降りても俊敏に行動できます。 そして騎兵を止めるのに2千の老練兵を使います。 彼らはベテランで、言うならば肝が据わっています。 騎兵の正面に当てようというのだから、この役目は彼らにしか無理でしょう。 戦いは次のように進みました。 まずカエサルの歩兵がポンペイウス軍に向かって突撃します。 両軍の距離は開いていたから、ポンペイウス軍は突撃してくるカエサル軍を見て動きませんでした。待っていれば彼らは疲れて戦うときにはまともに動けないと考えたのです。 しかしカエサル軍は誰に命じられたわけでもないのに中間で止まり、そして息を整えて再び突撃しました。 ぶつかり合うときにはカエサル軍は全軍の息が整えられていました。 こうして戦闘は始まります。 ポンペイウス軍はカエサル軍の猛攻を正面から止めます。 いかにカエサル軍が精鋭揃いとはいえ、数では3倍以上なのだから当然といえば当然ですが。
 そんな中、ポンペイウスから騎兵突撃の命令が出ます。 ラビエヌス率いる騎兵はカエサルの騎兵一千を簡単に通過しました。 これで背後に回れると考えたときに先ほどのベテラン兵のみで構成された2千がこの騎兵の前に立ちふさがりました。 さてここで少し説明がいると思いますが、馬という生き物はもともと気弱で障害物を超そうと思っても、ある程度の助走距離が必要です。 逆に言えばこの助走距離さえなくしてしまえば騎兵はまともに動くこともできません。 カエサルはここに目を付けたのでした。 7千もの騎兵であればその助走距離はそうとう必要になります。 カエサルからその度胸を求められたベテラン兵たちはその期待に完璧に応えます。 騎兵の突撃を止め、そしていったん通過されたカエサルの騎兵と若い兵士4百は足の止まったポンペイウスの騎兵の背後につき、騎兵を包囲します。 騎兵は足が速いので全てを包囲することは不可能ですが、それでもポンペイウスの騎兵を壊滅に追い込みました。 そして騎兵をうち破ったベテラン兵2千と騎兵をポンペイウス軍の左翼にぶつけました。ポンペイウス軍はもともとカエサル軍から攻撃を受けていた上、横、背後からも攻められ、左翼は壊滅していきます。 それでもポンペイウス軍の中央と右翼はまだ陣形を崩さず検討していました。 そんな所にカエサル軍の予備兵力が投入されました。 ローマ軍はもともとハスターリ、プリンチペス、トリアーリの3つに分類されていました。 それぞれの意味は若年、中堅、老練となり、各軍団はこのように作られます。 ちなみにその分け方は軍歴によってです。 戦闘時にはまず、ハスターリが攻め、それを中堅が支える。 そして前二つが崩れても老練が持ちこたえる。 カエサルはその老練のトリアーリを予備兵力として残してあったのでした。
 まずハスターリ、プリンチペスが下がり、トリアーリがポンペイウス軍に突撃します。
 疲れていた所に無傷のベテラン兵達の攻撃です。 これによって中央、右翼が押され、休み再び突撃してきたハスターリ、プリンチペスによって壊滅しました。 ポンペイウス軍はちりじりになった逃げていきました。 こうしてファルサルスの会戦はカエサルの勝利で終わりました。
 こうしてローマの政体を賭けた勝負はカエサルの勝利で幕を閉じました。 この後、ポンペイウスはエジプトへ逃げますが、そこで殺されます。 カエサルもエジプトへ行き、そこで争いに巻き込まれますが、それも戦後処理にすぎませんでした。 ここでクレオパトラとのロマンスがあるのですが、今回はあまり関係ない話ですね。 そしてその後も、シリアやアフリカと反乱勢力を一掃し、カエサルは遂にローマにて終身独裁官に就任します。 こうしてローマに帝政の基礎が築かれました。 
 この後カエサルの手でローマは変わっていきました。 有名な改革といえば暦を代えたことでしょうか。 カエサルとエジプトで知り合った天文学者や数学者がこの暦を実際に作りました。 その彼らは地球が太陽の周囲を一回りするのに365日と6時間と計算しました。これがユリウス暦です。 その後ユリウス暦はローマ世界の暦であり続けます。これが改正されるのは1582年の法王グレゴリウス13世によってで、その理由は天文学の研究によって実際には365日と5時間48分46秒と分かったからです。 これが今でも続いている暦となっているのですが、そうなるまでに1627年間もかかっているのですから、ユリウス暦が当時としては驚異的に正確であったんですね。
 そのカエサルの時が止まるのはBC44年3月15日です。 この日の元老院会議でカエサルは暗殺されました。 この暗殺にかかわったのは60人であったという説があるが、はっきりとは分かっていません。 しかし実行部隊であった14人は分かっています。
 有名なのはマルクス・ブルータスでしょうか。 このマルクス・ブルータスはカエサル生涯の愛人であったセルヴィーリアの息子です。 それが気に入らなかったのか、マルクス・ブルータスはかの戦いでポンペイウスの元で戦っています。 それが助かったのはカエサルがセルヴィーリアに頼まれていたからで、それが兵士にしっかり伝わっていたせいです。 ただカエサルが言った有名な台詞、「 ブルータス、おまえもか 」のブルータスはこのブルータスではなくカエサルの元で戦ったデキウス・ブルータスであったという意見もあります。 このデキウス・ブルータスも暗殺に加わった1人です。 確かにマルクスの方はあまり有能ではなく、カエサルがあまり気にするような人間ではないというのがその根拠です。 一方デキウス・ブルータスはカエサルの元で戦った有能な将校で、非常にカエサルに愛されていました。 カエサルの遺言が公表されたとき、第1相続人が辞退した場合、第2相続人にこのデキウス・ブルータスがしめされており、それを聞いたデキウス・ブルータスが青ざめたなんて話もあります。
そんな感じで暗殺されたカエサルですが、半狂乱の暗殺者に刺された傷は23もあり、この内の一つが致命傷であったとされています。 この時暗殺者側はそのやったことへの恐怖で行動がままならず、カエサルの遺言状が提示され、共和制に戻るチャンスを失いました。 この遺言状で後継者に指名されたのはオクタビアヌスでした。 しかしこの時オクタビアヌスはまだ十代で、誰にも知れれていませんでした。 だからまだカエサルは一線で働く気でいたんですね。 もう15年もがんばれば、オクタビアヌスは30代で、後継者としてふさわしい年齢になってますから。 しかしその時は彼には訪れず、いきなりカエサルの後継者として指名されたのでした。 これに一番ショックを受けたのはアントニウスでしょう。 彼は自分がカエサルの後継者としてふさわしいと自負していたようですから。 しかしカエサルはアントニウスを軍人としては使えても、政治家としては駄目だということを見切っていました。 これからのローマに必要なのは政治家としての能力で、これを備えていたのはオクタビアヌスで、これはローマの歴史が証明しています。しかしオクタビアヌスは軍事的才能は0で、自分でもそれは分かったいたようです。 だからカエサルは彼と同年代の軍事的才能を持つアグリッパという青年を彼につけています。ローマのこの後の歴史は2人が手をつないで進めていきます。 これにアントニウスは反乱を起こし、クレオパトラと組んで戦いをいどみますが、結局負けて、ローマの初代皇帝にオクタビアヌスがつきます。 カエサルは後継者指名でもその天才さを見せつけました。見事としかいいようがありません。 カエサルの期待に応えたオクタビアヌスも立派ですけど。

 長々とカエサルを語ってきましたが、最初に言った「カエサルのすごさを分かってもらう」が果たせたでしょうか。 これを読んでくれた人がカエサルってすごい人だなと思ってくれたら、私としては非常にうれしく思います。 そう思ってくれた方はお願いです。来年の3月15日はカエサルの冥福を祈ってください。 
 ここまで私の独り言につきあってくれた人に感謝します。 もしよければ感想なんかいただけるとうれしいです。 それではまた次の回の時に。 最後になりましたが、また掲載してくれた、てなしもさんに心から感謝します。 

2000年3月18日 Atsushi

 今回の文章は塩野七生著、「 ローマ人の物語W ローマ人の物語 ユリウス・カエサル ルビコン以前 」「 ローマ人の物語X ローマ人の物語 ユリウス・カエサル ルビコン以後 」を主に参考にして書きました。 興味を持たれた方はぜひ読んでください。 決して損はしませんよ。



前回に引き続き、世界史上の英雄の生涯です。かっこいいですカエサル。
文章量はこどものくにのすべての文章コンテンツの中でも最大なほどに多かったのですが、
夢中で最後まで一気に読んでしまいました。
Atsushiさん、是非また原稿を書いて下さいませませ。
(この原稿に関する、ご意見、ご感想等は、 こどものくにの会議室 のほうへお願いしますです〜)


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