「少女革命ウテナ」とは、結局のところ革命がおこる話です。結果から言ってしまえば、「世界が革命された」物語でした。
では、その革命された「世界」とは何だったのか、ということを、TV版と劇場版それぞれについて考えてみたいと思います。


TV版で革命されたのは、姫宮アンシーの中にある世界でした。
決闘ゲームの賞品、薔薇の花嫁として決闘者の間をさ迷いながら、実はゲームの構造そのものを、ゲームの提供者である「世界の果て」と共に支配していた彼女。「私は、エンゲージしている方の思うがままですから」と微笑んで言い放ちつつ、実際には決闘の勝者には心を許さず、実の兄であり自分の王子様である「世界の果て」の為だけに働いていた彼女。作中何度も描かれる彼女の衝撃的な裏切り行為や、「好きな人のためだったら、自分の気持ちをだますなんて簡単なことです」などの過激なセリフに象徴された、今までのアニメキャラクターにはほとんどいなかった本物の魔女。
最終回の一つ前の話のラストシーン。アンシーの取った行動に驚かない方は、まずいないと思います。最後の決闘が終了し、「世界の果て」がその本当の目的を果たそうとしている時にも、アンシーはただ「世界の果て」のために生け贄になり続けて、「世界の果て」以外の者に心を開こうとはしませんでした。
過去に、自分に永遠を見せてくれた、王子様であり、実の兄である「世界の果て」。兄が「世界の果て」になってしまった原因は自分であり、その苦しみも理解しているからこそ、兄のために薔薇の花嫁であり続けるアンシー。しかし、その閉じてしまったアンシーの世界の扉を開けてくれたのが、ウテナでした。
彼女は、最後の決闘で「世界の果て」に敗れ、立ち上がることもままならない状態で這いずりながらも、「世界の果て」がウテナから奪った剣を使っても開けることの出来なかった、世界を革命する力が向こう側にあるという扉にたどり着き、手をかけます。彼女の手にすでに剣はなく、「世界の果て」は扉を開けることができる剣を持つものが現れるのを再び待つことにしてくつろいでしまっています。そして、ウテナが指先に渾身の力を込めた時、扉は少しづつ動きはじめたのです。
いつのまにかその扉は、薔薇の紋章の付いた大きな棺に変わっていました。その棺の中には、薔薇に包まれて眠るアンシーがいました。ウテナは、優しく声をかけます。「アンシー、やっと君に会えた」と。
自ら望んで世界を閉じていたアンシー。その元に訪れて、ついにアンシーの本心に出会えたウテナ。ウテナは叫びます。「姫宮、手を!」しかし、アンシーは、自分のためにではなく、自分の大切な兄、王子様の為にそこにいるのですから、出るわけにはいきません。「ウテナ様、違うんです」。そういっても、ウテナはやめません。ひょっとしたら、ウテナは「アンシーは誰かに捕らえられている」というような誤解をしたまま叫んでいたのかもしれません。すでに、息も絶え絶えになりながら、ひたむきに叫びます。「姫宮、手をー!」そのウテナの中のひたむきな心に打たれたのか、ついにアンシーは手を伸ばします。二人の指先が求め合い、頼りなく、しかし確かに絡まり合います。
しかし、そこまででした。
閉じた世界の扉を開いてしまったウテナに、世界を革命する時におこる歪みの象徴である、100万本の剣が襲いかかります。すでに決闘広場という気高いおもちゃも破壊され、ウテナを残してアンシーの棺も落下していきます。ウテナは、もう体を起こす力も残っておらず、倒れたまま、ついにアンシーを救えなかったことをか細い声で謝り続けます。その背に、100万本の剣が猛々しく襲いかかり、そしてウテナは、無残にこの作品世界から消滅しました。

ウテナのいなくなった鳳学園。しかし、生徒達はウテナのことを忘れ去っています。ウテナと何度も戦いあった生徒会メンバーすらも、身の回りのことに追われてウテナを思い出しません。どんなに素敵な王子様でも、人はそれをじきに忘れてしまうのです。
しかし、アンシーは制服を脱ぎ捨て、学園を出ました。いつまでも同じ事を繰り返す学園の生活を振り払い、学園の中の世界からいなくなってしまったウテナを探すために、外へ旅立ったのです。アンシーの世界に、外の存在が生まれたのです。ウテナは、自分の全てと引き換えに、アンシーの世界を革命することが出来たのです。「必ず探し出してみせるから、待っててね、ウテナ!」そう心に誓って、アンシーは希望に満ちた一歩を踏み出したのでした。


そして、劇場版のウテナは、再び巡り合ったアンシーと共に、外の世界を革命してしまいました。
TV版では、アンシーはずっと、ウテナの事を「ウテナ様」と呼んでいましたが、劇場版では、TV版のラストのように「ウテナ」と呼び捨てにしています。これは、外の世界へ飛び出してしまったウテナとアンシーが、ついに映画の世界において再び出会うことが出来た、と考えたくなります。劇場版の設定ではウテナが転校生ですが、薔薇の敷き詰められた決闘広場にたたずむウテナに後から来たアンシーが声をかけています。映画の構造や作品間の設定の違いなどを超越して、ウテナがアンシーを見つけたこの場面は一つの奇跡なのだと僕は考えます。もう一度出会えてよかったね、アンシー、ウテナ。
そして、TV版のラストで誓った通りに、二人は一緒に輝きだします。お互いの過去に秘められた王子様にまつわる恐ろしくも悲しい出来事が明かされ、お互いはお互いをもう一度見詰め合います。そして、世界から出るための、世界の果てを超えるための疾走がはじまるのです。
ウテナによって世界を革命する力を与えられたアンシーと、アンシーによって自分が手に入れた力を使いこなすことが出来るウテナ。二人は幾多の難関を乗り越え、ついに、最後の試練「お城カー」へ挑みかかります。
「お城カー」とは、その名の通り上にキラキラと輝く「お城」を乗せた、ものすごく巨大な車です。その下面には無数のタイヤが付いていて、下を通り抜けようとする者を踏み潰そうとします。上に乗っている「お城」というのは、言うなれば僕らの生活している「社会」です。その社会の仕組みに巻き込まれず、タイヤの一つにならず、自力で走って通り抜けようとすれば、それを排除しようとする力が働くのは当たり前です。それを、ウテナとアンシーは突破していきます。自力で走ること、それが世界を革命し得る力であり、その原動力は気高さなのです。気高さを諦めてしまえば、そのタイヤの一つになることも出来るだろうし、鳳学園の生活のように、キラキラと輝く「お城」に住み続けることも出来るでしょう。しかし、世界を革命する強い意志と気高さと、自分で走る力を持った者があるとき、世界は革命されるのです。現に、僕らの住む世界も、歴史上何度も革命されてきたではありませんか。
「お城カー」の下を潜り抜けたと思った瞬間、左右から巨大なキャタピラが、正面からは昔に王子様であったものが、不意に現れてウテナとアンシーを押え込みます。世界を革命するための最後の戦いです。「王子様だったもの」から発せられる恐ろしい言葉。左右からの、身を削るキャタピラの回転。しかし、幾多の戦いを乗り越えてすでにボロボロになっている彼女たちの輝きは、全く衰えてはいませんでした。TV版の時に、何度もウテナが叫んでいたこの作品を象徴する言葉を、ついにアンシーが叫びます。それは、気高き全ての者が求める力を、欲し、発現する祈りの言葉です。
戦いを突破し、世界は革命されました。「お城カー」は砕け散り、その中にあった安住の生活全てが、瓦礫になっていきます。ウテナとアンシーだけが進むその世界は、振り返ってみても美しい城の影は無く、先を見ても目指すべき城が消え、ただ瓦礫の続く世界になっていました。
描かれている「希望」は、ただ青く晴れ渡る空だけ。
「少女革命ウテナ」の描く、世界の果ての向こう側とは、あまりにさびしく、恐ろしい世界でした。しかし、ただウテナとアンシーは進みます。



「少女革命ウテナ」とは、こういったものが描かれている作品でした。これを見たら、ヘミングウェーはどう思うでしょう?マルクスは?漱石の手には余るでしょうか?
一通りの「ウテナ」論はこれまでに書き連ねましたが、あまりに不親切で、また僕は語らねばならぬもっと多くの言葉を置き去りにしてしまったように思います。まだまだこのコーナーは続いていきます。ご意見、ご感想等ありましたら、どうぞ会議室の方へ遠慮無くお書き込み下さい。




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