あなたにとって、プロスポーツ選手の社会的地位とはいかなるものであろうか。その社会的役割とは何かについて考えたことはあるだろうか。
アメリカにおける同時多発テロ後のスポーツ選手の行動と、それによって勇気づけられた人々の姿ほど、このことについて考えさせられたことはない。選手達にとって、自分たちが試合を行うことで会場が新たなテロの標的となること、また自分たち自身がテロの標的足りうることは、試合など放り出して家に閉じこもりたいと願わせるのに十分なプレッシャーであったろう。
しかし、現実にはその障壁を乗り越えて試合は行われた。この気概の出所は、どこにあったのであろうか。アメリカにおいて顕著であるとも言えるが、欧米においてスポーツ選手に期待される役割というものは老若男女問わず極めて大きく、またスポーツ選手においてもその期待に応えようとする姿勢が強いということが考えられる。
社会の中にあって一定の、高い地位を占める人間にはそれにふさわしい行動をとること、人間であることが要求される。彼らは常日頃から、また危難にあって特に社会人としての理想像であることを求められ、またその人間自身がその要求を満たしていくことによって、その人間及び職業のステータスというものは相乗的に向上していくのである。今回の事態においても、ヒーローを期待するファンに対して、自分の感情はさておいてもその期待に応えること、そのものがモチベーションなのだ。こうしたことを繰り返して欧米社会のプロスポーツ選手は高給と社会的尊敬を受けうる存在に成長してきたのである。
ひるがえって日本ではどうだろうか。私の感覚では高給を受けることは社会的地位の高さとは必ずしも正比例していないように見受けられる。確かに清貧を尊しとする精神作用が欧米よりは強いことは認めるが、日本ではスタジアム外、ピッチ外において選手に期待される役割が確立されていないか、少ないのではないだろうか。
先だって福岡で残念な事件が起こったが、私の周りでは「スポーツ選手だからしょうがないな」という風潮が明らかだった。もちろんこれは一部の選手の愚行のみを取り上げて全体に適用した、近視眼的な偏見であるのだが、逆に言ってしまえば立派に社会的役割を果たしている多くの選手達の努力を、一人の選手だけで台無しにできるということだ。日本ではプロスポーツ選手のステータスはまだ低いのである。
選手にとって、こんな人間になりたい、と目標を高く設定することは重要なことだ。そこに向かって努力することによって自分を目標にする人間が発生し、その期待に応えていくことによって自分自身の人間的完成と職業の社会的地位の向上が進んでゆくのである。ピッチの中だけで強かったり、うまかったり、頭が良かったりするのは当然のことだ。そこで得られた好評価と注目を、さらに社会的に還元してゆくために努力が必要なのである。そうすれば社会の選手に期待する役割は増え、より貴重なものになり、選手と職業の地位が確立されてゆく。
ビール掛けでは大騒ぎできても、フォーマルなパーティーではサインをするだけ、では人々はいつまでたってもスポーツで食っている人、以外の目では見てくれないのである。
李国秀はそんな日本社会に挑戦し続ける数少ない人間の一人だ。「Lee's Words」を読めば、彼がどのような視点で、どのような言葉で、どのような人間関係を作り上げてサッカーというもののステータスを押し上げようとしたかが伺い知れる。あなたも「李の言葉」を両手で受け止めてみてはいかがだろうか。