一読して、評価に迷う。
この本はサッカーを題材にするという点において、日本でも非常に異色な内容の本であるといえる。そのことだけは断言できる。
李国秀という1人のサッカー監督(総監督という名目はこの際使わないことにする)の「体験談」とでも言えば良いのだろうか。
Jリーグ監督の公認資格であるS級ライセンスを持たず、プロチームを率いた経験もない監督が、プロの監督として低迷している過去の名門クラブチームを2年間に渡って率いた記録であり、そしてあくまでも監督としての目線から、選手、チーム、ゲーム、クラブ、そしてJリーグやサッカー協会のあり方に対して自らの経験を綴った書である。
重要なことは、李氏が本書において決して視点を変えようとしない点にある。それは評価基準が揺らいではいけないという自身の信念にも基づくものだろう。 今の選手に必要なものは何か、チームやクラブに必要なものは何か、そして日本サッカーにおいて重視されるべき事柄は何か。その評価を李氏はあくまでも2年間の監督経験という軸上から外れることなく指摘し続けている。

個人的にはとても面白かった。99年、00年という2シーズンにおいて氏のチーム作りに強い共感を覚えながらも、しかし私が引っかかっていたこと、疑問に思っていたことが徐々に解きほぐされていくのが分かる。
「ああそうか、そういうことだったのか」「なるほど、そういう狙いがあったのか」という感覚。
ヴェルディが降格の危機を脱したこの時期に発売されたことは、ヴェルディファンにとっては自らのチームに対する評価基準を新たにするには適切な本なのかも知れない。なぜ過去2年間におけるヴェルディが、薄い選手層や資金的な困難があっても降格せず、目立った成績でなかったとはいえ内容あるサッカーによって戦い抜くことが出来たかという問いに対する答えは、すべてここに詰まっている。
しかしそれは、ともすればヴェルディサポーター、そして李国秀の作り上げたチームをこよなく愛する私個人の感覚の投影であって、必ずしもすべてのサッカーファン、Jリーグファンにとって(ひょっとしたら他のヴェルディのファンにとってさえ)興味ある内容ではないのかも知れないと言う思いもある。
それに、感動を誘うような文章でもないかも知れない。
特に2年間の監督時代において戦われた数々の試合は日記の様に描写され、その時の心理状況を踏まえつつも、あくまでもありのままに語られているように感じる。サッカーのゲームを劇的に語ることをせず、ただベンチから見たピッチにあるもの、見たそのままを、静かに受容しているように思える。自らの論理に対する絶対の自信なのか。あるいはなかなか成績の出なかった苦悩を押し隠しているのか。いずれにせよ、そこにあるのは論理性と情熱を兼ね備えた監督の視点そのままのものであり、ジャーナリストが描きがちな誇張された陳腐な情景描写ではない。
お決まりの「戦術論」のようなものにページ数を割くようなこともない。もちろん、まるで語られていないわけではないが、それはあくまでも部分の問題であって、例えば「李国秀のコーチ論」のような内容にはなっていない。李氏の論理的な物言いに期待してこの書を購入した「戦術マニア」のような方は、少々肩すかしを食うことになるだろう。
チーム・選手に対する評価もあくまでも氏の評価基準を通して語られている。自チームの選手に対する評価はおおむね厳しい場合が多いが、しかしそれは選手に対して明確な要求を常に用意しているからであって、カンや思いつき、選手の知名度など入る余地はないように思える。そしてそれは時に、すべての人にとって興味ある話題ではないように感じてしまう。
時折現れる「裏話」的な内容も、枝葉の域を出るものではない。
表面だけを読んでしまうと、面白みに欠けるのではないかという思いは、やはり拭えない。

しかし、本書から読みとれる最も大切な中身は、李氏の語る言葉の根底に流れているものだ。
徹底して論理的であり、頑ななまでに自らの評価基準に拘り、揺るぎない信念の向こうにサッカーに対する情熱を感じ取ることが出来る。
選手を評価する基準として李氏は「上手さ、強さ、賢さ」に加え、「社会性」という言葉を与える。氏にとってサッカーがつまり社会参加をしていくためのひとつの基準であるとするならば、サッカークラブが企業体・ないし社会構造として本来持つべき社会的側面の不備に対してひどく批判的になるのはむしろ当然のことなのだろう。そして李氏はまた自ら率いるチームの属するヴェルディというクラブそのものを批判的に評価することを通じて、日本サッカー界全体の評価基準のなさ、言い換えれば本質的な社会性の低さをも照準にしているのではないか。氏が目指したサッカーは、社会に認められていくという目的意識の上に成立していた。であるからこそ、サッカーをとりまく状況に対して強い熱意を本書から感じさせるのではないかと思う。
我々の周りにあるサッカーはどうだろうか?
「体育」のままではないか?より多くの人々に喜びを還元していく社会装置足り得ているだろうか?あるいは娯楽を提供する以上の社会的な位置づけ、役割を果たしているだろうか?多くの規制やしがらみ、意識の低さ、内向性やそれに伴う自己満足によって、日本サッカー全体が閉塞状況へと進みつつあるのではないか?
今のJリーグや日本代表、日本人選手たちとそれを取り巻く環境やマスメディアのあり方など、様々な側面から感じる疑問点について、李氏は現場の監督という立場・見地から疑問を提示しているのだと思う。
そして同時にこの本では多くのサッカーファンが陥りがちな単純な戦術論やシステム論、より言えばTVゲーム的な選手の並び替えに面白みを見出すような選手評価に対する、間接的だが痛烈な批判にも思える。つまり、サッカーファンがそうした評価基準を持ったままでは、この国ではサッカーが社会に認められていかないのだ、という強いメッセージにも感じられるのである。
だからこそ評価に迷う。すべてのサッカーに携わる人々にとって快く受け入れられるような本ではないのかも知れないと。
李氏の行おうとした改革は、ピッチの中においてはある程度の成功を収めた。氏の指導の下で見る間に力を付けていった選手たちに対する、私の率直な実感である。無論、例外も存在はしていたが、氏は自らの失敗についても本書で包み隠さずに表している。しかしことピッチ外のことについては、いかに李氏が多くの不満や改革の意志を示したとしても、遅々として思い通りにはならなかった苛立ちが本書からは滲み出ている。
だがこれほどまでにサッカーに対して信念と情熱を傾け、批判や苦労も背負いながら前進する事は、並の人間に出来ることではない。方法論や考え方の違いはあるにせよ、サッカーに愛情を持ち、また「サッカーを両手で扱う」人にはぜひ読んでいただきたいと思う。そうすることで、あるいは日本サッカーの今後のあり方について、また新たな考え、新たな評価基準を皆が広く持ちうるのではないかと思えるからである。