SFC慶応藤沢キャンパスではこんなことを担当

中華世界の多次元的視座(金曜3限)

●中国語IIIh 「中華世界の多次元的視座A」The Multi-dimensional Perspective of Greater China, A 春・秋開講 川田健

中国語で行われる講義科目です。

--------------------------------------------------------------------------------
中国思想は、漢代に儒教が国教化されてより思想的展開はそこで止まり、西洋のような普段な発展はとげなかった―高校で世界史を習った人の中にはそのようなイメージをもっている方も少なくないと思います。それは一面においては当たっています。思想的発展が未成熟なままで、儒教経典による理想的国家像と陰陽五行を中心とする万物消長の法則が系統立てて説明されたため、後代の思想家は基本的にこのパラダイムの中で自己の主張を展開することとなりました。
 しかしながら、経書に対する解釈や政策論を通史的に見ていくと、出来上がったパラダイムの中に閉じこめられて、似たような思想が再生産されるだけでは決してないことがわかります。これにはいくつかの要因がありますが、その一つに原則は原則としてあるが、常にそこに例外を認めるということがあるます。それが「経」と「権」であります。「経」とは古今を貫く不変の真理、「権」とは現実的判断に基づく例外でのことです。つまり、真理は真理として存在するがそれが現実的解決の妨げになるような場合、その対応を「権」として是認するというものです。このような思考様式を用いれば、政策と経書の真理とが矛盾するような場合でも、経書の真理そのものの価値を問うことなく、それを棚上げした状態で現実問題に対応することができるわけです。
 私はこのような思考様式は現代まで変わらずに続いていると考えています。王朝が倒れて共産主義が出来上がっていても、連綿と続く「不変の真理」、また、「社会主義市場経済」といった発想、本講座では儒教思想におけるいくつかのキーワードに着目してこうした儒教的思考様式について私の見解を述べるとともに、みなさんにそれについての感想や、批判的検討をして頂くことを目的とします。
 なお、第一回目の講義の時に授業の具体的な進め方などお話ししますので、少しでも興味のある方は覗いてみてください。また、履修を検討しているが第一回目の講義に参加できない(できなかった)方は、川田までメールを(jianjian@sfc.keio.ac.jp)ください。

 

比較文化E(金曜4限)春学期のみ 氷上正・田島英一両助教授との共同授業

本講でいう「比較文化」とは、「中国文化と日本文化の比較」、「西欧文化と東アジア文化の比較」といった、ステレオタイプな比較論を指すものではない。また、ハンティントンのように文明(文化)で世界を切り分け、「他者」の存在に紛争の危機を見て取るといった、ワシントン的世界観を展開するものでもない。分かりやすいオリエンタリズムを求めて受講すると、恐らくは失望することになる。
まずは、文化の存在する空間から、考えてみよう。ある文化は、グローバルな広がりを見せるであろうし、またある文化は、ごく狭い地域、ひょっとしたら一村落、一家庭内にのみ存在しているのかもしれない。それら異なる層に存在する文化を対置し、比較するばかりではなく、その相互作用についても考察する。一例をあげれば、国家の統治論理と、家庭の統治論理は、いかに相互影響し、いかに対立し、いかに収斂したか、といったことが問題になる。従って、本講の内容は、単なる「文化研究」ではなく、哲学、倫理学、宗教学、民俗学、歴史学、政治学、社会学、メディア論等にまたがる、学際的なものになるであろう。
講義は、以下の三名が交替で担当する。(コロン以下は専門領域)
  //氷上正:中国メディア論、映画演劇論 (今期サバティカル)
   川田健:中国哲学
   田島英一:中国地域研究//
必然的に、考察対象は「中国」を中心とすることになる。ここであえて「中国」とカッコつきにしたのは、ウエストファリア的秩序の中に主権国家として立つ「中国」と、文化的にイメージされる「中国」とに間に、深刻なずれが存在しているからだ。文化の多層性を指摘し、その比較検討を行う中で、受講者諸君は「中国」という概念の曖昧さに気づくはずである。
この意味で本講の目的は、「中国文化」に関する既成の知識を提供するものではない。むしろ、既存の「中国」像を破壊し、受講者諸君に知の再構築を促さんがために、存在している。一年生諸君のために、その再構築作業には言語(中国語)能力が必要になるということをも、強調しておきたい。つまり本講は、一年生(四月生)受講者にとっては、秋学期開講のインテンシブ外国語へと至る、イニシエーションとしての意味をも持つ。