長い間更新しなくて、本当に申し訳ございませんでした。 かなりの人数、インタビューしているので、ここはダイジェストで行かせていだたきます。

まず、印象的だったのは元騎手の安田富男さん (8月・ご自宅 競馬道OnLine)である。 ニッコリ笑って出迎えてくれる富男さんは、現役時代と変わらぬお人柄。 楽しい話を途切れさせないサービス精神も、ちょうど1年前にお会いしたときと変わっていなかった。 とにかく、富男さんは笑顔の人なのだ。

ただ、騎手を引退してちょうど1年、「やっぱり寂しいよ」とほんの一瞬目を伏せた富男さんに、 笑顔の裏にはさまざまなご苦労が蓄積しているということも感じられた。 人間、経験と深い思索の数だけ、笑顔に深みが出る。 笑顔というものは、いろいろなものを滲み出させるのだと思った。

富男さん、ご自宅の庭でニワトリを飼っている。 このニワトリが産む卵が絶品なのだそうだ。 「卵、少し持って帰れば?」と言ってくださった富男さんに、本当にいいのかなあ、なんて遠慮していると、 「所帯もってる? あ、独身か。じゃあ、持って帰ってもしょうがないかあ」だって。 ダハハハハ。富男さんから卵をもらうためだけに所帯を持とうかと一瞬考えた私である。


渡辺薫彦(4月・栗東トレセン調教スタンド 競馬道OnLine)の取材は楽しいものになった。 インタビューしている最中、その3日前に桜花賞を勝ち、初のGT制覇を果たしたばかりの 池添謙一が乱入したのだ。 たまたま、競馬道OnLineのその前の回が池添で、質問の内容を覚えていた彼が、 「渡辺さんのライバルは俺」と入り込んできたのである。

二人はその2日前、独身寮の庭でバーリ・トゥードを戦っていたらしく、 その意味でライバルなんだそうだ。 まったく、何をやってるんでしょうか。 「お前、俺の腕十字でタップしたやないか」「してない!」の言い合いは実に微笑ましいものでした。


吉田豊(6月・美浦トレセン調教スタンド 競馬道OnLine)は一匹狼であった。 トレセンのスタンドには、騎手の控え室があるのだが、 吉田は調教を待つ間、厩務員の控え室で一人、ポツンと座っていた。 吉田自身、「群れるのは好きじゃない」と語っていたが、その姿は騎手としては特異なもの。 僕は、勝負の世界で肩肘張っている、そんな彼の姿に好感をもった。

この取材、実は1回、すっぽかされているのだ。 というのも、取材のアポは彼の師匠の大久保洋吉調教師に取っており、 その大久保師が忘れていて、たまたまその日体調がすぐれなかった吉田を帰してしまったという次第。 僕が大久保師に声をかけると、「あ、今日だったか!」と平謝り。 あまりに丁寧にお詫びされて、しかも翌週の取材を確約してくれて、かえって恐縮しきりの僕であった。 大久保先生と吉田豊、近頃珍しい、絆の強い師弟である。

すっぽかされたといえば、栗東の某騎手にはまいった。 スタンドで一度挨拶をし、「ちょっと今は忙しいからここで待ってて」と言われた僕は、 スタンドの片隅で立ちっぱなしのまま、ひたすら待ち続けていた。 ところが、一向に現れない某騎手。
調教時間が終わりに近づき、スタンドが閑散としていくなか、それでも僕は言われたとおりに待っていた。 ついに調教が完全にフィニッシュし、明らかに異常を感じた僕が彼に電話すると、

「あ、ごめん。今日はこれから用事があるんだ」

俺の用事はどうしてくれるんだーーーーーー! 待つこと3時間、栗東くんだりまで行きながら、手ぶらで帰るのはあまりに空しかった。
ただし収穫がひとつ。 出津孝一騎手と牧田和弥騎手が、僕のそばで延々と熱い競馬論を語り合っていたのだ。 新人騎手にアドバイスをしていたのが口火となって、議論に発展したようなのだが、 正直、決してトップ騎手とは言えない二人である。 それでも、彼らの心の中に、騎手魂は燃えたぎっている。 それは非常に心地いいものだった。 「たしかに俺はこの程度の騎手かもしれないけど、息子に『親父はこれだけのガッツがあるんだ』 というのを見せたいんだ。息子に、根性というものを教えたいんだ」(出津) 二人の議論は、某騎手のすっぽかしが確定して僕がスタンドを去ろうとしても、まだ続いていた。 そのまま聞いていたかったなあ。


騎手以外では、やはり馳浩(5月まで・国会議事堂自民党国会対策委員会室 国会赤裸々白書)だろうか。 馳先生、国会対策副委員長になってからは、実に多忙。 しかも鈴木宗男、田中真紀子、辻本清美問題で国会が混乱していただけに、 そのストレスも甚大なもののようだった。

だからなのか、僕の取材って、ハッキリ言って、気分転換の休憩時間なんだよね。 ある日、取材時間が20分しか取れないというスケジュールの中、急いで質問事項を進めていると、 突然、僕の携帯が鳴った。 僕の携帯の着メロは、誰あろう、馳浩の入場テーマ曲。 センセイ、聞き逃さなかったね。

「おっ、俺のテーマじゃないか! どこで手に入れたんだよ! 教えろ!」

それからは、馳の携帯にその曲をダウンロードして、着メロとして設定する作業に没頭。 20分のうち、半分はその作業で時間が過ぎてしまったのだった。 設定が終了すると、「よし、じゃあ今日はここまで。じゃあな!」。 俺、何しに議事堂まで行ったんでしょうか。

その後、馳がテレビに出演したときに、馳の携帯が鳴ったことがある。 …………違う曲やん。 そんな苦労の末にできあがった「国会赤裸々白書」、どうぞよろしくです。



1月〜3月
江田照男 美浦トレセン若駒寮
武幸四郎 栗東トレセン調教スタンド


ずいぶん更新しなかったので、「競馬道OnLine」のなかから2人だけ。 まず、江田だが、これがもう、大変だった。 朝の7時に美浦トレセンに行くと、あたりはガラーンとしていて、江田はもちろん、人が見当たらない。 開門時間が8時だったからなのだが、それを知らずに美浦入りした僕は、そこでいきなり呆然としてしまう。 8時になり、ようやく調教が始まるが、江田の姿は見当たらず。 気温は氷点下3度。寒風の中、凍えながら僕は江田を待つことになった。

江田が現れたのは9時すぎ。挨拶して、取材の旨を伝えると、「ちょっと待ってて」。 30分ほど待つと、「ごめん、調教が急に入ってしまった。11時に若駒寮の前で」。 またまた呆然である。 あと1時間半、この寒さの中にはいられないと、僕はトレセンを出るのだが、 このあたりに喫茶店などという気の利いたものがあるわけがない。 仕方ないので、トレセン正門前にあるスーパーの前のベンチで缶コーヒーをすすり、 時折トイレに入って寒風をしのぐ。

11時。勇んで若駒寮の前に行くが、またまた江田が現れない。 江田が現れたのは11時50分。「ごめん、もうちょっと待ってて」。 何でもこの日、騎手たちの会合のようなものがあったらしく、 たしかに多くの騎手が若駒寮の向かいにある調整ルームに姿を現わした。 ハッキリ言う。もう、泣きそうでした。 寒いわ、腰痛いわ、ウンコしたいわ……正直インタビューなどどうでもよくなっていた。 江田がついに「お待たせ!」と言ってくれたのは12時半。自分のミスもあったとはいえ、 延々5時間半、待ちに待ってのインタビューだったのだ。

「15分くらいでいい?」に「これだけ待って15分かよ!」と心の中で叫んだ僕である。 しかし。 これは「競馬道OnLine」でも書いたのだが、この男、奥が深すぎる。 詳しくはそちらを読んでいただければ幸甚だが、「15分くらいでいい?」のはずが、 約1時間のロングインタビューになったのだ。 もちろん、これは江田自身が話をやめようとしないから。 実は取材のオファーを出した時、江田はさんざん渋ったのだが、 「あんなに取材を嫌がったのは何だったんだ?」と言いたくなるくらいの独演会だったのだ。 やっぱり、人間って"会話"をしてみなければわからないことって多いんだなあ、と実感しました。

幸四郎については、ハッキリと「負けました」である。 彼の醸し出す雰囲気に、僕はすっかり恐れをなしてしまったのだ。 その雰囲気とは暴力的なもの、というわけでは全然ない。 正反対で、まさに「お釈迦様に抱かれている」といった感じのムードなのだ。 何時間話していても苦痛ではなさそうなのに、こちらは逆にしゃべれなくなってしまう。 ある意味、こちらのツッコミを跳ねつける何かが彼にはあるのである。 一瞬、柔和な表情が崩れた瞬間があったのだが、いつもの僕なら「しめた!」とばかりにたたみ掛けるところを、 幸四郎の前では「ごめんなさい」と謝りそうになる自分がいた。 完敗である。

で、僕が思ったのは、「幸四郎って、すげえ才能のある男なんじゃないの?」ということだった。 彼の兄は言うまでもなく、武豊。 このウルトラ・スーパー・ジョッキーも、人心掌握術が図抜けている、とのことである。 幸四郎もまた、そんなところがあるのではないか。 その幸四郎は武豊のことを語る時、そこには何の気負いも感じない。 あれだけのとんでもない兄を持ち、しかも自分も同じ職業についていながら、 それを意識することも、重荷に感じることも、もちろん屈折して捉えることも、なーんにもないようなのだ。 そして、「兄に追いつこう」なんて素振りも見せない。 福永祐一が偉大なる父・福永洋一の影をいつも抱きながら懸命に頑張る姿とは、なんだか対照的に見えた。

おそらく、幸四郎はその気になれば、武豊に匹敵するだけの成績を挙げられるのではないか。 そして幸四郎自身、無意識にそのことを感じているようにも思えた。 「いやあ、兄貴は世界一の騎手ですから。兄貴に追いつくということは、僕が世界一になるということでしょ?」 なんて笑っている幸四郎は、そんなふうに笑えるからこそ、天才なのではないか、と思えたのだ。 そんな幸四郎に僕は負けた。 リベンジは世界一の兄貴に対してさせていただく所存である。



1月10日(木)
四位洋文 栗東トレセン調教スタンド


「競馬道OnLine」の第5弾である。 何か最近、インタビューといえば、こればっかだな。

四位といえば、あの田原成貴グループの一人である。 田原は今回の事件とは関係なく、かなり前からマスコミ内での評判は最悪であった。 マスコミ側に非があった場合もあっただろうが、とにかくその対応の横柄さは、 多くのマスコミ関係者をヒートさせていた。 それでも花形で、人気の高かった田原を甘やかすマスコミもまた多く、 そのしがらみがきっかけで尊敬するべきライター畠山直毅は一時、競馬に著しくモチベーションを失ったこともあった。

そんななか、田原に心酔していた四位にもまた、同様の噂はあった。 だから、ハッキリ言って、僕は警戒していたのである。 ある関係者も、四位にインタビューすることになった、と僕は話すと 「ええ加減なところのあるヤツやからなあ」と言っていたし、 そういう意味での緊張感があったことは否定できない事実である。
ところが。 まずは電話でアポを取ったときにちょっとずっこけた。 むちゃむちゃ好青年じゃん。 電話の受け答えはまさに完璧。取材の申し出にも快くOK。それも、 「木曜日の朝、トレセンでどうですか?」と、こちらの都合をうかがうことも忘れない。 まあ、もちろん電話だけで彼の人柄がわかったわけではない。 ということで会った。 ちゃんとしてるじゃん。

和田の項に書いたような、いわゆる好青年とは違うタイプかもしれない。 しかし、最初にイメージしていたような、スカした男では絶対にない。 質問への受け答えも真摯だし、こちらに不快感を与えることはいっさいしない。 ただ、彼は非常に自我の強い男だとは感じた。 自分のスタイルや哲学を崩そうとしない頑なさ。 そして、それへの絶対的な自信。 それが時に、当たりのキツさとなって、誤解を生むことはあるんだろうな、と思った。 あるいは、それが時にはおかしな方向に向かうこともあるのだろう(それを修正する人は必要だろう)。 それでも僕は、彼のそんな芯の強さに爽快なものを感じていた。 話していて自信の大きさが実に心地いいのだ。 ということは当然、それらの発言に対してケツを拭くだけの覚悟が彼にはあるということである。 そこには、紛れもないプロとしてのたたずまいがある。 武豊が長期不在だった昨年、関西リーディングをこの男が取ったのは必然だったのかも、とちょっと思った。

この日、関西日刊スポーツの美人記者・岩田久美さんも彼にインタビューを申し込んでいた。 その打診をする現場にたまたま居合わせたのだが、四位は 「あ、先に約束があるから、そのあとでいい?」と僕を優先させた。 いや、こんなの当たり前のことなんだけど、反田原グループの人たちの中には そういう場合にこっちをすっぽかして、女を優先する、ってなイメージありません? もっと言えば、彼らには常識というものが欠落している、というようなさ。 四位に関してはそんなことありません。 というより、いろんな意味で、騎手とマスコミの関係っていびつなところが多すぎるんじゃないですかね。 たしかに騎手全般に「増長」という部分が皆無とは言わないけど、それは何もこの世界に特有なことではない。 もっともっと人間としての接し方を、マスコミもまた考えるべきなんじゃないでしょうか。




和田竜二



「競馬道OnLine」の第4弾である。 取材は有馬記念の前に行なったのだが、テイエムオペラオーは残念ながら5着敗退。 それについては、ここでは触れないことにしよう。 和田といえば、テイエムオペラオーでの表彰式で見せる陽気なパフォーマンスが有名である。 だから、ひたすら朗らかな男なのだという印象をもっていたのだが、 実際に会ってみるとそれは半分正解で、半分不正解だった。

明るいことは明るいのだ。 ただ、想像以上に「マジメさ」を彼には感じた。 語り口やこちらへの接し方はもちろん、自分との向き合い方もマジメなのだ。 堅いというわけではない。大げさな言い方をすれば、真摯さを忘れない男なのだ。 そんな彼だから、自分の現状にはまるで納得がいっていないようだった。 もっと勝てなくてはいけない。もっともっと結果を出さなくてはいけない……。 和田の中には常に、そんな思いが強迫観念のごとく存在してるように見えた。 だから和田は、せつないくらいに向上心を持ちつづける。 時には下を見て、安心する瞬間だってあっていいんじゃないか、そう囁きたくなるくらい、 和田は上を見続けているのだ。

もし武豊がテイエムオペラオーに乗っていたら、間違いなく全勝、と思っているファンは多いだろう。 正直、僕もそう思う。 でも、そうではないからこそ競馬にはドラマが生まれる。 和田のような男が最強馬に乗っていた、だから競馬は記憶に残っていくのだ。

ということは、だ。 テイエムオペラオーという馬は、伝えられ方が足りないと僕は思う。 あの馬は決して「強い」というだけで語ち尽くせる馬ではなかったのだ。 和田という真摯な男の魂とともに、語り継ぐべき馬である。 競馬人気の衰退は、どうやら我々にも責任はありそうだぞ。




河内洋・田中勝春・後藤浩輝



10月から、会員制webマガジン「競馬道OnLine」で 「黒須田守のジョッキー・パラダイス」を連載させていただいている。 ちなみに、営業担当に転身した松本が取ってきた最初の仕事である。 各ジョッキーに毎回固定された10の質問をぶつけ、それについて突っ込んだことを 2部構成(毎週更新)でお届けしている。 記念すべき第1回は、関西騎手界の重鎮・河内。 いやあ、さすがに貫禄タップリでした。

実際は実に気さくで、冗談もまじえて答えを返してくれたりもするのだが、 身にまとった風格は、圧倒的である。 最近、取材で緊張することはほとんどない僕も(緊張感はあるよ)、 この日ばかりは久しぶりにガチガチになってしまった。 憧れの人に会って話している……そんな感情が何年ぶりで生まれたのだ。

第2回がカッチー。 GTシーズンということもあってか、なかなか捕まらなかったカッチー。 ようやく連絡が取れたかと思ったら、「今週は忙しいから来週でどう?」 それでは締め切りに間に合わんと、必死に食い下がるこちらに、 カッチーは追い切りの合間の、本当は休憩したいであろう時間を提供してくれた。 しかも、イヤな顔ひとつせず。 ついでに、取材時にはコーヒーまで奢ってもらってしまった。 そんなカッチー、とにかく明るい。笑顔がじつにキュートである。 しかし、間近で見るとそんな笑顔の奥に、勝負師ならではのキツさもたたえていたのであった。

第3回が後藤。 彼の本音に手が届いたような気がした。 ひとつひとつの質問に、まずはジックリ考え、ある程度考えをまとめたうえで、 あとは一気に心中を吐き出す後藤。 そこで飛び出す言葉ひとつひとつの熱さに、僕は震えていた。 例の京都大賞典についても語ってくれたのだが、 あのレースについての後藤の心中には、思わず僕の目は潤んでしまった。

自分に本気で向き合える者は、時に心に大きな大きな葛藤を生み出してしまう。 しかしそれができることこそ、才能なのだ。 インタビューのあまりの濃さに、僕は編集部に掛け合って2部構成を4部構成に延長してもらった。 通常の分量では、収め切れないだけの魂が、後藤の言葉にはあったからである。 この後藤の言葉を感じるためにも、ぜひ、競馬道OnLineに入会してくれ。 絶対に損はさせない自信がある。




成功企業の社長さんたち



この春から、どういうご縁か「財界研究所」さんからお仕事をいただくようになりまして、 9月の下旬に発売になる『財界』臨時増刊のムックで、 この不況下に成功を収めている企業の社長さん3人にインタビューさせていただいた。

「株式会社テンポスバスターズ」の森下篤史さん。
「株式会社パーク24」の西川清さん。
「キュービーネット株式会社」の小西國義さん。

それぞれの"ヒット商品"は、 「テンポス〜」は厨房機器のリサイクルショップ。 「パーク24」はコインパーキングの最大手「Times24」(黄色と黒の看板)。 「キュービー〜」は「10分1000円」の理容室「QBハウス」。

街でこれらを見かけたことのある方も多いだろう。 それぞれが創業以来、破格の成長を遂げており、 リストラ全盛のご時世に業務をバンバン拡大している。 このお三方に共通していたのは、「道は自らの力で切り開いてきた」点。 世知辛い世の中を生き残っていくには、つまるところ自分がどうあるのか、を自覚することしかないということだろう。

お三方にもうひとつ共通していたのは、かつて失敗を経験していること。 森下さんなんて、これまで6つくらい会社を潰してるんだって。 西川さんにも長い雌伏の時代があり、小西さんは心に大きな傷を作っている。 お三方がお三方、大きな苦悩に眠れない夜があり、 それをバネにして新しい仕事にチャレンジしていった。

森下さんは言った。

「壁があったとき、どれだけ力を注げば、その壁が破れるかはわからないんだよ。 でも、全力で臨まなければ、永久に破れないんだ。 全力を注いだからといっても、大半は破れない壁ばかりだよ。 でも、ずっと全力でやり続けていれば、ひとつくらいは破れるんだ」

「テンポス〜」を成功させるまでに幾星霜もの臥薪嘗胆があったからこそ、生まれ得る至言である。 小西さんも言う。

「つまずくなら20代のうちにつまずきなさい」

小西さんは「キュービー〜」を55歳で立ち上げた。その苦労を知っているから、 若者たちに対する慈愛の眼差しを持てるのだろう。

どんな人でも、人生に紆余曲折はある。 その折々で悩み、泣き、苦しみ、時に絶望したりもする。 それは成功を果たした社長さんたちも同様だ……それだけで、なんだか心が奮い立ってくる気がした。 森下さんは言った。

「成功したことの分析? 意味がないよ。 だって、たまたま当たっただけだから」

その「たまたま」とは「偶然」を意味しない。 紛れもなく、彼らが自分で引き寄せた「たまたま」だからだ。 さすがに成長を続ける企業の社長さんたち、それぞれにひとかどの人物でありました。



1月26日(金)
石川敬司 東京都新宿区

最近、プロレスファンになった人の中には、石川敬司を知らない人もいるかもしれない。 元幕内力士の大ノ海で、現役バリバリのときに全日本プロレス入り。 長州力らジャパンプロレス勢が全日本に乗り込んできていた頃には、 尖兵役としてキレのある動きを見せた。 輪島がプロレスを引退した時に、いちど行動をともにしたのだが、 その後、東京プロレスを旗揚げし、安生洋二とのコンビで TWAタッグ王者に就いたりもした。 93年の1・4ドームではセミファイナルで藤波辰爾とシングルで戦ったりもしている。 現在は現役を退いて、ビル・メンテナンスの会社を経営している。

で、最初に言っちゃうと、これはインタビューではありません(笑)。 僕の先輩が石川と知己の関係にあり、この日は「一緒に飲もう」というお誘いを受けただけのこと。 というわけで、これは「元レスラーと一緒に飲んじゃったもんね」という自慢コーナーです(笑)。

しかし、それにしても緊張した。 仕事でレスラーとは何度も会っている僕は、取材においてはもう、緊張でガチガチになることはない。 だから、この日も石川に会う前は、ぜんぜん平常心でいたのである。 しかし、顔を見た瞬間に体が固まった。 やはり仕事じゃない時に会うレスラーは、僕にとっては憧れの存在なのだ。 ちなみに、レスラーと食事をしたのはこれが2回目。 1回目はあのスタン・ハンセンだった。 そのときもやっぱり、グダグダに緊張したもんなあ。

で、そのハンセンと戦った時の話が面白かった。 ハンセンが全日本へ移籍した際、初めて戦った時に石川はラリアットでKOされ、 救急車で病院に運ばれたのだそうだ。 しかし、「嬉しかった」とも石川は言った。 「おかしな話だけど、レスラーとしてはやっぱり、あのラリアットを受けてみたい、と思うもんなんだよ」 以前、馳も同じようなことを言っていたが、それがレスラーの性なのだろう。 「受けてみたい」という、他のスポーツではあり得ない感情。 これがプロレスの特殊性のひとつなのだろう。

それにしても、石川は引退したとはいえレスラーである。 まず、飲む量と食う量がハンパではない。 焼き肉屋に行ったのだが、注文の際、 「とりあえず、ハラミ3、ギアラ3……」 で終わるかと思ったら(とりあえず、だからね)、注文が続く続く。 結局、テーブルに置ききれない量を頼むもんだから、別のテーブルも占拠してしまったのだった。 そして、飲むピッチが早い早い。 それに合わせて飲んでいたら、もうベロベロになっちまいましたよ。 さらに、その後、韓国クラブに行ったのだが、 気が付くと店の女のコが石川に群がる群がる。 もちろん彼女たちは、石川がレスラーであることを知っているわけではなく、 おそらくは彼のオーラみたいなものに吸い寄せられたのだろう。 僕ら(僕、先輩、石川の会社の人)が1人の女の子と話している間に、 ふと見たら、石川の方には5人くらいの女の子がついていたのだった。 やっぱり、プロレスラーたるもの、こうでなきゃ。 ちょっと感動した僕である。





1月23日(火)
馳浩 ムックY『新世紀アメリカンプロレス読本』(洋泉社)
東京都千代田区・衆議院第一議員会館
今回の取材はいつものプロレス激本ではなく、洋泉社から出るアメプロムック。 馳が肌を合わせたことのあるWWFのレスラーについて、 思い出話や評価などを語ってもらうものだった。

東京ドーム大会を5日後に控え、コンディションは上々の様子。 ただ、なんか、ものすごく眠そうだったな、この日は。 14日まで全日本プロレスのシリーズに参加し、 終了後は地元に帰ったり、政務に追われたりで、やや疲れていたのだろう。 話をしながらも、目が閉じそうになる場面が何度もあった。 それでも、こちらの質問には誠実に答えてくれる馳。
「俺もWWFに出たいなあ。日本からやって来た悪徳政治家、っていうキャラはどうだ?」
と言って、ガハハと笑い飛ばした。

インタビューの内容は2月8日発売の本を読んで欲しいが、 とにかくストーンコールドをベタぼめでした。 で、デジカメを買ったので、写真も掲載してみました。 本当はこれをやりたかっただけだったりして。





1月12日(金)
濱村美鹿子&佐藤正子
「女子王座決定戦」パンフレット 東京都府中市・多摩川競艇場
3カ月ぶりの更新だ。ダハハ、怠慢。 さて、今回は2月27日〜3月4日まで、多摩川競艇場で行われるGT 「女子王座決定戦」のパンフレットに掲載する対談の取材。 各競艇場で無料配布されるもので、『競艇マクール』ヤマケイ副編集長を通じての依頼。 他の仕事がかなりテンパっていて、日程的に相当しんどかったのだが、 濱村美鹿子に会えるということで、スケジュールをやりくりして受けさせていただいた。 対談のお相手は、JLCで解説をされている佐藤正子さん。 8年前に多摩川・女子王座を優勝している方だ。

僕は以前「マンサン」の連載で、現女子3強は 寺田千恵、海野ゆかり、濱村美鹿子 と書いた。この見解は今も揺らぎはなく、 そう書いてから濱村はさらに充実を見せ、最近3カ月では7点超の勝率を残している。 だから、僕としてはその強さの秘密を何とか探ってやろうと思っていたのだが、 その一端は話し始めて数分でわかった。

答えは簡単、濱村はガチンコで自分と向かい合っている。 たとえば、自分はレース前に作戦は考えない、スタートして、相手を見て、作戦を決める、という。 つまりこれは予測もしていなかった展開になったとき、あらかじめ作戦があるとそれが狂って、 自分のレースができなくなるからだ、というほどの意味なのだが、 そう言ったあと、彼女は
「でも、作戦を組み立てないからダメなのかな、と思うこともあるんです」
と付け加える。このような、自分の信念を語ったあとに「でもだからダメなのかな、と……」は、 この対談で何度も登場した。 彼女は、強い意志で自分の信念を貫いている。 しかし一方で、それが自分の成長を止めているのではないかと、検証をする。 彼女は自分の中で常に闘っているのだ。

だから、彼女はいつだってその闘いのためのヒントを欲している。 こういう対談においてよくあるのは、AとBが話すのではなく、Aと司会者、Bと司会者が話すという、 分離したインタビューになってしまうことだ。 ところが、濱村は相手が大先輩の佐藤さんであることに臆すことなどなく、 それどころか自分の疑問点を自ら積極的にぶつけていくのだ。

「優勝を狙って取りに行く、というのは可能なことなんですか?」
「佐藤さんは、女子王座と女子リーグで意識を変えてましたか?」

なかには、対談のテーマから外れていくものもあった。本来、インタビュアーとしてはあまり好ましくはないし、 修正を加えなければならないのかもしれない。 しかし、僕はとにかく感心して、濱村の話したい方向に委ねた。 当然そこは原稿には使えないが、そんなことはどうでもいいと思った。 (じっさい、分量がやけに少ないから、ムダな部分があってもいいのだ) とにかく、その姿勢が美しかった。 もちろん、ということはまだまだ自分に自信がないのであり、またあまりにも前向きすぎるきらいもあるのだが、 しかし「強くなるのが自分の最大の望み」という一点を貫こうとする彼女は、 心に強い芯を一本持っているのである。 そりゃ強くなるわ、僕は素直にそう思った。

一方、佐藤さんはまさしくプロだった。 JLCを見ている人は、明るく気さくなキャラを何度も目にしていると思うが、 まさにそのまんまの人。 ただし、そこには「周囲を楽しませよう」というプロ意識がしっかりと貼り付いている。 さらに、濱村の質問には真摯に答えを返す。 ほんと、対談じゃなくて「後輩が先輩のアドバイスを受ける」というシーンが何度あったか。 つまり佐藤さんの意識の中には、常に他者がある。 他者を気持ち良くさせようという、やさしさが佐藤さんの本質なのだ。 いやあ、でも、佐藤さんは面白いわ。 濱村が女子王座への抱負を聞かれて、ちょっと考えこんだ時、すかさず佐藤さんは 「私は、優勝を狙います」だって。 これで濱村も一気に和んで、すぐに抱負が口を突いた。 言うまでもなく、佐藤さんはすでに引退してます。 思わず原稿に使ってしまったが、ヤマケイさんは生かしてくれただろうか。

ともかく、二人ともじつに素敵な女性でした。 濱村も気遣いができる、かわいらしい女性とお見受けしましたぞ。 そして、笑顔が最高にかわいい。 もともとファンではありましたが、さらにファンになりました。 女子王座は濱村と心中します。



10月5日(木)
宮戸優光
『プロレス激本』(双葉社)東京都杉並区・UWFスネークピットジャパン
プロレス激本で、馳とともに引き続き担当することになったのが「宮戸優光に訊け!」。 人気連載企画2本は、ターザン編集長より「クロスダさーん、頼むよぉー!」と依頼されたわけだ。 VOL5では田村潔司との対談だったが、今回は通常スタイル。 「UWFスネークピットジャパン」に出向いてのインタビューである。

で、じつは、今回は宮戸自身の提案により、 安生洋二との対談でいく予定だったのだ。 これは見たい!でしょ? 宮戸もかなり乗り気で、しかも自ら安生の連絡先を突き止め、交渉にあたってくれたのだが、 安生は「あまりマスコミには出たくない」とのことで、断念。 くー、残念である。 ただ、宮戸自身は安生に限らず、対談シリーズにかなりの意欲を見せている。 もしかしたら、予想を超えた大物との対談も今後、あるかもしれないので、ご期待いただきたい。

正直言うと、今回はテーマを決めあぐねていたのである。 桜庭がヘンゾに激勝したPRIDE10はすでに1カ月以上も前の話。 田村絡みの話は前回にタップリ、本人と話していただいている。 じゃあ、ナマネタとしては何があるのか?と考えた時、適当なものがどうにも思いつかなかった。 そこで僕は「プロレスの本質」みたいなものを突っ込もうと決めたのである。

そしたら宮戸、熱い熱い。 もともと、UWFスネークピットジャパンは「レスリングの環境保護」をコンセプトに始められたものだけあって、 乱れに乱れた現状のプロレスには、宮戸も危機感を抱いているのだ。 だからこそ、捻じ曲がったようにしか見えない「プロレスリング」というものの解釈について、 宮戸の熱弁はとどまることを知らなかった。 特に「じゃあ、プロレスって何ですか? ショーや八百長がプロレスなんですか?」 という部分には、妙にクールになってしまった、そしてそれが通ぶった解釈だと勘違いしてしまった プロレスファンに対する大きなアンチテーゼを感じるのである。 そうだよなあ。 宮戸も認めていたとおり、「プロレスと呼ばれるもののなかにはそういうものもある」のは間違いないけど、 だからといって、すべてをそれで括るのはおかしな話。 そうでないものだってあるはずだし、そもそもプロレスの内部事情を知らない人が知っているかのごとく語られていることも多いから、 それがプロレスに対する冷めた空気を生んでいるという部分はたしかにあると思う。 そのなかでの、宮戸のこの熱さはじつにすがすがしいのである。

UWFインターの真実は「1億円トーナメント」。 これは当時の裏話といった感じです。 途中、この件が「田vsベイダーの後だったか、田vs北尾の後だったか」を宮戸も僕も思い出せないという、笑い話もあった。 宮戸が仕掛け人として全力疾走していた時代の話なわけだが、 この件を語る時の宮戸も、これまた熱い! とにかく宮戸には、なんとかしてプロレスを、感動の塊として世間に届けたいという欲求があるのだ。 そのために、プロレスに感動を吹き込もうとしていたのが、当時の宮戸だった。 それを可能にするために、レスリングの本質を追及したいと願い、 つまりは「UWFスネークピットジャパン」にもその思いはつながっているということである。

いつも宮戸とは、原稿が出来上がったあとに、まあいわゆるゲラチェックというヤツですが、 その原稿のブラッシュアップを電話でしている。 宮戸がインタビューでは言い足りなかったことを付け足していく作業が主なわけだが、 そのときの「日本語」へのこだわりは、まさに編集者、ライター並み。 宮戸、自分で原稿を書いても、それなりのものが書けるんじゃないかな?



9月28日(木)
馳浩
 『プロレス激本』(双葉社) 東京都千代田区・衆議院第一議員会館

プロレス激本の編集長を降板した僕だが、人気企画だった「馳浩の一刀両断」は引き続き担当することになった。 というわけで、松本伸也を引き連れての、インタビューである。 いつものことなのだが、彼のインタビューは執務室での政務中に行なわれる。 議員会館の彼の部屋を訪ねると、たいがい馳は書類の山と格闘しており、 そうでなければ陳情を受けている最中である。 要するに、僕らは政務多忙の真っ最中に、いつもお邪魔しているわけだ。

やや恐縮気味に馳に挨拶すると、馳は決まってこう言う。
「おっ、何しに来たんだ?」
取材に決まってます。
「そうか、ちょっと待っててくれ」
そう言って、馳は積み上げられた書類に一気に目を通すのだ。 その間、僕らは秘書の白崎さんや上野さんと雑談をしていたりするのだが、 この日はどういうわけか、政務室の中で待つことになった。 折りしも、国会では予算委員会が始まっている。 執務室のテレビでその予算委員会を見ながら、僕らは馳が仕事をしているのを横目に、待つことにした。 馳は森総理や閣僚の面々に飛ぶ質問に、ときどき 「お前が言えることか?」とか「やれるもんならやってみればいいんだよ」などと野次を飛ばしながら、 次々と書類を片付けていくのだった。 うむ、たしかに馳浩は国会議員である。

さてインタビュー。 今回のお題は「全日本分裂その後」「ノア旗揚げ」「石沢PRIDE敗戦」「オリンピック」など。 あ、もちろん恒例「黒須田のムフフ話」も強制的にしゃべらされました。 さらに「松本のムフフ話」も。 前回(VOL5)は馳のスケジュールが立てこんでいたため、短時間でのインタビューとなったが、 今回は会談などの予定が入っていなかったのか、ジックリと時間をかけてのインタビューができた。 そのなかで、とうとう馳の去就がほのめかされる。 もちろん明言はしていないが「お前は想像ついてるんだろ(笑)」の発言あり。 さて、僕はどんな想像をしているのでしょうか。 答えは10月19日発売のプロレス激本にある。

いちばん印象的だったのは、永田がアマレスで銀メダルを取ったことに話が及んだとき。 馳の表情がフッとやわらかになったのだ。 馳は16年前のロス五輪にアマレスで、しかも永田と同じグレコで出場している。 そのときのことが思い出されたのだろう。 顔の筋肉が一気に弛緩に向かったような感じで、 馳は表情を崩したのだった。 馳はつねづね「オリンピックに出ると出ないのとでは人生が変わる」と言っている。

「俺はオリンピックに出られたから、プロレスラーになり、国会議員になった」
現在の自分を考えた時、その過程に思いを馳せ、彼はそう言うのだろう。 だからこそ、馳はかつて自分が立った舞台で結果を出した後輩に、他人事ではない感動を覚えた。 それがあの緩やかな表情だったのだと思う。 いや、一瞬、泣くかとまで思ったもん。

でも、いちばんノリノリで話していたのは「黒須田のムフフ話」でした。 「取材なんかどうでもいいもん。その話を聞くためにお前が来るのを待ってるんだから」 だってさ。ま、楽しんでもらえてるのならいいですけど。

ちなみに、選挙中は剃っていた口ひげが復活していました。 しかも明らかに身体が大きくなっている! いよいよプロレスラーモードにも入ってきたようだ。 おそらく年明けには「代議士レスラー」の勇姿が見られることだろう。