作 品 解 説

日展作品


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題名 「端倪たんげいを知らず

  反復終始 不知端倪 芒然彷徨乎塵垢之外 逍遙乎無為之業

    反復はんぷく終始しゅうしし、端倪たんげいらず。
    ほうぜんとして、じんこうそと彷徨ほうこうし、
    無為むいの業ぎょうを逍遙しょうようす。

                   出典 
荘子
そうじ「大宗師篇」より

   通釈 自然に生死は繰り返され、その果てがどのようになるかなど気にも掛けない。
       何の思うこともなく汚れた世間の外を気ままにぶらつき、
       ことさら努めることのない業に心を楽しませている。

解説
荘子の内篇「大宗師篇」にある「畸人寓話」で孔子とその門弟との対話に託した寓話の一節。
一般の人間は既成の概念や社会的制約に拘束されて生きている「方内」の者である。この「方内」を超越し達観する「方外」、すなわち「造物者と一体」の境地を洞察し、生死の現象に一喜一憂することなく、現にみずから生きることの真実を信じ、その独立と自由を楽しみ、ともに生きる者との心契と調和とを喜ぶ境地に至らなければならないことを寓話に託して語っている。
語釈 反復終始とは、波が寄せては返すように、また円運動がどこから始まりどこで終わるか分からないように自然に死生が繰り返されること。端倪とは「果て」のことで、端倪を知らずとは、果てがどうなるかなど心にも掛けない意。芒然とは、何の思うこともない様。
彷徨は気ままにぶらつくこと。塵垢とは「ちり」と「あか」だが、ここでは汚れた世俗を指している。逍遙はのんびりと気晴らしする意。無為は無意識的先天的な行為で、没我、無心、自然の高度な自由。

題材にした無為自然の言葉とは反対に、最後までとらわれた心、作為、自我の意識ばかりがはたらいた作品となってしまったと反省している。