パリのショーウィンドー

 

 1990年代半ばから室内で野菜や果物を撮り始めた私は、それから間もなく

ショーウィンドーの写真をシリーズ化しようと決めました。それはある朝のこと、

フランスの日刊紙LIBERATIONの「特派員」としてパリの破棄院(高等裁判所)

の内部を針穴で撮影するため、シテ島の中を足早に歩いていたときでした。早春

の陽光にきらめく店の窓を横目で眺めて、「パリの通りには無数の静物がある!」

とひらめいたのです。

 

 しかし、室内で撮る静物とは大いに勝手が異なります。当たり前のことですが、

構図を整えるために陳列物を動かすこともできなければ、光の向きや明るさを

変えることもできないからです。さらに、カメラと陳列物を隔てるガラスには

静物とは何の関連もない向かいの建物が映り込んでしまいます。短いサイクルで

入れ替わるオブジェと年月を経た堅固で美しいパリの町並みが対峙するさまを、

ファインダーのない原始的なカメラでとらえたもの、それがパリの通りの静物、

つまり私のショーウィンドーシリーズとなりました。

 

 このように制御不能で予測不能なやり方をシステマティックに貫いてカメラ

に取り込まれた映像は、レンズとは異なる光学的性質をもつ針穴によって、陳列

物とガラス面に反射した建物をどちらも優劣をつけずに愚直に映し出します。

障壁となっていたガラス板の存在はいつのまにかどこかへ消え、実像と虚像の間

にあるはずの前後、遠近、内外といった位置関係や被写体の主従関係の境界線が

曖昧になります。針穴の位置がすべてを決めてしまう一点透視法の掟のもと、

撮影者はオブジェと映り込みの偶然の重なり合いの妙に希望を託すことしか

できません。

 

 このシリーズの画像を撮りはじめてからすでに20年が経ち、はかない運命の

陳列物はもとより、今となっては店そのものがなくなっていたり、向かい側の

建物が変貌を遂げていたりとパリの街も大きく様変わりしています。2001

911日を経て一風変わった撮影方法は残念ながら災いとなり、今ではカメラ

を構えることをますます躊躇せざるを得ない状況になってしまいました。それ

でも朝日を浴びたショーウィンドーの前を通りかかると無意識のうちに足が

止まり、ワクワクしたりドキドキしたりする気持ちを抑えることができません。

パリの通りにはまだまだ無数の静物があるのですから。

 

201611

田所 美惠子