東北大学国文学研究室『日本文芸論叢』第13・14合併号 平成12・3

「「門」を評す」と谷崎文学の理念的形成 ―谷崎潤一郎と夏目漱石(一)―

森 岡 卓 司

 

   一 

 自らの作家としての出発期について、「青春物語」(『中央公論』昭和7・9〜8・3)の中で谷崎潤一郎は次のように回想している。

尚もう一つ、私を力づけたのは荷風先生の「あめりか物語」の出現であつた。私は大学の二三年頃、激しい神経衰弱に罹つて常陸の国助川にある偕楽園別荘に転地してゐる時に始めて此の書を得て読んだ。蓋し、それよりずつと前に漱石先生の「草枕」や「虞美人草」の如き、非自然主義的傾向の作品が出たことはあるけれども、未だ此の書の作者の如く自然主義に反対の態度を鮮明にした者はなかつた。少くとも私はさう云ふ感銘を受けた。それに、漱石先生はその社会的文壇的地位が余りに私とは懸隔があり過ぎ、近づき難い気がしたが、荷風氏は当時仏蘭西滞在中(?)の最も先鋭な新進作家であり、恐らくはまだ二十代の青年らしく思はれたので、私はひそかに此の人に親しみを感じ、自分の芸術上の血族が早くも此処に現れたやうな気がした。私は将来若し文壇に出られることがあるとすれば、誰よりも先に此の人に認めて貰ひたいと思ひ、或はさう云ふ日が来るであらうかと、夢のやうな空想に耽つたりした。

 この「夢のやうな空想」がその後現実のものとなり、「明治現代の文壇に於て今日まで誰一人手を下すことの出来なかつた、或いは手を下さうともしなかつた芸術の一方面を開拓した成功者」との永井荷風「谷崎潤一郎氏の作品」(註1)の激賞によって彼が「一と息に文壇へ押し出」(「青春物語」)る次第は、最早周知に属そう。

 このような作家の回想は、佐藤春夫「潤一郎。人及び芸術 ―谷崎潤一郎の悪魔主義―」の「この呪われた朝を告げるだけの鳥の啼声を与へたものが永井荷風の出現であるとしたらば、縛められてゐた双つの翼をこの匍ふ鳥に与へたものは実に谷崎潤一郎であつた」(註2)という文学史的評価とも相俟って、中村光夫の「荷風と潤一郎とのあいだに」存在する「たんに流派や文学傾向の一致を越えた深い資性上の共感」(註3)の認識、或いは伊藤整の「この時、永井荷風を心の寄りどころとして、反自然主義作家として身を立てる決心を新にしたもののようである」(註4)との解説等を導き、文壇登場期の谷崎を評する際の、現在迄通有の定見を形作る。

 無論、この両者に取り結ばれた連関の重要性は、現在に至る迄継続的に試みられる言及及びその成果の数々(註5)が証明し続けている如くであり、決して無視することは出来ない。しかしながら、同時にこの二人の「血族」的関係のみを強調することの陥穽もまた存在するのではないか。

 「谷崎潤一郎氏の作品」中に荷風の掲げた「谷崎氏の作品中」に見出される「三箇の特質」とは、谷崎という作家の内的資質、及び文体の特質を賞賛するものであり、谷崎初期小説の物語的内容についての具体的な分析をそこに見出すことはできない。ある意味でそれは、荷風が評価の対象とした谷崎の小説群が持つ性質による必然でもあろう。しかしそのこと故に、荷風との関連が中心として念頭に置かれた従来の論調の中で谷崎の初期小説を読み解くならば、その結論は結局「アモラルであることへの志向」とその現実化に関わる葛藤(註6)という枠から踏み出すことはない。そして、その「アモラル」であることの意義は、荷風についてしばしば言及されるような文明批評、〈近代批判〉というパラダイムに直接的に回収される。無論、谷崎の小説にそのようなモティーフが抜き難く存在したことは確かであろうが、もしその内実を問わぬままに「アモラル」であることを恰も批評的であるかの如く揚言するならば、それは(言葉の最悪の意味に於ての)自閉・退嬰への通路を用意しかねない。

 であるならば、荷風との邂逅が持ち得た重要性を十分に認めながらも、寧ろ一度そこから離れることで明らかになる性質に目を向けることは、谷崎文学の初発を考えるに際して必要とされる階梯に違いない。荷風との関わりについても、その後改めて問い直されて然るべきではないか。

 以上のような見地に立つならば、本稿冒頭の「青春物語」からの引用部に名指されるもう一人の作家、夏目漱石の存在は一層興味深いものとして目をひくこととなろう。小山内薫を戴いての第二次『新思潮』創刊によって谷崎の文学活動は本格的に始動することとなるが、その第一号(明治43・9)に、小説「誕生」と共に谷崎が掲載したのは、「「門」を評す」(註7)と題した漱石についての文学論であった。

 「漱石が一高の英語を教へてゐた時分、英法科に籍を置いてゐた私は廊下や校庭で行き逢ふたびにお辞儀をした覚えがあるが、漱石は私の級を受け持つてくれなかつたので、残念ながら謦咳に接する折がなかつた」と「文壇昔ばなし」(『コウロン』昭和34・11)に谷崎が回想しているように、谷崎と漱石との間には、実際生活上の交流は殆ど存在しなかったと思われる。現時点で確認されている限り、両者の間に取り交わされた書簡は存在せず、谷崎が「鬼の面」(『東京朝日新聞』大正5・1/15〜5/25)を漱石が取り仕切る朝日文芸欄に掲載した際にも、漱石の山本笑月宛書簡の記述(註8)を見る限り、両者の直接の接触は無かったかの如くである。

 しかし、谷崎が漱石に対して格別の意識を働かせていることは確かである。

 よく知られる所謂「小説の筋」論争からもたらされるような印象に反して、谷崎は元来他の近代文学作家に言及することにそう積極的ではなかった。第二次『新思潮』を創刊する以前の所謂「初期文章」にあってこそ、後に嫌悪感を露わにする高山樗牛、島崎藤村等迄広く思想界・文壇に言及し、衒学趣味を隠さなかった谷崎も、後の「芸術一家言」(『改造』大正9・4、5、7、10)「饒舌録」(『改造』昭和2・2〜12、『大調和』原題「東洋趣味漫談」昭和2・10)のそれぞれ冒頭にはっきりと時評嫌い・批評嫌いを言明することとなる。またその傾向は時代の経過に従って一層顕著となり、晩年の谷崎の文章には、実生活に於て深く交流した者達以外の文学者の名前を見ることが殆ど出来ない。

 そのような中にあっても、鴎外・露伴と同じく「明治以後の我が文壇に於ける巨人」(「思ひ出」岩波書店版『荷風全集』内容見本 昭和37・12)と見倣される漱石の名前は、所謂初期文章中の『校友会雑誌』第百六十五号(明治40・3)に和辻哲郎の作物を評する「批評」欄に始まり、最晩年の「雪後庵夜話」(『中央公論』昭和38・5〜9、昭和39・1)に至る迄、断続的にではあれ谷崎の文章に登場し続ける。

 それら多くの漱石に関する言及の中でも、最も著名なものの一つは、「明暗」(『東京朝日新聞』『大阪朝日新聞』大正5・5/26〜12/14 未完 但し『大阪朝日新聞』は途中休載の為12/27迄)を、「知識階級の遊戯」的な「屁理屈」小説、「普通の通俗小説と何の撰ぶ所もない、一種の惰力を以てズルズルベツタリに書き流された極めてダラシのない低級な作品」と全面的に否定する「芸術一家言」であろう。同じく大正九年に谷崎は「鮫人」(『中央公論』大正9・1、3〜5、8〜10 未完)の登場人物に漱石評をさせてもおり、この当時の谷崎が持った漱石に対する関心の高さは明白である。ここで更に、「芸術一家言」の『改造』連載第一回からその意図が明瞭にされる漱石の遺作に対する批判が、「多くの人に私の芸術観を訴へるのに此の上もない機縁となる」(「芸術一家言」)との見通しの下に企まれており、しかもこれが「「門」を評す」以降初めて、日本近代の小説作品に踏み込んで批評を加える文章であるという点に着目してもよい。

 このような谷崎の漱石に対する強い執着を見るならば、少なくとも大正中期迄の谷崎にとって漱石の文学は、通説の「反自然主義」とはまた異なるレヴェルに於て、自らの文学の根幹に関わる問題として存在したと言わねばならないだろう。

 以上粗述してきた通り、谷崎文学、特に初発期のそれを考究するにあたって、漱石の存在は見落とすことの出来ないものとしてある。従来、さほどの注目を集めてきたとは言い難いその関わりの様相は、谷崎の小説テクストの検討、或いは同時代的状況からの把握等の多様な観点から、追究・解明されねばならないだろう。その端緒を成すべく、本稿に於ては最初期の評論「「門」を評す」を検討の対象とする。

 「「門」を評す」は、江藤淳の引用(註9)によって、漱石「門」(『東京朝日新聞』『大阪朝日新聞』明治43・3/1〜6/12)自体の読解に関わる議論としての側面に焦点を当てられ、以降現在に至る迄、同様の問題系の下に頻繁に参照され続けている。が、そのような採り上げられ方の盛行とは裏腹に、「「門」を評す」という評論の意義を谷崎自身の問題として捉える見解は、極めて少ない。

 その数少ない例外の一つとして、石井和夫は「「門」を評す」に見られる「それから」(『東京朝日新聞』『大阪朝日新聞』明治42・6/27〜10/14)への共感を「芸術一家言」に於ける「明暗」への批判と結びつけ、「病的な近代思潮」(即ちロンブロウゾ・ノルダウ的パラダイム)に基づく「肉体賛美の芸術観」・「議論や心理描写を厭う傾向」を谷崎に一貫した基盤として見出している(註10)。肯うべき点も多い立論であろうが、同時に既に述べたような理由によって、その結論はやや性急の感をも免れ得まい。本稿に於ては、今一度「「門」を評す」が提出する論理自体に添い、そこに見られる谷崎の批評の内実を明らかにすることで、当時の谷崎文学の理念的側面について検討を加えてみたい。

 予め述べておくならば、「事実」/「空想」という、この時既に自然主義の主張の中で使い古されていた凡庸な発想を借用し、大家たる漱石に対して恰も一言あるかの如くに構えて見せるこの評論は、漱石の小説に対する批評それ自体としての強度には全く欠けていよう。しかしながら、寧ろそのような綻びの中にこそ、漱石への積極的な関わりの中に存在した谷崎自身の問題を見定めることは可能なのではないだろうか。

   二

 「それから」と「門」とを「いろいろの点から見て、切り放して読む事の出来ない理由を持つて居る」ものとして把握した上で、両者を比較するという格好の「「門」を評す」の趣旨は、結末部にこう明言されている。

先生の小説は拵へ物である。然し小なる真実よりも大いなる意味のうその方が価値がある。「それから」はこの意味に於いて成功した作である。「門」はこの意味に於いて失敗である。(「「門」を評す」)

 この「うそ」或いは「拵へ物」の語は、漱石が如何に自然主義作家と異なっているかを「うそを指摘する」ことで示すという、「「門」を評す」冒頭に掲げられた問題設定と呼応する。その際に谷崎が言う「漱石は自然主義に近くなつた」と「云つた」「誰やら」とは、例えば次のような評論の書き手としての徳田(近松)秋江を指し示すのであろう。

夏目漱石氏の「門」は、頗る自然派ぶりの作品である。「三四郎」「それから」と一作毎にさうなつて来てゐる。朝日文芸では、自然派の攻撃が頻繁だが、「門」は案外自然派ぶりに出来てゐる。(「思つたま (二)」『読売新聞』明治43・5/14)

 言う迄もなく、「うそ」「拵へ物」とは、当時の文壇に於て極めて広範且つ頻繁に使われた論争的概念であった。また、多岐に渉る経緯の中でその概念的位相は複雑な捻れをも必然的に抱え込んでおり、その整理はさほど容易くはない。ただ、先述のような「「門」を評す」の文脈を考慮する限り、それは明確に「自然主義」との差異を示すメルクマールとして使われるのであって、その意味でこの文章には、これ迄に主張されて来たような意味での文壇思潮に極めて意識的である谷崎の姿を認めることも出来よう。

 しかし、寧ろここで注目したいのは、谷崎が「大いなる意味のうそ」(傍線引用者)という観点に照らし、また別の箇所では「破壊的」「建設的」という対照を用いて、「それから」を成功作、「門」を失敗作と評価し分けているそのことについてである。

 後の「芸術一家言」に於ては、「それから」はそれを読んで「最も漱石氏に傾倒した一人」になった小説と、「門」は「小説に於ける氏の傑作」とそれぞれ位置付けられ、共に高く評価されている。無論、「批評に藉りて芸術上の感想を」「極めて自由に」述べることを「趣意」とする(「芸術一家言」)谷崎のエッセイに対し、時を経て変わらぬ厳密な一貫性を求めることは素より論外でもあろう。従って、問題とすべきは、「それから」と「門」とのそれぞれ自体の性質或いはそこに存する両者の差異ではなく、「「門」を評す」に於けるこの分別によって何を谷崎が主張し得たのか、という点にある。

     *    *    *    *    *    *

 その具体的内容について検討を進める前に、「うそ」「破壊的」「建設的」等、ここで問題にしようとする「「門」を評す」中の言葉について、一端その来歴を辿っておく必要がある。千葉俊二(註11)は、「「門」を評す」に先行の漱石論としての武者小路実篤「「それから」に就て」(『白樺』明治43・4)の影響が「その書き出しから」顕著に認められることを指摘しているが、無論、その影響は単に書き出しのみに留まるものではない。「自然」/「社会」、「破壊的」/「建設的」等の対立的把握、或いは小説作法的観点からの終結法への着目等、「「門」を評す」に於ける大きな論点の幾つかは、「「それから」に就て」から形を変えず受け継がれたものである。ここでは、そのような中でも最も重要と思われる連続について確認をしておきたい。

た 自分は漱石氏は何時までも運河をつくる方で自然の河をつくれる方でないやうな気がすることを悲しむ。しかし大きな運河を以て河よりも便利に明らかに多くのものを見せてもらへることを喜ぶ。(「「それから」に就て」)

 実篤は論の終結にあたってこのように述べている。ここに語られる「自然の河」「大きな運河」の対立及び譲歩を含む価値判断の形式を、先に引用した「「門」を評す」の結論部が継承していることは一見して明白であろう。論の冒頭部にあっても、両者の分析は共に小説内の技巧的要素を指摘することから始められているのであって、「「門」を評す」は、分析対象とするテクストこそ違え、額縁的に論を覆う大きな分析枠を、先行の実篤の立論に依拠していることになる。

 しかし、両者間の最も鮮明な違いもまさしくこの点を巡って存在する。

 先の引用箇所にも見られる、漱石が書簡(註12)を通じて賛意を伝えたことでも著名な「運河」という比喩表現は、「作者のアート」「技巧」によって支えられる「それから」に於けるストーリー展開の「つくり物」的性質を評す実篤の術語である。が、実篤は、その性質について、「それから」の「技巧のゆきとゝいてゐること」に「感心をしない人はない」と迄言いながら、次のような留保をも行っている。

しかし、自分はこの点にた 感心するだけではない、同時に幾分かの不感服をもつ。
 それはつくられたものと云ふ感じである。自然の一部をかゝれたものと思へない点である。「それから」に書かれたことにあり得べからざることはない。出てくる人も皆人間である。しかし何処かつくられた感じがする。(「「それから」に就て」)

 このような批判は、「自然の力、社会の力、及び二つの力の個人に及ぼす力に就ての漱石氏の考えの発表」と、「それから」に於ける漱石の意図を明確な図式性を以て推定する「三、思想について、併せて思想の顕はし方について。」へと論述が進むに至って、次のような展開を見る。

書かうと思ふものゝ為に事件の発展を都合よくすることは作者のアートである、大切なことである、しかし「三千代の子」を殺したことは書かうと思ふことを色こく出す為に損な気がする。又平岡をして放蕩させたのも、社会の為に圧迫されるものゝ荒んだ心を顕はすのに適当ではあらうが、代助と三千代を接近させることに猶ほ適当であることが、事実らしくあるにも係らず自分にはつくり物のやうな気がして、作の力を弱くしはしないかと思つた。(「「それから」に就て」)

 ここで「事実らしくある」にもかかわらず「つくり物」としての印象を与える「「三千代の子」を殺」すという「作者のアート」は、「自然の力」に従って「生活難を以て或はコンベンシヨナルの道徳を以て個人を圧服する」「虚偽の社会」に「背く」行動へと進む筈の代助を、三千代に「接近」させる上で「適当である」べく作用している点に於て批判されている。

 実篤特殊の「自然」概念については既に多くの考察があり、ここではごく簡略な要約に留めたいが、彼が見出した「自然」とは、「万人と合奏する事が出来ない」「今」にあって「自己」に「我儘をはり通うして他人にこびやうとはしない」生き方を命ずるものとして仮構される(「個性と個性」『白樺』明治43・1、後『生長』収載にあたって「自分と他人」と改題)ものである。更にその「自己」の「我儘」は、「自己の君主であり、自己のみの臣下である人のみ、理想の労働者たり得る」(「クリンゲルの「貧窮」を見て」『白樺』明治44・5)ようなエートスを保持するものと見ることが出来る。

 以上粗述したような明治四十年前後の実篤の文脈に、「「それから」に就て」を改めて置くならば、「子供のある三千代と代助を心の姦通させるだけ熱烈な恋を書く」ことを要望し、逆に絶縁される前の「代助を皆に浦山しがられる位置に置いた事」を「作を強く」するものと評価するその意図は、一層明白となる。「それから」に「虚偽の社会」への批判という「破壊的思想」と「自然崇拝」という「建設的」な「考」との対合を見、「自然に従ふものは社会から外面的に迫害され、社会に従ふものは自然から内面的に迫害される」といったアンビヴァレンスを「それから」に想定する実篤にとって、社会的条件(「迫害」)が結果として「自然」的行動を助力するような関係は、「自己」が結果的に「社会」に「こび」、「自己」以外の臣下である状態を現出せしめるが故に、「自然崇拝」の「思想」を表現すべき「作」の純粋性を損ない、「力を弱く」する有り得べからざる状態と見倣される。この野合を生じさせる物語展開への否定的意識こそが、「つくり物」或いは「運河」の名の下に行われる留保の内実であろう。

 一方の「「門」を評す」に注意を向けるならば、谷崎はその冒頭から「門」に於ける「露骨」な「多くのうそ」を指摘しており、その幾つかについては、実篤が「それから」について指摘したと似通った性質を「門」に見出すものと言うことが出来る。

二人を貧乏な境遇に置き、お米を病身にさせ、三人の子を死亡させたのも、又彼等の間に小六と云ふ第三者を配したのも、畢竟は此の恋をエムファサイズせんが為の細工であったのだ。(「「門」を評す」)

 ここでの「細工」は、「建設的」たる「「門」の恋」を「読者に会得させる」為の物とされる。であるならば、それは実篤言うところの「適当である」ことを導く「つくり物」に他ならないであろう。しかしその「細工」は、それによって「エムファサイズ」されるべき「「門」の恋」が、「今日の青年に取つては到底空想にすぎない」点に於て、批判の対象となる。

 実篤と谷崎との両者は、同じく「建設的」たる「恋」の主張に至るプロットの進行、及びそこに介在する「うそ」に着目しながらも、実篤がいわばその方法的不徹底を難じていたのに対し、谷崎は「「門」の恋」そのものについて正面から批判を加えている。ここには、「建設的」なる「恋」をどのような特質に於て把握するのかという問題が、両者の截然たる分岐を成すものとして存在している筈だ。

 本稿の明からめようとするのは、実篤によって引用された「なまじひ」という代助の言葉を、そのまま漱石に投げ返すことによって谷崎が示そうとした、「「門」の恋」に対する痛烈な批判の内実である。

   三

信仰の対象なく、道徳の根底なく、荒れすさんだ現実の中に住する今日の我々が幸福に生きる唯一の道は、まことの恋によつて永劫に結合した夫婦間の愛情の中に第一義の生活を営むにある。これが「門」の作者の我々に教ふる所である。(「「門」を評す」)

 このように述べる谷崎は、「今日の我々」たる状況認識に於てある種の前提を「「門」の作者」と共有するかの如く振る舞っている。それは、自らの初発を飾る評論の対象として漱石を選んだ一因でもあろうが、「「門」の恋」を「我々には縁の遠い理想」と谷崎が断ずるのもまたこの認識によってであった。

 繰り返すならば、「「門」を評す」の論旨にあって、「それから」に比して「門」が論難されるべき分岐は、「等しく拵へ物としても、「それから」は事実の土台に立つて居たが、「門」は空想の上に築かれて居る」との点に、殆ど自然主義的とも見えかねないような設定をされていた。事実、論の後半に至っては、「何となく二人の声が聞えるやうな気」を起こさせる迄に「極めて自然で、真実を捕捉している」「門」の描写は、「自然主義の作家と雖容易に企て及び難い」と評されてもいる。しかし、この「真実」とは技術的な描写論に関わっての評語であって、論の骨子を成す物語的展開に関する分析に於て用いられる先の「事実」の語とは、その意味するところを異にしよう。では、ここで谷崎が想定した「事実」とは、如何なる内容を持つのであったか。

新しき教育を受けた代助が「それから」のやうな恋をするのは無理ならぬ事である。然し新しき思潮に触れた宗助が、如何に大いなる犠牲を払つてかち得たる恋であるとは云へ、ヒステリーの病妻を抱いて、子なく金なき詫びしい家庭に、前後六年の間、青年時代の甘い恋の夢から覚めずに居たと云ふ事実は、一寸受け取り難い話である「蒲団」の作者に云はしたなら、頭から「拵へ物だ」と評するかも知れぬ。(「「門」を評す」)

 この箇所に「「蒲団」の作者」、即ち田山花袋の名を登場させるにあたっては、田山花袋「評論の評論」(『趣味』明治41・11)と漱石「田山花袋君に答ふ」(『国民新聞』(明治41・11/7)との間に交わされた「拵へ物」の是非を巡っての応酬がその背後に想起されている筈である。その中で漱石は、次のような主張を行っていた。

拵らへた人間が活きてゐるとしか思へなくつて、拵らへた脚色が自然としか思へぬならば、拵らへた作者は一種のクリエーターである。拵らへた事を誇りと心得る方が当然である。た 下手でしかも巧妙に拵へた作物(例へばヂューマのブラツク、チューリップの如きもの)は花袋君のご注意を待たずして駄目である。同時にいくら糊細工の臭味が少くても、凡ての点に於て存在を認むるに足らぬ事実や実際の人間を書くのは、同等の程度に於て駄目である。花袋君も御同感だらうと思ふ。(「田山花袋君に答ふ」)

 「然し小なる真実よりも大いなる意味のうその方が価値がある」という「「門」を評す」終結部に置かれた文言との関連も又明らかであるこの文章を参看するならば、「門」のストーリー展開を(「下手でしかも巧妙」な)「拵へ物」として攻撃しようとする谷崎の意図には、「不遜」(「「門」を評す」)以上の皮肉な底意が潜んでいるとすら思えるのだが、では「門」の一体どのような点が、谷崎にとって「大いなる意味」を持たぬ「拵へ物」と見えたのだろうか。

代助の道徳は是非とも代助に「永劫変らざる愛情あるべし。」と教へなければならぬ。然し実際の愛情は之に反する事が多くはあるまいか。さうして自己を偽らざらむが為めにあらゆる物を犠牲にして、真の恋に生きむとして峻厳なる代助の性格は、恋のさめたる女を抱いて、再びもとのやうな、或はそれよりも更に絶望なヂレンマに陥る事がありはすまいか。其の時々にこそ二人の姦通者は真の報復を受く可きである。(「「門」を評す」)

 ここに想定されるような代助の先途が、当代の「新しき思潮に触れた」「今日の青年」にとって「実際」に「多」かったか否か等という観点から、谷崎の言う「拵へ物」の内実を推し量っても意味はない。そうではなく、「門」に於て宗助に与えられた「第一義の生活」よりは、「自己を偽らざらむが為めにあらゆる物を犠牲にして」獲得されたそのような「幸福に生きる唯一の道」を破綻へと導く「愛情」の移ろいこそ、「事実」に相応しいものとして尊重され、宗助にとっての「真の報復」であり得るとの価値判断を下されていたことに注目すべきだろう(註13)。「「門」を評す」に於ける谷崎の漱石に対する批評は、「更に絶望なヂレンマ」としての「真の報復」の内実に賭けられている。

 「真の報復」との表現は無論、実篤曰くの「個人を圧服する」「虚偽の社会」の作用という〈偽の報復〉との対照を含意しよう。宗助・お米の「罪は、恋と云ふ大風――自然の不可抗力に駈られた結果で、決して放埒な淫奔な性質の然らしめた所でない事」は、「それから」の参照によって「能く解」ることとされていた。これは「代助の性格」についての全く実篤的な解釈に等しいと言い得るが、その「自然の不可抗力」に従った二人に対し、「彼等二人限に切り詰めて、其二人に冷かな背を向け」るという「虚偽の社会」が想定されるならば、谷崎によればそれは「極めて甘い見方」であり、「世間はもつと複雑な、アイロニカルな事実に富むで居る」。何故なら、その「社会」は、反面に於て「当節に珍しいロマンチツクな生活」という「人生の落ち着き場所」をもたらすものである以上、二人にとっての〈偽の報復〉でしかあり得ないからだ。

若し、「それから」が「門」に描かれたやうな発展の径路を取つたとしたならば、それは作者に取つても代助に取つても甚好都合な次第であると云はねばならぬ。(「「門」を評す」)

 谷崎の「更に絶望なヂレンマ」の主張とは、宗助が「社会」に背き「自然の不可抗力に駈られた」者としてのアイデンティティを獲得するという「甚好都合な次第」への疑義の表明であることが、ここに理解される。そのような「深く生命の底に根ざした厳粛な質実な」アイデンティティが、「恋のさめたる女を抱」くことで、対「社会」的にも対「自然」的にもあくまで裏切られ続けることこそ、「真の報復」であり、谷崎にとって「認むるに足」る「事実」であった。

 以上を、「建設的」なる「「門」の恋」に対する谷崎の批判の内実であると見ることが出来よう。「「門」の恋」に於けるその欠如を「事実」の名の下に難ぜられ、「更に大きい問題と、深い意味」としてそこに夢想されたのは、このようなロマンティクな主体化に対する批判そのものに他ならない。

曝露の日がまともに彼等の眉間を射たとき、彼等は既に徳義的に痙攣の苦痛を乗り切つてゐた。彼等は蒼白い額を素直に前に出して、其所に焔に似た烙印を受けた。さうして無形の鎖で繋がれた儘、手を携えて何処迄も、一所に歩調を共にしなければならないことを見出した。(「門」 十四の十)

 「「門」を評す」の論理に従えば、主体形成を促すこの「烙印」「無形の鎖」は、共に「空想」に過ぎない。そして、「『それから』に依つて提供された大きな問題が、『門』に於いて、なまじひな解決を与へられた」と述べて、「なまじひ」という言葉を皮肉に用いる谷崎が表明するのは、この「空想」を「素直」に受け容れることへの拒絶の姿勢である。

   四

 谷崎が「「門」を評す」を以てその文学的営為を本格的に開始した同じ明治四十年代、石川啄木は、「我々青年を囲繞する空気は、今やもう少しも流動しなくなつた」と徹底した「現状」の「閉塞」を喩え、その原因を「我々青年」が「強権」との間に結ぶ「他人同士」という「予想外に大きい疎隔(不和ではない)」の関係に見ていた。

 彼の早くから我々の間に竄入してゐる哲学的虚無主義の如きも、亦此愛国心(「国家と他人たる境遇に於て有ち得る愛国心」:引用者註)の一歩だけ進歩したものである事は言ふまでもない。それは一見彼の強権を敵としてゐるやうであるけれども、さうではない。寧ろ当然敵とすべき者に服従した結果なのである。((石川啄木「時代閉塞の現状(強権、純粋自然主義の最後及び明日の考察)」明治43・8稿【推定】)(註14)

 「他人たる境遇」は、「我々青年」を「満足――少くともそれに抗弁する理由を知らずにゐ」させ、結果「当然敵とすべき者に服従した結果」をもたらす。即ちそれは、錯視を伴う主体化を誘うものであり、その故に「強権」を補完し、「閉塞」を招来する。これが、啄木の見出した「時代閉塞の現状」の構造であった。

 振り返るならば、「「門」を評す」に於て谷崎が漱石の小説に見出していたのは、「鞭」のみならず、「当節に珍しいロマンチツクな生活」をもたらす「蜜」たる側面をも併せ持つ、恋愛を契機とした主体化の様相であった。そこには、啄木とある面に於て通じるような「閉塞」に関する洞察を看て取ることが可能である。このエッセイを、谷崎の文学にとって見落とし得ないものとしているのは、この認識の鋭敏さに他ならない。

 言う迄もなく、谷崎は啄木が主張するような意味での「明日」の「必要」による「今日」の「批評」へとは向かわなかった。しかし、この後谷崎が書き続けるのは、主体を巡る操作を不可欠な物語的要素として持つマゾヒズム小説の数々であり、そこには、「「門」を評す」に示されたこの洞察の確実な継承、並びにその小説的形象化に於ける多様な展開を認め得よう。

 無論、谷崎の漱石理解、特に極めて高い評価を与える「それから」に対する読解が、「「門」を評す」に見られるようなレヴェルにのみ留まっていたわけではない。その内実は、例えば既に千葉俊二によりその関連が示唆される(註15)「熱風に吹かれて」(『中央公論』大正2・9)の分析等、様々な具体的方途によって、更に詳細に検討されねばならない。しかしながら、その出発にあたって谷崎が示したこの「「門」の恋」への強烈な反駁こそ、初発期に於ける谷崎文学の理念的基底を成すものであったことも、また忘れられるべきではない。

 

《付記》

 引用した谷崎潤一郎の文章は中央公論社『谷崎潤一郎全集』(昭和41・11〜昭和45・4)に、夏目漱石の文章は岩波書店『漱石全集』(平成5・12〜平成11・3)、武者小路実篤の文章は小学館『武者小路実篤全集』(昭和62・12〜平成3・4)にそれぞれ拠った。猶各種文献の引用に際しては、一部旧字体を新字体に改め、ルビを省略するなどの改変を適宜施した。

 


《註》

(1)『三田文学』明治44・12

(2)『改造』 昭和2・3

(3)中村光夫『谷崎潤一郎論』(河出書房 昭和27・10)

(4)伊藤整「解説」(『谷崎潤一郎全集』第一巻 中央公論社 昭和33・1)

(5)その代表的な例として、「“女性の美”が絶対的な悪魔力を発揮して勝利者となり、男はその前に拝跪していささかも悔いない」という「全く谷崎的なテーマ」を中心にして初期の作品に荷風が比較の対象として挙げたアナトール・フランスの影響を見出そうとする大島真木(「谷崎潤一郎のデビュとアナトール・フランス」 『東京女子大学論集』昭和42・9)、或いは「荷風が谷崎に与えたこの批評(引用者註:「谷崎潤一郎氏の作品」)は、谷崎が『刺青』その他の作品のなかで描き出した「怪しい悪夢」の芸術的価値を真正面から認定する性質のもの」であるとし、その意義を「世界的な、そしてまた同時代的なデカダニズム文学」に対する内発的な結節に認めた上で、谷崎の作品をクラフト・エビング、マックス・ノルダウ、チェザーレ・ロンブロウゾらの設えた思想的地平の上に読み解こうとする野口武彦(『谷崎潤一郎論』中央公論社 昭和48・8)等を挙げ得る。

(6)新保邦寛「我が内に潜むもう一人の我 ―谷崎潤一郎・初期小説論―」(『日本近代文学』平成6・5)

(7)初出原題「門を評す。」

(8)『漱石全集』に拠れば、この件に関する一連の山本笑月宛書簡中、谷崎に触れられているものは、〈2062〉大正3年7月15日(水)、〈2111〉大正3年9月4日(金)、〈2340〉大正4年11月8日(月)、〈2361〉大正4年12月14日(火)、〈2379〉大正5年2月18日(金)、〈2415〉大正5年5月21日(日)の計六通(番号は『漱石全集』に拠る)。それらは文芸欄執筆者として谷崎を推薦し連絡を取るように依頼する〈2340〉、或いは運営上の必要から谷崎の状況を問い合わせる〈2379〉〈2415〉といった内容で、漱石と谷崎とが直接の交渉を持ったと形跡は見当たらない。

(9)江藤淳『夏目漱石』(東京ライフ 昭和31・11)

(10)石井和夫「谷崎における漱石への共鳴と反撥 ―「金色の死」前後―」(熊坂敦子編『迷羊のゆくえ ―漱石と近代』翰林書房 平成8・6)

(11)千葉俊二「ふたつの「それから」体験」(『谷崎潤一郎 狐とマゾヒズム』小沢書店 平成6・6 所収。初出は『武者小路実篤全集』第三巻 月報 昭和63・6)

(12)〈1301〉明治四十三年三月三十日、武者小路実篤宛書簡(番号は『漱石全集』に拠る)。

(13)前掲註(11)千葉論文は「『それから』の「破壊的」側面に触発された谷崎には、恋とは何より意識を超えて人間に破壊的な作用を及ぼす暴力的な力学と見倣されたのであり、最後に代助が陥ったように赤い「炎の息を吹いて」すべてを「焼き尽くす」ような恋こそ現代的とも見倣された」と述べている。前掲註10石井論文等と同じく、大枠の方向性の示唆として首肯すべき見解ではあろうが、その「破壊的な作用」の内実は、「人間」「すべて」等の抽象的な語を用いるのではなく、「「門」を評す」の論理に即す形で、より具体的に明らかにされねばならない。

(14)引用は、筑摩書房『石川啄木全集』第四巻 評論・感想(昭和55・3)に拠る。

(15)註(11)に同じ。

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