東北大学文芸談話会『日本文芸論稿』第26号 平成11・10
差出人不明 ― 江戸川乱歩「人間椅子」試論 ―
森 岡 卓 司
一
手紙の差出人は、実は佳子の夫ではないのか?
例えばこのような疑問を「人間椅子」(『苦楽』大正14・8)を読む者が抱くことは、決して珍しくはないだろう。勿論この種の疑念を一つの動かぬ〈真相〉として規定することは、有益でも可能でもない。しかし同時に、その疑念自体の抑圧もまた、このテクストの持つ最も明白な特徴、「手紙」と佳子との間に交わされる不透明なコミュニケーションの捨象を帰結する。
「人間椅子」は、乱歩の代表作の一つとして著名なテクストであり、人間が椅子に入るというその奇抜な着想には、「「人間椅子」の主人公が発見した快楽とは、中村雄二郎の「触覚が、視覚と匹敵する総合的な知覚作用をもちうる」の指摘と同様のことであろう」とする松山巌(註1)、そして広範に渡って同時代的文化/文学テクストとの間に共有される要素を指摘しつつ、「この〈椅子〉男は、視覚以外の諸感覚器官を全開して、室内の一切を全身でもって〈覗く人〉と化す」とする高橋世織等(註2)が各々考察を加えている。
しかし、「人間椅子」の着想自体に関する優れた見解であるそれらは、ある前提を暗黙の裡に共有している。「人間椅子」の物語は、「外務省書記官」の妻であると同時に「美しい閨秀作家」として高名である佳子の元に届く二通の手紙をその動力とするが、いわば物語全体に対する種明かしの役割を果たすかに見える二通目の手紙は、一通目の手紙が作家志望の人間による創作であるとの〈真相〉を提示する。「結末のどんでん返し」(註3)とも呼ばれるこの規定を踏まえる従来の読解は、物語のプロット構成を自明視し、一通目の手紙に見られる奇抜な物語的着想に専ら着目してきた。しかし、本稿は敢えてこの前提を再検討することから出発する。それらの手紙の差出人が不明であるという動かぬ性質を超えて、二通目の手紙の与える規定、その〈真相〉は果たして信じ得るのだろうか。
二
突然お手紙を差し上げますぶしつけを、幾重にもお許しくださいまし。私は日頃、先生のお作を愛読しているものでございます。別封お送りいたしましたのは私の拙い創作でございます。ご一覧の上、ご批評がいただけますれば、この上の幸いはございません。ある理由のために、原稿のほうは、この手紙を書きます前に投函いたしましたから、すでにごらんずみかと拝察いたします。いかがでございましたでしょうか。もし拙作がいくらかでも、先生に感銘を与え得たとしますれば、こんな嬉しいことはないのでございますが。
原稿には、わざと省いておきましたが、表題は「人間椅子」とつけたい考えでございます。
では、失礼を顧みず、お願いまで。
高名な作家に対して、些か不遜とも見えかねない程の自信に満ちた態度で書かれるこの二通目の手紙は、先の手紙の内容が同じ書き手による「創作」であることを読み手である佳子に伝えようとする。先にも述べたように、従来はこれを真とすること、即ち一通目の手紙を未知の読者から届けられた創作と了解することを読解の前提としてきた。が、この二通目の手紙が、一通目の手紙の内容を疑念の余地なく整序・統合する書き手の意図、即ち〈真相〉を呈示しているとは、決して言えまい。
表題を「わざと省い」いた「創作」を説明無しに投函した「ある理由」とは、第一義的には、その「創作」を実際に椅子の中に潜んでいた男の「告白」だと信じ込ませることにあろう。では(単に批評を乞う為に)何故、一通目の手紙に於てそのような偽装が必要であったのか。
更に、一通目の手紙には、表題その他を省くには留まらない偽装の要素も混入している。この椅子が「Y市の古道具屋」で購入されたこと、そしてそのような椅子を佳子が普段使っていること、また、佳子が最近仕事に没頭していたこと、或いは書斎の窓際に置かれる撫子の存在等、数々の余りと言えば余りに詳細な「事実」の数々は、如何なる目的で混入されているのか。(註4)
「ある理由」の内実を確定する試みと同時に生起するこのような疑念の数々は、この手紙が投函され受信された固有の事情、或いはその思わせぶりな書きぶりに起因するいうよりは寧ろ、手紙がある意図を伝達するために(或いは隠蔽するために)書かれ投函されたただろうという想定、即ち〈告白〉という再現の回路に対する信頼、そしてその意図にまで辿り着こうとする欲望によって必然的に招来されると見るべきである。
このテクストに登場する「佳子(よしこ)」の名が、「告白小説」の典型と目される田山花袋「蒲団」(『新小説』明治40・9)の登場人物とその呼び名を共有することは既に指摘されてきた(註5)。その「蒲団」の男性作家は、「芳子(よしこ)」の手紙の裏に隠される「事実」の如何を巡って惑乱し、狂態を演じ続けるのであった。手紙の裏に隠された〈真相〉(即ち「ある理由」)とは、原理的に確定不能な、読み手によって想定されるに過ぎない仮象だとするならば、それらは手紙に書かれた片々たる言葉に対する過剰な解釈によって無限に生成し続ける。手紙による〈告白〉は、そのような仮象を無数に乱立する内面化された実体として読み手の心中に立ち上げるべく機能する。二通目の手紙を見たところで、結局の所佳子が完全に安心することは不可能だろう。この意味に於て、二通目を数えて猶この手紙は、佳子を引き裂く〈パルマコン〉(註6)であり続け、「差出人不明」の〈告白〉としてのいかがわしき性質をその本源的な意味に於て維持し続ける。
以上のことは、完全に論理的な解決を導く狭義の「探偵小説」ではない、幻想趣味猟奇趣味により近接する「怪談」と作家自身がこのテクストを位置づけていること(註7)、或いは「一枚の切符」(『新青年』大正12.7)等同じ作家の手になる同時期の小説に多く見られる転倒的結末との類比等の文脈から、乱歩固有の小説作法としても理解し得ようが、本稿に於てはそれを取り巻くやや広範な文脈をも視野に入れておきたい。
萩原朔太郎は、「人間椅子」を評価するに際して次のような前提を置く。
コナン・ドイルに熱中した昔もある。今ではもう退屈だ。犯罪があり、手がかりがある探偵が出る。ああいふ型の小説を探偵小説といふならば、もう探偵小説はたくさんだ。
所謂探偵小説は、一のマンネリズムにすぎないだらう。どれを読んでも同じことだ。ちやんと型が決つてゐる。もう好い加減に廃つたらどうだ。読む方でも飽き飽きした。
【中略】
江戸川乱歩氏の「心理試験」をかつてよんだ。もちろん相当に面白かつた。しかし有名な「二銭銅貨」や「心理試験」は、私にはあまり感服できなかつた。日本人の文学としては、成程珍しいものであるか知れない。しかし要するに「型にはまつた探偵小説」ぢやないか。西洋の風俗を、単に日本の風俗に換へたといふだけの相違であつて、既に僕等の飽き飽きしてゐるコナン・ドイル式の探偵小説にすぎないのだ。(註8)
ここに表明されるのは、一つの物語的なる〈真相〉への嫌悪である。乱歩の「一切を小説の中で解決してしまうことの味気なさに対する恐れ」(註9)を、朔太郎もまた共有していたと言うべきであろうか。そして、このようにパターン化された「所謂探偵小説」の枠内には収まらない小説として、朔太郎は「人間椅子」を賞賛の対象とするのである。
しかし「心理試験」の中で、最後の「赤い部屋」といふのを読んで、始めて明るい希望を感じた。此処にはもはやコナン・ドイルが出て居ない。所謂探偵小説のマンネリズムがない。そしてポオや谷崎氏の塁を摩するものが現はれてゐる。それから私は江戸川乱歩が好きになつた。就中、最近「人間椅子」を読んで嬉しくなつた。「人間椅子」はよく書けてゐる。実際、これ位に面白く読んだものは近頃無かつた。(註10)
「もはやコナン・ドイルが出て居ない」、つまり単一の〈真相〉という超越が拒絶されることを踏まえたこの評は、以上に論じてきたこのテクストの性質を敏感に捉えたものであり、乱歩が文学史上に占める位置についても重要な示唆を与えている(註11)。
(到達可能・不可能にかかわらず)超越的な〈真相〉にではなく、内面化された複数のいかがわしき〈真相〉を立ち上げる〈告白〉、或いはそれを受け入れる営為そのものに恐怖の起源があるとするならば、その内実の検討に際して、手紙の内容のみならず佳子自身の問題をも視野に納める必要があろう。ここに至って「人間椅子」は、日本近代文学に通有の、〈主体〉と〈幻想〉という問題系へと接近する。本稿の冒頭に置いたものを含め数多の可能性を考慮に入れることは、以上のような文脈に於て初めて、このテクストの恐怖の内実を明らかにする上で有効に機能するだろう。
三
一通目の手紙は、差出人(以下、このように想定される人物を手紙内の一人称に従って「私」と呼ぶ)が佳子に自分の存在を知らせるという性質を(装われたものにしろ)持つものであり、自然「私」自らのあり方に対して種々の言及が繰り返されるが、端的に言ってそこには激しい自己否定の精神を読みとることができよう。
「私の作った椅子は、どんなむずかしい注文主にも、きっと気に入るというので、商会でも、私には特別目をかけて、仕事も、上物ばかりを廻してくれておりました」とする彼は、にもかかわらず同時に「哀れな、一家具職人の子として、親譲りの仕事によって、その日その日の暮らしを立てて行くほかはない」「哀れにも醜い自分自身」と自らを断ずる。ここには、自身の職業技量、そしてその誇りをも押し潰す卑下が述べられているのだが、かくまで強烈な自己否定の意識は、他ならぬ「私」自身の理想像とのギャップに於てこそ発生する。その、あり得べき「私」の姿、「醜い現実」によって否定される「紫の夢」とは、具体的には次のように語られる。
私のはかない妄想は、なお、とめどもなく増長してまいります。この私が、貧乏な、醜い、哀れな一職人に過ぎないこの私が、妄想の世界では、気高い貴公子になって、私の作った立派な椅子に腰掛けているのでございます。そして、そのかたわらには、いつも私の夢にでてくる、美しい私の恋人が、におやかにほほえみながら、私の話に聞き入っております。そればかりではありません。私は妄想の中で、その人と手をとり合って、甘い恋の睦言を、ささやき交わしさえするのでございます。
「妄想」の最終段階として示されるのは、「私」が異性と関係を取り結ぶ幻影であり、これこそ彼の理想像の内実と見ることができよう。とするならば、「貧乏」「哀れ」「醜い」という自己否定の言葉も、一般的に想定される基準に照らしての劣等感としてではなく、彼の欲望を打ち砕くものとして語られるその具体性の下に理解される必要がある。彼が誇るべきもの、即ち彼の作る椅子の優等は、他者から自己が高く評価される為の材料、対異性関係に関する欲望を満たす道具とならない限り、彼にとって無価値であり、「私達のとは全く別の世界へ、運び去られてしまう」椅子は、かえって嫉妬を感じさせる疎ましいもの、「なんとも形容のできない、いやあな、いやあな心持ち」をもたらすものでしかない。
性愛という対他関係に於て、自己の理想像と同時に自己の挫折を、即ち〈主体〉を定立する本質的部分を見出す彼のあり方は、他者の評価を常に参照しながら自己を形成する近代的自意識の典型的モデルであるとも言えよう。このように構築される〈主体〉は、参照され、基準とされるべき他者の評価が究極的には確定不能であるために、常に変化を迫られ、故にそこには絶えず不安がつきまとう。「私」の自己否定意識は以上のような理路をある一面に於て忠実に辿るのであるが、彼が発見する「椅子の中の世界」は、その道行きの先に必然の帰結として召喚される。
宇野浩二、江戸川乱歩に共有される「箱」というモチーフについて、武田信明は次のようにコメントしている。
宇野浩二が好んで素材とした「下宿屋」が、単一の「箱」ではなく共同住宅という「箱」の集合体であるように、あるいは「蔵の中」の〈私〉が、下宿屋の個室に寝そべりながら他者の音にひたすら耳を傾けているように、それらの「箱」は常に、自己と他者、自己と外界の引力関係の中にしか析出されない。多くの作品に於て登場人物たちは、閉ざされた空間の中に身を潜めてはいるもののそれは他者を遮断し独自の幻想を生きるためではない。またそこは最終的な場所ではなく、次の移動までの暫定的な休息所に過ぎない。彼らは、他者と関係することの困難さから逃れるために「箱」を構築しながら、なおかつその中で他者をめぐって思考するのであり、外界との回路を繋ぐことを試みるのである。(註12)
他者との接触を強く欲望しながら、同時にその障壁として他者からの否定的評価をも強く意識する存在は、自己を隠しながら他者と接触可能であるような場所を求め始める。それはアジール的な隠れ家であると同時に、(たとえ想像的にではあれ)対社会的・社交的と観念される場所でなくてはならない。そして、例えば次のような「私」の述懐に、そのような特性は端的に顕れるだろう。
この驚くべき発見をしてからというものは、私は、最初の目的であった盗みなどは第二として、ただもう、その不思議な感触の世界に惑溺してしまったのでございます。私は考えました。これこそ、私に与えられた、ほんとうのすみかではないかと。私のような醜い、そして気の弱い男は、明かるい光明の世界では、いつもひけ目を感じながら、恥かしい、みじめな生活を続けて行くほかに、能のない身でございます。それが、ひとたび、住む世界をかえて、こうして椅子の中で、窮屈な辛抱をしていさえすれば、明かるい世界では、口を利くことはもちろん、そばへよることさえ許されなかった、美しい人に接近して、その声を聞き、肌に触れることもできるのでございます。
「人間界」「人間世界」などという大仰な言葉を対比項に使いながらその特殊性が強調される「椅子の中」の世界は、紛れもなく武田の述べるような「箱」の一種として求められたのである。では、そのような「箱」的機能を「椅子」は如何なる形で果たしていたのか、その具体的な様相を次に確認したい。
従来から指摘されてきたような触覚的な「椅子」の存在位相は、松山の指摘する(註13)如く第一義的には視覚から逃れ得る場所との意味を担うものであろう。
異性についても同じことが申されます。普通の場合には主として容貌の美醜によって、それを批判するのでありましょうが、この椅子の中の世界では、そんなものはまるで問題外なのでございます。そこには、丸裸の肉体と、声の調子と、匂いとがあるばかりでございます。
例えば視覚の特権性に対する乱歩の批評を見る(註14)ことも可能であろうこの部分で、注意深く言葉が選ばれていることが注目される。「女性」ではなく「異性」という語を用いながら、対象を視覚的要素によって「批判」する事が「問題外」であることを主張するこの部分に、一通目の手紙の冒頭付近などに「醜い」という言葉を幾度も繰り返して強調される「私」の自己否定意識を投影して理解することは容易であろう。「私」にとって視覚的要素とは、そのまま「人間世界」に於て自己否定意識、〈主体〉的な欲望の疎外を形成する重要な契機であった。とするならば、椅子に「私」が入る、という事態の意味するところは、ある感覚から別の感覚への移行というだけに留まるはずもない。
そこでは、人間というものが、日頃目で見ている、あの人間とは、全然別の生き物と感ぜられます。彼らは声と、鼻息と、足音と、衣ずれの音と、そして、幾つかの丸々とした弾力に富む肉塊に過ぎないのでございます。
「日頃目で見ているあの人間」とは決定的に異なる「全然別の生き物」という認識に於て慎重に遠ざけられようとしているのは、〈主体〉としての他者の固有性そのものに他ならない。椅子の置かれた「外人の経営している」ホテルは、「Y市」にありながら同時に抽象的な〈遠さ〉に媒介されたある種の〈異国〉として存在する。幾つかの感覚的要素の集積として描き出される個々の身体のイメージは、「私」にとってエキゾティシィズムの対象であり得るホテルの調度と同様のレヴェルでその身体が流通・消費され得ることを示唆していよう。「近代的自我の亀裂としての必然的な病理」としての「「見られることなく見たい」という欲望」(註15)はここに充たされはじめる。「私」は続けて言う。
そのほか、背骨の曲り方、尾胛骨のひらきぐあい、腕の長さ、太腿の太さ、あるいは尾骨低骨の長短など、それら全ての点を総合してみますと、どんなに似通った背恰好の人でも、どこか違ったところがあります。人間というものは、容貌や指紋のほかに、こうしたからだ全体の感触によっても、完全に識別することができるにちがいありません。
このように「私」の手で再構成される身体は、それが如何に「判別可能」であろうと、「私」にとって全的に了知可能なものであり、決して「私」の自己意識に対する超越者としての固有性を持たない。以上のような理路を辿って果たされる他者の領有、そして特権的な異界としての「箱」の生成は、しかしながら「私」の〈主体〉的な欲望に対して正しくアイロニカルな結末をしか用意しないだろう。求められていた性愛という事態は、「私」の強烈な自意識によっても決して否定し得ぬ他者からの超越的な承認を不可欠に要求するのであって、それは自己否定的な意識を回避すべく再構成された他者ならぬ身体からは決して得られぬものであるからだ。
が、また思い返してみますと、外人のホテルを出たということは、一方においては、大きな失望でありましたけれど、他方においては、一つの新しい希望を意味するものでございました。と言いますのは、私は数ヶ月のあいだも、それほどいろいろの異性を愛したにもかかわらず、相手がすべて異国人であったために、それがどんな立派な、好もしい肉体の持ち主であっても、精神的な妙な物足りなさを感じないわけには行きませんでした。やっぱり、日本人は同じ日本人に対してでなければ、ほんとうの恋を感じることができないのではあるまいか。私はだんだん、そんなふうに考えていたのでございます。
「精神的な妙な物足りなさ」とは抽象的な〈遠さ〉に媒介された他者性の欠如を端的に指し示す言葉である。「異国人」から「同じ日本人」へ、更に後には「恋人の顔を見て、そして、言葉を交わす」ことを望んで「椅子」を抜け出ることになる「私」の「ほんとうの恋」を求める道行きは、この欠如感に基づく。しかし、「面と向かって、奥様にこんなことをお願いするのは、非常に危険でもあり、かつ私にはとてもできない」と、「ぶしつけな願いをお聞き届けくださ」る「合図」無しには「恋人」に近づけない「私」は結局、その何れの場面に於てもついに「箱」的な位相から逸脱することはない。そして、以上のような理路の中に、「私」による他者の身体の独占的な領有は、佳子をその対象に定める。
四
私は、彼女が私の上に身を投げたときには、できるだけフーワリと優しく受けるように心掛けました。彼女が私の上で疲れた時分には、分からぬ程にソロソロと膝を動かして、彼女のからだの位置を変えるようにいたしました。そして、彼女が、ウトウトと居眠りをはじめるような場合には、私は、ごくごく幽かに膝をゆすって、揺籃の役目を勤めたことでございます。
その心遣りが報いられたのか、それとも、単に私の気の迷いか、近頃では、婦人は、何となく私の椅子を愛しているように思われます。彼女は、ちょうど嬰児が母親の懐に抱かれるときのような、または、乙女が恋人の抱擁に応じるときのような、甘い優しさをもって私の椅子に身を沈めます。そして、私の膝の上で、からだを動かす様子までが、さも懐かしげに見えるのでございます。
「座る」という行為は、ここでいわば性的関係の一種として捉えられている。そしてこの「嬰児/母親」或いは「乙女が恋人の抱擁に応じる」(傍線引用者)といった一定の力関係を示す比喩の巧みな使用は、これまでの本稿の文脈に照らして理解し得よう。幾ら「及ばぬ恋を捧げていた、哀れな男」と自らを卑下しようが、「ほんとうの恋を感じる」に必要な「愛」「優しさ」「懐かしさ」といった心的要素の再構成を目論む「私」の意図は揺るぎない。そして、こうした事態を告げられた彼女は自らの〈主体〉を支配される恐怖に怯えることになる。
しかし、佳子の恐怖はこのような「私」との接触の想定だけに由来するのではない。冒頭、彼女は次のように紹介されていた。
佳子は、毎朝、夫の登庁を見送ってしまうと、それはいつも十時を過ぎるのだが、やっと自分のからだになって、洋館のほうの、夫と共用の書斎へ、閉じこもるのが例になっていた。そこで、彼女はいま、K雑誌のこの夏の増大号にのせるための、長い創作にとりかかっているのだった。
美しい閨秀作家としての彼女は、このごろでは、外務省書記官である夫君の影を薄く思わせるほども、有名になっていた。彼女の所へは、毎日のように未知の崇拝者たちからの手紙が、幾通となく送られてきた。
「やっと自分のからだになって」「閉じこもる」ように打ち込むとされる佳子の作家活動は、誰からの干渉でもなく彼女自身によって選び取られた〈主体〉確立の孤独な営みに他ならない。しかしながら、一見極めて自己充足的に見えるその「創作」という営為も、読者という他者の想定を避け難く要求する。
「美しい閨秀作家」として「有名」だということは、決して文学的才能が評価されていることのみを意味しないだろう。女性という表徴、事実性(ノエマ)を帯びた容貌、そして彼女の内面の露呈とも理解可能な「創作」(註17)等の要素によって、恰も佳子という実体に到達する事が可能であるかの如き錯視を誘う「作家」の身体は形成される。勿論、それはあくまで錯視に過ぎないのであり、そこには様々の仮装を伴った身体が浮遊する抽象空間が成立している。その演技的な空間に取り交わされるものであるが故に、「未知の崇拝者」からの手紙は、決して未知の反応を伝えない「極まりきったように、つまらぬ文句のばかり」に終始し、佳子も「優しい心遣い」という余裕を持った態度でそれらに目を通すことができる。
演技的且つ想像的な抽象空間を介した作家的身体の外界への結節を経てはじめて、「自分のからだ」(傍線引用者)になってから「閉じこもる」ようにして創作に打ち込む彼女の主体的な欲望の充足は可能になる。その意味で「閨秀作家」という立場は、彼女の身体の消費を可能にすると同時に、佳子自身にとって一種の「箱」的機能をも果たしていたと言い得る。とするならば、その抽象空間の秩序を脅かす一通目の手紙は、主体定立の営為が不可避に抱え込まざるを得ない根源的な不安定を衝くものと理解されよう。「私」が身体を隠匿することで欲望の実現、〈主体〉の定立を試みたとするならば、佳子は隠匿していた身体の露呈によってそれが不可能であるような地点に追い込まれたのである。抽象化商品化された作家的身体によって覆い隠していた筈の佳子の〈主体〉もまた、その成立の条件に於て極めて関係的な抽象空間への参与から自由ではないことが、「私」の〈告白〉によって明示される。
五
さて、ここで本稿の冒頭に提示した問いに立ち返りたい。佳子をそのような恐怖に陥れた手紙の差出人を巡る疑念は、如何なる円環を描くことになるのか。
先にも触れたように、彼女は夫を送り出してから「やっと自分のからだになって」(傍線引用者)創作にとりかかるのであった。即ち、彼女の生活に於て、夫との関係にあって要求される妻、そして彼女が主体的に選び取る作家という二つの立場は、互いに相容れぬものとしてあることになる。「外務省書記官である夫君の影を薄く思わせるほど」という表現は、その二つの微妙な対立を描き出していよう。
それは、思った通り、原稿用紙を綴じたものであった。が、どうしたことか、表題も署名もなく、突然「奥様」という、呼びかけの言葉で始まっているのだった。
引用・強調される「奥様」という言葉は、「奥様お手紙でございます」という手紙を読み終えて後の女中の呼び掛けに再び登場し、そこでも佳子を驚愕させることになる。それが、単なる呼称を超えて、佳子の持つ二つの立場の対立を喚起するものだとしたならば、この二通の手紙の書き手は彼女の様々な情報を入手し得る立場にある夫である、との疑念も容易には払拭できないものとなる。「書斎から逃げ出して、日本建ての居間」へと移動する佳子の行動については、松山巌が同時代的な建築状況を視野に納めながらその日本人的身体感覚に注目する見解を既に提出している(註18)が、「夫と共有の」「書斎」と「居間」という二つの場所の意味に於てもこの移動は興味深いものであると言えるだろう。
勿論、予め述べておいたように、これは単なる可能性の一つに過ぎず、未知の偏執的な愛読者を想定することは勿論可能である。例えば二通目の手紙が佳子の手に運ばれる絶妙の間合い、そして二通目の手紙に使用される「まし」という文末表現を考慮に入れるならば、その女中が佳子の名声を妬んだ、という可能性すらもまた決して否定はできない。それらは均し並に不確かな当て推量であり、結局〈真相〉を巡る問いは迷宮に入り込む。しかし、実はこのように如何にも〈真相〉らしきものが幾らでも想定可能である、というそのことこそが、佳子の恐怖を最も深い場所から支えているのではないだろうか。
「探偵小説」を、「空間の細分化」という現実の「都市計画のまなざし」とのアナロジーに於て捉え、そこに「空間統治を巡る「可視/不可視」のヘゲモニーの簒奪の運動」を見る武田信明は、乱歩「屋根裏の散歩者」「人間椅子」等を視野に入れながら次のように述べる。
屋根裏や椅子の内部、それらは確かに空間として存在するものの、改良運動の細分化のまなざしがやり過ごした空間なのであり、その意味でポーの「盗まれた手紙」の無造作に手紙が投げ入れられていた状差し同様、制度の無意識、あるいは居住空間の無意識を剔■(けつ・手へんに央)しているのである。(註19)
ポーの「盗まれた手紙」と乱歩「人間椅子」とは、詩人でもあり同時に政府の重要な官職にも就く人物の登場、手紙の果たす重要な役割、そして武田も指摘するところの空間の整序化/微分化など、幾つかの重要な要素の共有によって、間テクスト的な関係を取り結ぶ。そして、その関わりの中で最も示唆的な点は、椅子の中の「私」が、詩人でも大臣でもある人物を刺殺することの可能な位置に潜んでいることである。
犯人の人格及び真意、即ちD大臣に纏わる一つの物語を解明することで、探偵デュパンは盗まれた手紙を見事に奪い返して見せる。そして、犯人に自らの勝利を誇らしげに告げる皮肉な手紙を届けさえもするこの探偵は、他者との間に取り結ばれる透明な伝達回路を自明のものとして受け入れている。そして、逆にその原理的な不可能こそが、差出人不明の手紙によって突き動かされる「人間椅子」全般に渉る前提であった。「箱」的細分化とは、そのような他者関係に於ける伝達回路の不透明さを前提として構築されるものに他ならない。その根源的な定立の場を含めあらゆる局面で〈主体〉に付随する他者は、常に了知不可能な存在としてあり、それ故〈主体〉は抜き難い不安を強いられる。
椅子を調べて見る?どうしてどうして、そんな気味のわるいことができるものか。そこには、たとえもう人間がいなくとも、食べ物その他の、彼に附属した汚いものが、まだ残されているにちがいないのだ。
椅子の中に存在する筈の証拠、及びそこに確認される筈の〈真相〉は、その決定的な開示を佳子自身によって拒まれ、彼女の内面にあって宙吊りにされる。自らの想像裡に仮構された「私」の〈幻想〉に怯える、マゾヒスティックとも言うべき佳子の身振りは、この奇妙に捻れた「箱」的抽象空間固有の不安定な性質を余すところ無く示していよう。他者の所在を証し立てる唯一無二の〈真相〉の〈告白〉は、それ自体のうちに過剰な解釈を要請し、複数化・迷宮化して行く。佳子を引き裂く「差出人不明」の手紙のいかがわしさとは、「箱」的関係性に於て定立される〈主体〉が必然的に要請する〈幻想〉の中にその本源的な位置を占める。
以上のような「私」の存在位相は、ポー的探偵に対し極めて批評的な位置を占めると言うべきであろう。先に引いた「人間椅子」を称揚する朔太郎の評を所謂「本格―変格論争」の起源と見なす笠井潔は、それを「朔太郎は要するに、第一次世界大戦を通過した精神がポオのミステリ詩学の先鋭化や、ドイル的な探偵小説の再解釈において、おのれを必然的に表現し始めたという二〇世紀的な事態について、ほとんど理解しえていない」(註20)と批判する。しかし「人間椅子」、そして朔太郎は、笠井が想定するとは全く別の経路を辿って極めて近代的な批評意識へと逢着していたのである。
考えてみれば、この世界の、人目に付かぬすみずみでは、どのような異形な、恐ろしい事柄が行われているか、ほんとうに想像のほかでございます。
一通目の手紙中にふと漏らされるこの感慨は、「私」の猟奇性を超えて偏在する〈主体〉定立の困難を言い当てるものに他ならず、時にその「探偵小説」的首尾の不徹底が弾劾される乱歩初期小説は、ここに日本近代文学に於ける〈幻想〉の広範な地平をその射程に収める。
《付記》「人間椅子」の引用は講談社版『江戸川乱歩全集』第二巻(昭和54・3)に拠る。
《注》
(1)松山巌『乱歩と東京』(昭和59・12 PARKO出版、但し参照及び引用は平成6・7発行の筑摩文庫版に拠る)
(2)高橋世織「現代文学における幻想小説の系譜 ―騙す/騙されるのディアレクティーク」(『国文学』 平成3・3)
(3)中島河太郎「作品解題」(『江戸川乱歩全集』2 昭和44・5 講談社)
(4)この手紙の書き手は、このような様々の「事実」を如何なる手段で知り得たのだろうか。勿論、窓の外から佳子の様子を監視し、外出につきまとい、また彼女に関する記事などを丹念に収集することで得られた(「閨秀作家」という彼女の立場を考えるなら、彼女の写真が幾たびも雑誌の誌面を飾ったであろうことは想像に難くない)等と、如何様にも推測、説明することは可能であろう。或いは、それらは奇妙な偶然の一致であったのだろうか。また、それらは実は「事実」とは反していたかも知れない。「手紙」を読んだその時の佳子の錯乱状態を考えるならば、彼女が細部の相違に迄思い至らなかったとしても当然であろう。結局のところ、二通目の手紙に説明されない限り、以上のような説明の全てが憶測の域を出ない。そして、これらの要素は、読み手の評価を欲する「創作」としては明らかに過剰な情報ばかりである。
(5)高橋世織「『人間椅子』が据えられるとき」(中島河太郎編『江戸川乱歩ワンダーランド』 平成1・9 沖積舎)
(6)大杉重男「人生の配達人 ―近松秋江『別れたる妻に送る手紙』三部作について」(『論樹』10号 平成8・9)
(7)「怪談入門」(『宝石』 昭和24・5〜25・4)
(8)萩原朔太郎「探偵小説に就いて」(『探偵趣味』第九輯 大正15・6)
(9)鈴木貞美『モダン都市の表現 自己・幻想・女性』(叢書L`ESPRIT
NOUVEAU 7 平成4・7 白地社)
(10)前掲注9に同じ。
(11)■(すが・糸へんに圭)秀美の「「神の国」という全体性を回復する」警察的知とその不可能性に於て「神の国」を脱構築しようとする「イレギュラー」な探偵的知との曖昧な近接の内に乱歩探偵小説の特性を見ようとする指摘(「探偵のクリティック」『探偵のクリティック―昭和文学の臨界 〈昭和〉のクリティック』昭和63・7 思潮社)も、恐らくはこのような朔太郎の示唆の延長上にある。
(12)武田信明「三つの「蔵の中」」(『群像』 平成4・12)
(13)前掲注1に同じ。
(14)前掲注1に同じ。
(15)笠井潔「密室という〈内部〉」(『季刊幻想文学』17 昭和62・1、但し引用は昭和63・5筑摩書房刊の『物語のウロボロス』所収版、解題「密室という外部装置」に拠る)
(16)彼自身の欲望と自己否定の意識とはそもそも裏腹のものであり、「椅子」の中の世界はその矛盾の中に立ち現れたのであるならば、彼もまた、恐らくは次なる「箱」を求めて、そこから移動せざるを得ない。その意味で、武田信明(前掲12)の述べる宇野浩二的登場人物の系譜にこの「私」もまた確かに連なっている。
(17)このようないわば「私小説」的文学観に対して、乱歩が批評的な意識を持っていたことは、『陰獣』に於ける「大江春泥」の、「江戸川乱歩」のパロディ化とも言うべき造形、或いは作風から類推され自らが現実の犯罪の嫌疑者となったというその経歴からも容易に推測されよう。
(18)前掲1に同じ。
(19)武田信明『〈個室〉と〈まなざし〉 菊富士ホテルから見る「大正」空間』(平成6・10 講談社)
(20)笠井潔『探偵小説論T 氾濫の形式』(平成9・12 東京創元社)