山形短期大学民話研究センター『民話』第20号 平成19年12月20日

喋る人、柳田國男

森岡卓司

 1900年前後の柳田國男は、何よりもまず、喋る人だったらしい。

 ちょうど1900年、農商務省に宮仕えをはじめ、さまざまの地域へ(しばしば公務をともなう)旅行にも出かけ始めていた柳田は、それらのスケジュールを縫うように、農政学、文学、思想、そして民俗学に関する批評的な発言を繰り返し行っている。筑摩書房版『柳田國男全集』第二十三巻(2006.5)によって、我々はそのおおよその内容をうかがい知ることができるのだが、ひとたび注意して見るならば、談話筆記、口述筆記の類がそこに占める割合の多さは目を惹く。(民話・民俗学に熱意をもって関わっておられる方にとっては既に充分ご存じのことを、蛇足を承知で申し上げれば、この現行版柳田全集は、拾遺に細やかな神経を用い、簡潔にして周到な解説を付した、非常に優れたものである。この面については比較的恵まれている日本近代文学の領域においても、出版業を取り巻く経済的事情の悪化もあって、これほど整備された全集が出る事は少なくなりつつあるのが現状で、この現行版全集が出版された後、柳田研究、ひいては民俗学研究に言及する批評が続出したことは、決して偶然ではない。)

 当時の彼が、自然主義陣営を中心とした文壇、特に田山花袋にとっての一種のブレーンとしての役割を果たしていたことは周知である。今となっては、その様子は、花袋や泉鏡花の作品中に現れる柳田をモデルにした登場人物の姿から推し量るほかないが、当然、そこでも多くの批評的な談話が取り交わされたはずなのだとすれば、この時期の彼は、各分野の話題について、どれほどの量を「喋って」いたことになるのだろうか。そして、興味深いことに、その談話記事の増加と反比例するようにして、「松岡國男」あるいは「大峰古日」等の名義を用いて陸続と発表し、各方面から高い評価を得ていた新体詩創作から、彼は手を引いていくのである。

 豊かな教養を持ち、そして未来を半ば約束された新進の文壇人に訪れた「うたのわかれ」は、いったいどのようなものだったのだろうか。彼は、自らの詩才に早々に見切りをつけたのだろうか。勿論、高級官僚としての彼の職務が、彼に執筆の時間を与えなかった、という事情も充分に推察できる。事実、その後の柳田は、官僚としてであれ、民俗学の泰斗としてであれ、与えられた立場の枠内で思考を全うすることを自らに徹底して課した人間であったように見え、またその自己限定に我々が学ぶべきところは多い。しかし、ただそれだけで、柳田は「自らの詩を紡ぐ」という営為を諦めることができたのだろうか。無論、彼の転回についてはこれまでにも実証的な研究に基づいた諸説が提示されているが、それとはまた別に、彼が、「喋る」という形態それ自体に、多大な興味を寄せていたのではないか、という仮説を、私は捨て難く考えている。

 その些か突拍子もない憶測の手がかりとして、その1900年からしばらくの間、ある種の流行になった、「百物語」という怪談の形式がある。数人が一堂に会し、一夜の裡に百の怪談を語り終えたなら、妖かしの出来事がそこに出来するかもしれない、という例の趣向だ。残された記録を見るならば、この「百物語」に最も熱心だったのは、水野葉舟、泉鏡花の二人であったようなのだが、実は柳田もしばしばそこに参加し、話を披露している。

 この「百物語」の特徴は、往々にして伝聞をともなう怪しい話を、複数の異質な語り手が入れ替わりながら語る、というその語りのスタイルにある。語る内容の真実性が均一に保証されねばならないといった近代的な言説観とは無縁なその場所では、脚色や強調、そして脱線をもを含んだ語り方、それを語る人間の振る舞いや性格、さらにはその語りを伝える人間同士の関係までを含んだ、語り手の身体性こそが主役となる。勿論、そこで話される数々の内容に『遠野物語』の著者柳田が関心を持たなかったわけはないだろうが、常に語る者の介在を意識させる、不透明な語りのスタイルにこそ、柳田は惹きつけられたのではないかと思うのである。

 ちなみに、この1900年前後は、日本における座談形式の記事の黎明ともいうべき時期であった。韻文結社を中心とした多くの文学的グループが出版した雑誌には、合評ないし講義の形態をとりながら、座談記事が盛んに顔を出しはじめていた。やがてそれが大正期の『新潮』『文藝春秋』における〈座談会〉として定型化していく前史ともいうべき状況がそこには生じていたのである。そこで売り物となったのは、批評の言葉に与えられた身体性である。どのような場面、文脈において、誰が話したのか。そしてそれを誰がどう解釈し、応答したのか。そのようなパフォーマンス性を付与されることで、批評の言語は、より雑多な興味関心の中を、生き生きと浮遊していくことになった。

 そして、このような語りのスタイルへの関心は、批評的言説の領域にのみ進展を見せたのではなかった。「百物語」に見られたような語りの形式をともなったフィクションは、後に、「入れ子構造」とも呼ばれるような複雑化を示しつつ、盟友鏡花、そして彼に心酔した谷崎、さらに乱歩らによって、日本近代小説史の中に「再発見」され、さらに豊穣な成果をもたらしてゆく。そもそも、幻想小説、探偵小説というジャンルは、語りの不透明性を前提にしなければ成立しない。そういういかがわしいジャンルに惹きつけられてきた私は、その遠い祖先に、1900年前後の「喋る人」柳田を、そっと置いてみたくなるのである。