『山形短期大学図書館報』NO46 平成15年9月

図書館で見えるのは

国文科講師 森岡卓司

 「社会に出る」という言葉がある。就職活動まっただ中の二年生は、今こういう言葉を励みにして頑張っているところだろうか。逆に、「それでは社会に出られない」などと言われて落ち込んでいる人もいるかもしれない。しかし、ちょっと立ち止まってみて欲しい。そこで言っている「社会」とは一体何のことなんだろう。例えば、学生が友人と話し、家族と暮らし、学校に通っているその状態は、「社会」ではない?

 似たような使われ方をするものに、「現実」という言葉もある。「現実は厳しいんだ」などとしたり顔で言われて悔しい思いをした人は多いだろう。しかし、この言葉もまた、今一つ曖昧なまま使われている言葉なのではないだろうか。

 ちょっと変な例を出してみよう。本学にほど近い上山市では、公営競馬を長らく開催してきたが、今年でついにその歴史に幕が下りそうであるらしい。廃止の方向に動く最大の理由は、採算ベースにのらないことだ。

 競馬に限らず、公営ギャンブルの最大の収入源は、客が賭ける金であり、そこから一定の割合を主催者側の取り分として差し引いたあと、的中者に配当金が分配されることになる。だから、いくら万馬券をあてようがどうしようが、長い目で見れば客が主催者に勝って儲けることはない。こういう「現実」を考えてみれば、今までそのようなものにどうして客が金を出してきたのか、どうして採算がとれてきたのか、逆に不思議にも思えてくる。命の次に大事な金を、わざわざ目減りさせるためにどうして差し出すのか?

 しかし、実はこれは、片側からだけの「現実」の捉え方でしかない。賭けている客個人の立場に立てば、彼/彼女は永遠に変わることなく、平均的かつ無条件に金を出し続ける機械のような存在ではない。客は、様々な推理を働かせ、色々な条件に左右されながら、金を賭け、その場その場で勝ったり負けたりするだろう。「その場」の勝ち負けは、主催者側の立場から見れば、一時の紛れであり、いずれ平均的に慣らされるものである。しかし、そのような平均化の理屈を客が理解していたとしても、それを彼/彼女らが体験することは永遠にない。客にとっては、一時の「紛れ」それ自体が体験できる世界の全てであり、引き受けて生きて行くべき「現実」である。だからこそ、客は自分の「現実」を金という形で賭ける。そして、このような主催者側・客側という二つの立場、二つの「現実」が、それぞれ確かに存在していたからこそ、上山の競馬はこれまで採算ベースにのり、成立してきたのだ。(上山の競馬廃止を巡るドキュメンタリー番組では、廃止の原因を「お役所仕事」体質に求め、経営者側を殆どヒステリックに糾弾していたが、実は、そのような一方的な「現実」の想定とそれに基づく感情論こそ、このような複数の「現実」を成りたたなくさせた原因であるとも言える。)

 実は、同じようなことを、前世紀に人類が行った最大の悪、ナチスによる人種大量虐殺の体験から考えている人たちがいる。プリーモ・レヴィの著書『アウシュビッツは終わらない』は、収容所の中での体験をさまざま語り伝えるが、その中に次のようなエピソードがある。

 厳冬を迎え、収容人数を減らさなくてはならなくなった収容所では、労働に使っていた人間の半数を殺すための「選別」が行われる。無論、その後の労働に適した人間を「残そう」としてその「選別」は行われるのだが、あらゆる判断の場合と同じように、その「選別」基準にも、さまざまの偶然としか言いようがない要因が入り込む。ある屈強な若者は猫背であることから「使えない」と「処理」され、ある病者は「番号」を間違えられて生き残る。そこで「生きる」側にたまたま選ばれた老人がその幸運を感謝する祈りを捧げるのを見て、レヴィは言いようのない怒りを覚えた、というのである。

 それは、第一には、「死ぬ」側にまわってしまった人間の「現実」を想定できない老人への憤慨であり、第二には、そこに訪れた現実が「神」によって決められ与えられた運命であるかのように感じる老人へのもどかしさ、である。他の人間が「死ぬ」ことになり、その老人が「生きる」ことになったのは、さまざまな偶然の結果であり、決してあらかじめ決められていたのではない。しかし、それを「いずれ平均されるような紛れ」であると「客観的」な立場(それは「運命」を決める「神」のような超越的な視点だろう)から言ってみたところで、彼らに与えられたそれぞれの「現実」のつらさが癒されるわけではない。それぞれの人間は偶然の結果を自分の「現実」として引き受けて行くことを強いられていたのである。(勿論、生き残った人間の「現実」に強いられたつらさがないわけではない。生き残った人間は、死んだ人間に対しての罪悪感を抱える続けることになるだろう。)

 これは、非常に極端な話であり、また、収容所によって狭められていた「現実」のむごさは忘れられるべきではないが(だからこそ、収容所は人類史上最大の悪に数えられる)、しかし、私たちにも無縁な話ではない。私たちもまた、自分の置かれたそれぞれの環境・条件の中で、それぞれの「現実」を引き受けながら生きている。このレヴィの例を論じる市野川容孝(「神なき世界と確率」『現代思想』20001)の言葉を借りよう。「他でもありうるという偶有性を離れて、まさにこれであって、これ以外にはありえないという現実性を、あるいは必然性を引き受けることが、生きるということなのである」。

 そして、そのような複数の「現実」がさまざまに絡み合っているその状態のことを、私たちは「社会」と呼んでいるのである。だから、「社会に出る」とは、誰かの手で一つだけの「現実」の中に入れてもらっていた状態から抜けだし、多様な「現実」の中に放り出され、組み込まれることをいうのであるし、働きだして逆に「社会」を見失うことだってありえる。上手く「社会に出る」ためには、自分以外の「現実」を理解することが必要だ。そのためには、他人の多くの声、心、考えを知るしかない。だとしたら、それに一番適した場所はどこだろう?

 自分の足で直接聞いてまわるのもいいだろう。けれど、ずっと昔から今現在までの数限りない人たちが考えに考えた結果の「声」が蓄積されている場所を見逃す手はない。そこでは、全く異質な人、狭く限られている自分の「現実」の範疇では出会うことが考えられないような人の「声」にも触れることができる。

*   *   *

 日本の「戦後詩」のヒーローの一人である田村隆一に、「帰途」という詩がある。

 

言葉なんかおぼえるんじゃなかった

言葉のない世界

意味が意味にならない世界に生きてたら

どんなによかったか

 

あなたが美しい言葉に復讐されても

そいつは ぼくとは無関係だ

きみが静かな意味に血を流したところで

そいつも無関係だ

 

あなたのやさしい眼のなかにある涙

きみの沈黙の舌からおちてくる痛苦

ぼくたちの世界にもし言葉がなかったら

ぼくはただそれを眺めて立ち去るだろう

 

あなたの涙に 果実の核ほどの意味があるか

きみの一滴の血に この世界の夕暮れの

ふるえるような夕焼けのひびきがあるか

 

言葉なんかおぼえるんじゃなかった

日本語とほんのすこしの外国語をおぼえたおかげで

ぼくはあなたの涙のなかに立ちどまる

ぼくはきみの血のなかにたったひとりで帰ってくる

 

 そう、だから、図書館の「言葉」の中に見えるのは、いろいろな「現実」であり、「社会」そのものだ、と私は言いたいのだし、目の前にある小さな「現実」に閉じこもってしまう前に、是非図書館に通ってみて欲しい、と思うのだ。図書館は、小さな穴ぐらではない。