大学の時、一匹の猫と住んでいた。
「ねこすけ」と呼んでいた。

たまに顔を見せる母親や兄貴は、「みーちゃん」だの「ミーコ」だのと呼んだ。
「ねこすけ」という名があんまりだと思ったのだろうが、「彼」にしてみれば、呼ばれる名前が呼ぶ人によって違うというのはどうだったろう。それでも、もともと野良猫だった彼には、そんなことはどうだって良いことだったかもしれない。無論、私としてもどうでもよいことだった。
家に来る前には他の名前で呼ばれていたかもしれし、そもそも猫に名前などが必要なのであろうか。人間の価値観を猫に当てはめること自体どうかしていることなのだ。

初めてねこすけに会ったのは、冬だった。
庭にふらっとあらわれた彼は、人間を全く信用せず、人の気配があると、すぐに姿を隠してしまった。
私は、車の下に隠れている彼に煮干をやった。
始めは私の前では食べなかったが、徐々になれて、夕方になると隣の家の物置の屋根の上で私が呼ぶのを待つようになった。窓を開けて呼ぶと、大慌てで物置の横の木を伝って降りてきた。そのしぐさは鈍くさく、とても可愛らしかった。
私と彼との「煮干の付き合い」はしばらく続き、彼はだんだんなついてきた。私は彼をなんとか家の中に入れたいと思い、夜通し窓を20cmほど開けて寝てみた。窓の近くに煮干を置いておくと、朝になると煮干がなくなっていた。数日後、私が朝起きると、彼がまくらもとで寝ていた。
最初は私にしか心を許さなかった彼も、しばらくすると昔から家猫として飼われていたようになった。行儀が良く、誰にもよくなついた。人に爪を立てたり、家の中でオシッコをしたり、机の上のおかずをかっぱらったりということもしなかった。当時付き合っていた彼女の顔にくさい液体を引っ掛けたことぐらいが唯一の粗相であった。

朝、嫌な夢で目を醒ますと、きまって彼が私の首の上に、マフラーのように長くなって寝ていた。
朝、5時か6時なると、冷蔵庫の前でにゃーと餌をねだった。
新聞や雑誌を読んでいると、その上にわざわざのぼってきたし、
彼女と並んで横になっていると、二人の間に割って入り、何食わぬ顔で丸くなった。

小学生の頃、私は犬や猫が何よりも好きだった。
両親や親しい友人よりもだ。

近所の犬の名はほとんど知っていたし、見ず知らずの人のベルを鳴らし、
「すいません。散歩に連れて行っていいですか?」
と、人の家の犬を散歩に連れ出した。散歩先では窮屈そうな首輪をはずしてやった。
そうされた犬ははじめ気が狂ったように遊びまわるが、遊び飽きると必ず私の所に戻ってきた。
もし戻ってこなければ大変なことになるのだが、「自分は犬や猫の言葉がわかる」と信じていた。信じていただけなのだが、犬に噛まれたり襲われたりということはなかったし、不思議と彼らも私になついてくれた。

弟が行っていた保育園には数多くの猫がいて、私はそこでよく遊んだ。
コンクリートの地べたに胡座をかき、膝の上に猫をあがらせた。猫は気持ちよさそうに眠った。それだけで私は幸せな気持ちになった。おこしてしまうのが嫌で、じっとしていると足がしびれた。
寒い日、猫がいつもように膝に乗ってきた。猫は寒さで震えていたが、私の膝はいくらか暖かいようだった。途中で雪が降ってきたが、私は動かなかった。私の頭は雪で白くなった。猫は眠り続けていた。

少し変わった環境で子ども時代を過ごした私は、物心がつくころには、すでに親に対してかなり分厚いバリアをはっていた。自分の心の中の一番深いところは決して悟られないようにする癖があった。わがままを言ったり、甘えたりしなかった。反面言うことにも従わなかった。そんなかわい気のない子どもだった。
そんな私が唯一心を許したのが犬や猫だった。
思う存分に甘え、思う存分に甘えさせた。人間にはできなかったが、犬や猫に対しては、したいだけ優しくもできた。子どもだった私は、それで精神のバランスをとっていたのかもしれない。

大学を休学している時、ねこすけは、大きな怪我を負った。
下半身が不髄となった。

獣医につれていくと、手術に20万円かかると言われた。私は仕送りがなかったし、授業料なども自分で出していた。20万という金は大金だったが、私は払った。
しかし、手術後も良くはならず、二度目の手術が必要となった。それもまた20万円かかると言われた。獣医は安楽死もほのめかした。
私は、再び20万円払った。金を払うことは痛くなかったが、心を悩ませていたのは、その数日後に旅を控えていたことだ。
その旅は、半年ほど帰らない予定だったし、その旅のために一年間の休学をしたのだ。

そして私は、そのまま旅に出た――


――帰国後、ねこすけが死んだことを聞いた。

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