たけちゃん

4歳の時に、都営住宅の4階に移り住んだ。
同じ階段の1階に、「たけ」という一コ上の友達が住んでいて、私達はよく一緒に遊んでいた。

私は家で勉強をする子どもではなかったし、家にゲームなどがあったわけでもなかったので、学校から帰るといつも玄関からカバンを家の中に放り投げて遊びに行っていた。

クラスの友達とも遊んだが、そういつもクラスメイトがヒマなわけもなく、習い事を始める友達もたくさんいた。いつもヒマでヒマでしょうがなかった私は、同じようにヒマであった「たけ」と自然につるむことになった。

お互いを遊びに誘うとき、我々は、「あそびましょ〜♪」などとベルをならしたりはしなかった。
舌と上あごで「タンッ」という音を出して、お互いを呼んだ。
ヒマになると、団地の公園から「タンッ タンッ」と舌を鳴らした。その音は団地に反響し、驚くほど大きな音で鳴った。その音をしばらく鳴らし続けて、反応がなければ遊べないか、家にいないということだった。

彼は、いつも私に駄菓子をおごってくれた。
串に丸いカステラが4つ付いていれば、2つを私にくれた。

運動神経は私の方が良かったし、リーダーもどちらかと言うと私だった。しかし、ゲーム類は彼のほうがうまかった。自転車に乗れるようになったのも彼の方が随分はやかったし、スケボーを初めにやりだしたのも彼だった。
彼は、友達から巻き上げたメンコがダンボールに2杯もたまっていたし、私は、彼から必要なだけ、メンコをもらうことができた。
駄菓子屋の前に置いてあるゲームは誰よりもうまかった。パックマンなどをやり始めると、隣で私は長い間、彼のやるのを見ていなければならなかった。

ヒマな二人がつるむとロクなことをしなかった。だから、ロクでもない遊びばかりしていた。

ゲーセンのゲーム機が、5円玉でも1円玉でもできることを発見したのは私だ。家からありったけの小銭を持ってきてゲームをした。
百円ライターを使って、ゲーム機に電流を流し、クレジットを99回にしてやりまくったこともある。

団地の裏庭の茂みの陰に、拾ってきた、ダンボールやら廃材やら毛布などで基地を作り、そこで猫を飼ったりもした。その基地の中でガソリンを燃やして遊んでいたら、近所のおばさんが来て、こてんぱんにどやされた。基地の外に、黒い煙がもうもうと立ち昇っているのを、ベランダで洗濯物を干していたおばさんが見つけたのだ。家でも散々怒られ、基地は撤去になってしまった。

ロケット花火を団地の空いている窓を狙って打ち込んだり、人に向けて撃つなんてのも、楽しい遊びだった。
工事現場から細いエンビ管をかっぱらってきて、ロケット花火を詰めて飛ばすと、飛距離が2倍になった。
ダンボールで作った盾を持ち、お互いに打ち合って遊んだ。

彼は、ドラゴン花火を逆さまにして打ち上げると驚くほど飛ぶのを教えてくれた。
団地の公園から打ち上げると、5階建ての団地を越すことができた。失敗して、4階や5階の窓に当ててしまうと、あわてて逃げ出したりもした。ホンキでやばいとは思っているのだけれど、腹がよじれるくらい笑いながら全速力で走った。

私が中学に入ると、たけは、「たけ」ではなく「たけ先輩」となった。
他の先輩達に対しては、「先輩」と呼べたのだが、「たけ」を「たけ先輩」とはどうしても言えなかった。
同じ団地の同じ階段を使うため、毎日のように顔をあわしたが、結局一度も先輩とは呼ばなかった。

もちろん、「たけ」とも呼べなくなっていた。会話も、挨拶すらもなくなった。

酒を飲める年になってから、私は、何度もたけと酒を飲むことを思い描いた。
少年時代の話を肴に飲むのは、さぞかし楽しいことだろうと考えたりもした。

彼は、今どこにいるのだろう。

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