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01)
テーマ:『らしさ』のある景観づくり
執筆者:岩手県立大学教授 山田晴義
近世、宮城の伊達氏はその領内に70ヶ所近くの「要害、所、在所」を配置して治めた ことが碓認されている。現在、それらの場所は農村の中心集落となっているところも 多く、そのいくつかは当時の様子をうかがうことのできる町並みを残している。中でも 県北東部の登米町の中心集落(当時の地名は寺池)は伊達藩の「要害」であり、今 では「みやぎの明治村」として知られるようになった。当時の「所」であった県南の村 田町の中心集落(村田)では蔵の町並みをいかしたまちづくりを、また、県北大崎地 域の松山町でも残された歴史的な町並み(醸華邑)の整備をすすめている。
これらのまちづくりは、当初につくられたまちの構造を、変化しながらも継承してきた 環境を基盤にしている。
生活と生産の営みと景観
「杜の都仙台」は、他の城下町には見られないほど異常に武家屋敷の面積が大きい 仙台城下の「屋敷の森」が本来の姿である。その意味ではもう「杜の都仙台」は存在 しない。「屋敷の森」がある程度残っている場所としては、宮城県の松山町と宮崎町 の中心集落をあげることができるが、「屋敷の森」は農家では「いぐね」としてつくら れ、今でもこの「いぐね」をもつ農家は少なくない。そこには、自給のための相当な生 産力と生活にいかすための知恵があり、これが「いぐね」を最近まで存続させてきた。
また、多くの農家や武家の屋敷のつくり方は、後に山を背負い、母屋の前後に異なっ た用途をもつ庭や畑があり、前面に小さな川が流れ、さらにその前に水田が広がる。 このような屋敷づくり・むらづくりのルールが、ゆるやかな丘陵地を多くもつ東北農村 の景観を特徴づけてきた。生産と生活の営みに基づいた土地の使い方が、景観を 形成してきたのであり、今でも、丘(山)と庭(畑)と家屋と川と田で形成する空間構成 の基本パターンは残されている。この構造を読み解き、それに矛盾することなく地域 空間や建築をつくっていくことが地域らしい景観を保全し、創造する根拠となる。山 村でも同じようなことが言える。
山形県庄内地方の南西端に位置する温海町は、日本海に山塊が迫り出した険しい 地形の山村であり、山間の集落は日本海に流れ込む数本の沢に沿って分布してい る。除雪が今ほど容易でなかった時代には、冬期は各集落間の交通は途絶した。そ の結果であろうか、山間の集落は今でもそれぞれ固有の祭りと質の高い郷土芸能を 自らの手で維持している。つまり、異なった文化を形成してきたと言っても大げさでは ない。一見同じような山間集落にみえても、沢ごとに気象や土壌が異なり、少しずつ 異なった生産が営まれると、そこには異なった生活の知恵や文化が育つ。異なった 文化を形成してきたと言っても大げさではない。まちやむらの景観づくりを考えると き、このような微細な違いをかぎ分ける力が欲しい。
暮らしのルールと景観
宮城県村田町の中心集落における町家は、宅地の間口に比べて奥行きの長さが特 徴である。町家が形成されてからさまざまな手が加えられたのだろうが、大半の宅 地は道路側から順に、店蔵、母屋・座敷蔵、風呂・便所、土蔵と続く共通の配置を見 せている。誰かがこのシステムを破って別の配置の仕方をしたら、日照や通風の面 から隣接の家屋では住みにくくなるだろう。宅地内の建物の配置には一定のルール があり、そのために生活の仕方も共通してくることになるのだ。町並みを維持してい る根拠として、宅地内部の配置と暮らしのルールの存在をあげることができる。つま り、景観は表層だけではなく、その背後の生活の仕方や宅地利用のシステムによっ て規定されているのである。
仙台市内の荒町など古くからの既成市街地にあって、戦災を免れた近隣商店街で は、その周囲に固有の雰囲気を感じることができる。建物は更新されても、宅地割り とその利用には従来からの一定のシステムが残り、裏路地や袋小路の残る商家と住 宅との接点付近は落ち着いた雰囲気がある。このような場を表側の商店街と路地で 結びながらうまく利用していくことで魅力的な場が形成され、個性的な商店街づくり が可能になる。
宮城県古川市の中心商店街のひとつ、七日町は近代化されているが、その裏を流 れる緒絶川沿いに古くからの蔵や家屋が残り、表通りと細い路地で結ばれており、現 在、商店街と路地並びに川をセットにした魅力的なまちづくり・景観づくりが検討され ている。このような場所は多くの中小都市の中に見ることができることから、それぞ れの都市の魅力的な顔をつくっていくことが可能だ。
いずれにせよ、まちをつくり上げてきた構造をしっかり読み取り、これをうまく利用しな がら引き継いでいくことが、個性的な景観づくりにつながる。
つまり、「らしさ」のある景観づくりとは、それぞれの地域が引き継いできたまちやむら の構造を引き継ぎながら、現代の都市や農村の中で再構成していくことが必要であ り、また、継承されてきたさまざまな景観要素としての「部品」を、地域の中に位置づ けし直していくことが大切なのである。
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02)
テーマ:『醸華邑(じょうかむら)まつやま』の創造への取り組み
執筆者:(文責:安部、足立)
始まったのは5年前
「町の中心部にある酒蔵を活用できないか」そこから、松山町の景観への取り組みが 始まった。もともとは、地元造り酒屋の酒蔵として使用してきたものだ。「どうせなら、 蔵だけでなく周辺の整備も考えよう」と、町及び地域商工会が中心になってワーク ショップや勉強会を開催。その後、蔵の建て替えや周辺整備等のハード部門は町が 中心となり、地域個性形成プログラムを策定して、平成6年度末に酒ミュージアムを 完成させた。
その結果、国道4号線、東北自動車道といった幹線道路から外れてさびれかけてい たこの商店街で、もう一度頑張ってみようという人びとが現れ、街並みに合わせた建 物の改築や店開き等が進められた。そんな動きを捉え、町では「松山町街並み景観 整備条例」を制定し、街並みに合わせて家屋を新築・改築する人に、経費の補助を している。
一方、商工会中心の勉強会では、「一本の樹からの景観づくり」と称した地域住民啓 蒙のためのワークショップを通して、地元商店街等、個人レベルでの景観への取り組 みの提案がなされてきた。
松山町の取り組み
▼地域個性形成推進プログラム策定の経緯
松山町は、仙台藩の重臣茂庭氏の城下町として栄え、歴史的文化遺産と豊かな自 然に恵まれているところから、これらを町のイメージとし、昭和62年から「花と歴史の 香るまち」づくりを推進してきた。しかし、まちの名所になっているコスモス園が町の 中心から離れており、町の観光施設と有機的にネットワークされていないために、コ スモス祭で訪れる観光客が、町の中の施設を周遊したり、町の特産品を購入した り、町民と交流することが少ない。また、コスモス祭が開催される9月だけの限られた 季節しか使われておらず、町の活性化にあまりつながっていないなどの課題を抱え ていた。そこで、既存の「ふるさと歴史館」を含んだエリアを、より個性的で集客力の ある町並みとして観光化しようと地域に根ざしている酒文化に着目。平成4年、酒 ミュージアム建設を柱とした「地域個性形成推進プログラム(国土庁の地域個性形 成事業の指定)」を策定した。
事業を進めるにあたっては、町民自らが意見や要望、あるいは将来の地域像を話し 合う場として、町民側の代表=まちづくりに強い関心と興味を持つ15名からなる「地 域個性づくり懇談会」を設立。また、松山町の諸団体の代表、文化人、民間企業 人、学識経験者から意見や提言をもらい、プログラムをより実効性の高いものとする ため、「酒ミュージアム整備プロジェクト委員会」も設置された。
併せて町内の110の団体・サークル活動に対してアンケート調査を行い、町民の総意 が汲み取られるような配慮もなされ、町と町民とアドバイザーグループが一体となっ た動きをつくっていった。
▼酒ミュージアムに期待された効果
酒ミュージアム
この施設は、町にある銘酒「一ノ蔵」の酒造りを地域おこしに結びつけるために、酒蔵 をモチーフにして設計された資料館である。さらに、酒を始めとする地域の特産品の 紹介、商品開発、情報提供などを行い、来訪者と住民の交流する場所として、酒蔵 の跡地に蔵を復元した物産館「華の蔵」を整備した。酒ミュージアムおよび華の蔵の 運営は町から地域振興公社が委託されている。
当初、「酒ミュージアム整備プロジェクト委員会」では酒ミュージアムを通して創造で きるプログラムを想定。
酒ミュージアムの整備によって、
1.来町者が増えることで新たな事業機会がで きる。
2.来町者が増えることで外部の人々との交流 が盛んになり、町を語る機会が増え る。
3.酒ミュージアムを契機として観光施設を酒 という視点から編集することができる。
4.住民ひとりひとりが自分達の祖先の酒との 関わりを研究することで新たな観光資 源や
自分達と町の歴史を知ることができる。
こうして、酒ミュージアムは、単に集客を目的とした観光施設ではなく、地域活性化 の観点からも考えられていた。また、観光客と住民がともに歴史の香り高いたたずま いを満喫できるよう、回遊しながら町中を散策でき、さらに憩いの場所となるように、 町の中心街にポケットパークを2ケ所整備する等の事業を通して、酒ミュージアムと、 地域の名勝史跡などを有機的に結ぶ回路づくりが進められた。
さらに酒ミュージアムは、町全体に散在する観光資源をネットワーク化するためのイン フォーメーション機能と企画運営機能を持つ情報コアと位置付け、町民がこれに関 わっていく考え方を取り入れていくこととした。また、先に紹介した地域個性づくり懇 談会から発展した「まちづくり実行委員会」がプログラム推進に関わり合っていく官 民一体の運営も提案されていた。
景観の視点から5年経過後の現状と課題
このような取り組みのおかげで、観光客は多く訪れるようになった。平成10年度の来 館者数は、酒ミュージアムが9,176人。華の蔵は19,206人。また、酒ゼリー、酒ケー キ、酒アイスクリームなどの酒にこだわった開発商品は、来館者などに人気があり、 新たな地域の特産品となっている。蔵をイメージした建物に街並みの景観をそろえ ていこうと、景観条例の施行も見た。商工会からの提案や働きかけによる店先のの れん掛けや屋敷林、軒先に干し柿をつるす柿もぎ隊による冬の風物詩づくり等、さま ざまな成果をみることができる。
しかし、建物や自然等の目に見えるものだけでなく、人間の生活や生業も景観の一 つの要素ではないだろうか。景観は、人間の風景そのものでもあるというふうに意味 づけるとしたら、その視点からはどうだろうか。地域の中の生き生きした住民の動き や姿は感動を呼び、美しい風景になる。町の人々が来町者に声がけし、そこに笑顔で のやりとりが生まれれば、景観はより彩りを増すのではないか。だとすれば、町や商 工会の動きだけでなく地域住民の関わりにこそ注目せねばなるまい。そこに住んでい る人たちが手を加えていかなければ、固有の景観はつくられない。
「景観とは何か」
身近な景観は、およそ建築、緑、水辺、道路、歴史的なものの5つの要素の組み合 わせから成り立っている。松山町の景観は、建築物と緑がバランスよく調和してお り、水辺や道路などの公的領域、建築や緑という私的領域がともに多い。それゆえ、 松山町の景観は公的な領域もあるが、圧倒的に私的な領域で占められている。これ は、松山の景観形成が町民の力を合わせて行わなければうまく進まないことを物 語っている。
もし、公的領域が多い町であれば、行政などが景観形成のモデルやリーディングプ ロジェクトを進めれば、その影響が私的領域にも及ぶと思われるが、松山町におい ては、町民一人ひとりが景観形成の主体にならなければ、その達成はおぼつかな い。これはとても難しそうに見えるが、裏をかえせば大きな可能性でもある。なぜな ら、景観は誰でもが参加でき、好きや嫌い、善い悪いなどの評価を与えることができ るし、またお互いに議論したり考えたりできる、開かれたテーマでもあるからだ。この 景観は守りたい、これはこんなふうに改良したらどうか、ここに新しいものを創造した い等、景観は人々を積極的かつ能動的な存在にする。それゆえに景観は、多くの住 民や参加者と共に環境づくりや地域づくり、商店街の魅力づくりを行う上で、きわめ て有効な方法である。
(平成6年度松山町中央商店街CI(景観)事業報告書より抜粋)
まちづくり実行委員会の構想もあったものの、酒ミュージアムの運営は公社に一任。 周辺住民自らがまちづくりを考える場や参加のチャンスはほとんどない。酒ミュージ アム主催イベントへの参加率も低い。平成6年から始まった屋外ホールでの夕市出 店も、今や1店鋪のみが頑張っている。つまり、プログラム策定時の酒ミュージアムを 中心とした一連の流れの中から地域住民の関わりが抜け、その関心は薄れてきてい る。5年、10年と続くまちづくりでは、初期の目的を理解し、関わり続ける人も必要だ と思うが、行政側では、システム上、人事異動はつきものでそれは難しいと言える。 だからこそ、そこに住み続ける住民の参画に大きな意味がある。
公社側としても、今後の「地域産品の開発および販売促進事業」「地域資源の確保、 開発事業」「地域資源の保全と活用のための企画及びイベント開催事業」それを達 成するための「人材育成事業」等を具体的にどうしたら良いのかと模索している。
地域個性づくり懇談会の一員のSさんは、「一人ひとりの声を聞くと、十人十色の意 見やアイデアがあって、『この町も捨てたもんじゃない』と思うんだが、点を面に広げ てまとめる人と場、お金、情報が実現には必要。今までやってきた町中心の提案と 商工会中心の提案は、そのプロセスで『何をやるか』を中心に話し合ってきた。その 結果、形になってきたんだけれど、足りないのは、『誰がやるか』という役割分担なん じゃないか。一人ひとりの小さな企画が実現できると、次から次へと広がって、結果 として大きな事業やイベントと同じ効果が得られるはず。」と語る。
それぞれの思いを、酒ミュージアムという拠点で集結させ、そこに住民の関わりをどう 出していくかが問われるところだ。期待されていた上記の相乗効果を得るためにも、 もう一度、住民自らが膝を突き合わせて語り合う場と機会、町と商工会、住民との連 動した動きが必要なのではないだろうか。
ひたかみとしての一提案
ひたかみ編集部では、幻の?まちづくり実行委員メンバーに、委員会の実現を提案 した。外部からの目として我々(安部、足立)も参加させてもらうことになって、新しい まちづくり実行委員会準備会が胎動し始めた。
まずは現状認識の共有をしながら、「住民参加と住民奉仕の違い」「周辺住民が自 分事として酒ミュージアムはじめ、まちづくりに関わるきっかけづくり」等についての話 し合いやワークショップをしていくことになっている。動機づけのための準備期間を経 て、来春には、新まちづくり実行委員会を立ち上げ企画実行に移していく予定だ。
今後、ひたかみではそのプロセスを誌上公開し、読者やさまざまな分野の専門家か らのアドバイス、意見を取り上げ、誌上ワークショップも展開していきたい。(文責:安 部、足立)
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テーマ:地域資源とふるさとびとの心おこし
執筆者:山根六郷研究会 桑畑博
夢から人の動きへ、そして形になって、一つの景観を創っていった山根六郷研究会 桑畑博
ちゃっこいふる里に魅せられて
岩手県久慈市山根町は、長内川の源流遠島山のふもとに六つの集落をもつ典型的 な中山間地。藩政時代は、山根六郷と称され、古くは、たたら製鉄で栄え、久慈、野 田海岸の塩や海産物等を内陸へと運ぶ交通の要衛だった。戦前は木炭王国を誇っ たが、戦後のエネルギー革命等により人口の流出が続き、今日では600人余りの人々 が、山紫水明神秘に満ちた豊かな自然・先人が築いた共生や自給自足に根ざした 豊かな生活・人を慈しむ温かい心を大切に守り伝承する「ちゃっこいふる里」である。
私達が初めてそこに足を踏み入れたのは、昭和54年のこと。久慈青年会議所がふる 里の見直しを提唱し、その一連の活動の中で、郷土史の先生方に案内いただき山根 六郷を探訪することができた。時に、時代の波は「開発」という名のもとに国家的プロ ジェクト事業(800億の巨費を投じた国家地下石油備蓄基地の建設)等が導入され、 生活様式の近代化や多様化等、社会環境の変貌と共に、誇るべき「ふる里人のルー ツ」が見失われようとしていた。
昭和56年、久慈青年会議所制作のスライド「琥珀の里から」〜久慈・その風土と文 化~が完成し、それを見る度に、山根六郷の豊かな自然や人間の生来持っている 「ふる里感」への郷愁などに強く惹かれていくものがあった反面、スライドに映し出さ れる映像にいささか不満も残った。それは六郷の大切な素材のひとつである、人々の 暮らしや技の紹介がなかったことである。仲間が顔を合わせる度に話はそのことに言 及し、近い将来、ふるさと人との出会いを求め、そこから源流の神秘性を追い求めて みようと誓い合った。
思いは天に通じたのだろうか、昭和57年初冬、木売内郷でつつましげに暮らしながら 確かな「女わざ」を伝承する「心豊かなむかし人」に出会うことができた。幻となって しまったふる里の「衣の文化」の原点、麻布の伝承者を求めていた折もおり、その伝 承者と偶然に出会ったのだから、幸運の一語に尽きる。かくして、昭和58年3月、山 根六郷の人々の暮らしに魅せられた久慈市内の六名が「山根六郷研究会」を結成。 写真店経営者、設計事務所経営者、ホテル経営者等、それぞれ本来の仕事を持ち ながらの活動が始まった。
時代遅れのススメと4つのこだわり
時代遅れのススメとして、過疎(数にあらず、ふる里人の心こそ大切)/開発(ソフトを 優先し、創造的開発に徹する)/観光(伝承活動の実りの結果として)/改善(伝承の手 段としての古き良きものの見極めと選択)の4Kにこだわり行動。山根六郷の暮らしを 保全、伝承することができれば、「真の豊かさとは何か」を問い直すことができるとい う信念で、「10年間頑張ってみよう」を合言葉に、16ミリの伝承記録映画制作(平成3 年に3部作が完成)を始めた。
完成後、映画のフィルムだけの貸し出しはせず、必ず自分たちで持参。自分たちの 山根六郷への思いを語りながらの上映を続けた。
映画は上映会での反響もさることながら、山根の住民たち自身が忘れ、気がつかな かった暮らしを再確認することにもなった。
「こんたな田舎だから・・・」と田舎を憂えていた人々が、「素晴らしい生活や自然の恵 みを次代に伝えていこう」という姿勢に変わり、老人会の手作りで民具資料館が完 成。
昔ながらの技や味の伝承グループも立ち上がっていった。
自らの生活環境を見直し、伝統というしがらみを越えて、残すべきものの選択をす る。
新たなふる里創造への動き
「村の景観を壊したくない」と考えた時、「何を捨てて、何を残すか」-それは単に、 我々のように町場に住む人間がふらりと村にやって来て、「自然を大切にしなさい」「伝 統文化を残しなさい」と言い放って行くのではなく、村の人々が自信と誇りをもって自 立できるように手助けをする活動にしなければと考えていた。ある日、端神地区の人 から「山間の畑作地帯の食文化を伝承するには、種まきも、収獲も、その加工もすべ て伝統的な方法でやりたい。」と相談を持ちかけられた。穀物を加工するには水車が 必要。
村には2基の朽ちかけた水車があった。
さっそく、地域の人々が一体となって「水車広場」の整備を始めた。トラックで何回も 土を運んで整地が行われ、研究会のメンバーの一人でもある設計士が水車の設計 にあたった。古い木も再利用して、それまで村では見たことのないほどの立派な水車 が完成したのである。
すると、それを待ち構えていたかのように、おばあさんたちが雑穀を持ってやって来 て、順番を待つようになった。
誰からともなく、「冬季間を除いて月一度、市(いち)を開こう」という声が上がった桂の 水車広場で、村のお年寄りたちが手作りの田楽豆腐・そば・餅等を、町場からやって 来た人たちにふるまおうというのである。
それが、休み小屋=ふる里伝承館の建設にもつながっている。水車は終日活用さ れ、雑穀食文化の原体験が可能となり、年間1万人が町場から訪れる「水車まつり」 や「くるま市」へと派生し、町場との交流が生まれた。交流の基本は、里人がこよなく 求める「昔郷」への郷愁にあった。水車は村のシンボルであり、集落の絆の基となっ た。そこから年中行事や農耕儀礼などの伝承が色濃く見い出されると共に、各戸で 行われる農神様への感謝行事を共同で行う「石神座(かくら)まつり」として、新たな創 造がなされることにもなった。
六郷の人々と共に、六郷の暮らしや文化を絶やすことなく伝承することに意義を見い だし、自らのルーツ探しと手作りの伝承支援活動は、もはや15年目を迎える。六郷に とっても、我々にとっても、後継者問題を抱えてはいるが、「源流まるごと昔郷」エコ ミュージアムづくりの推進に向けて動き始めている。
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テーマ:農村地域の合意形成と集落
執筆者:東北大学大学院農学研究科教授 大鎌邦雄
農村での合意形成がスムースに進まない
という話を、近年しばしば耳にするようになった。農業史を勉強してきたものとして、 なぜ今そのような問題が生ずるようになったのか、歴史的に考えてみたい。
近世以降日本の農業経営は、家族労働力によって担われていた。もちろん地主・自 作農・小作農という階層に分かれていたが、基本は家族経営であった。大地主を別 として、経済単位として小さな家族経営は、集落を場に生産や生活の面で強い相互 扶助の関係を形成していた。弱小な農家が単独ではアクセスできない水資源や山の 資源を、集落の共同により管理し利用してきた。また無尽講のような相互金融組織 を形成し、経済の変動に対応していた。日本の農家は移動性が低く集落の構成員 が固定的であったことが、この関係をより強いものとした。
また近世の集落は行政の単位でもあったが、支配階級である侍は城下町に住み、村 の行政は幕府や藩が許す範囲で農民のみの自治により執行された。集落を自治的 に運営するために、集落には「立法」の場として寄り合いを持ち、決まったことはリー ダー(重立)が執行し、違反者には制裁をすることもあった。そこでは集落特有の論理 にそって意思決定がおこなわれ、運営された。
その一つが「平等主義」である。集落としての負担や「利益」は、多様な基準を援用 しながら構成員の間で平等に配分された。時には経済力にあるものには多くの負担 をしたり、長い時間軸に沿って平等化が図られることもあった。問題に応じて住民が 平等と納得することがその基礎にあった。
もう一つの論理が「集団主義」である。個々の住民の意思が集落の外部に出ることは ほとんどなく、集落の中で溶解し集落の意思として表示された。そうした村の論理 は、その構成員が全て家族経営による小さな農家であるという均一性とその関係が 永続的であるということにより担保されていた。これが「集落型合意形成」とその背景 である。
明治以降の町村制度の変化や戦後の農地改革もこうした合意形成のあり方に大き な影響を与えなかった。むしろ集落の合意形成能力に依拠してその運営が行われ たと言ってよい高度成長は日本社会を豊かにした。戦前期の農業問題の根源にあっ た零細農家の貧困問題は見事に解消された。しかし農家の豊かさは農業所得では なく兼業所得からもたらされた。農家の3分の2以上が、農業所得より非農業所得の ほうが多い?兼農家である。こうした広範な兼業化は、農業農村社会に非常に大きな インパクトを与えた。?兼農家の生活基盤は、すでに非農業に移っている。「集落型合 意形成」の基盤である農家としての均一性は経済面から急速に失われつつある。
生活面でも同様である。多様な兼業先への就業は、農村住民に共通する時間を持 つことを許さなくなった。さらに農業に基盤を持たない若年層と「集落型合意形成」を 長年支えてきた昭和一桁層との意識の差も大きい。このことが近年農村部における 合意形成の困難さの背景にあるのではなかろうか。では今後どのような合意形成シ ステムが展望されるであろうか。
これまでの集落のように住民の生産や生活の均一性を根拠とした社会システムが再 生することは、ここまで兼業が深化してしまった以上、考えづらい。従って当面は、ま だ住民の意識にかなり残っている集落型のものとともに、目的の同一性に基づく自 由なネットワーク型組織をベースにした合意形成システムの要素を加えていくことが 必要ではないかと思われる。
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テーマ:広域行政のあり方
執筆者:『今後の広域行政のあり方に関する調査研究』より
市町村などの地方自治体は、地域住民に対する多様で木目細かなサービス(特にソ フト事業)の提供が求められる一方、財政逼迫もあって効率的な行財政運営が必要 となっている。このような中で、各市町村は、地域住民に責任を持つ自治体であると いう原則に立ちかえって、市町村が自治体として果たすべき行政活動とはどのような ものかを明確にしなければならない時に来ている。
それは、行政活動のすべてを自治体が引き受けるということを意味しない。一方で は、地域住民参加の機会をできるだけ拡大して住民の「自助」「互助」を促進すると 共に、他方では、自治体相互の連携によって地方自治を一層発展させる可能性が あるのなら、その連携に積極的に取り組む必要がある。地方自治を一層充実させる ということを基本に置きながら、各自治体でやるべきことと、地域住民や自治体連携 (広域行政)でやるべきことを、それぞれの地域特性に合わせて、上手に組み合わせ ていく知恵を地方自治体は持たなければならない。
各自冶体では対応しきれない機能を充実させ各自治体の能力を高めるために、「広 域シンクタンク機能」をもつべきこと、および圏民としての共通意識醸成に寄与する 「圏民拠点」を形成すべきである。その意味で、今、市町村などの地方自治体の力 量が大きく問われている。
地域社会とその住民を取り巻く社会経済環境の変化への対応として、広域行政への 期待には大きなものがある。欠乏と豊かさとが共存する現実の生活条件の中で、 日々変化する住民ニーズに応えて新たな事態にいかに対応するのかが問われると き、広域行政は今や「豊かな地方自治」を生み出すための不可欠の手法となってい る。市町村自治体は、それ自身の自治を充実させるためにも、広域的な連携協力 に、積極的に取り組まなければならないのである。
広域連合制度は、そうした広域行政の新たな展開にとって、きわめて有効度の高い 手法となるものと考えられる。始まったばかりの制度であってその評価は必ずしも定 まらないが、新たな自治を生み出す可能性や、自律的な広域行政たりうる条件を備 えているように思える。既存の広域的な連携協力や広域行政制度に加えて、高い潜 在能力でもある。
新たな広域行政の提案として、一つには市町村間の連携協力、二つには広域行政 機構による広域行政需要への対応、三つには広域的な自治の可能性があげられ る。このような広域行政を展開する上で、行政協力方式を見直し刷新することの課 題は大きい。広域的なニーズに応えるため、現状の一部事務組合や広域連合など の広域行政体制の再検討が急がれなければならない。
すなわち、一方では、これまでの各市町村における事務事業について、広域行政需 要という視点から見直していくこと、そして他方では、広域行政の主たる担い手であ る広域連合の新たな自律的活動の可能性を模索していくことである。前者では、市 町村事務の共通化やハーモナイゼィション(調和化)が課題となるし、後者では、広域 連合を広域圏のシンクタンクとする構想や圏域住民のアイデンティテー形成の起点 とすることを提案できる。
地方分権改革の時代にあって、ややもすれば分権の受け皿論が先行し、地方行政 体制の強化や行財政能力向上を図るための合併論議が活発である。もちろん合併 を否定するつもりはないが、地域にはそれぞれの自治があってしかるべきであり、広 域圏の市町村に適した地方自治体制を、自らの手によって選択することが、まさに地 方自治の本旨を生かすことに他ならない。
平成11年3月発行の『今後の広域行政のあり方に関する調査研究』(?東北開発セ ンター)の一部抜粋。
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テーマ:仙台市市民活動サポートセンター
執筆者:ひたかみ編集部
「広場ですよ」とは、管理運営にあたっている、せんだい・みやぎNPOセンターの代表 理事加藤哲夫氏。
開館から1ヶ月の利用状況は、来館者1600名、利用団体数300団体(延べ)。
会報などの印刷、発送作業に利用する団体が多いが、センターををうまく利用して 自分達の活動に役立ててほしいとのこと。
利用団体には、今まで活動拠点を持たなかった市民活動団体のほかに、このセンタ ーを拠点として結成された例もある。
「西暦2000年問題(Year2Kilo=Y2K)」講演会をきっかけに、聴講者が自主的に集まり 「Y2K市民ネット宮城」を結成した。
このメンバーは、勤め帰りに三々五々集るが、会合を持ち、記録をその日のうちにパ ソコンで作り、印刷をし、という作業が一連の流れでできるこの市民活動サポートセン ターの機能をうまく利用し活動している。
今後、市民が自由に使える広場としての市民活動サポートセンターが市民活動団体 に広く浸透することを加藤氏を始め、スタッフ一同願っている。仙台市市民活動
サポートセンター公益的な活動をする民間非営利団体(NPO)等の活動拠点として、 仙台市が青葉区本町の旧日専連カードセンタービルに整備を進めていた「仙台市市 民活動サポートセンター」。
全国初の「公設民営型」施設ということもあり、準備期間から日本中のNPO関係者か ら注目を集めていたが、いよいよ、6/30オープンした。<施設の案内>1階
◇事務室:受付業務の窓口
◇市民団体用のレターケース:団体同士の情報交換や郵便物の受入に利用でき る。
◇親子交流サロン:コルク貼りの床。ベビーベット、すべり台を設置。子ども連れで会 合ができる。2階
◇交流サロン:予約なしで小人数の打合せに自由に使える。
◇情報サロン:市民活動に関する図書や、団体の会報などがあり、いろいろ相談出 来るスタッフがいる。またパソコンが2台あり、文書や会報づくりに使うことができる。
◇印刷作業室:コピー機(1枚10円)、A3用紙対応の印刷機、紙折り機が設置。
◇市民団体用のロッカー3階
◇研修室:定員30~40名。
◇セミナーホール:定員100名
◇特別会議室:定員10名
・使用料は1時間当たり200円〜400円。3カ月前(セミナールームのみ6ヶ月前)から申 込受け付け。4階
◇市民活動共同事務室:1ブース5000円/月で10ブースある。机、ロッカー、電話線 が設置。専用電話を引くことができる。所在地:仙台市青葉区本町2-8-15
TEL 022-212-3010
FAX 022-268-4042
開館時間:午前9時〜午後10時(日曜、祝日は午後6時閉館)
閉館日:年末年始と施設点検日。
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