2000年8月号

01)論点(まちづくりとコミュニケーション)
02)実践レポート(山形県高畠町)
03)あぜ道小道(まちづくりと市民参加)
04)あぜ道小道(こだわりの湯治学)
05)都市農研(シンポジウム報告)
06)アースワークス研究会(プチファームについて)
07)水辺里山空間研究会(里山学校報告)



01)
論点
まちづくりとコミュニケーション(まちづくり政策フォーラム理事 大泉一貫)

今から何年前になるのだろうか、「都市農村計画研究会」を設立し、都市と農村一体 型計画の必要性を訴えた。しかしその後の私の参加状況は芳しくなく、山田さんや新 川さんにすっかりおまかせする格好になってしまった。ここで改めてお詫びをしておき たい。それは今日でも、また今後も変わらないのだろうと思うのだが、それまで活動し ていた「農業農村を考える経営者の会」は活動が停滞しており、「瓜の会」は97年10年 目の区切りでこれまた休止状態に入っている。
どうやら組織活動というものが苦手なようなのである。組織活動というともっともらしい が、時間と場所決めてそこに集まって議論するということ、つまり「会う」事と考えても らえばいいが、それが苦手というのがよくわかってきたのである。研究会は何かをクリ エートしようとして「会う」のだが、しかし目的は一つでない事が多い。もし何かをクリエ ートしようと思って会うならわざわざ「会」を開かなくても文書を交換しながらネット上 で会話をしていてもいいのである。その方がいい結果が得られることの方が多い。
しかし通常人々が開催する会は目的がファジーに錯綜している事が多い。そうしたとき に例えば自分が意図しないことで時間が過ぎていく事があるとすると、私は急に「居 心地の悪さ」を感じてしまうのである。それが続くと「チャット」の場は他にもいろいろあ るのにとつい思ってしまい次回の出席の意欲がそがれてしまうのである。気持ちにむち 打って参加する、ということがないと、次回からは自分の都合が悪い日に開催日程が 来ていたりし、「会」は自分からどんどん遠のいていってしまう。
「継続的研究会型」の「会」の困難性は、「会」あるいはもっと柔らかく「会う」という行為 の意義付けが参加者の間に共有されていれば解決する問題ではある。しかしそうは ならないのが普通であるところに厄介な問題がある。

こうしたことは私の個人的問題かもしれないし、あるいはNPO活動の課題としてあるの かもしれない。「まちづくり政策フォーラム」にはもう一つ「水辺里山空間研究会」があ る。この活動のやり方は「強度」と「弛緩」のくり返しといったらいいのだろうか、そうした やり方である。この「強度と弛緩のくり返し型」は「継続的研究会型」に比べて参加者 の共感を呼びやすい。
ただ私は「強度」あるいは「濃度のある」「会」がいいといっているのではないし、また目 的なしに人々が「会」うという事を否定するものでもない。それどころか私はむしろ「目 的なしの会推奨論者」でもある。
「継続型の研究会」においては「会う(会議あるいは研究会)」ということと「何かをクリエ ートする(研究会の本来の目的)」ということとはどちらに重点があるかを暗黙裡にでも 決めておく必要があると思っているのである。つまり「コミュニケーションのあり方」に もっと工夫をすべきだといいたいのである。
こんな事を言うのは、おそらくこれはこれからの地域社会問題を考える際「コミュニケ ーションのあり方」がキーコンセプトとなると考えているからである。さらにいえば、「公 共」ということや「共同体」ということを考える際にも重要なことと考えているからであ る。

まちづくり政策フォーラムの目的は、その名前通りまちづくりにある。「まちづくり」とい うコンセプトに関しては様々な解釈があるが、ここでは「アノミーからの脱却」ということ をいいたい。エミール・デュルケムが使ったアノミーは、「無規範」などと訳されている が「浮遊する個」といった意味合いの方が適しているのだろう。「浮遊する無規範」から の脱却、それがまちづくりだといいたいのである。それは、戦後の日本社会が抱えた 課題を、依拠する体制・思想・共同体の崩壊によって引き起こされたアノミーにあると する考えと無縁ではない。アノミーは70年代「郊外」に出現するが今ではそれが農村 でも都市でも生じている。
「共同体の崩壊」という現象が都市では「会社共同体」に取って代わり、農村では旧来 からの「集落共同体」がかろうじて存在していたものの、それらも90年代後半には崩壊 し、依拠集団のなくなった「人々」の間に問題を引き起こすが、それが都市から農村に まで我が国全体を覆ったのが2000年的状況といえよう。
農村といえば誰しもが農家が住む空間をイメージするだろうが、現実はそうではない。 農村は既に「混住化社会」である。75年には全国平均で非農家の割合が7割にまでに なっている。こうした実態認識が都市と農村一体型の「都市農村計画」を企画した所 以でもある。

それはそれとしてもともとコミュニケションの存立し得なくなった状況をアノミーとすれ ば、そこからの脱出には人々の「コミュニケーションのありよう」を模索することが欠かせ ない。
「コミュニケーションのあり方」はもともと文化や制度や環境に規定されるが、そこには 「感動」や「やりすごし」など、相互浸透の強度や濃度の作り方とそのためのスキルが ある。本稿で最初に「会のあり方」をいったのも、「コミュニケーションにも進歩と退化」 があるということをいいたかったからである。アノミーからの脱出を目指すためには、そ の様なコミュニケーションへの配慮が重要であるしその為の環境(場)の創造が大切で ある。
郊外や農村で考えられるコミュニケーションの場はもはや従来からの集落的な「共同 体空間」にはない。集落座談会などの「共同体的空間」は家や地域や立場を背負った 世界であり、そこでの討議は、形式に流れがちだし、また農協や役場などの公的機関 の上意下達の場になりがちである。
そうではなく、共同体や家を背負った個々人が個人として自由参入でき討議する場が 必要なのである。
具体的にいうと、次のようになろうか。
昔であれば風呂場や長屋の路地裏、井戸端というところ。路地裏の縁台で将棋をす る、世間話をする。おばちゃんたちも茶碗を洗い、洗濯をしながら互いに情報交換をし ながら交流する。
都市であれば、たとえば駅前広場とか盛り場。人が集まれば、喫茶点もできるし、本 屋もできる。駅までの散歩も楽しいし途中いろいろな人と合ったり、店をのぞいたりも できる。
ヨーロッパであれば村や街の真ん中にある広場である。そこには、町の役場、商店 街、公園、盛り場、広場、全ての機能の集中がみられる。ヨーロッパの農村は元々が 個々人バラバラだっただけに、人が集まるための仕組みを意識的に作り上げたのであ ろうか? 個人主義であるが故に公的に集まる空間を大切にするという思想がそこには ある。これからの社会には、孤独に浸る隠れ家の様な空間と同時に、多様な人々の 「公」的交流空間の創設が必要である。まちづくりを保障するには、こうしたコミュニケ ーションの場が保障され、その人、そのときに合った「コミュニケーションの濃度」を、 人々が試行錯誤しながら獲得できる訓練が必要に思われる。



02)
実践レポート 通りを昭和30年代に(ひたかみ編集部・櫻井高志)
高畠〜中央通り商店街〜
まほろばの里たかはた

山形県高畠町は山形県の東南に位置し、東に蔵王、北に朝日、南に 吾妻、西に飯豊の山並みが続く中山間地域で、「まほろばの里たか はた」と呼ばれている。「まほろば」とは、「丘、山に囲まれた稔り豊か な住みよい所」という意味を持つ「まほら」という古語に由来する。
この町は、その言葉通り、周囲を山々が覆い、平坦地には隅々まで田 園が広がる緑豊かな環境にある。人口約27,000人のこの町は人口の 約5分の1が農業に従事するほど農業が盛んで、20年余りにもわたる 有機農業への取り組みは全国の注目を集めている。また、その魅力 に惹かれて都会から移住してくるIターン者も多い。このように高畠と いえば有機農業をきっかけにした地域おこしが有名であるが、町の 商店街のひとつである中央通り商店街の取り組みも着実に成果を挙 げている。

中央通り商店街の取り組み
高畠の市街には、3つの商店街がある。中央通り商店街は、旧高畠電 鉄高畠駅前から東に続く全長約1.2キロメートルの通りである。商店 数は50数店舗、一見どこにでもある普通の商店街である。ここの魅力 は、自分の足で歩かなければ見つけにくい。
平成4年以前の商店街は、西から幸町地区、荒町地区、元町?・御入 水地区と3つに分かれ、お互いの付き合いもあまりなく、これといった 取り組みもなかった。しかし、取り組みの始まった平成4年以降、“通り を昭和30年代へ”を合言葉に、ひとつの商店街としてまとまり、中央 通りの魅力創出へと邁進している。
取り組み1.花の散歩道づくり
平成4年、「べにばな国体」開催を期に、県下で「花いっぱい運動」が 繰り広げられた。それに合わせて、中央通りも潤いと安らぎのある「花 の散歩道」に創り変えようと、通りの商店会を中心に「中央通り商店街 連合振興会」を設立し、散歩道づくりに着手した。
振興会では地元の建築、設計関係者などが集まり、高畠の町並みに ついて自主的に研究を重ねていた「高畠デザイン研究会」の協力を 得て、通りへのプランターの設置や、ガードレールの一部撤去、一部 塗装などを行い、町並み景観のお色直しをした。これが地域住民の 評判を呼び、翌年から運動を継続する形で、振興会を中心に、区長 や老人会長、育成会長など、地元住民と一緒になって「中央通り花と 緑の会」を設立した。
会では、国体終了後に、県や町の助成を得て、約600個のプランター を通り全体に並べた。年2回の花の植え替えと片付けには、地域の 子どもからお年寄りまでが参加。平成8年には、県と町から「美しい商 店街づくり支援事業」の指定を受け、ガードレールを撤去し、プランタ ーの代わりに花壇を設置した。
通りの景観整備はこれだけでは終わらなかった。歩道にあった電柱を 通り沿いの民地に移設する、歩道を地場産の高畠石のタイル敷きに する、通りに面しているブロック塀を板塀で覆うなどの取り組みも進め てきた。この他にも、通りには人の目を楽しませる工夫がなされてい る。
平成6年からは、店先にかかっていた袖看板やプラスチック製の看板 を手彫りの木製看板に取り替えた。たばこ屋はキセルの形、漬物屋 は大根の形など、今では約30店舗がそれぞれの業種に合ったユニー クな看板を掲げている。
また、通りの所々には高畠石を彫って作った小さな石像が並んでい る。石像は町に関係するものばかりで、中には町出身の童話作家、 浜田広介の作品をモチーフにしたものなどもある。平成8年から現在 までに16体が設置され、今後も増える予定である。
現在、中央通りは、昭和30年代の雰囲気を醸し出す町並みに統一さ れている。

取り組み2.昭和ミニ資料館
振興会では、さらなる魅力を創出しようと新しい取り組みも進められ ている。町、商工会と共に、商店街の活性化を目的にした「中央通り ビジョン」を平成6年に策定した。その取り組みのテーマとして掲げら れたのが、“昭和30年代への回帰”である。
昭和30年代の中央通りは、路線バスや高畠電鉄が走り、駅前には映 画館や製糸工場もあり、最も活気があった。しかし、この年代を節目 に、日本の経済は大量生産、大量消費、大量廃棄という現代の様相 へ移行していく。高畠でも、鉄道が廃止され、工場も操業を停止し、 映画館も次々と閉鎖していった。通りの近郊には大型量販店などが 進出し、賑わいは消え、商店街への客足も遠退いていった。
“昭和30年代への回帰”は、単に往年の賑わいを取り戻したいという意 味に留まらず、当時の商売をはじめ、生活、そして生き方までをも見 直そうという意図も込められている。この意図は、中央通り商店街の 取り組み全てにおいて一貫したものであり、取り組みに参加している 商店主の共通理解になっている。
平成7年、この「中央通りビジョン」に沿い、県の中小商業活性化事業 の助成を受けて、「昭和ぐらふぃてぃ」というイベントを開催した。町内 外から集めた昭和30年代当時の写真や映画ポスター、テレビや生活 用品などの展示品は、町民や観光客に大好評だった。この反響を受 けて、振興会では、空き店舗や商店の片隅を展示スペースにした常 設資料館を設置しようという動きになり、翌年、5つの「昭和ミニ資料 館」をオープンさせた。
マスコミにも大きく取り上げられ、通りを訪れる人も増えた。それとと もに、賛同する商店が次第に増え、展示品も続々集まるようになっ た。館数も、平成9年から年々増え、現在では16館にまでなっている。 それぞれの資料館はテーマ分けされ、1館1館楽しみ方がある。たと えば灯(とう=10)号館ではテレビやラジオなどの電化製品、六号館 では、少年漫画や映画雑誌、五号館は昭和30年代の茶の間という感 じになっている。
振興会では現在、「館長会議」と称し、通りの取り組みについての話し 合いを重ねている。

取り組み3.ふれあい市
散歩道づくりと資料館に加え、振興会が商工会と連携して、新たに 取り組んでいるのが、「ふれあい市」である。地元の農家が栽培した 有機野菜や果物、地元商店が持ち寄った商品などを直売する。
平成9年から、「土曜朝市」として毎週土曜日に開催している。平成12 年からは、さらに開催日を増やし、場所も中央通り隣にある町営駐車 場内のスペースに移すなどして、規模を拡大した。名称も「ふれあい 市」に変更。地元住民や、県内外からの観光客の交流の場になるこ とが期待されている。
3あい「通りを楽しくして、人が集まる通りにしたい。町おこしをするに は、まず人が集まる状態が必要」と資料館6号館館長であり、中央通 り協同組合(平成11年、中央通り商店街連合振興会を法人化)専務 理事の古川さんは言う。
今は、「昭和ミニ資料館」などが大々的にマスコミに取り上げられたこ ともあって、全国的に話題を呼んでいる。旅行会社の観光ツアーに組 み込まれるなど、年間延べ6,000人がこの通りを訪れるようになって いる。
12号館館長の言葉を借りると「以前は、日曜でも人が通らなかったの に、今はいるからそれだけで驚きだ」という。
今や、資本を投入し、きれいな文化施設など箱モノを造っただけで は、人は集まらない。必要なのは、その内側にあるソフトである。「花 の散歩道づくり」では、人の心を和ませ、気持ちよく歩ける通りを創り 上げた。そして、「昭和ミニ資料館」。中高年は、昔を懐かしむことが でき、若い人にとっては、未体験の時代を垣間見ることができる。こ の2つの取り組みによって、通り全体はレトロな雰囲気を醸し出し「楽 しく歩ける通り」に仕上がった。しかし、これらの取り組みは、個性的 ではあるが、言ってみればハードの整備である。
そこにソフトをプラスする方法として、協同組合が取り組んでいるの が、「出あい、ふれあい、語りあい」を合言葉にした“3(スリー)あい”運 動である。この、3あいをモットーとしたところに中央通り活性化策の 本質がある。「ミニ資料館づくりは手段であり、目的ではない」「観光 人口ではなく、交流人口を増やしたい」と古川さんは言う。訪れた人 や地元の人が楽しく交流できる、対話できる、心のふれあいができ る。このようなことが普通にできる通りにすることが、真の目的なの だ。これは、地域のコミュニティ再興をも視野に入れた取り組みであ る。資料館も、散歩道も、ふれあい市も全てその一手段に過ぎない。 訪れた人が、通りには資料館だけでなく、「こんな人がいるんだ」と心 に残るような出あいの機会、ふれあい、語りあいの時間をつくりたい。 昭和30年代のように通りを舞台として人々が交流できる場をつくりた い。これが3あい運動の基本である。

推進上の課題
中央通りには毎日大勢の人が訪れ、そのほとんどが資料館を見に商 店へ足を踏み入れている。当然商店としては、商売へつなげたいとこ ろであるが、現実にはなかなか売上に反映されていない。高畠はもと もと観光地ではなく、商店街も日用品を扱う店が多い。そのため地域 色を売りにした商品が少ない。観光ツアーは多いものの、高畠へは資 料館を見学するためだけに立ち寄り、食事や宿泊は隣町で済ますと いうケースが多々ある。これでは、地域内で経済が循環せず、商店街 活性化につながらない。
また、町内には、大型ショッピングセンターが3軒、コンビニエンススト アが6軒ある。その影響で、地元住民の足が商店街よりも、そういった 量販店へと向かっている。など、集客が売上につながらない原因は幾 つか考えられる。
昭和30年代には、人、物、金の地域内循環が成り立ち、地域も商店 街も潤っていた。その意味でも昭和30年代への回帰なのだ。そして 今、商工会、商業協同組合と協力して取り組んでいるのが、一店逸 品運動。
一店逸品とは、その店でしか買えない、食べられないオリジナル商 品、またその店でしか受けられないサービス。こうした一店逸品を開 発し、各商店の名物にしようというのだ。
商品では、地元農家が作った味噌や地元のそば粉を使った手打ちそ ばなど地域色を出したほうが客受けが良く、他にも地場産のものを活 用できないかと各商店が新しい商品の開発に取り組んでいる。
しかし、電化製品や化粧品などを扱う店では地域色を活かし難い。 そういった店が力を入れているのが、もう一つの一店逸品、3あい運 動を基本とした「心のサービス」の提供である。
中央通り商店街は、この2つの一店逸品を客へのアピールと店舗経 営の戦略として打ち出している。また、取り組みの内容が拡大するに 連れ、そこに割かれる時間が多くなってきたという。現在は、商店主 らがなんとか商売と両立させて進めている状態である。商店主自ら が行ってきた資料館の維持管理を別の人に任せるなどの分業化を 図ったり、活動全体にわたってアドバイスやコーディネートする専任の 人材確保など、まだまだ課題はありそうだ。
まほろばの人まちづくりにしても、商売にしても、この中央通りで特徴 的なことは、心と心でふれ合いたい、心と心で語りあいたいという姿 勢を持っていることだ。
「高畠には、松島や十和田湖のように見るだけで人を魅了するような 自然もなく、他にも目立った観光資源はない。そういった観光資源に 代わるものが、高畠では人なのだ。」と古川さん。そこに住む人の顔 が、人を引き付ける柱となっているのである。現に、高畠には都会か らの移住者が多い。その理由を聞くと、高畠には豊かな自然と、人を 素直に受け入れる心の広さがあるからだと言う。「人が親切であたた かいところが、高畠の財産だ。この財産に多くの人がふれられるよう な町おこしをしていきたい。そして、訪れた人が、何度も来てくれて、 来る度に誰かを連れてくる。最終的には高畠に永住してくれれば最 高だ。求めているのは一過性の観光客ではなく、そういう人なんだ。」 と語った。
商店としての経済効率もさることながら、人の輪を優先的に創り上 げ、リピーターや移住者を増やす。これは、消費者が増え、商店街の 活性化にもつながるだけでなく、新しい風を吹き込んで町の活性化に もつながる。時間はかかるだろうが、確実に人が集まる方法ではない だろうか。「人は心のあたたまるところへ集まるんだよ。」という古川さ んの言葉が印象的だ。
しかし、まだまだ人が集まる状態が整ったにすぎない。今後も人の心 を魅了し続ける通りを維持していくには、次のステップへと進む必要 があるだろう。
高畠のまちづくりは、まだまだ発展途上だが、たくさんの可能性を秘 めているといえる。



03)
まちづくりと市民参加(水辺里山研究会 西山浩一)

-はじめに-
近年、「市民参加」といえば「まちづくり」と思い浮かぶほど、この二つの言葉の関係は 親密です。東京都世田谷区や神戸市真野地区などは、その先進的事例としてみなさ んも名前を耳にしたことがあるでしょう。特に神戸は、阪神大震災時にそれまでのまち づくりでできたネットワークや、コミュニティにより多くの人命が救われました。そこで、 昨年度に仙台都市総合研究機構(SURF)の市民研究員として市民参加について調査 研究した内容や、それがご縁で参加させていただいております「新しい街を考える 会」、6月に現地へ伺いました神戸真野地区についてふれながら、市民参加やまちづく りについて述べてみたいと思います。
-SURFでの活動から-
仙台の市民活動団体は小規模なものが多いようです。しかし、NPO法人の数は平成 12年2月現在、人口十万人あたりで全国第6位となっておりまして、全般的に見れば市 民活動は比較的盛んな地域ではないかと思われます。ただ、個人的な印象としては 自己満足の域を出ていない活動が多く、日々多様化する住民の興味、意欲を掴みき れないのではないかと感じております。この場合、公益的な活動を目指す団体におい ては将来的に幅広い住民の支持を得にくい、つまりは資金面、人材などの問題が顕 在化することが考えられます。このようなことを考えると、現在自治体などからでてい る補助は将来殆ど無くなってしまうかもしれません。実際に、今現在この問題に直面し ている方々もいらっしゃることでしょう。
まちづくりにおける市民参加を考えた場合、どうしても地域性が高くなります。その場 合に「どれだけ住民の支持を得ている活動なのか」という点を客観的に推し量れる物 差しが必要です。自治体のみならず、企業や個人などの協力(物、人、資金)を得よう とする場合にはこの点が重要ではないでしょうか。
-長町のまちづくり-
仙台市太白区長町は、かなり重層的に様々なテーマコミュニティが存在します。一例 を挙げますと、「新しい街を考える会」「長町まちづくり検討会」「広瀬川の清流を守る 会」「ぽけっとはうす」「ひだまり」その他にも多種多彩な「集まり」があります。もちろん、 商店会、町内会、といった地縁コミュニティも健在で、この多様性が様々な住民の興 味、意欲を掘り起こし、企業や個人の協力につながっていると考えます。また、多種多 彩に行われているまちづくりイベントには、会社勤めの私が、無理のない範囲で単発 的に参加できることも大きな魅力となっています。
その中の一つ「新しい街を考える会」では、「長町 ゆとり〜と」というコミュニティ紙を隔 月発行しています。長町町内会連合会の区域内に配布しておりまして、最近になり、 印刷費用の殆どは、広告収入でまかなえるようになったと聞いています。これは、企業 にも認知されてきた結果だと考えます。実際に中心となって携わっている方々はとても 大変ですが、地域性の高い内容、その姿勢など様々な方面から評価をいただき、住民 の一人である私としましては誇らしい限りです。
-神戸真野地区の震災復興から-
神戸真野地区は、昭和30年代後半から公害問題をきっかけに活動を始め、古い建物 の建て替え運動や公園整備を市に働きかけるなど様々な活動を行ってきました。ま た、震災直後、福祉ボランティアの方々が自分が普段お世話している高齢者の方々の お宅を回ったり、倒壊した建物から救い出したりと活躍されました。これは普段からど の部屋のどの場所に寝ているかまで熟知していたことが幸いしているそうです。震災 後、住民の方々の中には、神戸市が用意した郊外の復興住宅などに落ち着く方々が 多かったそうですが、決して本意ではなかったようです。「自分が暮らしたまちでもう 一度生活したい。」そんな希望を叶えることができなかった方々がたくさんおられるこ とを聞きました。「自分の住む街に帰る」こんな当たり前のことができないのはおかしい と、神戸の方々も気づいておられるようでした。
-まちづくりについて思うこと-
「まちづくり」において、よく「ハードはどうか」「ソフトがどうだ」と聞かれます。私はこの2 つは一体で、これをしっかりとつないでいるのが、まちづくりに携わる人々の「ハート」な のではないかと考えています。事業者の管理区分などによりハード、ソフトを分けてし まっては、まちづくりの機能は半減してしまい、思うような効果は上がりません。この辺 に様々な失敗例の原因があると思われます。近年、「まちづくり」という言葉が一人歩 きしている事例や、行政のフィルターとして使われハートのない言葉だけの「まちづく り」が氾濫しているように感じられます。これからは、住まう人々が心から満足しうる、 ハートのあるまちづくりが求められている時代なのです。噂話の行き交う井戸端、楽し 気な子供たちの声、そんな風景の浮かぶ「ハート」のあるまちづくりに携わってみたい と考えています。

西山さんは、当フォーラム・水辺里山空間研究会のメンバーでもあります。原稿を頂 いた後、さらにお話を伺いました。
*神戸真野地区は、公害問題等の住民運動によって、環境を改善してきた。また、昭 和53年に「真野地区まちづくり検討会議」、昭和55年から「真野地区まちづくり推進 会」が発足。市は、この会を条例に基づく協議会として認定し、「まちづくり協定」も締 結している。このように、30年間も「まちづくり」が行われてきたにもかかわらず、人口 が減少し続けているのは何故?
阪神大震災以後の共同立替事業、「真野ふれあい住宅」も、当初は、大広間をコミュ ニケーションの場として考えられていたようだが、「神戸の下町流のコミュニケーショ ン」の習慣にあてはまらず、ほとんど活用されていないという。
「まちづくりには、陰と陽があります。『井戸端ばなしのできるまち』『あまりの清水に魚 は住めない』というあたりが、キーポイントになるような気がします。」と西山さん。



04)
こだわりの湯治学
(新・湯治研究会編) 代表執筆 古川 隆

■ はじめに
先日、しばらくご無沙汰していた鳴子町石の梅「旅館みやま」を訪ね、仲間(9名)と湯 治談義をしてきた。この会は、「新・湯治研究会(世話人 金子)」と名づけているが、コ ンセプトがどうとか、戦略がどうとかはあまり考えていない。むしろ、観光でも、リゾート でも、ツーリズムでもない、「湯治」をもっと面白くするために自らアイデアを出し、自ら 体験しながら、需要を掘り起こすことをねらいとしている。現時点では、まだ材料不足 であるが、いずれ体験学習的に「湯治学」を掘り下げ、今後の集落経営を見守り応援 していきたい。
■こんな「湯治」ができないものか
・体験から学ぶ3つの実践
(1)手作りピザ釜、夕暮れと地ビール
晩餐では、市販の煉瓦60個を積み上げた手作りの釜でピザを焼き、農村の夕暮れ風 景を満喫しながら野外食を楽しんだ。ピザ焼きはなかなかの好評を得て、秋の収穫 祭のテナントとして非公式に要請された。湯治ライフをエンジョイするためには、あら かじめ自作自演の湯治プランを宿主と相談しながら描くことがコツである。
(2)宿の主人を囲んで
湯治談義では、板垣氏を囲む形で酒宴と即席ワークショップを行った。その中の問題 提起は、旧館の湯治客と新館の旅行者の双方のニーズに応えつつ、旅館業を維持・ 発展させていくことができないかというものであった。そのためには、ビジネスとしてき ちんと成立する新・湯治のイメージについて論議する必要があるが、今、重要なのは 旧館の湯治業を質的にも量的にも充実していくために何ができるかということではな いかと思う。また、これまで取り組んできた「まちづくり学校」の課外活動的なクラブを 無理なく立ち上げ、それぞれに実践的なワークショップを進めていくことも有効と考え る。
(3)爺様の手さばき
翌日の自作自演プログラムは、有志による「わらじ」づくりであった。これは、ある意味 で自発的なクラブ活動の実践ともいえる。この体験の指南役で馬場温泉の木工名人 遊佐爺さんは、「昔は山仕事・農作業に備えて準備を怠らなかった」などと解説を加え ながら、手ほどきをしてくれた。弟子たちの手際の悪さを横目でみながら、益々自信に 満ちあふれていく遊佐爺さんの表情が印象に残る。
・体験から学ぶ3つの提案
(1)湯治プランナー
湯治は、農村や都市住民の癒しの場としてだけでなく、よい良いライフスタイルを実 現していくための「生活体験・共生体験」の場として捉え、暮らしに役立つ知恵や情報 を持ち帰れる機会を提供していくことで差別化につながる。そのためにも、宿主は積 極的に湯治プランナーになるべきではないかと思う。
(2)食材調達マップ、風の道「市」
滞在期間中に要する食材や日用品等を地域内で調達できるような「案内マップ」や 「仮設市場」があれば、都市住民はスーパーやコンビニで買い出しする必要がなく、よ り新鮮で安心な食材を手に入れることができる。
(3)土産品開発ベンチャー
生活提案型土産品の開発をしてはどうか。木工名人遊佐爺さんの作業場「遊木舎」 は、まさに私設クラブハウスであり、起業工房になっている。こうした名人技術を組み 合わせて、地域に利益が広く還元されるコミュニティ・ベンチャーを創造していく可能 性もある。
■おわりに
新・湯治ネットを広げ、東北の豊かな温泉文化を守り支えていきたいと考えている。そ のために、クラブ活動(分業制の実行委員会)を立ち上げ、それぞれの活動が無理な く動き出せるよう応援していきたいと思う。次回の「新・湯治研究会」は、秋の収穫祭を 予定している。



05)
都市農村計画研究会第5回シンポジウム報告

都市農研で隔月に開催されている「21世紀の都市と農村の土地利用を方向づけるシ ンポジウム」も5回目を迎える。今回は、『住まいとコミュニティ』という観点から都市部 とその周辺の土地利用問題について議論された。パネリストは、日高見調査設計事 務所所長の宮田猪一郎氏、尚絅女学院短期大学助教授の阿留多伎眞人氏、クリス ロード商店街理事の平賀ノブ氏、長町3丁目町内会副会長の田代一臣氏。

コミュニティの崩壊から社会的問題が
最初に、宮田氏が「個々の土地の使い方を規制したり、有効利用したり、考えたりする 鍵を握っているのは地域社会です。地域社会が、自治力のないコミュニティになった 結果、高齢者、子供の教育など様々な問題が解決できないままになっている。」と問題 提起。それに伴って、人口問題、商店街の空洞化、自動車交通の増加、郊外化現 象、地場産業の崩壊、ひいては地域文化の消滅等、悪循環を引き起こしていることが 浮き彫りになった。

コミュニティ再生は人間関係の再生
阿留多伎氏は、コミュニティは「時間を共有する社会関係」と定義した上で、
その再生に、(1)自分の地域を知って、その情報を共有する中で人間関係も築いてい けるようなソフト先行の居住地再編成システムの構築、(2)本音を語り合える関係から 築きあげる住民の主体性、(3)愛着の持てる住まいづくり、まちづくりの必要性を提 示。
それを受けて、平賀氏が、市民参加型に向けて取り組んでいるクリスロード商店街の 意気込みと活動について語った。
私有財産権を超える取り組みへの模索
一方、田代氏からは、「長町の建物の老朽化は著しい。しかし、土地の形状が短冊状 であるだけでなく、一つの土地を2〜3人で所有しているため、合同利用に向けたプロ セス(参加の動機づけ、場づくり、問題意識の共有)が難しく、建て替えを困難にしてい る」と、建て替え問題に絡む具体的事例があげられた。その後、会場も含めて、様々 な方向から解決策が模索された。
その一つとして、住宅建て替えに向けた共同化への試みがあげられる。
しかし、会場から、その地域の生活様式や習慣までリサーチしていないと共同化は難 しいという声も。建物の権利関係と採算の問題、建物を区分所有した場合の共同管 理の可能性など、まだまだ課題は多そうだ。
いずれにせよ、住民自らが、利害を共有する別な枠組みを持ち、管理できた上で、土 地の利用、居住スタイルを根本から変えていく理念と実現プロセスが明確でないと、 コミュニティの方向性も出てこない。今後、住宅のあり方も含めて、これからの社会の 中で「住まいとコミュニティ」を、どう組み立てていくかが問われていくことになる。

以下、シンポジウム参加者の感想から一部抜粋
・資産継承と、知らない人同士で支えあうシステムが必要。それには、日頃からの顔 の見える関係づくりが大切。
・ゾーニングそのものが、住まいやコミュニティを形成していくのではないか。
・日本が土地を担保に経済活動をしている間は、圃場整備時に土地の共有化が(農 地においても)うまくいかないと思う。
・コミュニティの中で、調節システムをつくることが必要。
・個性が重視され、価値観も多様化している時代、時間等の共有がますます難しくな るのではないか。
・土地は境界線のままにして、建物を区分所有するという考え方がある。
ほか。(報告者安部)



06)
研究会報告 アースワークス研究会

プチファームの実現に向けて
今年度は、坪沼の農家・佐藤さんの1600平米の農地で、研究会員自らが畑作業を実 践することとなった。その目的は、遊休農地の有効利用にある。
現在、農村では、高齢化や担い手不足などにより、遊休農地が増えており、その保全 と有効利用が課題となっている。一方、都市に住んでいる人の中には、安心して食べ られる野菜を自分の手で作りたい、週末だけでも気軽に農業に携わりたいと考えてい る人たちがいる。この農村と都市、両者のニーズを結び付ける形で、農家と農地を借 りる側のグループがユニットをつくり、1つの地域内に散在する「プチファーム」という市 民農園を実現していきたいと考えている。今回の坪沼での取り組みは、そのモデルケ ースとして位置づけている。
私たちは、坪沼のプチファームで、研究会員の家族、友人たちと共に6月に苗植えを 行い、その後も、協力しあって草取りや水やりをしている。つまり、農業をやりたい人同 士(友人、家族規模の小単位グループ)がいくつか集まって、遊休農地を借りて協働 で農業をやっている。畑には、小単位グループと共同のスペースがそれぞれある。借 り手は、グループ内で助け合い、協力して管理することができる。また、“畑で一服”と 称して、苗の植え方や水やりの方法などの簡単な農作業の仕方を教えてもらう等、農 家と直にコミュニケーションを図る時間も設けている。収穫時には、都市部の親子に呼 び掛けて収穫体験をしてもらったり、近隣農家の方々も交えての収穫祭(芋煮会、直 売など)を予定している。つまり、プチファームは、遊休農地の有効利用というだけでな く、畑を舞台に、さまざまな交流が期待できるのだ。また、農地所有者と利用希望者 (都市住民)をつなぐきっかけにもなる。
また、今年度は、『みやぎNPO活動企画コンペ』で県の助成を受けられることになり、 実践していく中で生じた問題点や、都市、農村両者の意識のずれ、農作業の簡単な ノウハウなど様々な情報を収集し、事例集にまとめる予定。将来的には、この事例集を 基に、「農家のためのプチファーム経営ハンドブック」を作成する。今回のモデルケー スをきっかけにして、プチファームが県内各地域へ拡大、発展していくことが望まれ る。



07)
研究会報告 里山水辺空間研究会

7月22日・23日の両日、秋保里山学校を開催。
そもそも、水辺・里山という環境は、人里と山地との接点に立って多様な生物の生息 空間(ビオトープ)を形成しており、自然に学び自然を活かす「総合的学習」の場に適し ている。「水辺里山空間研究会」の活動は、こうした里山ならではの環境体験教室を 通して、自然や環境保全に対する意識の向上を図るとともに、地域住民も今まで見過 ごしてきた里山の良さ、活用法を再認識するきっかけをつくることを目的としている。
今回の「秋保里山学校」というプログラムでは、(1)里山学校の時間割を、様々な立場 の人たちと一緒に作り上げる。(2)総合的学習の時間に応用できるような教科書づく りを考慮に入れる。(3)地域の特色を活かした時間割づくりを目指す。(4)関わった人 たちの意見、思いを最大限取り入れる。・・・を目標としていた。

当日の天気予報は、曇り。台風も近づいているという状況。前日の夜まで開催を危ぶ んだが、いざフタを開けてみると快晴。天候にも恵まれ、大成功に終わった。当日の 参加人数は親子24組80名、スタッフ延べ30名。その他、前日までの準備、当日の炊 き出しも含めると開校に至るまでに関わってくれた人数は、50名を越える。気負わず、 各自できる範囲で、楽しく参加を、という趣旨は充分に達成できた。
以下、開校までの経緯。
実行委員会は開校まで、4回実施。
5月16日(火) 第1回秋保里山学校実行委員会。
実行委員の顔合わせ。
「秋保ならでは」の時間割を作るために現場を視察することに決定。視察は5月21日 (日)、5月27日(土)の2回実施。
5月31日(水)第2回秋保里山学校実行委員会。
現場視察をふまえて、時間割の題材を出し合う。
授業方針は何か。里山保全の趣旨はどこに置くのか、など、実行委員の中から意見 が出る。
6月13日(火)第3回里山学校実行委員会。
実行委員から寄せられた時間割の案などを取りまとめた結果、時間割は全部で4つに まとめられた。
1)1日目、午後。コミュニケーション授業
自己紹介ゲーム、フィールドビンゴ
参加者間の交流、会場内の把握もさることながら、各自が興味をもって「自然」に目を 向けてもらうための家族単位でのコミュニケーションゲーム。
「ぎざぎざしたもの」等のキーワードを記したビンゴカードを使って散策する。発見した ものをスケッチしてもらい、卒業文集やガイドマップ作成につなげる。
2)1日目、夜。夜の里山体験授業
耳をすまして動物の鳴き声を聞く、星空観察など。
闇の中で、「自然」を身近に体感する。
3)2日目、早朝。朝の里山体験授業
はじめて探し、草笛遊びなど
各所に、鳥・魚・石・草花・昆虫などの《達人》を配置。遊び感覚を取り入れながら、自 然を学ぶ。
4)2日目、午前。ものづくり授業
石ころアート・リース・木工作など、「自然」を活かした夏休みの作品づくりをする。
その他、竹飯盒づくり、川で洗ったイワナの串刺し、秋保の自然農園からの野菜の収 穫なども取り入れる。
これらの授業は、知識の習得よりも、体感してもらうことに主眼を置く。また、一コマの 授業に何人かの『達人=先生』を配置し、参加者の興味、関心度に合わせて柔軟に対 応することとした。
7月3日(月)第4回実行委員会。
時間割の確認。スタッフの役割分担。
7月15日(土)模擬里山学校。本番を一週間後にひかえ、参加者が充実した2日間を 送れるように、スタッフによる模擬里山学校を実施。

〜多くの人たちのサポート〜
先に延べたように、今回の秋保里山学校には、開校に至るまで多くの方々のサポート があった。
秋保里山実行委員会。
開校のための準備委員会。様々な立場の方が実行委員として参加。
当日スタッフ。
運営や、講師としての参加。小学校の先生にも参加していただく。「プロ」の方々だけ でなく他にも各々得意分野で、楽しみながら参加。参加者の親子からは、「専門的な 話が分かりやすく聞けて、自然に対しての興味が深くなった」との声あり。
縁の下の力持ち。
秋保地区の方々が応援。あきう6000、野尻町内会婦人部等、秋保地区の方々にも、炊 き出し、会場設営など縁の下の力持ちとして協力していただいた。
メーリングリスト。
前年度発行した「仙台の自然おもしろ不思議発見ガイドマップ」の編集の際にお世話 になった方々を中心に電子メールで情報をやり取りしているが、今回の開校に至るま でも、議事録、疑問点、進捗情報などを随時流し、専門的バックアップとして適切な アドバイスをいただいた。

初対面のスタッフも多かったが、あらかじめ行動計画書に目を通していただき、スム ーズに事を進めることができた。参加者からも、「仙台にこんな自然が残されていたこ とを知り驚いた」などの感想がよせられている。
これからの作業としては、『卒業文集づくり』。これは参加者からの感想や、当日描い たものなどを文集に仕立てる。その後、『面白ガイドマップ秋保編』につなげる。どのよ うにしてつなげるかは、今後研究会で検討していく予定。
可能ならば、地域の小学校と協力して、総合学習の教材として作っていければ ・・・と考えている。