2001年8月号

01)論点「不良債権」問題と地方都市のまちづくり
02)事例報告1 岩手県遠野市
03)事例報告2 宮城県大河原町
04)まちフォニュース
05)研究会動向 都市農村計画研究会
06)研究会動向 アースワークス研究会
07)あぜ道小径 宮城県若柳町



01)論点
「不良債権」問題と地方都市のまちづくり
まちづくり政策フォーラム理事 阿部重憲

 景況悪化、地価・株価の下落の下で、「地方都市はどこに向かうのか」は待ったなしの問題である。まちづくり戦略のない地方都市は駆逐されるというのが実感である。しかし、軸足のすわったまちづくりは少ない。相変わらず中央政府による「公共」の独占と、大企業の市場支配の中で地方都市・中小企業はあえいでいる。
「構造改革」の正体は?そして離陸できるのか。しかしその目玉である「不良債権の早期最終処理」が本格的に稼働する。言うまでもなくこれらの主役は、円高・ドル安を操縦している「日米構造調整」という怪物だからである。特に「不良債権処理」は、いわゆる外資系「ハゲタカファンド」のターゲットとなっている(旧日本長期信用銀行(現新生銀行)のケース等)。この“マネーゲームに預金・年金を”という構図も描かれている。いずれにしても「不良債権の最終処理」の幕は切って落とされ、大手銀行、大企業のためのセーフティ・ネットの構築(公的資金注入、債権放棄、銀行保有株式の買い取り等)も最終段階を迎えつつある。この一連の動きを時系列で追うと、いわゆる「護送船団方式」は進化・特化し、前記の怪物に国家が乗っ取られていることが再確認できる。
「不良債権の早期最終処理」は地方都市=中小企業を直撃する。この「最終処理」による失業者(非自発的失業者)をめぐっては様々な試算が紹介されているが、「構造改革」を推進する側の民間調査機関の予測でも100万人を超えている。内閣府の試算でも離職者が39〜60万人(直接償却など)となっている。仮にこの100万人を中小企業と想定し、一社当たり5人とすると20万社に相当する。また、人口3万5千人の中小都市の二次・三次産業就業者を1万5千人とした場合、60都市以上の二・三次産業就業者が宙に浮く?ことになる。NPOを受け皿になどと考えているようであるが言語道断である。
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景気低迷で「不良債権」が増えており、ここにきて地方銀行・第二地銀の占める割合が高まっている。
いよいよ地域金融・産業と地方自治体の連携が避けられない事態だ。口先だけの懸念表明は誰でも出来る。不況は、完成直後の市街地再開発ビルの売却、土地区画整理事業のとん挫にもあらわれている。“実力”以上の都市化が「不良債権」の拡大要因ともなっている。ここまで追い込まれているのに都市化を凍結できない自治体も多い。ある地方都市の典型的なケースであるが、旧来からのまち中の経営拠点を資金借り入れの担保に、郊外のバイパス沿い、工場・卸売団地に新しい拠点を移した。しかし、まち中の資産は地価の下落によって「担保割れ」、不況による「業績不振」そして「破たん」。「破たん」しても直接償却ができない。これが活性化事業の障害となっている。この連鎖がまち中の廃墟化に拍車をかけている。「不良債権の最終処理」で個人住宅ローンにまで「破たん」がおよび、少子化と相俟って都市全体の廃墟化が推測される。
これと向き合うことのできるまちづくりビジョンと戦略がないということが危機なのである。意志薄弱の「○○マスタープラン」は山積みされているが…。
いずれにしても様相は、終わりなき「最終処理」になりそうである。この中で「貸し手」と「地方行政」の結果責任のとり方とまちづくりをどのように結びつけていくかが鍵である。この両者には「不良債権」「優良資産」の情報が集中し、危機管理が可能な立場にある(守秘義務があるが)。例えばまち中の再生に際しては、「不良債権」「優良資産」の分布状況、性格について詳細な分析を行い、都市の再生目標に沿った「正常資産」保有者への協力要請、「不良資産」を「正常資産」にするための事業の絞り込み、「不良資産」の償却方法の選択とコーディネイト、優良企業・テナントのリーシング等、そのための機関連携の組立、投資マスター・プログラムの作成等々やれること、いややらなければならないことは山積している。これらを拒んでいる慣例・仕組み(その多くは「貸し手」と「地方行政」の内部に存在する)はダイナミックに改革し、現実と向き合う計画・事業を組立てて行く。もちろん市民提案の仕組みも構築されなければならない。これらときり結びのない思考停止状態の中心市街地活性化基本計画やTMO計画等は機能するはずがない。今、危機感と関係機関の結果責任のすり込まれた計画・事業の構築が求められているのである。
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「構造改革」は徹底した市場原理の導入にある。都市・地域自体はマーケット・プレイスではあるが、市場(しじょう;いわゆる株式市場等)ではない。裏返せば「非市場」なのである。その理由は簡単で、都市・地域は動かすことが出来ないということである。今、このローカルとういう「非市場性」をみがくことなしに市場の持続もないということに気づきはじめている。都市や地域という「非市場性」は人、歴史、自然によって構成される。ひとことで言うと近代化以前の自然(じねん)という概念にでも該当するのだろうか。
この「非市場性」(社会的共通資本)に係わる概念は、その都市、その地域固有のものなのであろう。しかしこの「非市場性」を活かす集客、回遊、滞留、居住等に関するポリシーやビジョンが希薄である。また、これらを志向する戦略が明確に読みとれるまちづくりは極めて限られている。地方都市は、「非市場」を磨くまちづくりシステム(条例に代表される)の時代に突入した。国益本位の画一的でルーズなシステムに身をゆだねるのか、創造的なシステムを構築していくのか、その選択が迫られている。どのような優れたプロジェクトにもその生命がある。そして都市全体あるいはもうひとまわりひろい広域圏のありようと共生しているほどその生命力がある。多くの都市で創造型の各種のまちづくり条例が制定されてきているが、まだ計画誘導の域を出ていない。地域産業セクター関係者に言わせると「観念的だ」という厳しい指摘もある。プロジェクトそのものを生みだし、計画誘導された空間や事業を持続させて行くためには、産業再生が欠かせない。例えば「住まいとまちづくり」「高齢化とまちづくり」等について、既得権益と距離を置いた、より本質的で身の丈に見合った論議を進めていけば道はある。
地方都市自らの「構造改革」とは、産業再生・振興と一体になり、市場をコントロールできる“骨太”のまちづくりシステムの確立である。このシステムをつくるためには国家と地方都市のありように係わる自治体独自の戦略が欠かせない。
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7月にイタリア北西部ジェノバ・サミットが開かれた。「市場経済のグローバル化を成長の糧として先進国は、そのひずみにいつまで耐えられるのか−。(中略)グローバリゼーションの「影」の部分に真剣に向き合わなければ、その成長の「糧」を守れない時期が来たことを示している」(朝日新聞、7月22日朝刊)という指摘を、地方都市はどう捉え、何を軸足に、どう行動するのかにつきる。
(まちづくりコンサルタント経営、2001年8月4日記)



02)事例1
過去を見つめ、そして未来へ
『遠野物語』を題材にしたまちづくり

遠野市はJR東北線花巻駅からローカル線で約1時間、東に入った北上山中にある、人口流出のやまない過疎の町である。
遠野市では、昔ながらの自然や街並みの景観を次の世代に伝えるため、平成8年に景観条例基本方針を制定し、住みよいまちづくりを進行中である。また、遠野市総合計画「トオノピアプラン」は北上山地の自然が息吹く永遠の田園都市づくりを目指し、遠野が理想郷になるよう願いを込めたものである。その背景にあるのが民俗学者柳田国男によって世に出された『遠野物語』だ。
山里には珍しき繁華の地なり???と『遠野物語』に記された遠野。心の文化とも言えるこの作品に習い、伝承を大切に守り育ててきた先人の精神を次の世代に伝えていこうという意図が「トオノピアプラン」にはあるという。では、実際に住んでいる住民にとって『遠野物語』は本当に心の文化(=地域資源)として認識されているのだろうか? 10数年間、『遠野物語』を題材に「常民大学」を運営してきた小井口有氏(まちフォ通信会員でもある)の取り組みをレポートする。

<ふるさとへの危惧>
「経済を支えていくには何もなかった。ただ『遠野物語』があった。言い換えると、遠野には『遠野物語』しかなかったんだね。」
小井口さんは高校を卒業後上京。東京の大学を出て、大手企業に就職。新技術の開発などの大型プロジェクトをいくつも手がけ、海外での商談もこなすなど、「バリバリの」企業戦士だった。
そんな彼が、家業を手伝うため、昭和59年にふるさとへ戻った。約20年ぶりに戻ったふるさとは何も変わらず、逆にその変わらなさがふるさと衰退へのシグナルのように感じられたという。
昭和45年の岩手国体を契機に「民話のふるさと遠野」では、施設などの充実が図られてきた。伝承園にたかむろ水光園、遠野ふるさと村など。観光都市としてのイメージは定着しているが、年間の観光客は延べ50万人前後と意外に少ない。
遠野という街は「民話のふるさと」とか『遠野物語』というイメージが定着しているが、観光で地域おこしをしていくならば、そこにすむ人間が『遠野物語』という文化商品の本当の良さを知らなければ、遠野の良さが失われてしまうのではないか、という切なる思いが小井口さんの心の底にあった。また、若い世代がどんどん遠野から流出する現状にUターンした自分自身を重ねて「若い人たちが住みたいと思える遠野になるためには『遠野物語』を勉強して、自分の住んでいる地域の良さを理解し、子どもたちに伝えなくてはならない」とも、考えていた。

<『遠野物語』を商品に>
帰郷後数年間、青年会議所運動に参加したり、県の地域づくり連絡協議会に名を連ねるようになり、地域に根ざして生きていく事の大切さを身にしみて感じるようになった。そんなときに出会ったのが「常民大学」だ。
常民(common people)とは、柳田国男のいう「田畑を耕しながら伝承を手段に、祖先を敬ってきた人」、つまりは生活者を指す。生活者として地域に生きようと考えていた小井口さんにはぴったりとくるものがあったという。
昭和62年「柳田国男ゆかりサミット」が遠野市で開催され、柳田研究の第一人者・明治大学教授の後藤総一郎氏が招かれた。柳田国男が説いた地方主体の国づくり、人づくりの実践として全国9カ所に常民大学を開講してきた後藤教授は、「日本の民俗学の出発点になった遠野。その遠野にしかできないことは何か」を会場に問うた。このとき小井口さんは、「常民大学が『遠野物語』の文化商品としての価値を学ぶ場になり、観光遠野として『遠野物語』を商品にする手だてになる」と思ったそうだ。
「『遠野物語』を商品にするためには正しい理解が必要。柳田学を柱とした常民の学びを目指し、異業種、異世代の集まる広い学びの場を持つことにより、これからの遠野でより確かに生きていく方法を考えられるのではないだろうか」という呼びかけに青年会議所を中心とした民間人、若手行政人が賛同し、常民大学運営委員会が設立され、同年8月、市民による柳田学の研究グループ・遠野常民大学が開講した。

<常民大学の開講>
「10年間続けよう」という決意のもと、年度ごとに4月から翌年1月まで月1回の講義を開講。そうそうたる顔ぶれの著名人や研究者を招き、柳田学や『遠野物語』の解説に耳を傾けた。講師招へいの費用は聴講生が出す手弁当方式がとられた。
「身銭を切らないと、自分のものにはならないからね」と、小井口さんは答えるが、年間2万円、10年で20万円の出費は決して少ない金額ではない。このことからも真剣に学び、遠野の未来を考えていきたいというメンバーたちの意気込みが見えてくる。

とはいえ、すべてが順調に進んできたわけではない。特に、経済的な面では幾度となく悩まされてきた。まず最初にぶち当たった壁は受講生が激減したために、受講料収入が少なくなってしまったことだ。原因は、当初は講師からの一方的な講義だった講義も3年目から、いよいよ自らが『遠野物語』を読みレポートをするようになったために負担になり、やめていく人が多くなったからだ。この危機を救ったのが、記念イベントだった。

<イベントを通して>
地道な注釈研究とレポート作成が続けられる一方、平成元年夏には、全国の常民大学が遠野で合同研究会を、翌2年には『遠野物語』発刊80周年記念イベントを開催した。記念講演には吉本隆明氏(詩人・評論家)を迎え、全国から150名が参加した。盛況に終わったとはいうものの、このような講演では事業として採算がとれる訳がなく、県や市の援助を得てどうにか開催されたという状況だった。
しかし、この催しに全国から150名もの参加があったということは、観光ブームと足並みをそろえたお祭りイベントだけが地域おこしの手法ではないと確信する決定的な出来事でもあった。以来、夏を中心に大規模な学術イベントを毎年継続的に開催。これらのイベントのテープ起こしをし小冊子を作り、有料頒布することで収入を得、常民大学の運営を続けられるようになった。

<学ぶためなら、泊まる>
外部から講師を迎えて勉強するうちに、メンバーたちには自信のようなものが芽生えてきた。遠野物語という商品の良さがわかってきたということだろうか。また、学習を続けていく中、民俗学の研究者との交流が生まれ、単発で行ってきた講演会を、平成6年からは民俗学研究の発信地としての拠点作りと地域活性化を目指した『遠野物語ゼミナール』として開催するまでになり、3泊4日(現在は2泊3日)の日程で大学生を中心に全国から100人を超える聴講生を集める恒例の事業になった。
ゼミナールは、すべて手作りのおもてなしを原則として、遠野市内のほかの学習団体の協力を得、さらには普段の勉強会にはなかなか参加しない若い人たちにも登場してもらい、受講者との交流にも参加の機会をつくるなど、小井口さんの気配りが見られる。また、修了証には絵馬を用意。受講した学生が何年かたち家庭を持ったときに、絵馬を見ながら子どもに遠野の話をしてくれる事を期待しながら・・・。
こうして、観光では泊まらないが、学習なら泊まる、お祭りイベントでなくても人は集まるのだという事実がメンバーのさらなる自信となった。

<研究機関へ発展>
平成7年。学術を中心とした地域おこしの試みは、さらに官民一体となった「単なる観光ではなく、地元で遠野を学ぶ民俗学の拠点に」と「遠野物語研究所」という総合的な研究機関を生み出した。常民大学運営委員会を中心にした市民団体が連携して、遠野の民俗文化の拠点施設ができたのだった。
研究所は、常民大学や遠野物語ゼミナールを続けていく中で、遠野物語に惹かれ訪れる学生や研究者たちがお互いに交流、情報交換でき、体系的に研究成果をまとめる拠点の必要性を痛感した常民大学運営委員会が構想をまとめ、市に提案。市では事業費として予算を計上、「とおの昔話村」内に事務所を設け案内役の職員を常駐させるなどのハード面を整備、運営は常民大学運営委員会を中心とした民間ボランティアが主体となって進めることになった。また、今まで常民大学で行ってきた「遠野物語ゼミナール」は研究所で開催されるようになった。

<活動の成果品として>
活動も8年目を迎えたころからメンバーが毎週金曜日に集まってレポートをまとめる作業が定例になった。根気よく物語119話すべての単語を拾い、一字一句検証して固めていく注釈作りも進むうちに、新たな発見があり、何物にも代えがたい蓄積となっていった。そうして、平成9年、それまでの常民大学の集大成として『注釈遠野物語』を発行。それまで遠野は『遠野物語』という優れた文学作品の単なる背景にすぎなかったが、『注釈遠野物語』が誕生したことにより、その立場は逆転したともいえる。ようやく、遠野の人々が『遠野物語』を地域資源として学ぶことの出来るテキストが誕生したのだ。100人をこえる話者への聞き取り調査によって『遠野物語』の中の登場人物の系譜や伝承、遠野の歴史・地名・ものの所在・信仰などを現代の遠野のなかに緩やかにつなげたことは、地元ならではの活動と研究者から絶賛された。
「地域が主権を持つには、その土地固有の文化しかないんです。どこのまちにも題材はあるはずなんです。私たちの試みは、どこのまちにも当てはまる一つの方法だと思いますよ」と小井口さんはいう。
「遠野常民大学」の活動は学術研究にとどまらず、「常民」の声をまちづくりに反映させていくなど行動的ですらある。『遠野物語』が何を意味するのか。物語を生んだ背景には、どんな風土が広がっていたのか。物語を掘り起こし、今に通じる何かを見つけようとする常民大学運営委員会の活動は、地域おこしの具体例を提示しているといえよう。
『注釈遠野物語』の出版をもって常民大学は終了したが、このまま終わらせてしまうのは惜しいと、平成10年から第2期が開講した。常民大学では、さらに柳田の思想を深く知ろうと、柳田の著書『都市と農村』を中心に、これからの地方のあり方を考えていこうとしている。

<遠野ツーリズムとして>
小井口さんは、こうした活動を続けていく中でさまざまな地域おこしの手法を知るようになる。中でも、グリーンツーリズムの思想やNPO法が施行されるという時代的流れも、無視できない。
平成6年に当時秋田県立農業短大助教授の青木辰司氏(現在は東洋大学教授)が主宰する第1回東北グリーンツーリズム・フィールドスタッフミーティングが遠野市で開催された。そこで、小井口さんは自分たちの活動を「遠野スタディツーリズム」として報告。遠野ならではの滞在型余暇活動のあり方を「遠野物語ゼミナール」が示していると論じた。
その当時、遠野市では、その自然や風土に惹かれ移り住むIターン者と呼ばれる人々の活躍が見られ始めた。Iターン者らが中心になって地域情報発信誌が発行されたり、グリーンツーリズムの拠点施設として「遠野ふるさと村」や「フォルクローロ遠野」が開業するなど、グリーンツーリズムが胎動し始めた時期でもある。
この二つの流れ、スタディツーリズムとグリーンツーリズムの発生はそれぞれ違う場所ではあるが、その根底に流れるものは先人から受け継がれてきた「遠野」という切り口であるという共通点から、「遠野ツーリズム」という新たな概念が提唱されるようになった。
遠野ツーリズムがどういうものか、その実体について深く議論するにはまだ至っていない。しかし、「遠野」には先人より脈々と受け継がれてきた地域資源があり、育んできた風土がある。それが、『遠野物語』のなかに記されていたり、伝承として残されている。学ぶか、体験するかというのではなく、学ぶことも出来るし、体験することも出来るという選択肢の幅の広さは、今後の展開に大きな味方となるだろう。(この辺の所はまた、機会を改めて報告したい)


<新たな模索を>
平成9年に発行した『注釈遠野物語』の成功により、常民大学運営委員会は運転資金が確保された。「常民大学」の将来像として「セミナーハウス」の設置やNPO法人化も視野に入れ始めた小井口さんであったが・・・。
その一方で常民大学の活動は、停滞気味になったのも否定できない事実だ。遠野物語研究所が常民大学のメンバーと重複し、独自の活動が制約されたことも一因だが、それ以上に調査研究が深くなるにつれ新規加入のハードルが高くなってしまったことが最大の要因になっている。
また、「セミナーハウス」の設置については、遠野市がふれあい交流館という位置づけでこの夏、市街地に「あえりあ遠野」というホテルを開業するに至った。遠野物語を学びに来る学生、研究者のためのセミナーハウスというよりは広義の交流館となったわけだが、1泊8000円からという値段が果たして連泊する学生に適当だろうか。小井口さんは疑問を投げかける。
「『遠野物語』という歴史をひもといたということは先人の歩みを検証したということです。自分たちはこの先、次世代の子どもたちの中から素晴らしい人物が輩出されるような土壌作りをして行かなくては・・・。」という小井口さん。
今年度、小井口さんは常民大学運営委員会の委員長の席を降りた。小井口さんたちが学んだ『遠野物語』の商品価値を次の世代に受け継ぐために、模索の時期に入っている。



03)大河原町の地域づくり Part2
「百の大義名分より一つの行動を」

 昭和30年代までは仙南の商都として栄えていた宮城県柴田郡大河原町。昭和40年代に到来した車社会で仙台への一極集中が進み、50年代には国道4号線沿いに中央資本の大型店舗が林立して人の流れは激変した。そうした背景のもと、地域の活性化に向けたさまざまな立場の取り組みが続いている。前号では公共の場を生かしつつ、黒子に徹する「仙南芸術文化センター」の「人づくり」の事例を報告した。今回は、町民の取り組みとして2つの事例を紹介したい。

1、地元商店の後継ぎ世代たちの動き/地域の課題をビジネスに 
国道4号線沿いの一角、仙南芸術文化センターの北向かいに、デイサービス施設や授乳室、インターネットカフェまであるちょっと風変わりなショッピングセンター「フォルテ」がある。地元商店の後継ぎ世代たち14人が100万円ずつ共同出資し、地域の課題=町民ニーズに応えるために造った店舗面積22,018平方メートル、マーケットエリアは10キロメートル圏内で8市町にまで及ぶという大型店舗である。

<地域の課題は地域で生きる自分たちで>
平成2年、斎清志氏(現在、株式会社エフ・エフ・オー代表取締役/フォルテ代表)を中心とする大河原青年会議所のメンバーは、「周辺環境の変化に対応していかなければ、地域の活性化など図れない」と話し合いを重ねていた。折りしも、町の意識調査で、町民が求めているのは「医療施設」と「憩いの場」だという結果が判明した。「車社会だ」「仙台に行けば何でもある」とは言え、ウラを返せば、町には要求を満たすだけの場がないということである。それならば、自分たちの手で「憩いの場」的な商業施設を造ろうということになったそうだ。
しかし、「挑戦する姿勢こそが可能性を生む!」とやる気はあっても、金も力もない彼らの前途は多難だった。初めは、周りになかなか信用してもらえず、出資した14人のうち5人までが去るというつらい状況もあったと、齋さんは当時をふりかえる。
とにかく、「何をやろうとしているか」の説明や説得、協力の要請をコツコツと地道に続けたという。3世代前までも知り合っている地域内だからこそ、その丁寧さが必要となる。まず県庁、次に大河原の町役場、ロータリークラブ、PTAの会合、そして銀行・・・と、平成6年にオープンするまでの2年間ほど、齋さんは毎日「通いまくった」そうだ。役場では、毎朝8時30分になると顔を出すので、「8時30分の男」という異名までついた。

<人の意識が変わる状況づくりを>
「フォルテは柴田町、村田町、大河原町の結節点なんだ。仙台駅へは車で1時間だし、仙台空港までは30分という地理的ポテンシャルが高い。これから、もっと地域の需要に応え、拠点としての質を高めていけば、周りの施設や市町村との相乗効果が生まれたり、地域の中に新しい動きが出てくるかもしれない。たとえば、デイサービスの利用者移送のためのボランティアグループができるとか・・・。町の中央を流れる白石川の両岸の“一目千本桜”を活用して、地域のおばちゃん方が作ったものをフォルテで売るなんていうのもおもしろそうだね。そうなっていくと嬉しい。」と語る齋さん。「地域が自立していくには、人の意識が変わる状況が必要なんだ。」という言葉が印象的だった。


2、中心商店街のおかみさんたちの動き/空き店舗を「おにばばはうす」に
国道4号線沿いの賑わいから外れた大河原町の中心商店街は、延長約350メートルに小売店24軒、サービス業25軒、各種事業所12軒に空き店舗が15軒。商店街協同組合が平成3年に自前で作った活性化計画も何一つ着手できず、あきらめムードと空き店舗だけが増加し、中心市街地の空洞化と呼ばれる状況が拡がりつつあった。

<百の大義名分より一つの行動を>
平成10年、当時、国で打ち出していた「中心市街地活性化法」をめぐって、町が作成する「大河原町中心市街地活性化基本計画」の制度説明会の席で、この商店街に異変をもたらす動きが起きた。出席していた商店のおかみさんの一人が、「もう計画とか勉強会なんて飽きたんだわ。活性化なんて5年も10年も先のこと。私たち、歳なんぼ(何歳)になると思ってんの? 今まで、旦那方に任せて何にもできなかったんだから、今度はおかあちゃん方でします。」と爆弾発言。その場にいたおかみさん方が会員となり、大河原町役場商工観光課(当時)の木村淳一さんが、制度説明会の担当者として責任をとる形で、「商店街レディース会」が結成された。
木村さんにしてみれば、基本計画を作るにあたって「ソフト事業の目玉になるのではないか。再び活性化運動が盛り上がるかもしれない。」という予感があったそうだ。まさに、「棚からぼたもち」。
平成11年7月に会の設立総会を開催して以来、すぐに「歳も歳だから(!?)できることから始めっぺ。」と、?手作り七夕を38年ぶりに復活、?商店街をラベンダーや季節の花々のプランターで飾る、?空き店舗を楽しいことに使うこと等の活動が始まった。

<何を大事にして活性化させたいのか>
「今や商店街としてはおろか、危険で寂しい地区になってしまったけれど、嫁に来た時は仙台に次ぐ七夕、夏の花火、そして初売りと買い物客で賑わい、私たちも誇りをもって働いていた。もう一度、自分たちの誇りをとりもどしたい。」と会長の高橋佑子さんは語る。しかし、集客数をあげることだけが「誇り」につながると考えているわけではない。「孫に、じいちゃんやばあちゃんが頑張ってまちづくりしたんだと自慢したい、お客さんからきれいな街になったとほめられたい。やって良かったと実感がほしいだけ。たしかにねえ、街に人の流れをつくるのが先決だとか、自分の店の売上につながらないのなら無駄じゃないかというご指摘も受けるんですよ。でも、まずは商店街をPRできたし、学校や地域の人たちと交流が生まれた。それに、自分たちにも自信が持てた。もちろん、レディース会の最終目標は、女性の感性と行動力を活かしたまちづくりのプロデュース役に発展して、ハード事業も含めた“誇りに思えるまち”を再生することなんだけれどね。」しかし、「継続は難しいわ。」と、しんみりした口調になる高橋さん。昨年、仕掛人であり伴走者でもある木村さんの異動に、メンバーは意気消沈した。それに、家業や家事、孫の世話、介護等々の個々の事情が大きく影響する。「正直言うと、日々のことで精一杯。活動にまで手が回らない。」のが現状だとか。そう言いつつ、「実働部隊としても広告塔としても、まだまだ活動を続けていかないとね。」と力強く笑った。

<空き店舗活用・その名も「おにばばはうす」>
会が設立した年に始まった空き店舗活用事業の店舗名は「おにばばはうす」。ユニークなネーミングは、木村さんが「しゃれにならない」と没にしかかっていた案を、インパクトの強さであえて決定したそうだ。最初の約1ヶ月間に及ぶ実験事業は、地元の高等学校の出店協力や各種講座開催等で賑わい、大成功を収めた。それが、「宮城県空き店舗有効活用モデル事業」による県の支援につながり、通年事業へと発展していく。
現在は、事業として2年目を迎えている。今年の目玉は、町の生活改善クラブがとれたての野菜を販売する「ばばちゃん市」と、町の社会福祉協議会が支援し、ボランティアグループが運営する「ほのぼの喫茶」。こうして「おにばばはうす」は、商店街と農家、地域のお年寄りたち等、新たな交流の場となっているようだ。
今や中央通り商店街では「おにばばはうす」を拠点に、さまざまな人が集まり始めている。時には後戻りもしながら、しかし、たしかに地域自体が動き出している。(報告者:安部優估)



04)まちフォニュース
新規プロジェクトスタート!

その?
今年度、財団法人日本ナショナルトラストより、「東北地方における都市間連携による広域観光圏整備計画調査〜地域文化財や歴史的特性を活かした広域観光圏づくりに関する調査〜」を受託している。
本調査の目的は、地域文化財・歴史的な資源や特性を活かし、JR、地下鉄、バスなどの公共交通網を利用した広域観光圏づくりにある。その解決の糸口として、都市間連携による広域観光の可能性を探ろうというもの。
広域観光とは、なかなか対象とする範囲を特定しにくいが、今回のケースでは仙台市に通勤・通学する範囲としている。観光については従来のスタイルにこだわらず、住民が公共交通を利用して通勤・通学する過程で最寄り駅周辺の魅力を発見したり、公共交通を利用して日帰り散策できるようなイメージ。つまり、外部から観光客入り込みを期待するのではなく、広域内で観光客を増やし、それぞれの駅周辺で特色ある地域観光を実現できないかというもの。
まちフォとしては、かねてから、都市農村計画研究会や交通を考える研究部会で交通問題が関心事であったため、本調査を受託するに至った。また、日本ナショナルトラストがNPOに依頼した背景には、地元情報や人的なネットワークの活用による提案を期待してのこと。
調査対象となるモデル地域は、?多賀城駅(JR仙台石巻線)、国府多賀城駅(JR東北本線)周辺、?塩釜駅(東北本線)、本塩釜(仙台石巻線)、西塩釜線(仙台石巻線)周辺、?霊屋・瑞鳳殿入口停留所(仙台市市営バス)周辺の3箇所を選定した。これからの作業としては、?モデル地域の既存資料による現況把握、?現地住民のアイディア活用(ヒアリング・ワークショップの実施)、?モデル地域を楽しく歩くためのコースとガイドマップ作成、?コースとガイドマップ活用の実験(モデル地域ウォッチングの開催)を企画している。
(鈴木 記)

その?
環境フォーラムせんだい2001
生ごみリサイクル堆肥を使った農産物の生産・流通実験

平成13年11月10日〜12日、宮城県仙台市で環境国際会議が開催されます。仙台市では、「さまざまな地球環境問題の解決には市民レベルでの取り組みが重要になる」と考え、市民側の取り組みを「市民参加型環境社会実験」と位置付け、実践部隊=実行委員会をつくりました。実行委員会が企画・運営した取り組みは、会議で報告されることになっています。
まちづくり政策フォーラムは企画側の実行委員でもありますが、実際の実験「生ごみリサイクルと地場農産物流通の連携実験」にも「アースワークス研究会」として参加します。
実験は、まず、仙台市内の団地で回収した生ごみを堆肥化プラントに搬送。そこで良質の堆肥を作り、成分分析を行った後、畑に入れて作物の発芽や栽培試験を行うものです。研究会主宰の畑「プチファーム」では、この堆肥を希望者の区画と共有地に入れ、生育状況や試食等、実験結果のレポートを提出することになっています。
今回、流通に至るプロセスまでは参加できないものの、「朝市夕市ネットワーク」や「EPF環境・人間・食糧ネットワーク」等、いくつかの市民活動グループと連携して企画を進めていくことは、新たなネットワークを拓くきっかけにもなりそうです。
さてさて、作物の生育はいかに!?
(安部 記)



05)研究会動向

交通を考える部会では、8月9日に4回目の部会を開きました。

まず、仙台のバスについて各々が感じていることを話しました。その結果、「不便である」「わかりにくい」「使いたくても使いにくい」という点では一致しましが、具体的にどうすれば利用しやすくなるのかについては、参加者の意見は様々でした。
高齢者にとっては、バス停の時刻表や路線図、バスの行先表示などがよく見えないという問題があるようです。また、転勤族で仙台の土地勘がない人や普段利用しない人にとっては、バスの経路以前にそもそもバスの乗り方やバス停の位置と間隔など、基本的な情報が不足しているということがわかりました。バスに詳しい方からは、各地の時刻表や路線図と仙台のものを比較しつつ、より良い情報提供のあり方について意見が出されました。
地下鉄やJRなどの鉄道は線路と駅の位置がはっきりしている反面、それ以外の地域をカバーすることは出来ません。一方、路線バスは道路さえあれば走れるので、「かゆいところに手が届く」ような路線網をつくることができます。しかし、仙台の場合それが逆に「複雑怪奇でわからない路線網」にしてしまっているとも言えます。
また、話し合いの中で事業者と利用者の情報のギャップが大きいことも分かってきました。利用者減少に悩む事業者とバスの不便さを嘆く市民。評論家になって批判するのではなく、建設的な方向で何かしたいというのが私たちの希望です。 今後の活動では、私たちだからこそ出来ることを大切にして、メンバー各々が「バスを利用しようと思って困った経験」を生かして、新しい情報提供のあり方を考えていくと同時に、それを形にしたいと思っています。(山中 記)



06)研究会動向

●7月のアースワークス研究会は、14日にプチファームの共同作業イベント「畑で一服」の後、坪沼地区のお祭り「ホタルと平家琵琶の夕べ」へ参加。地域との交流を図りました。
畑では、本来、キュウリくらいの大きさのズッキーニがへちまぐらいまで大きくなっていたり、草が繁茂して野菜が見えなくなっていたり、日頃の管理作業の大事さを身をもって体験しました。「畑オーナー」の佐藤功さんも、忙しいなか畑に来てくださり、トマトやキュウリなど夏野菜の管理、収穫時期の見定め方の目安を教えていただきました。
夕ぐれ、はが組のメンバーが浴衣姿でやってきました。夕やみの里山風景に溶け込んで、浴衣姿がとても映えていました。畑に浴衣という、いままでにこんな風景があったでしょうか。プチファームを通して、こんな交流も生まれているのです。
交流と言えば、アースワークス研究会のメーリングリストは、研究会員のほか、畑会員、オブザーバー等、色んな人が参加しています。みんなで畑、作物の状況を逐一報告し合ったりするほか、私が農業インストラクターとしてその時々の農作業の目安や実践知識をお知らせします。また、地域に関するさまざまの情報等、日々多様な情報が流れ、参考になる意見が隠れていることもあります。
このように、畑を中心に、様々な立場の人たちの交流が生まれているのです。

●「プチファームハンドブック」を、好評につき増刷しました。これは、去年1年間の我々の取り組み、坪沼を舞台とした「むらとまちがつながる。NPOによるコーディネートと、実践活動の記録」を冊子にまとめたものです。(1冊300円です。)

● 研究会に青葉区芋沢地区の林の資源活用法について、所有者の方から相談がきました。
2500坪の私有地内、建物の裏手にある杉林と広葉樹の林、いわゆる「いぐね」の活用についてです。このまま林を放置していても荒れるだけで、なにか継続的な使い方はできないかというのが、持ち主からの相談内容です。
研究会では、この林をフィールドにして活動したいという人や団体を募り、持ち主の方へご紹介することにしました。
こうした相談事は増えるだろうと予想され、今後、研究会としてどう対応していくか等について、研究会を開催する予定です。
(三浦 記)



07)若柳町 都市・農村体験交流事業

若柳町は、従来から、小学生対象の自然体験学習や仙台都市圏の消費者との「農業体験ツアー」等の交流を行ってきた。平成8年度には、「若柳町グリーン・ツーリズム研究会」が設立された。
研究会では、地域資源としての伊豆沼を活用した自然観察会や、町内の農家が生産した農畜産物で農業(加工)体験交流事業を実施。それによって、農家の女性が活躍できるようになり、「女の立場」も向上しているそうだ。
今回、芦立がおじゃましたのは7月22日に行われた「若柳町グリーン・ツーリズム研究会都市農村交流事業」そば打ち・ブルーベリー摘み取り体験。
そば打ちの会場は「千葉邸」。高台にある立派な門をくぐると母屋のほかに離れ、倉、 作業所などのある大きな農家である。
参加者は、仙台からの家族や、地元の親子等でアットホームな雰囲気で始まった。
午前中は、そば打ちを体験。全員のそばが出来上がるまで、のんびりと敷地を散策した。昼食は、そばのほかに旬の野菜の料理あれこれ。おなかがいっぱいで、茶の間でくつろいでいると、「夕立の来る前に摘みにおいで〜!」というブルーベリー園の持ち主である多田さんの電話で、一同移動。
イベントというとプログラムやタイムテーブルが気になるものなのだが、今回は、時間に追われない、のんびりとした1日だった。そば打ちの講師も、地元の そば打ち名人が助っ人として加わったほか、以前の講習会でそば打ちを体験した町の人が講師をかって出るという手作り感が何とも言えない。無理せず、自分 たちの出来る範囲のことをやろうという気負いのなさが、参加者にも伝わり、のんびりとした時間を過ごせたのだと思う。
若柳町のグリーン・ツーリズムは滞在型の余暇活動を目指して事業を展開している現状であるが、農家民宿等の滞在施設の整備や滞在型体験交流メニューの増加だけでなく、どのようにリピーターを増やすかが、大きな課題となっている。
仙台からの参加は3回目になるという方にお話を伺った。
参加のきっかけは昨年度秋に行われた県の「みやぎまるごとフェア」で「県産品の里訪問ツアー」に当たり若柳町を訪れたこと。初めて手作りしたソーセージがとてもおいしくて、その後も参加してきたそうだ。近所のお友達も誘いたいが"遠いし高い(往復の高速料金と家族数人分の参加費で10000円以上かかってしまう)"というハードルがあり、声をかけずらいとのこと。「いちど来てみれば、10000円以上かかっても来る価値があるって思うし、また来てみたいと思うんでしょうけどね。」と繰り返した。リピーターを増やすことも課題ではあるが、まず、参加するきっかけをいかに作るか、若柳に来てみよう!と思わせる仕掛け作りも必要ではないか。参加者の言葉が、これからのグリーンツーリズムのあり方を問うているようにも思われた。
(報告者 芦立千佳子)