2001年11月号

01)ビジネスモデルへの提言
02)事例報告1 宮城県南方町
03)事例報告2 岩手県岩泉町
・まちフォニュース
04)研究会動向
05)あぜ道小径 宮城県万石浦



01)提言
ビジネスモデルへの提言 〜産地の構造改革〜 大泉一貫

1.セーフガード
暫定発動された200日のセーフガードが11月8日で終了した。本発動があるかどうか、政府は12月23日まで検討するという。
セーフガードの暫定発動に関してはいろいろな批判がある。それを繰り返すつもりはない。気にしているのは、我が国の産地戦略についてである。
この間、我が国の農産物産地に課された命題は産地の強化である。有り体に言えば、産地の構造改革である。果たして構造改革に向けた有効な動きがあるのかどうか。その可能性はどのようなものかである。
2.プロダクトアウトの考え方
セーフガード発動以来、野菜農家の韓国、中国詣でが続いていて、帰ってきた彼らが一様に驚くのは、当たり前のことだがそのコストの安さである。とりわけ人件費の安さは並大抵のものではない。「これではかないっこない」というのを実感することになる。
しかし多くの農家はそれ以上学ぼうとはしない。
もっといえば、中国や韓国がなぜ急に日本の産地を凌駕する産地をつくれたのかについて、である。
低賃金・低コストがあながち間違いではないと認めつつも、それ以上に問題なのは、これまで日本で産地形成のロジックとして考えられていたプロダクトアウトの考え方が既に時代遅れとなっているという事である。
3.国際戦略
中国共産党は「高企画、ハイレベルの農産物輸出基地を作る」とし、山東省では「外貨獲得農業モデル地区」なる産地を実際に作り、生産量を拡大している。高規格ハイレベルの実需者は日本である。
韓国も「日本4大圏域別に大型流通業者との直接取引をする」と政府文書に明記している。
こうした国際戦略は、オランダの花戦略を見るまでもなく、国家として当然のことであり、グローバル社会で生き残るために必然ですらある。
ところが我が国政府は、韓国の「日本市場をターゲットとした戦略」という至極真っ当な行為に不穏当として苦情を言っているのだそうだ。
産地間競争は、もはや流通戦争の域に達している。その中身は第一に販売先を抽象的にではなく、具体的に定めた、マーケットインの発想に立っていること。第二に、その為には、コアとなる企業が戦略を定め、流通を含めた供給システムを構築していることである。今日的言葉で言えば、サプライ・チェーン・マネージメント(SCM)による競争である。それなしの産地戦略はもはやあり得ない。例えば、中国のシステム構築は、我が国の開発輸入が中心だといわれているが、ターゲットとする販売先を具体的に特定している。例えば、同じ白ネギでも業務用に使う人にはそれを現地で切り刻み、解凍すればすぐにでも駅の立ち食いそばに載せられるように製品を作り上げてくる。また焼き鳥に使うネギであれば、鳥と一緒に串刺しにして届けている。
日本の特定の需用者に運ぶためには、それをもっとも効率的に行える物流会社が選ばれている。野菜の生産技術も技術力があると考えられる指導者をわざわざ探してつれてくる。種の供給や資材の供給などもその道のプロが選ばれ、こうした一連のシステムの中で中国の農業者が生産者として選ばれたということなのだ。コア企業が、ターゲットとする市場で販売するための商品製造を、ありとあらゆる企業の力を借りながら行う、そのような一つのシステムを作り上げたのである。このビジネスモデルは、農業に限らず、ユニクロやたこ焼き、冷凍食品に至るまで共通している。
4.ビジネスモデルを国内産地が構築
ところが、セーフガードに伴う我が国の野菜産地の強化策としてでてくるのは、生産の機械化だったり、流通コストの削減だったり、さらには野菜の規格の簡便化であったりである。未だに、コストや品質といった生産の仕方だけを競うものととらえているところに問題がある。
高齢化や兼業化にどう対処すべきかといった戦略では、「国際競争にも耐えうる生産体制を確立する」事などさらさらできないと考えた方がいい。今日の産地競争は正直そうしたレベルではすでにないという認識が必要だろう。
問われているのは、開発途上国での現地生産に対抗するビジネスモデルを国内産地が構築できるかどうかである。
日本の幾つかの産地の人はそれは絶望的だろうが、私はそんなに悲観することはないと思っている。第一ニッチの市場があるし、またやっと産地の知恵が試される時代がきたと思って本気でビジネスモデルを考えればいいだけのことだからである。しかもそれはそんなに難しいことではない。今まで消費者に信頼される農業をやっていたのか、消費者に選ばれる農業をやってきたのかが問われているだけのことなのである。
ただ、こうしたことをおそらく今の生産者や産地は知らないのだろう。知らなければビジネスモデルは作りようがない。

5.一つのビジネスモデル
私は、この消費者優位の時代にあって農業は限りなくサービス産業に近づいていくとする仮説を持っている。
農産物を利用する人の要求は、決して一様ではない。中国産の品質のいいネギを欲しい人も多いだろうが、又極端な例だが、曲がりネギで、形も不格好で、堅いネギでもおいしいという人もいる。その一例が市民農園などで自分で作ったネギである。自分で作った野菜は他人がなんと言おうと、又実際まずいと分かっていても、実においしいものである。それは一種の充実感と一緒に食べているからである。
生産と消費が近づけば近づくほど人々のニーズは多様化する。そうした考えは、大量生産・大量輸送の対局にある。自分だけの生産・自分だけの流通である。ヒントはこうしたところにあるのだろう。
農協がこうした事に気づき新たなビジネスモデルを作れるだろうか?
私達は今まで、早くて1日前、通常2日前にとった野菜を食べてきた。それが大量生産時代の流通モデルであった。その為の技術もずいぶんと進歩したものである。しかしこれはどんなに距離が離れていても大丈夫ということで、産地が中国でも一向に構わないことになる。
もし、野菜を個性あるものとして扱えたら、又新鮮さを売り物にできたら、さらには特注というシステムを作れたら、我が国の産地もまんざら捨てたものとはならないだろう。
たとえば、収穫から消費者の手に届くまで、わずか5〜6時間という態勢は不可能だろうか?
大都市の真ん中やスーパーで消費者と相対で販売することは不可能だろうか?
お正月の福袋のように、中に野菜をいろいろ入れることは可能だろうか?
こうしたことを可能にするビジネスモデルを作った産地がおそらくこれから生き残っていくのではないかと、私は考えている。



02)事例1
農業も独自の計画や独創的手法を
=危機をチャンスにした「南方総合企画グループ」=

平成4年発行の「ひたかみNo.30」に、宮城県登米郡南方町の阿部善文さんが投稿してくださった「南方総合企画グループ」の紹介記事がある。その記事では、阿部さんをはじめとする20代の農業後継者3人が、老齢化や後継者不足に悩む地域に「みなさんの田んぼをつくる“農業専用の息子”」とアピールして、水田の全面及び部分作業受託を呼びかけている。彼等は、水稲だけでなくグリーンサービス等の分類別と、東部・中央部・西部の生活圏別にそれぞれが役割担当して作業受託をし、農機具の移動や運搬にかかる時間ロスの解消と生産基盤の拡大を目指した。委託者には、圃場管理や施肥設計の上、「50a以上10年間全面受託者には2泊3日の温泉旅行へ御招待」というユニークな特典(?)も付いていた。
あれから9年。一体、今はどうなっているのだろうか。阿部さんからその後の様子を伺いつつ、模索を続けながらも“独自の農業”を切り拓いている姿をご紹介したい。

◆状況の変化から充電期間へ
現在、「南方総合企画グループ」としては、「充電期間」に入っている。その原因として、「米を取り巻く状況が変わったことだね。」と阿部さんは語る。「グループを始めた頃は、バブル全盛期だったし、周りの若い者は農業よりも他の仕事で収入を得る人が多かった。だから、地域の農業高齢化が進み、俺達に田んぼをまかせてくれたんだな。ところが、バブルがはじけて不景気になってくると、他人にまかせないで、自分の田んぼは自分でやるという人や、逆に減反政策で米作りの採算がとれずに土地への思いを捨てて離農する人が多くなった。そうした状況の中で、やる気のある農家ほど厳しい状況に追い込まれたわけだ。それで、しかたなく、ほかの2人は兼業を始めたんだ。」そして、「必要な時がきたらいつでも再結成ができるように、今は3人が3様に取り組み、力を蓄えておく時期だと思っている。」と付け加えた。
<山あり〜谷あり・・・を救った「信用」>
グループは充電中だが、グループ発足時に「米を通しての生産者と消費者の距離を狭めたい」として始めた“中間流通コストを省いた米の契約・生産販売部門”として、宅配便による家庭用米販売を、阿部さんは自分の農場である「板倉農産」で今も続けている。平成5年の大冷害をきっかけに、消費者と直接取引きができる特別栽培米の生産を開始。全国で米が不足し米価が高騰する中、契約者に一定の価格で供給し続けたことが信用を高め、板倉農産には約800件の予約が入ったそうだ。ところが、翌年は豊作で逆に米余り。全国には米屋が増え、予約という形で確保しなくても、どこでも手軽に米が手に入るという状況になって、農協でさえも販路確保に困ったという年である。板倉農産でも、予約件数の約半分(400件ほど)が解約となり、阿部さんは窮地に追い込まれた。「いやあ、たいへんだった。しばらくは途方にくれた。」という。困った阿部さんは、顧客にSOSを出した。ここで「信用」の2文字が威力を発揮する。顧客の口コミで、予約が600件まで持ち直したのだ。以来、客層はどんどん拡がり、今年度は北海道から九州までなんと2000件の契約件数に達しているそうだ。

◆顧客とのコミュニケーションから
商品化の手がかりを
米を取り巻く状況の変化は、必ずしも農家にとって「良い状況」とは言えない。まして、家庭用の米販売は、顧客の都合に振り回されるおそれ危惧もある。その中で着実に契約件数が伸びているのは、もちろん、口コミだけに頼っているからではない。アイガモ農法や有機物循環農法を取り入れた“自然と共生する米作り”をベースに、「お客さんのニーズを把握して、それにどう応えられるかを考え、工夫し、商品化しているから。」だとか。だからこそ顧客からの信頼度はますます高くなる。
そうした阿部流ニーズの応え方をいくつかご紹介しよう。たとえば・・・「餅を食べたい。」という顧客のニーズに応えて切り餅を作ってみる。しかし、なぜか関西だけは注文がなかったそうだ。すぐさま、関西方面の顧客に電話してリサーチ。「関西では、四角い切り餅ではなく、丸餅を食べる。」という返事に、翌年には、一家総出で湯のみ茶碗を使って丸餅を作り、販売したという。それからは、関西圏からも注文が殺到しているそうだ。たとえば・・・「10kgの袋では持ち帰りが重くてたいへんだ。」という声には、1kg、2kgの少量パックをコンビニエンスストアと提携して販売。「ご贈答用のお米が欲しいわ。」という声には、贈答用のパッケージを作るという具合だ。
また、9種類もの米を生産しているのもニーズ対応のためだとか。作っていない種類を食べたいと言われても、「似た味の米はあります。食べてみませんか?」と、即座に提案できる強みを持っている。
こうして、リサーチした顧客の声を反映して商品化し、なおかつ、顧客の満足度をチェックすることも忘れない。その姿勢が、さらに新たなニーズを掴んでいるようだ。今年は、地元の仲間たちと協力して、「おらほのやさい」という野菜の宅配が始まっている。

◆情報や問題の共有が納得を生む
こうした顧客とのコミュニケーションの方法は、月1回、宅配便に入れて発行しているミニコミ紙「らいすとぴあ」やホームページ等。農法や米の紹介のほか、「稲田米造博士のコメ講座」として各種健康法の解説、農作業の様子や生育状況、地域情報等、その中身は幅広い。ホームページの掲示板に書き込んでくれた人には、必ず返事を。都市部の顧客から、「伊豆沼の蓮がきれいに咲いているようですね。」という声をもらえば、インターネット上で現地の蓮の画像を送る等、顧客のつぶやき一つにも即時、対応している。単に物を売り買いするだけの関係で終わらない。顧客にとっては、農村部をまるごと味わうためのコーディネーターが阿部さんなのだ。
阿部さんは、「お客さんが気にしているのは、米の味や価格だけじゃあない。どんな田んぼで米作りをしているか、そこはどんな地域か、農家がどんな思いで作っているか、そういう背景までひっくるめた情報を欲しがっているんだ。」と語る。
こうした米作りのプロセスや地域の状況などを伝えるようになって、顧客からは「今年の夏は涼しくて気がかりだった。」という声や、「お米って決して高くないわね。」と納得の声が聞かれるようになったそうだ。
このように、直接的な米の生産販売以外の労力がかなり大きいが、「手間隙こそが売り物になる。」とその評価は極めて高い。しかし、そう言い切れるのは、完全な受注生産管理が為されていればこそだろう。「厳密に計算すると、多くの農家では販売価格が生産原価を割っているんじゃないか?うちでは、“とりあえず作っておこう”という見込み生産はしないんだ。」顧客との対話から、1ヶ月にどれだけ食べるのかを把握して年間の総合消費量を割り出し、作付けを行っている。それと共に、Aさん宅はいつ頃、消費量がどれだけ多くなるという、顧客ごとの管理がなされているのだ。

◆将来の消費者を育てよう
毎年、ここへ仙台市内の2つの小学校が農作業体験にやってくる。また、小学校高学年向け総合学習支援の教材番組「おこめ(NHK教育テレビ)」では、実際の農作業や稲の様子などと共に、阿部さんがモデルとなったキャラクターが登場。子どもたちは、疑問に思ったことや感想を板倉農産のホームページ・掲示板に書き込んで、阿部さんとやりとりをする。ほかにも、様々な形で子どもたちとの関わりを持っている阿部さんは、「ここで体感したり、発見したことが食卓に上って、家族の会話が弾むようだと嬉しい。」と語る。そして、将来の消費者である彼等が成長した時には、今より少しは農業の未来が明るくなるだろうと。
最後に、「過去の自分たちの経営は、農業政策や経済構造に振り回され過ぎた。周りの状況ばかりを気にして、経営体としての独自の計画や独創的な手法を身につけてこなかったように思う。これから、もっと、一般的な消費動向に左右されない消費者との直のつながりを大事にして、“消費者が買いたくなるものづくり”をしていこうと思う。」と、自分に言いきかせるようにつぶやいた。
http://www.itakura.to/index.html
(報告者 安部優估)



03)
夢の工房「アトリエ野のはな」
〜夢こそが継続の力〜

「森と水のシンフォニー岩泉」のキャッチフレーズをもつ岩手県岩泉町は面積992.90平方キロメートル(東西51km、南北35km)の本州一広い町だ。北上山地の東部に位置し、盛岡市など3市2町7村に隣接、東方は北部陸中海岸の太平洋に臨んでいる。耕地は少なく、林野率が高く、河川は小本川、安家川、摂待川があり、この流域に沿って集落を形成している。また、安家地区から岩泉地区に延びる石灰岩層には、日本三大鍾乳洞のひとつとして名高い龍泉洞をはじめ、氷渡洞、安家洞などの鍾乳洞群がある。
この町には、自ら選んで岩泉に来た人たちが、この土地に触発され夢を実現させる例が多い。元からいる人たちと、外から来た人たちが交流して、地元にあるものを徹底的に磨いていく。その成果が、「龍泉洞の水」や「まつたけ研究所」などに見られる。
こうして資源を活かして地域づくりを行っている人々の中に、ドライフラワーを使ったリースやスワッグなどのクラフトづくりを手がける「アトリエ野のはな」の坂本ゆりさんがいる。

「15オク(奥)」はもうやめたのよ。
「アトリエ野のはな」は「ウチの資本は15オク(=15人の奥さん)です」という坂本さんの言葉に象徴されるように、普通の主婦達が集まって始めた趣味のサークルが、岩泉町産業まつり・工芸部門で町長賞を受賞(昭和59年)したり、東北むらおこし展グランプリ受賞、日本生活文化大賞受賞(平成2年)に輝くなど、女性が地域で起業する事例として全国から注目されている。

今回ひたかみ編集部も、女性が地場産業を起業していく方策を伺おうと、坂本さん宅を訪れたのだが、坂本さんの口からは15オクはもうやめたとのショッキングな言葉。一体「アトリエ野のはな」に何がおこったのだろうか?
坂本さんは東京田園調布の出身。学生時代は園芸生活科で学び、卒業後はフラワースクールでドライフラワーのアレンジメントなどを学んだ。短大在学中に、岩泉町出身のご主人と出会い、やがて結婚。北海道に11年間住んだあと、昭和56年に岩泉町で暮らし始めた。
当時の岩泉町は「日本のチベット」と呼ばれていた。家の近くまで山が迫り、空は狭い。知人も少ない。寂しい毎日を送り、病気になってしまった坂本さんを救ってくれたのは「ムギワラギク」だったという。

(坂本さん談)
ムギワラギクは、幕末に日本に入って全国に広がりました。岩泉町は仏様を大事にする土地柄ですが、冬場に供える花がありません。それで、生活の知恵でその花を育て、軒先につるして仏様に供えたんですね。ここでは10月末までこの花が咲いてます。他所より花の時期が長いんです。それで、移り住んだときにヨーロッパから種を取り寄せてみました。輝く7つの色があり、ラテン語で「黄金の太陽」というムギワラギクが、閉ざされた冬にも輝いたら素敵だなと思って。

坂本さんは岩泉を「日本のスイス」にしたい、山が迫り薄暗いイメージの町にムギワラギクをたくさん咲かせようと10アールに5000株のムギワラギクを植えた。東京の学生時代の先輩に「あなたの好きなドライフラワーを作りなさいよ。私が買い取ってあげるわ。」と励まされ、実際に、東京六本木の東京園芸センターへ、教材として10万本出荷した。
当時はドライフラワーは知られていなかったので、「今度来た嫁はカリフラワーを作ってる」と言われたりもしたそうだ。野菜を作り換金することが嫁の務めという土地柄だ。しかし、義母が理解し、「頑張ってやってみよう」と手伝ってくれた。趣味ではなく、仕事にすれば、好きなことが出来るかもしれないという発想でこの花を特産品にしようと決意し、ドライフラワー教室を開講して、受講した主婦等と共に昭和58年「アトリエ野のはな」を設立。昭和59年、岩泉町産業まつり・工芸部門で町長賞を受賞、昭和60年には商工会からむらおこし事業の指定を受けるなど、着実に岩泉町の特産品として認められてきた。また、坂本さん自身、岩泉町の商工観光審議委員会会長ほか、岩手県地域づくりアドバイザーや地域おこしマイスターなど幅広い分野で活躍。今では町民が誰でもドライフラワーは知っているし、いろいろなグループも出来て、岩泉町はドライフラワーのメッカになった。
(坂本さん談)
私には「風の人、土の人」という宝物にしている言葉があります。
「アトリエ野のはな」は転勤や結婚で外から来た「風の人」と、地域で生まれ育った「土の人」がちょうど半々くらいでした。その組み合わせで、岩泉町の新しい風土産業としてドライフラワーが育ったのかなと思います。
ここは確かに気候や地形は厳しいかもしれませんが、逆に考えると私にとっては日本のスイスでした。岩泉町の土の人と外から来た風の人には乗り越えたくても乗り越えられない平行線もあったけど、花の種をまいたことで心が結ばれ、同士になった。それがきっかけで地元の人がだんだん夢に投資してくれました。
ムギワラギクだって「昔からあったのにね」と地元の人は言いますが、人の感性をプラスして研ぎ澄ましていったから価値のあるものになるんですよ。
その時どきで、変わる使命
岩泉に嫁いできた頃。始めは、自分の使命はこの活動を通して出会った「まちづくりの世界」なのだと思い、そのために自分はここにいると思っていた坂本さんであるが、現在は、若い人たちに「今の自分がここに在ることを証していく」のが使命だと思っているという。
その前には伯母の介護を通してグループホームを作るのが自分の使命なのかなと考えたこともあったそうだ。実際、今暮らしている家は、高齢者の介護をしやすいように、或いは坂本さんを慕って集まってくる(世界各地からの!)お客様もすごしやすいように、オープンハウスのような間取りに増築したそうだ。

20世紀から21世紀になる節目に「アトリエ野のはな」の変革を心に秘めていた坂本さん。「アトリエ野のはな」の拠点地を平成13年(2001年)にふるさと体験工房に移した際にスタッフは5人体制になり、それを機に、チャンスが訪れた。
さらに、出身校の学長から、研修生受け入れの話が来て、今春から恵泉女子大の卒業生をひとり、研修生として預かっている。(研修生は2年間坂本さんの自宅に住み込み、スタッフとしてふるさと体験工房や、畑の作業に従事するとのこと。)
「アトリエ野のはな」では、体験学習で訪れる都会の小・中学生、高・短大生を受け入れている。花畑での作業や、体験工房での手作り体験などを通して、坂本さんは自身の生き様を少しでも子どもたちに伝えたいと願っているそうだ。パスツールの言葉に「幸運は準備された人に来る」というのがあるが、中学生から大学時代まで生物や園芸に興味があった坂本さん自身が、その言葉を実感しているという。だからこそ、感受性の強い10代の頃の教育や経験が大事だと語る。
(坂本さん談)
20年前、はじめてきたときは友だちもいないし、寂しくて病気にもなりました。でも「窮鼠猫を噛む」で、人間追い込まれるとそれがバネになって思いもかけない力が出てくるものですね。私に何が出来る考えたとき、小さい頃からずっと好きで続けてきたのが“花”。それでまいた1粒の種が「アトリエ野のはな」でした。

これからの「アトリエ野のはな」
坂本さんは、今年の春に、自宅のまわりに広がる休耕田を眺めながら、「ここをムギワラギクだけでなく、ダリヤもいっぱいに咲いたらきれいだろうな」と思い、自宅の周りの休耕田をキッチンカルデン・ムギワラギクガーデン・ダリヤガーデンの3つの花畑にした。花が咲くことにより、お客さんが集まる。体験工房でのメニューが増える(ダリヤやムギワラギクの花摘み)。など、行動には必ず成果が表れる。
「今は研修生をひとり、自宅に寝泊まりさせているけれど、4人ぐらい受け入れる体制があっても良いなあ。泊まりがけで来てくれるお客さんのためにゲストハウスも建てたいわ。」などと坂本さんの夢はつきることがない。
また、それは「思い」を必ず実現させてきた者の強みなのであろう。有言実行を地で行く坂本さんに、大いに刺激された1日となった。
(坂本さん談)
わたしは、川が流れていくように生きていると思います。一つところに澱んでいては水も腐ってしまうように、人間も成長しないものです。水が流れるということは浄化されていくということでもあり、又、川は大海に出ていく道でもあります。いろんなところを見て歩いてきては、また岩泉に帰ってくると「ああ、やっぱり、岩泉は良いなあ」と思えるんですね。夢は売るほどあります。わたしの人生は波風立つことが多いけど、その方が楽しいです。9つ苦しんで1つ大きく楽しむ。その1つに巡り会ったときが最高に幸せだから、わたしはがんばっているんです。それが生き甲斐であり、多くの人との出会いが楽しいから走り回っているんです。
いろんな人たちが岩泉町にやって来てくれます。外から人が来てこの町をほめてくれると、町の人たちは、「自分たちの町も案外捨てたモンじゃないな」と自信がつきます。
ふるさと体験工房に多くの人たちが視察に訪れてくれる。「アトリエ野のはな」の蒔いた種が全国各地(東北6県、四国、広島等に姉妹工房がある)で花開く。それが楽しいですね。
(報告者 芦立千佳子)



04)研究会動向

アースワークス研究会

◆企業からの協力も
畑の持ち主の佐藤功さんを通して、「新東株式会社」の代表取締役、千葉東助さんから倉庫と廃材を活用した炭を提供していただきました。
早速、炭は収穫祭の煮炊きで使用。こうした協力が、プチファームにとっては、とても助かります。

◆9月のプチファームは大収穫祭
9月16日の薄曇りの日曜日。会員、地域の方々、ご招待ゲストも含めた30名ほどの参加者で、秋の実りを楽しむとともに、畑会員同士や地域との交流を図りました。佐藤功さんには、畑の管理、収穫時期の見定め方の目安等も教えていただきながら、主に夏野菜の収穫と、秋冬野菜の作付け準備を行いました。
プチファームの野菜は、この秋冬の野菜の作付けにリサイクル堆肥を一部使用しています。これは、仙台市が事務局となっている「環境フォーラム仙台2001実行委員会」が主催する「環境社会実験(生ゴミリサイクル堆肥での農産物生産、流通に関する実験)」で、これにプチファームも参加しています。「家庭(太白区ひより台東部町内会)から生ゴミを回収」し、「堆肥化施設で鶏ふん等と混ぜて堆肥化」して「堆肥を使い野菜を生産」するという流れで、この結果から地域循環型農業の可能性を探ります。

◆次年度のプチファーム
11月8日には研究会が開催され、平成14年度の取り組みや方向性について話し合いました。次年度は、引き続き坪沼地域にてプチファームを実施するだけでなく、「拡大」する方向で準備を進めていきます。また、コミュニティビジネスとして成り立つかどうか、どのように地域とコミュニケーションが図れるかなどを具体的に探っていきます。
(アース研 三浦)


交通部会

公共交通離れ、とりわけバス離れに歯止めをかけるための第一歩として、多くの市民が、仙台の公共交通をもっと身近に感じ、使いこなせるようになることが必要だと考えています。
部会が発足してからこれまで、「文句を言うだけでなく、自分たちに出来ることをしよう」という方針のもとで、何か実践的な活動をしたいと考えてきました。そして、2002年2月から実施予定の「仙台都心区間の路線バス初乗り運賃を100円に値下げする」という発表に注目して、最初の「実践」活動としてまずは100円バスのマップを作ることになり、当面はこの作業を中心に進めていきます。
今回の百円バス構想は、既存路線の都心区間に限り、初乗り運賃を170円から100円に値下げするというものです。ところが、都心部分は非常に多くの路線が集中しています。仮に実施されても、余程バスに詳しい人でないと乗りこなすのは難しそうです。せっかく運賃が安くなるのだから、一人でも多くの人に有効活用してほしい、そのために私達の手でツボを押さえた情報提供をしたいと思っています。
もちろん加工や提供の仕方で、同じ内容の情報も印象が変化します。今後も、バスに詳しくない人の視点も忘れずに活動したいと思います。
もちろんこの企画により、仙台の公共交通が急に身近になったり、劇的に利用しやすくなるわけではないでしょう。しかし、千里の道も一歩から。
来年1月頃には形にしたいと考えています。

※都市農村計画研究会の部会として4月に発足して以来、これまでに6回の部会を開催しました。
議事録はホームページで公開していますので、興味のある方はご覧ください。
(交通研究部会 山中)



05)あぜ道小径
牡蠣の物語 〜森と海をこよなく愛する皆さまへのメッセージ‘2001’〜
万石浦豊かな海づくり研究会 伊勢武彦

宮城県の秋冬の代表的な海の幸といえば、何と言っても‘牡蠣(カキ)’。生産高は広島県に次いで全国第二位。宮城県産のカキは、とくに品質や味が優れていることからカキ鍋やカキ酢などの生食用に向いています。もちろんカキフライもgood。カキは、北風が強くなってくるこれからの季節から翌三月にかけてが旬です。
石巻市渡波の万石浦、石巻湾沿岸のカキ養殖業者ら有志でつくっている「万石浦豊かな海づくり研究会」では、毎年この時期、その年のカキの誕生から出荷までを約1年半に渡って物語風に記した「牡蠣の物語」(A5版4頁)を作成し、漁協等を通じて、希望者に配布しています。研究会では、この冊子を通じて消費者の皆さんに、カキの意外な生態、生産現場の様子、そしてカキの一生を通じた森と海と川(特に北上川)との関係などについて、知ってもらい、地元産のカキをより一層おいしく召し上がっていただきたいと願っています。
本日は、「牡蠣の物語‘2001’」からその内容の一部をご紹介いたします。
(※全文を読んでみたい方は、まちフォ事務局までご連絡ください。若干ご用意しております。)

<カキの物語>
それは森と海と川と人が綴る壮大なドラマ・…
■平成12年7月下旬。その夏、最も暑い一日がカキの産卵の日。雌は一個で数千万個の卵を放卵し、雄は数十億個の精子を放出する。受精したカキの幼生は、それから約3週間海中を漂う。そして300ミクロンほどの大きさになると、物に付着する性質がある。この習性を利用して、夏のある一日、カキ屋さんたちが、帆立貝の空殻に針金を通した付着器(種ガキ原盤)を一斉に海中に投入、物に付きたくてウズウズしているカキの幼生が、待ってましたとばかりにこの付着器に付着する。
■平成12年8月下旬。荒波を避けるため、生育場所を沖合いから豊穣の内海・万石浦へ。抑制棚と呼ばれる施設へ。
■この後(翌年の春までの間)、約半数以上が、種ガキのまま、三陸や北海道などの各浜のカキ屋さんたちに買われていき、その地の海産のカキとして育って行く。かって、昭和40年代にはフランスにさえ輸出されていた。意外に知られていないのだが日本の大部分のカキは、石巻湾生まれか又は広島湾生まれなのである。帆立貝の空殻を針金に約72枚通したものを一連と呼ぶが、毎年石巻湾沿岸では百五十万連という種ガキが生産されている。石巻湾は南の方向に口を開いた湾なので、海中を漂っているカキの幼生は、夏の南風によって湾奥に集められる。
 そこに北上川が運ぶ森の養分が供給され、餌の植物プランクトンが増える。それを餌にして世界に冠たる宮城種のマガキが生産されている。
■平成13年9月。カキ解禁。
■海から旅立つ日。午前6時。カキ屋さんたちの朝は早い。石巻市渡波の石巻湾漁協共同かき処理場ではその日出荷する分のカキは、前日の夕方に水揚げし、塩素を注入した海水に紫外線を当てて殺菌したタンクに一晩中入れ、内部の雑菌等をすっかり吐き出させておく。そして専用のナイフを自在に使う熟練の剥き娘さんたちによって、殻から剥き出される。午後3時には集荷され、マイナス5℃以下の冷蔵庫に保管される。その後入札を経て、仙台や東京方面、さらに皆さまの街へ出荷されていく・…。
 カキは、「豊かな森」と「豊かな海」から育つ・…

■カキが育つためには餌となる植物プランクトンが大量に必要です。さらに植物プランクトンが誕生するためには、北上川が運ぶ森の養分が不可欠です。森の広葉樹の葉が秋になって枯れ落ち、堆積して腐葉土となり、その中を通過して流れてくる水が北上川を通じてとうとうと流れ込んでいるからこそ、石巻湾でのカキ養殖が成り立っているのです。