剛天の虎

 死ぬかもしれない…。
 そんな事を考えたのは恐らくこれが最初で最後だろうと紅丸は思った。
 身体中の血が、肉が、歓喜に震え上がるのが解る、この男を前にして。
 既に仲間は半数以上倒れている。皆今までの激戦を生き抜いてきた優秀な兵士ばかりだったにも関らず、だ。
 彼の後ろに控えている聖剣の勇者達も攻めあぐねているようだ。あの義経ですら敵に一撃も浴びせられず肩で息をしている。
 こいつは今まで出会ったどの根の戦士とも違う、そう紅丸の本能が告げている。
 (本来、根の一族は戦いを好む種族ではないんじゃよ)
 カラスが言っていた事を思い出す。今はもういない、彼らの仲間。
 (彼らはヨミの吐息で戦いに対する士気を高められているだけなのじゃ、そう興奮剤のようなものじゃな、麻薬じゃよ、あれと似たような作用がヨミの吐息にはあるのじゃて…)
 そう、今までであった根の一族の目は尋常ではなかった。どいつもこいつもが一様に狂気に駆られたようにして迫ってきた。倒しがいすらない傀儡人形達。それに比べて目の前のこの男は…。
 ―――目の輝きだ。
 こいつは戦う事を喜びに感じている。そう、自分と同じ様に。
 紅丸は自然己の顔が喜びに引きつるのを禁じ得なかった。
 男は紅丸の表情の変化に気づいたようだった。掴んでいた兵士の一人を奥の壁に無造作に投げつける。鋭い叫びとともに兵士の体が潰れ紅い血が壁を染めた。
 「名を聞いておこうか」
 不意に発せられた紅丸の言葉。
 「何言ってんだよ、紅丸! 敵に名前なんて聞く必要あんのかよ」
 真っ先に抗議したのは義経だ。少し声が上擦っている。無理もない。例え歴戦の勇士と言えど臆してしまうほど、目の前の男は強大だ。得体の知れぬ力をそこに感じ取ってしまう。
 紅丸は抗議した義経に一瞥もくれずに真っ直ぐその男を睨みつけている。まるで目を逸らした時が負けだと言わんばかりに。
 「剛天明王だ、わしの名は…な。ヨミ様がそう名づけてくだすったのよ」
 クク…クククッ…
 その名を聞いた時、薄暗い広間の中で、紅丸の低く笑う声が無気味に反響した。
 垂らした前髪の奥から赤い光が垣間見える。その光に、剛天明王と名乗った男はギョッとなった。
 「剛き天の明王…か、ヨミも大した名前をお前さんにつけたもんだ。その名、こけおどしでなければよいがな」
 そう言って紅丸は刀を構えなおした。既に彼の聖剣は高山の町に埋もれている。紅い闇黒蘭の欠片とともに。今彼の手元にあるのは聖剣ほどの輝きはないものの、この戦いの半分以上を彼とともに過ごした優れものだ。火の一族の中でも名工と呼ばれた男の手による逸物だった。
 「お前等、こいつは俺の獲物だ! 手ぇ出すんじゃねえぞ!」
 喜々とした雄叫びをあげながら紅丸が剛天明王に向かって行く。馬鹿正直に真正面から上段に構えた紅丸めがけて、剛天明王の口から赤い炎が吹き付けられた。
 「バカ、紅丸!!」
 松虫が悲鳴を上げる。炎は確実に紅丸を直撃していた。
 炎の勢いに押されて紅丸の身体が後方へ飛ばされる。体勢が崩れたとみた剛天の強烈な一撃がすかさず紅丸の無防備な頭部に襲い掛かる、右腕の大きな斧の一振り。
 だがそれすらも作戦だったのか、紅丸は左腕で振り下ろされた斧の横面を弾き、そのまま剛天の右腕を捻りあげた。
 「紅丸!! 上だ!!」
 今度は女彦が叫ぶ。剛天明王の残った右腕が紅丸に向かって剣を振り下ろしていたからだ。思わず顔を覆いかけた松虫と義経の耳にゴキリという嫌な音が響いた。
 同時に剛天明王が苦痛でうめく声が聞こえる。どうやら紅丸が剛天明王の右腕の骨を潰したらしい。剛天明王はあまりの痛みに動きを止めた。
 「まず一つ」
 ニヤリとした笑みを浮かべ紅丸がつぶやいた。彼の自慢の前髪がぶすぶすと嫌な臭いをたてている。
 それを見た剛天もまた彼と同じ笑みを浮かべた。
 「上等だ」
 二人が再びぶつかりあう。残った腕と焦げた髪を振り乱し、剣のぶつかり合う甲高い響きと肉と骨とを潰しあう低い音。
 「今の内の負傷者を運び出しておいて下さい、ワラワ達は闇黒蘭の下へ参ります」
 傍にいた者に静がそう告げる。残る闇黒蘭は2本。この根の国の中央に生えているはずだ。
 「参りましょう、女彦、義経、松虫。紅丸様があの男の相手をしている間に。でなければ手遅れになるやも知れませぬ」
 静の言葉に3人は頷いた。女彦はゆっくりと静を自分の肩の上に乗せると一同を先導するように走り始める。後を追うようにして義経と松虫も走り出した。
 この奥に、最後の闇黒蘭がある。それさえ斬ってしまえばこの戦は終わるのだ、と誰もがそう信じていた。
 勝利は間近だ、そう思う反面、どこかに渦巻く得体の知れぬ不安感が義経の胸の奥に宿った。一度だけ振り返って剛天明王と戦う男の後姿を見た。
 大丈夫、奴は必ず勝つ。そう、無理矢理信じ込んで義経は再び走り出した。暗闇の奥から追いついてくる不安から逃げるように。
 「おのれ! させるか!!」
 何人かが奥に入るのを見てとって、剛天はそちらの方に一歩足を踏み出そうとして…よろめいた。
 紅丸が彼の左足に斬りつけたからだ。アキレス腱の切れる嫌な音が剛天の耳にも届いた。
 怒りの形相で振り返る。
 「貴様!!」
 「あせんなよ、おっさん、手前の相手はこの俺だぜ」
 割れた額から紅い血を垂れ流したまま、紅丸が前に立ち塞がった。返り血が目にかかっているせいか、紅丸の瞳がますます紅く染まっているような印象を受ける。むせ返るような血の臭いの中で、紅丸の正気はどこかへぶっ飛んでいってしまったようだった。
 「どうあってもおのれから先に死にたいようだな」
 「ぬかせ」
 再び獣のような咆哮が響き渡る。相手の肉を噛み切り骨を砕きあう、最早武器すらもちゃちな飾り物に過ぎないような原始的な戦いの決着は相手を喰らい喰らわれ尽くすまで続くかに思われた。
 剛天の最後の腕が引き千切られる。紅丸の肩の肉がごっそり殺ぎ落とされ、白い骨の姿が覗く、その骨もッ所々が砕かれている。
 だがそうまでなっても二人の戦いは終わらなかった。再び向き直り相手の身体に喰らいつく。
 その戦いにあっけなく終止符を打ったのは闇黒蘭の咲いている方向から轟いてきた地響きだった。
 「何…?」
 紅丸が戸惑ったように仲間達が去っていった方を見た。
 一瞬の隙。だがそれを見逃すほど剛天明王は愚かではなかった。今ここで殺しておかなければ…。
 誰の為にそう思ったのか、もう、解らなかったが。
 「闇黒蘭が…切られたようだな…」
 男の虚ろな声が、紅丸の薄れていく意識の中に入り込んできた。
 「バカな連中よ…そんな事をすればヨミ様の怒りを買うだけだというのが解らぬのか…。ヨミ様は己の闇黒蘭を切った者どもをけして許してはおかんだろう…可愛そうに、お主の仲間は死ぬよりも辛い目に合わされるであろうな…、ここでわしに殺されるお主は存外幸せ者かも知れんな…、ヨミ様の、怒りを受けずに済むのだから…な」
 剛天明王は胸から突き刺した刀をゆっくりと深く押し込んだ。肉と骨を割ってずぶずぶと入り込んで行く彼の刀が紅丸の背中から這い出してくる。
 「義…経……」
 絶え絶えの息の中からそんな一言だけが込み上げた血とともにこぼれた。
 「最後はわしの勝ちだったな、火の一族よ…」
 その言葉を聞いた時、それまで力なく垂れ下がっていた腕に不意に力が込められた。
 「ガアアッ!!」
 狂ったような叫びが喉から迸る。
 刀を身体に入れたままの状態で紅丸は、剛天明王の頚椎と肩に手をかけた。
 「な…貴様ッ!!」
 それ以上言う事は出来なかった。ゴキリという音とともに剛天明王の命の火は途絶えたからだ。
 大きな身体が紅丸に凭れかかるようにしてくず折れる。その重さに耐えかねて、紅丸もずるずると腰を下ろした。
 もうほとんど意識が飛んでしまっている。奥から響いてきた地響きがこの部屋まで辿りつき壁が、天井が崩れていくのをみつめながら紅丸は自分の胸に突き刺さっている刀の柄を握り締めた。
 遠くで誰かが自分を呼んでいる声が聞こえてきたような気がした。
 母の声のような気もするが、違う人間のもののような気もする。
 闇が満ちてくる。深い、深い闇が。
 自分が目を閉じた事も気づけぬまま、紅丸は逝った。
 最後にた己が敵と認めた男の遺骸とともに。
 その二人の上を、瓦礫の塊が埋めていった。

 「紅丸! 紅丸――!!」
 崩れゆく城を前にして、仲間達の虚しい叫びが響いていた。
 闇黒蘭を切った後、突如起こった崩壊に、咄嗟の判断で静が巻物を使って脱出したのだ。
 「何で、何でだよ…」
 「死ぬのは、あたいの方が先だと思ってたのにさ…」
 脱出できた半数の兵士も、大将の脱出を天にも祈る気持ちで待っている。
 だがいくら待ってもそれが虚しい行為である事はこの中の誰もが感じ取っている事だった。
 「静! 何でだよ!? 何であいつを見捨てちまったんだよ!? あいつがまだ中にいるのを知ってて…知ってて巻物を使ったんだろ? どうしてあいつを迎えに行ってやらなかったんだ!? どうして!!」
 責めるように、義経が静の胸倉を掴み上げる。普段は静を庇う女彦も、今は義経の味方をしてくれるらしい。黙って静の動向を見つめている。
 「解っているはずです、皆…」
 落ち着いた声で静は答えた。だが、その唇が微かに震えているのが、掴んでいる右手から義経の所に伝わってくる。
 「あの男…剛天明王は強い…、例えわらわ達が束になっても敵わぬ程に。紅丸様は相打ちを覚悟であの男に挑んでいかれた…。そしてわらわ達はその意思を無駄にせぬ為に、闇黒蘭の下へと急いだ…」
 「あたいは…あいつが死ぬと思って先に行ったんじゃないよ!! 紅丸はきっと後から来るって、そう思ってたから、あんたと女彦についていったんだ! あいつを見捨てる為じゃない!!…」
 言い返す松虫に、静は頭を振った。
 「いいえ、解っていたのです…わらわ達皆…。彼に、死神が宿っていた事を…。義経、それは貴女が一番よく解っていたのでなくて?」
 不意に自分に矛先が向けられて、義経は息を飲んだ。最後に紅丸を振り返った瞬間、あの不安感が静かの言う予感だったのか。
 静の胸倉を掴んでいた手の力が緩んだ。そのまま拳を握り締めたままゆっくりと下ろす。その手を静の白い手が優しく包み込んだ。
 「義経、哀しんではなりませぬ。わらわ達にはまだやらねばならぬ事が残されております。残った根の一族の掃討と村々の復興…そして…」
 そこで静は言葉を切った。義経の手を握る両手に強張りと汗を感じる。
 恐ろしいのだ。これから自分たちが相手にしなければならない者の強大な力を感じて。その圧力に義経自身が屈しそうになる。
 義経はもう一方の手で自分の手を握り締める静の手を握り返した。
 「根の一族の…神との決着…」
 「マリ様の、復活を…」
 その時、雷雲とともに雨が天から降ってきた。
 雨は瞬く間に豪雨となり、城の傍らに佇む火の勇者達を嘲笑うように濡らしていった。
 「全員野営地に戻れ―!!」
 女彦の号令とともに兵士達が動き出す。誰もが今後の戦いの行方に多大な不安を抱いている。まして今まで自分たちを導いてきた大将が帰らぬ存在となってしまったのだ。
 「静、俺はやる!! 例え最後の一人になったとしても必ず根の一族を、ヨミをこの世から葬り去ってやる!! 死んじまった紅丸の分まで…そうさ、例え相手が神だとしても!!」
 そう誓う義経に静がはっきりとした声で答えた。もう、先程までのように怯えてはいない。
 「ええ、義経! 例え神が相手だとしても、わらわ達は最早戦うしか道は残されていないのですから」
 傍らで兵士達を指揮していた女彦も、静の後に続けて言う。
 「おっと義経、わしの事も忘れるでないぞ、勿論神が相手とて逃げるわしではないわ!!」
 「あたいも! 仲間外れはなしだぜ!!」
 最後に松虫の言葉が重なった。4人は互いに顔を見合わせると、大きく頷いた。
 その横面を稲光が閃る。鳴神の轟音と滅び行く城の最後の轟きが重なった。
 義経は少しだけそちらの方に目を向けて両手を合わせて目を閉じた。
 何も祈らなかった。只瞼の奥に、紅丸の勝気な顔が浮かんできた。いつも、負ける事を知らない自信家の、火の勇者。
 「あばよ、紅丸」
 目を上げてそう呟く。
 雨が、義経の涙を洗い流してくれるようだった。
                                                     了

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