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〜110000HIT記念リクエスト小説<綾姫様へ>〜

しっぽと猫耳とわたし Vol.1


Present Time

「あ、あの・・・」
ルイーゼは口をぽかんと開け、目を丸くして、ノルディスに抱かれている小さな生き物を見つめた。

Illustration by 綾姫様

「ル、ルイーゼさん!?」
思わぬ来訪者に工房の主エリーはあわてて割って入り、ルイーゼの視界をさえぎろうとしたが、彼女とノルディスの間の距離は一歩ほどのものでしかない。いかに強度の近視のルイーゼでも、はっきりと見分けることができる。
ノルディスは、その柔らかな生き物をかばうように、腕にぎゅっと力をこめた。
しかし、緑色の妖精の服を身に着けた小さな姿は、栗色の髪からぴんと立った猫耳をぴくぴく動かし、きょとんとしたエメラルド色の瞳でルイーゼを見つめる。
「にゃ?」
口元からかわいらしい声をもらし、小首をかしげる。少し大きめの妖精の服の下から伸びたしっぽが左右に揺れる。
「え、ええと、ルイーゼさん、これは、あの・・・」
エリーがしどろもどろになってごまかそうとするが、思うように言葉が出て来ない。
やがて、ルイーゼははっとしたように目を見張り、猫耳としっぽを生やした幼い少女をおずおずと指さす。
「もしかして、アイゼルさん・・・?」
ごまかしようがなくなったエリーとノルディスは目を見交わすと、諦めたようにうなずく。ここまでしっかりと目撃されてしまった以上、仕方がない。後は、なんとかしてルイーゼに口止めをし、他の人たちに漏れないようにするだけだ。
だが、ルイーゼの口からは意外な言葉が出てきた。
「もしかして・・・。地下の実験室で?」
「ええっ?」
「どうして知ってるんですか?」
エリーとノルディスが驚いて聞き返す。
まるでおとぎ話の中から抜け出てきたかのような幼い少女の姿を見つめていたルイーゼの表情がくもり、今にも泣きそうな顔に変わった。
「どうしましょう・・・。きっと、あたしのせいだわ・・・」


The Day Before

その朝も、いつもと変わらずルイーゼはショップの開店準備を進めていた。
「はあ・・・」
棚に並んだ様々なアイテムの在庫を確認し、整理しながら小さくため息をつく。
先輩のアウラの後を引き継いでアカデミーのショップ店員になってから数年が経つが、未だに自分がこの仕事に向いているのか自信が持てない。確かにショップは繁盛しているが、おつりを間違えて渡してしまったり、注文と異なるアイテムを売ってしまったりというミスがなくならない。もっとも、失敗してもあまり尾を引く性格ではないので、そのことで深刻に思いつめてしまうということはなかったが、失敗から学んで向上するということもあまり望めないのだった。
でも、暇な時間はカウンター内で好きな本が自由に読めるし、錬金術ともつながりを保っていられる。実験が苦手だったせいでアカデミーを卒業するまで2年も留年してしまったルイーゼだが、決して錬金術を嫌いになったわけではない。今でも錬金術の新たな知識を求める意欲は旺盛だ。その意味では、ショップ店員はルイーゼにとって天職とも言えた。
あと半刻もすれば、寮棟から起き出してきた生徒たちがロビーにあふれ、ショップはその日最初のかき入れ時を迎える。
手元の帳簿に目を落とし、最後のチェックをしようとした時、ひたひたと足音が近づいて来た。
「ふふふふふ、相変わらず暇そうだね」
「ヘルミーナ・・・先生・・・?」
身を乗り出すようにカウンター越しに覗き込んだヘルミーナは、左右の色が異なるケントニス人独特の瞳を妖しく光らせ、口元に意味ありげな笑みを浮かべている。
「あの・・・。何かご用ですか?」
いくぶん緊張して、ルイーゼは尋ねた。イングリドと並んでザールブルグ・アカデミーの筆頭講師であるヘルミーナがショップに現れることなど、めったにあることではない。面倒見がよく、ショップで売られている参考書や調合道具にも気を配ってくれるイングリドと異なり、ヘルミーナは講義の時間以外は地下の実験室に閉じこもって、何やら怪しげな実験をしているのが常だからだ。
「用がなけりゃ、わざわざ朝早くからこんなところに来やしないよ。ふふふ」
言葉はきついが、ヘルミーナの機嫌は悪くはないようだ。いわくありげな笑みを絶やさず、腕組みをしてルイーゼを見つめる。もっとも、ヘルミーナ教室に属するアイゼルなどに言わせると「ヘルミーナ先生のあの笑みを見るとぞっとするわ」となるのだが。
「ちょっと、お願いがあるのだけどね、ふふふ」
「はあ・・・。お願い・・・ですか?」
きょとんとしてルイーゼが聞き返す。
「そうだよ。ちょいと、あたしが今やっている実験の助手をやってほしいんだ」
「助手・・・ですか? あたしが?」
ルイーゼはさらにあっけにとられる。アカデミー生時代の自分がとろくてのんびり屋だったために実験の点数が最低だったことは、ヘルミーナも知っているはずなのだが。
「そうさ、何度も言わせないでおくれよ。あんたにしかできないことなんだ」
「でも・・・」
不安げに顔をくもらせるルイーゼを威圧するように、ヘルミーナはずいと顔を突き出す。
「ちゃんとドルニエ校長にも許可は得てる。それに、手伝ってくれたら、あたしの秘蔵の蔵書を読ませてあげるよ、ふふふ」
耳元に口を寄せると、ヘルミーナは何冊かの書物の名前をささやいた。
ルイーゼははっと顔を上げ、やがてうっとりとした表情を浮かべる。
「本当に、読ませていただけるんですか?」
「もちろんさ。それじゃ、明日の朝一番に、あたしの実験室に来ておくれ」
「はい・・・」
これまで名前だけしか知らなかった幻の錬金術書を読めると聞いて夢心地のルイーゼを残し、用は済んだとばかりにヘルミーナはすたすたと研究棟へと消えていった。

昼休みが終わり、ロビーにあふれていた生徒たちは潮が引くように消えていく。午後の補習に出る者、図書室へこもって調べものに励む者、寮の自室へ戻って研究を続ける者、講師のところへ質問攻めに行く者など、様々だ。
あたふたとした時間帯を大した失敗もなく過ごし、ほっとしたルイーゼは、読みかけの本に戻ろうとする。
その時、正面玄関からオレンジ色の錬金術服を着た小柄な姿が飛び込んできた。
「ルイーゼさん、こんにちは!」
「あ、エルフィールさん、いらっしゃい」
いつも元気なエリーは、息をはずませてショップにたどり着くと、さっそく買い物リストを読み上げ始める。
「ええと、今日は『星のかけら』を10個と『祝福のワイン』を5本、『国宝虫の糸』を5束、あと『塩』を3袋ください!」
「はい」
エリーのてきぱきした口調とは対照的に、ルイーゼはのんびりした動きで背後の戸棚を探し、注文のアイテムを揃えて行く。その手が、はたと止まった。
振り返ったルイーゼは、すまなそうにエリーを見る。
「ごめんなさい。今、『塩』が在庫切れだわ。明日にはカスターニェからの荷馬車で届くはずなんですけど・・・」
「そうですか。困ったなあ・・・。でも、仕方ないですよね!」
一瞬、顔をくもらせたエリーだが、すぐににっこり笑う。この辺の切り替えの早さはさすがである。
「お昼ごろには届くと思いますから、ちゃんとエルフィールさんの分は確保しておきますね」
「はい、ありがとうございます。あ、でも、明日は午前中しかアカデミーに来られないなあ」
「大丈夫ですよ。入荷し次第、工房までお届けしますから」
ルイーゼはにっこり笑った。
「え、いいんですか?」
「はい、大切なお得意様ですから」
確かに、エリーはここ1年、ショップの売り上げナンバーワンの大口顧客なのだ。
「それじゃ、お願いします。よいしょっと・・・きゃっ」
大きな袋を抱え上げようとしたエリーが、小さな悲鳴を上げる。
足元を、なにかがよぎったのだ。
すぐにパタン、と音がして、ルイーゼの膝に柔らかな毛皮におおわれた小さな影が飛びついた。カウンターの下に設けられている小さな扉から入り込んだのだ。
「にゃ〜」
「あらあら、アウラったら、いたずらっ子さんね」
地味な灰褐色の毛におおわれた子猫を抱き上げると、ルイーゼは三角形の耳がぴんと立った頭をなでた。
子猫は目を細め、身体に比べると長めのしっぽを揺すると、ルイーゼの豊かな胸に顔をすりつけた。
「ルイーゼさん、その子・・・」
「そうなの。この間、ヒメルが生んだ子猫よ」
エリーの問いに、ルイーゼが微笑んで答える。
先代の店員アウラの時代に、アカデミーのショップに一匹の黒猫が住みついた。当時、世間を騒がせていた怪盗デア・ヒメルにあやかって“ヒメル”と名付けられたその猫は、すくすくと成長し、今ではアカデミー周辺の野良猫の間でも幅を利かせている。毎年、何匹もの子猫を産み落としているが、今年に生まれた中でもっとも小さく、人なつっこいのが、今ルイーゼが抱いている“アウラ”だ。
もちろん、資産家に嫁いで退職したアウラが、自分の名前が子猫につけられていると知ったらいい顔はしないかも知れないが、名付け親のルイーゼはそこまで深く考えてはいない。
「わあ、かわいいですね」
「にゃあ」
「本当ね。でも、この子のせいで本が毛だらけになっちゃって」
「いいじゃないですか、それくらい」
ルイーゼは、くすぐるように子猫の耳をなでる。アウラは耳をぺたんとたたみ、すっかりリラックスした様子でルイーゼに身体を預けた。ルイーゼは優しい目を向けて、言葉を続ける。
「それに、元気が良くって困ってしまうわ。あたしがどこかへ行こうとすると、すぐにくっついて来るのよ」
そうは言っているが、本人はまったく困っている様子はない。
「あはは、ルイーゼさん、なつかれてるんですね」
エリーが立ち去ると、ルイーゼは腰を下ろし、本を開く。子猫のアウラはルイーゼに倣うように書物を覗き込んでいたが、やがて脇に丸くなって寝入ってしまった。

「ああ、もう! この忙しい時に、何なのかしら!」
アイゼルはぶつぶつひとりごとを言いながら、足早に寮棟を出た。
つかつかとロビーを斜めに横切り、研究棟の入口に向かう。
「ほんとにヘルミーナ先生ったら、ひとの都合もおかまいなく呼びつけるんだから!」
人気のない廊下をまっすぐに進むと、地下へつながる石造りの階段を下りる。勢い余ってよろけそうになり、小脇に抱えた参考書とノートをあわてて持ち直した。
「まったく・・・。今度は何だっていうのかしら」
栗色の髪をいらだたしげにかき上げ、薄暗い廊下を進む。
重要な調合の下準備をしていたところを急に呼び出されたせいで、アイゼルはとげとげしい気分になっていた。何日もかけて材料を集め、後はエリーに調合を頼んでおいた『星の砂』さえ手に入れば実験が開始できる状態になっている。そこへ、この呼び出しだ。ヘルミーナは生徒の自主性を何だと思っているのだろう。とはいえ、正面切って文句も言う度胸もアイゼルにはない。
この先の地下実験室は講師専用で、アカデミー生徒が無許可で立ち入ることは許されていない。だが、アイゼルは師匠のヘルミーナに妙に気に入られているようで、怪しげなオリジナルアイテムの感想を聞かれたり実験の助手を命じられたりすることが多く、自分の意に反してここを訪れることはたびたびだった。
頑丈な石造りの壁には、いくつかのドアが並び、その先にはアカデミーの裏庭に抜ける狭い階段に通じる扉がある。いちばん奥のドアが、ヘルミーナの実験室だ。
ドアの前で立ち止まると、髪を整え、礼儀正しくノックをする。
しばらく待ったが、返事はない。
「ヘルミーナ先生? アイゼルです。お呼びですか?」
再び、先ほどよりも強めにノックし、耳を澄ませる。だが、相変わらず誰も出てくる気配はない。
師匠は実験に集中していて、ノックに気付かないのかも知れない。
そっとドアを押してみる。鍵はかかっていない。
「失礼します」
アイゼルは慎重に足を踏み入れた。過去に、ここでは何度も危ない目に遭っている。怪しい気体を吸い込んで半日眠っていたこともあったし、いきなり何匹ものヘビに巻きつかれて気絶したこともあった。もっとも、そのヘビはヘルミーナの薬で呼び起こされた幻影だったのだが。
「ヘルミーナ・・・先生?」
さして広くない実験室を見回すが、師の姿はない。
正面には調合用の大釜と作業台が並び、台の上には毒々しい色の液体が入ったガラスびんや試験管、天秤、遠心分離機など、調合用の道具が整然と置かれている。左側の壁は床から天井まで書物に埋めつくされ、反対側の壁に作りつけられた戸棚には、正体のよくわからない薬品や用途不明の奇怪な道具が並んでいる。
アイゼルは眉をひそめた。
先ほど部屋を訪ねてきた一年生は、確かに怯えた様子でアイゼルに師の言葉を伝えたのだ。
「ヘルミーナ先生がお呼びです。大至急、実験室に来るように――って」
再び室内を見回したアイゼルは、首をかしげて考え込む。
「どうしたのかしら? 呼びつけておいて、いなくなるなんて」
その時、天井から、何やら重たいものがずるずると滑るような音が響いてきた。
「え?」
音に気付いたアイゼルが顔を上げる。そのエメラルド色の目が、大きく見開かれた。
「何よ、あれ・・・?」
海にいるクラゲのようなぬめぬめした半透明のかたまりが、石の天井を這いずっている。そして、次の瞬間、アイゼルを見つけたかのように、そのどろどろした大人の頭ほどの大きさの物質のかたまりは、ぶるんと震えたかと思うと、アイゼルの頭めがけて落ちてきた。
「きゃああっ!!」
アイゼルは腰から砕けるように、床へ倒れ込んだ。ぬるぬるしたアメーバのような物質は、にかわのようにアイゼルの栗色の髪を包み込んでいく。
「いやあ! 誰かーーっ!!」
アイゼルは両足をばたつかせ、もがいた。気持ちが悪くて、髪にまとわりつく物体に手を触れる気にはなれない。
「動かないで!」
ドアの方から鋭い声が飛び、アイゼルは思わず身をすくめるようにもがくのをやめた。
鈍い爆発音がアイゼルの頭のすぐそばで響き、ぞくりとするような冷気がたちこめる。
アイゼルは何が起こったのかもわからず、そのまま身を縮めていた。
誰かが近づき、傍らにかがみこむのを感じる。髪に手がかかり、貼りついていた不気味な物体が取り去られる。物体と一緒に髪の毛が何本か抜けた痛みのほかは、特に異常は感じない。
「立っても大丈夫だよ、アイゼル。ふふふふ」
「ヘルミーナ先生・・・」
作業台に手をかけてよろよろと立ち上がると、アイゼルはおそるおそる自分の頭に触れる。氷で冷やしたように冷たくなっているだけだ。先ほど爆発したのは、師匠が投げた小型の冷却爆弾『レヘルン』だったのだと気付く。
「悪かったねえ。あなたを脅かすつもりじゃなかったのだけれどね、ふふふふ」
ヘルミーナは口元に笑みを浮かべ、右手でつかんだ半透明のかたまりをながめる。『レヘルン』の効果で凍り付いてしまったのか、ぴくりとも動かない。
「な・・・何だったんですか、それ」
いまだショックから回復しないアイゼルは、師を怒ることもできず、ただあっけにとられて尋ねた。
「ああ、ちょっとした気まぐれで、接着剤に生命を付与してみたのだけれど、少し目を離した隙に逃亡してしまってね。探しに行っていたところなのよ。まさか、天井に逃げて貼りついていたとはね、ふふふ」
ヘルミーナはそのまま作業台の端に置かれた大きな筒型のガラス容器のふたを開けると、凍りついた『生きてる接着剤』を投げ入れた。容器にはスープのように濁った液体が3分の2ほど満たされている。
「こいつは失敗作だったね」
そして、くしゃくしゃになった髪を整えているアイゼルに向き直る。
「ところで、アイゼル。あたしに何か用かい?」
「へ?」
アイゼルはきょとんとしてヘルミーナを見た。
「わたしは、ヘルミーナ先生がお呼びだとうかがったので、来たのですけど」
今度はヘルミーナがいぶかしげな表情を浮かべる。
「そうだったかねえ。呼んだのかも知れないけれど、忙しかったから忘れてしまったよ。悪いね、今はあなたに頼む用事はないわ」
「はあ・・・」
文句を言うこともできず、アイゼルは床に転がった参考書を拾い上げると、毒気を抜かれたように実験室を出ていく。
その後姿を見送り、ヘルミーナは聞こえないようにつぶやいた。
「本当は、もう用事は済んだのだけどね、ふふふ」
ふと床に目を落とす。隅に見慣れないノートが落ちていた。
拾い上げて見ると、アイゼルの名前が書いてある。床に倒れた拍子に投げ出されたのだろう。
しかも、それはアイゼルの日記のようだ。錬金術の研究ノートと間違えて、持ってきてしまったのかも知れない。
廊下に顔を突き出して覗いてみたが、アイゼルは既に階上へ去っていた。
「まあ、いいか。気がつけば、取りに来るだろうしね、ふふふ」
イングリドの日記ならば興味しんしんで読みふけったかもしれないが、弟子のプライバシーなどに興味はない。
作業台の端にアイゼルの日記を置き、ガラスの容器に向き直ると、ヘルミーナは実験の準備を進めた。

「もう! いったい何だったのよ!?」
アイゼルはぷりぷりしながらロビーに出た。師匠の気まぐれに踊らされ、奇怪なアイテムで怖い思いまでさせられて、結局は時間をむだにしただけだったのだ。
「あ、あの、アイゼルさん?」
おっとりした声が背後から聞こえる。
「何よ!」
声の主をじろりとにらむ。カウンターの向こうでは、アイゼルの刺すような視線を受けて、ルイーゼがびっくりしたように目を見開いていた。
「あ、ごめんなさい。ちょっと、いらいらしていたもので」
アイゼルは謝ったが、まだ言葉は内心を反映してとげとげしい。
「あの・・・、ご実家からお手紙が届いています」
ルイーゼはおずおずと、香水がほのかに香る上品な封筒を差し出した。
「またなの?」
実家からの手紙とは言っても、アイゼルにとってはあまり嬉しくない。最近、事業の手を広げたせいで父親は非常に多忙になっており、たびたび手伝いを求めて来ているのだ。自分のわがままでアカデミーに入学したアイゼルは無下に断ることもできず、そのせいで研究も滞りがちなのである。
不機嫌さを増したアイゼルはひったくるように手紙を受け取り、おざなりなお辞儀をしてすたすたと寮棟へ向かう。
「なにか、あったのかしら・・・?」
ぼんやりと見送りながら、小首をかしげていたルイーゼだが、すぐに読書の続きに戻る。今の動きで目を覚ました子猫のアウラが、ルイーゼの服の袖に顔をすりつけて、のどをごろごろ鳴らした。

「あら、あなたがこんなところにいるなんて、珍しいこと」
アカデミー事務棟2階の講師控え室に足を踏み入れたイングリドは、窓辺に座ってお茶をすすっているヘルミーナに気付き、皮肉っぽい調子で声をかけた。
南西に向いた窓から夕暮れ時のザールブルグ市街をながめていたヘルミーナは、横目でじろりとイングリドを見たが、そのまま無言でティーカップを傾ける。
無視されるのに慣れているイングリドは、小さく肩をすくめてポットから自分の分のお茶を注ぎ、反対側の壁にもたれかかる。
「朝から夜中まで実験室にこもっているあなたが、この時間にのんびりティータイムとはね。明日は大雪じゃないかしら、ほほほほ」
「ふん、何とでも言うがいいさ」
つんけんした言葉とは裏腹に、ヘルミーナは上機嫌な様子で、笑みを浮かべてイングリドを見る。
「今度の実験がうまくいったら、あんたはぐうの音も出なくなるだろうよ、ふふふ」
「また、性懲りもなくあの実験をやっているの?」
「当たり前だろう。あれはあたしのライフワークなんだからね、ふふふふ」
「どうでもいいけれど、生徒を実験台になんかしてないでしょうね」
「ふふふ、その点は安心していいよ。危ない目には遭わせないように、ちゃんと心がけているからね」
「答えになってないじゃない」
イングリドはお代わりを注ごうとポットに手を伸ばしたが、つとその手を止め、あらためてヘルミーナを見やる。
「そういえば、ルイーゼさんを実験の助手に指名したんですって?」
「あらまあ、地獄耳だこと。ふふふ」
「ドルニエ先生から聞いたのよ。あなたの勢いに押し切られて許可は与えたものの、後で心配になったらしいわ、ドルニエ先生」
「ふふふふ、取り越し苦労もいいところだね」
「そんなことないわよ。あの事件を忘れたわけではないでしょう?」
イングリドは鋭い視線を向けて言う。彼女が口にしたのは、5年ほど前にザールブルグ近辺に謎の怪物が出現した事件のことで、当時アカデミーの生徒だったルイーゼも当事者のひとりだった。その事件が原因で、ヘルミーナは一時期ザールブルグを離れ、何度目かの修行の旅に出ることになったのだ。
「確かに彼女は頭はいいし、知識も豊富よ。でも、アカデミー生時代の成績を見れば、実験を任せるのは危険だということは明らかじゃないの。何が起こるかわかったものじゃないわ。助手にするならアイゼルとか、他にも適任者がたくさんいるでしょう?」
「ふふふふ、さすがはイングリド。ちゃんと的を射てるじゃないの」
「え? どういうこと?」
「何が起こるかわからない――というところさ。あたしの実験手順は完璧すぎるから、自分でやっても予想通りの結果しか出なくてね。いささかマンネリになっていたところなのよ」
「よく言うわ」
「そこで、実験に偶発的要素を持ち込んでみようと思ってね、ふふふ」
「何ですって?」
目をむくイングリドに、ヘルミーナはすまして答える。
「『エリキシル剤』だって、元はといえばケントニスのさる錬金術士の実験室で、虫よけのために吊るしておいた『ガッシュの木炭』が風に飛んで調合釜に落ちたことで、あんなすごい効力を持った薬になったと言う話じゃないの」
「だけど――」
「とろくさいあの娘なら、きっとあたしが思ってもみないようなやり方で実験をしてくれるはずだわ。そこから、どんなものが生まれてくるのか・・・。ふふふ、考えるだけでもぞくぞくしない?」
ヘルミーナは、それこそ見る者にぞくぞく悪寒が走るような笑みを浮かべた。イングリドが天を仰ぐ。
「もう・・・! どんな結果になっても、わたくしは知りませんからね!」
「別に、あんたに知ってもらおうとは思っちゃいないよ」
「まあ、いいけど・・・。でも、なにかあったら、きっちり責任を取ってもらいますからね!」
「そんなことは百も承知さ」
ヘルミーナは乾杯するかのように、カップを掲げた。
「準備はすべて整った。明日、どんな結果が出るのか・・・。実に楽しみだねえ、ふふふ」


Today’s Morning

「さて・・・と。これでいいかしら?」
ヘルミーナの地下実験室で、ルイーゼはメモを見ながら材料を揃えていた。
前の日に言われた通り、ルイーゼは朝一番でヘルミーナの実験室を訪れた。助手を務めることについてはドルニエ校長の許可が出ているとは言うものの、一日中ショップを閉めているわけにはいかない。ドルニエもヘルミーナも、店員の代役を手配するところまでは考えが及ばなかったのだ。生徒たちのためにも、ルイーゼはなんとか午前中で実験を終らせ、昼休みにはショップを開店させる心づもりだった。
ところが、肝心のヘルミーナは不親切極まりなかった。
不安そうにたたずむルイーゼに、ヘルミーナは材料と手順を書いたメモだけ渡し、
「あとはあなたの好きにやってくれていいよ。いくら失敗してもかまわないからね、ふふふふ」
と言い残すと、さっさと実験室を出て行ってしまったのだ。
ルイーゼは途方にくれた。この実験でヘルミーナが何を調合しようとしているのかすら教えてもらえなかったのだ。材料をざっとながめてみたが、これまでルイーゼが本で読んだ知識を以ってしても、最終的な完成品を推測することすらできない。ただ、生命付与か変身魔法に関係があるのではないかと、おぼろげにわかるだけだ。
「はあ・・・。でも、とにかくやってみなくちゃ」
小さくため息をつくと、ルイーゼは手近な薬品のびんを取り上げ、メモの指示の通り作業台の端に置かれたガラス容器に注ごうとした。
慎重に行おうとすればするほど、緊張で手が震える。
ふと、足元がなにかもぞもぞするのを感じて、手をすべらせた。
「きゃっ!」
あっという間にびんの中身がこぼれ、全部が容器に注がれてしまう。容器に満たされていた濁った液体が色を変え、脈動した。
「にゃー」
子猫のアウラがルイーゼの足に、じゃれるように身をすり寄せている。
「まあ・・・。アウラったら」
困ったような顔をしたが、ルイーゼはすぐににっこり笑ってアウラを抱き上げた。
先ほどショップのカウンターに立ち寄った時には、アウラは床に置かれたかごの中で丸くなって眠っていた。それを幸いに、ルイーゼはそのまま放っておいて実験室に下りて来たわけだが、目覚めたアウラは臭いを追いかけてここまでやって来てしまったのだろう。
「困ったわね・・・。でも、追い返すわけにはいかないし・・・」
心やさしいルイーゼは、指をあごに当て、上目遣いで考え込む。近くに誰かいれば、子猫を外に連れて行ってくれるよう頼むこともできるのだが、あいにく地下には誰もいない。それに、ヘルミーナに預けでもしたら、何をされるかわかったものではない。
「仕方がないわね・・・。じゃあ、おとなしく、そこで待っていてね。邪魔をしてはだめよ」
作業台の反対の端に置かれた薄いノートの脇にアウラをそっと下ろすと、ルイーゼは子猫に向かって言い聞かせた。
アウラは「みゃお」と鳴いて服従の意を示し、毛づくろいを始める。
うなずいて、ルイーゼはヘルミーナのメモに目を落とした。近視のくせに眼鏡をかけていないため、文字を読むために作業台に突っ伏すように身をかがめる。
そして、次のどろりとした液体をビーカーに注ぎ、蒸留水で薄めた後、分量を確かめてガラス容器に注ごうとした。
「あら」
ルイーゼは自分の錬金術服の袖に目をとめた。アウラを抱き上げた時に付いたのか、水色の袖は灰褐色の細く柔らかな毛にまみれている。
ルイーゼは、すぐにその場で毛を払い落とした。錬金術の実験を行う際は、常に身ぎれいにしておかねばならない。初級の教科書に書いてある鉄則だ。
「これでよし・・・と」
後は、アウラに邪魔されることもなく、メモの手順通りに作業は順調に進んだ。もっとも、途中で別のことを考えてしまって入れる薬品の順番や量を間違えたり、ぼんやりしていて材料を注ぐタイミングを逸したりしたのを勘定に入れなければの話だが。
もちろんルイーゼは気付いていなかったが、この時すでに、ヘルミーナが意図した通り、ガラス容器の中では思いもかけない反応が進行していたのだった。

「ああ、まったく!」
アイゼルは昨日以上に機嫌を損ねていた。
実家から届いた手紙は、案の定、手伝ってほしいことがあるので、すぐに一時帰宅するようにと書かれていた。これではまた、研究スケジュールが大幅に狂ってしまう。
そのことでいらついて、眠れない夜を過ごしたあげく、ようやく夜明け前に寝付いたと思ったら、今度は日が高くなるまで寝過ごしてしまったのだ。しかも、朝食もとれず、身支度もそこそこに部屋を出ようとした時、大切な日記が机から消えているのに気付いた。
あの中身を誰かに読まれでもしたら――。特に、ノルディスへの想いを赤裸々につづったページを当人に見られたりしたら、もう恥ずかしくて生きてはいられない。
たぶん、昨日、ヘルミーナに呼び出されてあわてて実験室へ向かった時に、研究ノートと間違えて日記を持っていってしまったのだ。そして、『生きてる接着剤』に襲われた騒ぎに紛れて置き忘れて来てしまったのに違いない。
アイゼルは、着ている錬金術服の色と同じように顔を真っ赤に染め、ものすごい勢いでロビーを突っ切って行く。ロビーにいた生徒たちはアイゼルの剣幕に恐れをなしたように通路を開け、その後姿を見送りながら、顔を寄せて何やらささやき合うのだった。
実家へ急ぐ前に、日記だけは何としても取り戻しておかなければ。
「もう! どうしてあたしがこんな目に遭わなければいけないのかしら!? 全部、ヘルミーナ先生のせいだわ!」
アイゼルは地下への階段を駆け下りて行った。
あと一刻ほどで、アカデミーは昼休みを迎える。

午前中、図書室でずっと調べものをしていたノルディスは、大きく伸びをしてノートを閉じた。
「はああ、ちょっと疲れたかな」
半日かかると思っていたが、作業は予想以上にはかどり、まだ昼まで一刻ほどある。
寮の自室へ戻って一休みしようと、ノルディスは図書室を出た。
すると、ロビーをうろうろしているオレンジ色の錬金術服の小柄な姿が目に入った。
「やあ、エリー」
「あ、ノルディス」
エリーはにっこり笑ったが、すぐに真面目な表情になる。
「どうかしたの、エリー?」
「うん、ねえノルディス、アイゼルを見なかった?」
「いや・・・。今日は朝から図書室にこもっていたものだから。部屋にはいないのかい?」
「うん、何度もノックしたんだけど、鍵がかかっているし。ルイーゼさんに聞こうと思ったら、今日はショップは午前中休業って札がかかってるし」
「アイゼルに、どんな用なんだい?」
「この前、『星の砂』を依頼されたんだよ。とにかく大至急なので、できあがり次第すぐに届けてほしいって言われていたから、持って来たんだけど」
「そうか、じゃあ、ぼくも一緒に探すよ」
「あ、ありがと、ノルディス」
「部屋にもロビーにもいないってことは、地下の実験室かも知れないな」
ノルディスの勘は珍しく冴えていた。しかし、この言葉のおかげで、あんな事件に巻き込まれることになろうとは、ノルディスは知る由もなかったのだ。

「あら、大変! もう、こんな時間?」
アカデミーの鐘楼から響いてくる時を告げる音に、ルイーゼははっと顔を上げた。
すぐに戻って準備をしなければ、昼休みのショップ開店に間に合わない。
あわてたルイーゼは、メモに記された最後の薬品を大急ぎで容器に注いだ。『ゆっくりと慎重に、衝撃を与えないように混ぜ合わせること』という注意書きは完全に見落とす。しゃもじのような木のへらでどろりと濁った液体をかき混ぜると、中でなにかがうごめいてでもいるかのように、表面にぶくぶくと泡が湧き立ってきた。
「ええと、後はこのまま放置すればいいのよね」
ルイーゼはほっと息をつき、
「さあ、アウラ、帰りましょう」
だが、アウラは作業台から姿を消していた。ルイーゼはきょとんとする。
「どこへ行ったのかしら・・・?」
あちこち見回し、名を呼んでみたが、子猫の気配はない。
「きっと、飽きてお散歩に行っちゃったのね」
そう決めると、暖かな調合釜の陰にもぐりこんでうとうとしているアウラには気付かないまま、ルイーゼは急いで実験室を出た。早くロビーに戻って、昼休みが始まる前にショップを開けておかなければならない。
廊下を端まで進んだところで、階段を勢いよく下りて来たアイゼルと衝突しそうになる。
「あ、ごめんなさい」
アイゼルは返事もせず、すごい勢いで廊下を奥へ走って行く。
「なにか、あったのかしら・・・?」
昨日も同じことを口にしたような気がする、と思いながら、ルイーゼは足早に(と言っても、他人から見ればのんびりしたペースで)階段を上って行った。
階段を上りきったところで、ノルディスとエリーに出会う。
「あら・・・」
「あ、ルイーゼさん、アイゼルを見ませんでしたか?」
「ええ、さっき地下ですれ違いましたけど・・・」
「ありがとうございます!」
エリーはぴょこんと頭を下げ、ノルディスと連れ立って階段を下りて行く。ふたりとも、何度もイングリドの助手として地下実験室に下りたことはあるから、勝手はわかっていた。
「なんだか、あわただしいわね・・・」
ルイーゼはカウンターにたどり着くと、てきぱきと(と言っても、他人から見ればいたってのんびりした動きで)開店準備にかかった。

エリーとノルディスがヘルミーナの実験室の前にたどり着いた時に、それは起こった。
アイゼルが用があるとすればヘルミーナの実験室だろうとは思ったが、念のために手前にあるイングリドやドルニエの実験室を覗いていたため、いささかタイミングが遅れたが、それが幸いした。さもなければ、ふたりは爆発に巻き込まれていたことだろう。
重低音の響きと共に床が振動し、エリーとノルディスは不安げに顔を見合わせた。
言葉を交わす間もなく、鈍い爆発音とガラスが砕けるような音が部屋の中から聞こえ、木のドアが爆風で激しく揺れる。
「きゃあっ!」
「エリー、危ない!」
ノルディスはエリーをかばおうとしたが、その前にエリーは床に伏せている。新入生の頃、工房で調合に失敗して何度も爆発騒ぎを起こしているだけに、エリーの方が対処法を心得ていた。
幸いなことに、爆発はそう強烈なものではなかったらしく、ドアはひびが入り蝶番がひとつ外れたものの、吹き飛ぶほどのことはなかった。
「アイゼル!? いるの?」
「大丈夫かい?」
立ち上がったエリーとノルディスは、新たな爆発の気配がないのを確かめると、呼びかけながらドアに手をかけた。歪んで開きにくくなったドアをなんとかこじ開け、足を踏み入れる。
そこは、まさに惨状を呈していた。
煙と湯気がもうもうと吹き上がり、狭い実験室は視界が曇っている。床にはスープかシチューを思わせる粘り気のある濁った液体が飛び散り、ガラス器具が破裂したのか、鋭いガラス片が、撒き散らされた星砂のように、美しいが剣呑な光を放っている。
その中央の床の上に、誰かが倒れていた。
「アイゼル?」
ノルディスが一歩を踏み出す。その目が、大きく見開かれた。
まさか――!? これがアイゼルのわけがない!
ほとんど思考停止状態のまま、ノルディスは、胎児のような格好で横たわっている小さな姿に手を伸ばそうとした。
ぴくり・・・と、その身体が動く。
びしょぬれになった栗色の髪がもぞもぞとうごめき、三角形をして灰褐色の短い毛におおわれた猫耳がぴんと立った。脚の間に隠れていたしっぽが姿を現し、それ自体が意思を持った生き物のように、左右に揺れる。
「あ・・・、あ・・・」
「どうしたの、ノルディス?」
覗き込んだエリーも、絶句して身を凍らせた。
その時、エリーが工房で働いてもらっている妖精族と同じくらいの体格をした幼い少女は、のろのろと身を起こし、顔を上げてノルディスを見た。
「にゃ?」
きょとんとしたように大きく見開かれた目は、深みのあるエメラルド色をしていた。アイゼルと同じ色の瞳だ。そして、その顔立ちも、10年前のアイゼルならば、まさにそうであったろうと思わせるものだった。
幼い少女は、ノルディスの顔をじっと見つめ、
「にゃあ」
と嬉しそうにつぶやくと、小さな手を差し伸べ、とろけてしまいそうな笑みを浮かべた。
ノルディスが思わず両手を伸ばそうとした時、鋭いエリーの声が飛んだ。
「ノルディス! 見ちゃダメ!!」
そして、エリーに突き飛ばされたノルディスは、もんどりうって部屋の隅に倒れ込む。
ノルディスの視界をさえぎるように、エリーが立ちはだかった。
「ごめん、ノルディス・・・。でも――だめだよ、女性として・・・」
「あ、ああ・・・。そうだね・・・」
ごくりとつばを飲み込み、ノルディスはつぶやいた。
エリーがこのような行動をとったのも無理はない。
幼いアイゼルの顔立ちをした小さな少女は、何ひとつ身に着けていない、生まれたままの姿だったのだ。


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