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芽殖弧虫


「ああ、疲れた」
 机の上の書類を片付けると、私は大きく伸びをし、肩の凝りをほぐした。
 金曜日の夜八時。長い一週間がようやく終わった。今週も残業が多かったが、幸い、週末の休日出勤だけはせずに済みそうだ。
 パソコンをシャットダウンし、電源を切る。最後にメールチェックをしようかとも思ったが、余計な仕事が飛び込んできていないとも限らない。見てしまったら、自分の性格上、処理してしまわないと気が済まなくなり、またも退社時間が遅れてしまうだろう。せっかくの週末、それは願い下げだ。
「よう、お疲れ」
 背後から、野太い声がかかる。
 振り向くと、課長の丸山が、ごつい顔に似合わない人なつっこい笑みを浮かべて立っていた。帰り支度を終え、黒のショルダーバッグを肩に掛けている。
「あ、お疲れ様です。課長も、お帰りですか」
「ああ、やっと一区切りついたよ。今週はきつかったからな。いや、今週も、か」
 大きな口を開け、豪快に笑う。元横綱の武蔵丸を思わせる、浅黒い南方系の顔立ちをした丸山は四十代前半、レスラーのようにたくましく大きな身体をしている。学生時代はアメフトの選手で、今も週末にはスポーツジムで鍛えているらしく、筋肉質の身体には中年太りの気配も見えない。ぜい肉がないという点では私も同じだが、私の場合は単に鶏ガラのように痩せこけているだけである。職場のOLが私と丸山課長が並んで仕事をしているのを見て「親子みたい」と感想を漏らすのも、ふたりの体格差を考えれば文句も言えない。実年齢は五歳と違わないのだが。
「どうだ、よかったら、軽く一杯やってかないか」
 グローブのような肉厚の手を私の肩に置いて、丸山が言う。
「そうですね……」
 私は曖昧に返事をした。
 フロアを見渡せば、さすがに金曜日とあって、残っている者は少ない。正直なところ、早く家に帰って、日ごろの睡眠不足を解消したかった。
 だが、私はこの豪放磊落な上司が好きだった。部下になって三年ほどになるが、丸山は酒の席で仕事の話をしたことがない。酔ってくどくどと説教をするタイプには程遠かったし、若い頃に海外勤務で体験した珍しい話を面白おかしく聞かせてくれる。
「それじゃ、行きますか」
「よし、そう来なくっちゃな」
 張り切った口調で言った丸山だが、ふと真顔になって、しげしげと私の顔を見る。
「おまえ、かなり疲れてるようだな」
「ええ、まあ」
 私の返事を聞くと、丸山は我が意を得たりという感じでにんまりと笑みを浮かべた。
「よし、それじゃ、今日はたっぷりと精をつけに行こうじゃないか。元気になって、また来週からバリバリ働いてもらわんといかんからな。この間、いい店を見つけたんだ」
(しまった……)
 私は心の中で苦笑いを浮かべた。丸山の言う『いい店』がどのような店かは、想像がつく。実のところ、私はそういう店は苦手だったが、今さら断るわけにはいかない。
 丸山は楽しくて仕方がないという様子で、先頭に立ってエレベーターに乗り込む。社屋を出ると、表通りで元気良くタクシーを呼び止めた。

「ええと、確かこの辺だったよな……。あ、運転手さん、そこの交差点で止めて」
 そこは、浅草駅に程近い飲み屋街の一画だった。間口の狭い一杯飲み屋が軒を並べ、赤提灯と焼き鳥の煙がサラリーマンをいざなう。ちょうど、客が入れ替わる時間帯なのだろうか、ごみごみした狭い路地には、赤い顔でネクタイをだらしなく緩めたサラリーマンの群れが右へ左へゆっくりと行き交っている。丸山は、その巨体でブルドーザーのように酔っ払いの集団を二分しながら、ネオンに照らされた下町の路地をどすどすと進んでいく。私はついていくので精一杯だ。
「さあ、着いたぞ、ここだ」
 振り返り、にやりと笑った丸山は、私の返事も待たず、ガラスの引き戸をがらがらと開け、ひょいと身をかがめて暖簾をくぐる。
「おやっさん、ふたりだけど、いいかい」
 店内に響く丸山の元気な声を聞きながら、店の看板を見上げて、私はため息をついた。
「やっぱりか……」
 すすけて、見ようによっては風情がある一枚板の看板には、黒々とした達筆な手書き文字で、
『ゲテモノ・精力料理 たづる屋』
と書いてあったのだ。
 言い忘れていたが、私と丸山の勤務先は、大手の国際商社である。二十代の頃、海外事業部に配属された丸山は、体格とバイタリティをかわれて、東南アジア・アフリカ・南米といった発展途上国の駐在員を歴任したそうだ。そして、現地の人と信頼関係を築くには、同じ文化の中で過ごさなければならないという信念をもって仕事に当たった。そこには当然のように、異文化の食を体験するということも含まれていた。
 丸山はおじけずに、現地で出された物は何でも食べたそうだ。ヘビ、ワニ、トカゲといった爬虫類はもちろん、カエルにサンショウウオ、ゴキブリの炒め物、火であぶったイモムシ、ゴカイのスープ、アリ塚から採ってきたばかりの生きたシロアリ――。中には現地スタッフがからかうつもりで出した、現地でも口にしないようなゲテモノ料理もあったらしいが、それまでも平らげて、逆に現地人をあわてさせたエピソードもあるという。
「食べられる生き物で、俺が食ったことがないのは人間だけだ」と、あるとき丸山は豪語していた。
 海外で身に着いた食習慣は、日本へ戻っても消えることはなかったらしい。丸山は好んでゲテモノ料理屋を探し出し、足しげく通っているようだった。常連になっている店も何軒かあるそうだ。面白がって部下や同僚を誘うこともあったが、連れて行かれた方はいい迷惑である。たいていの場合、一度で閉口し、二度と誘いには乗らなくなってしまう。もちろん、丸山は人望があるので、周囲の者も通常の酒の誘いならば喜んで付き合うが、行き先がその手の店と知れたとたん、急用が入ったり不意に体調不良になる者が続出するのだった。
 そんな中にあって、私は何度も丸山に付き合ってこれらの店に出入りしてきた。将来の幹部候補生として前途有望な丸山の覚えをめでたくしておこうという打算が入っていなかったとは言わない。だが、私は丸山とは別の意味で、ゲテモノ料理屋に心惹かれるものがないこともなかったのだ。
「おい、どうした、早く来いよ。席、空いてたから」
 丸山の声にうながされ、暖簾をくぐる。
 店の間口は狭く、奥に細長い。向かって右側にカウンターがあり、丸椅子が七脚ほど並んでいる。その奥に四人掛けの小さなテーブル席があるが、それだけだ。カウンターの向こうは狭い厨房になっており、人の良さそうな赤ら顔の亭主が、はげ上がった頭に手ぬぐいを鉢巻きのように巻いて、包丁を握っている。板壁はすすけて黒ずみ、年季を感じさせる。
 店内はほぼ満席で、蒸し蒸しと暑かった。客が吸う煙草や、焼き物の煙で薄くもやっていたが、普通の赤提灯の店のように焼き鳥の香ばしいにおいではなく、鼻を刺激する異臭のようなものが混じっている。
 私と丸山は、カウンターのほぼ中央に空いていた椅子に腰を落ち着けた。狭い空間に押し込まれたので、丸山の大きな身体が圧迫感をもってのしかかってくるように感じる。
「ああ、丸山さん、いらっしゃい。……お連れさんは、初めてだね」
 熱いおしぼりを差し出しながら、亭主がえびす様のような笑顔を見せる。
「ああ、こいつは細田、俺の右腕だよ、こいつがいないと、仕事が進まない」
 私に向かって笑って見せ、丸山は亭主に言う。
「おやっさん、俺はいつものを。……おまえは、どうする? なにか精のつく飲み物を頼めよ」
「そうですね……」
 私はきょろきょろとカウンターや亭主の後ろの棚を見渡した。
 普通の飲み屋ならば、カウンターのガラスケースには新鮮なマグロの切り身や白身魚、イカにタコに貝類が美味そうに収まり、壁の棚にはキープボトルがずらりと並んでいるだろう。だが、この店は違う。
 カウンターや棚には金魚鉢のような丸い広口瓶や円筒形のガラス瓶が並び、それぞれに満たされた液体の中には、博物館もかくやという奇怪な物体が浮かんでいる。大き目のガラス鉢の中にはとぐろを巻いたヘビがまるごと一匹収まり、もちろん死んでいるわけだが、白濁した目でこちらをにらんでいる。水族館で目にするウミユリや偕老同穴、クラゲの標本のように見える白っ茶けたものは、鹿や虎などの動物のペニスだ。瓶にぎっしりと詰まった茶色の佃煮は、昆布や貝ではなく、イナゴや蛾などの昆虫類が中心だ。
 しばし観察した後、私は鹿のペニスを漬け込んだ老酒を温めたものを注文した。このあたりが無難なのである。
「あいよ!」
 私の前にグラスを置くと、亭主はすぐに丸山の飲み物の準備にかかった。小ぶりのワイングラスをまな板の近くに置く。それから身をかがめ、下からなにかをつかみ取るような手つきをする。さっと掲げた左手には、なにか細長いものがぶら下がって、のたくっていた。体長二十センチほどのヘビだ。色合いや模様からいって、マムシに違いない。頭の後ろをつかんだまま、素早くまな板に載せると、右手の包丁を叩きつける。一撃で、マムシの首は飛んだ。亭主が激しくのたくる胴体を差し上げ、しごくようにすると、切り口から赤黒い血がワイングラスへ滴っていく。
 グラスの半ばまで満たされると、亭主は
「今日のは生きがいいよ」
と、丸山に手渡した。
 丸山は高級ワインを愛でるような仕草で香りを吸い込む。生臭いだけだと思うのだが、陶然とした表情を浮かべると、私に向かって軽くグラスをかかげ、「乾杯」と言うと、一気にグラスを傾けた。つい先ほどまで生きていたマムシの生き血が、丸山ののどを流れ下っていく。
「ああ、美味かった。確かに、生きがいいね」
 丸山は愛想よく亭主に笑いかける。
「そりゃそうだ。今朝、獲ってきたばかりだからね」
 亭主も嬉しそうにえびす顔で言う。後で聞いた話だが、亭主は千葉や埼玉のゴルフ場へ通っては、繁みに潜むマムシを捕まえて来るのだという。ゴルフ場も、プレーヤーの安全に関わることだからと歓迎してくれるので、一石二鳥なのだそうだ。
「どうだい、丸山さん、こっちも生でいくかい」
 亭主は、まな板の上で痙攣するようにのたくっているマムシの胴体を示す。
「そうだな、頼むよ」
「あいよ!」
 いくらも経たぬうちに、皮を剥いたマムシのぶつ切りが、刺身皿に載って差し出された。いまだに生命力の残滓があるのか、ひくひくとうごめいているように見える。
「こいつは美味そうだ」
 丸山が軽く醤油をかけると、切り身は再び生命を得たかのようにひくひくとのたうち始める。苦悶するようにうごめく肉片を、丸山は豪快に口に放り込むと、満足そうに咀嚼する。
「うん、うまい。おい、おまえもひとつどうだ」
 勧められたが、私は断った。
「あ、そうか。おまえは生ものは苦手だったんだな」
 その通りなのだ。生来、私は生ものが苦手で、子供の頃は家族で寿司屋へ行っても、卵と海苔巻きしか食べられなかった。成人して、寿司や刺身はそれなりに口にできるようにはなったけれども、進んで箸をつけたいとは思わない。今でも生牡蛎は食べられないし、さる宴席でシラウオの踊り食いが出たときには、本当に閉口したものだ。重要な顧客を接待する席だったため、断ることもままならず、仲居に言われるままに目をつぶって一気に飲み込んだが、そのあと一週間ほどは気分が悪かった。
 だから、こうして丸山に付き合ってゲテモノ料理屋に来ても、火の通ったものだけを口にするようにしている。
「それじゃ、白焼きにでもしましょうか」
 亭主が言う。私はありがたくマムシの白焼きを頂戴した。その後も、健啖家ぶりを発揮する丸山の横でイナゴの佃煮をつつきながら、私はガラス瓶に収まった異形の食材を観察するのに余念がなかった。
 どのような理由によるものか、私の興味の対象は、他人とは異なっていた。
 家族連れで動物園へ行けば、ライオンやゾウやパンダに夢中の子供たちを妻に預けて、爬虫類館でニシキヘビやコブラを飽かずながめている。水族館へ行っても、美しい熱帯魚や大水槽を回遊する魚の群れはそっちのけで、奇怪な深海魚やクラゲ、ナマコやヒトデ、イソギンチャクなどに夢中になり、リュウグウノツカイの標本の前で立ち尽くしているうちに子供たちが場内を一周してきてしまったこともある。自宅近くの公園で雨上がりの散歩中に、コールタールのようにつややかな黒いコウガイビルを見つけたときは、持ち帰って水槽で飼おうとして、家族から総スカンをくった。
 だから、ゲテモノ料理屋のガラス瓶に浮かぶ鹿のペニスやハブのアルコール漬けをながめていると、かつて流行したという畸形やフリークばかりを集めた見世物小屋へ入り込んだような、一種異様な気分になる。
 気が進まないながらも、つい丸山のゲテモノ食いに付き合ってしまうのは、そんな理由があるからだった。

 それからしばらくして、会社の事業再編成に伴い、私は転勤を命じられた。
 新たな勤務先は地方支社だが、左遷というわけではない。小さな支社とはいえ、課長になるのだから、私自身も家族も喜んだ。ただ、子供の学校のことも考え、単身赴任せざるを得なかったが。
 だが、異動によって、丸山とはまったく疎遠になってしまった。
 所属する事業部が異なると、同じ会社の中にいてさえも、仕事の上ではまったく接点がない。本社へ出張する機会があっても、丸山も私も忙しい身でスケジュールが合わず、顔を見ることさえできなかった。
 こうして、あっという間に一年が経った。
「そういえば、知ってるか? 丸山課長、入院してるらしいぞ」
 たまたま出張で支社を訪れた同期の男から聞いて、私はびっくりした。
「どうしたんだ、交通事故かなにかか?」
 元気いっぱいの丸山が病気になるはずがない。最初に浮かんだのは事故にあったのではないかということだった。
「いや、病気らしい。詳しいことは知らないけれど、ひと月くらい前に、体調を崩したので当分は休むと奥さんから連絡があったそうだ」
「そうか……」
 私はすぐに元の職場に電話を入れて、聞いてみた。だが、誰に尋ねても要領を得ない。
「みんなでお見舞いに行こうと思ったんですけど、遠慮してくれって奥様から言われたんです」
 女子社員は悲しそうに言った。
 それほど症状が重いのだろうか。
 私はいてもたってもいられなくなった。
 その週末、私は東京へ行き、丸山の自宅を訪ねた。部下だった頃、何度かお邪魔したことがあり、夫人の美恵子とも面識がある。丸山には子供がおらず、夫婦でふたり暮らしだった。
 金曜日の晩、事前連絡もせずにいきなり訪問した私に、美恵子はとまどいながらも応対してくれた。
 丸山と対照的に色白で華奢な美恵子夫人だが、以前に会ったときよりも頬がこけ、顔色も悪かった。夫の病気に心労が重なっているのだろう。丸山の病状を尋ねても、言を左右にしてはぐらかそうとする。しかし、何度も熱心に、見舞いたいという意思を伝えると、ついに根負けしたように、応じてくれた。同じ職場だった頃、丸山が私のことを誰よりもかわいがっていたのを、夫人も知っていたからだろう。夫人は私に釘をさすことも忘れなかった。
「それでは、明日、ご一緒にいらしてください。でも、いろいろと差し障りがございますので、くれぐれも他の方にはご内密に、お願いいたします」
 翌日の昼過ぎ、私は指定された私鉄の駅前で美恵子夫人と落ち合った。そこからはタクシーで病院へ向かう。タクシーは、都内には珍しい閑静な高級住宅街を抜けて走った。このあたりは、緑が濃い。
 到着してみて、私はいささか驚いた。夫人が見舞いをしぶるほどの重病であるなら、大病院に入院しているのだろうと思っていたのだが、案内された場所は、普通の住宅とさして変わりないような個人医院だった。建物は鉄筋コンクリートの二階建てで、しっかりとしているようだが、数世帯が入居していっぱいになってしまうアパート程度の大きさだ。入院設備があるにしても、ベッド数は多くはないだろう。
 いろいろと質問したいことはあったが、夫人は落ち合ったときに挨拶をしたきり、周囲に壁を張り巡らしたかように黙りこくっていたので、私は何も聞けなかった。
 夫人の後に従って、院内へ入る。受付には白衣を着た若い女性がいた。話は通っていたらしく、私と夫人はすぐにスリッパに履き替えて、廊下を奥へ進んだ。
 手前には診察室や研究室、調剤室などと書かれたドアが並んでいるが、ひっそりとしている。土曜の午後だから、診療時間外なのだろう。病室はすべて個室のようだが、一室を除いて、名札はかかっていなかった。ということは、入院患者は丸山ひとりだけなのだろうか。
 ドアを軽くノックすると、美恵子夫人は静かにドアを開け、私にも入るように促した。
 南向きの個室は、窓が広くとってあり、明るい。ベッドもパイプベッドではなく、ちょっとしたビジネスホテル並みのもので、サイドテーブルもしゃれている。リゾートに来たのではないかと錯覚しそうになったが、それも病人に接するまでだった。
 美恵子夫人が枕元を覗き込むようにして、声をかける。
「あなた……。細田さんがお見舞いにいらしてくださいましたよ」
「おお、そうか……」
 か細い声に私は驚き、さらにベッドに横たわった丸山の顔を見て、愕然とした。あわてて表情を取り繕う。
「細田……。よく来てくれたな」
「丸山さん……」
 それ以上の言葉は出てこない。ありきたりのお見舞いの文句など、虚しいだけだろう。
 たくましく、精悍だった丸山の顔つきは、すっかり変わってしまっていた。
 日焼けして健康的だった色黒の顔は、今や血が淀んだようにどす黒くなっている。皮膚はつやを失い、頬はたるみ、目の下には隈ができ、顔全体がしぼんだように見える。首から下は布団に隠れているのでわからないが、想像するに、かなりやせ細っているのだろう。このような姿になってしまっているのでは、見舞い客を厭う気持ちもわかる。
 それにしても、健康優良のかたまりだったような丸山が、短期間でこんな姿になってしまうとは、いったいどのような病魔に冒されたというのだろうか。
 やはり、癌……なのか。
「びっくりしただろう」
 丸山は力なく微笑んだ。
「あ……、わたし、お茶をいれてきますね」
 ふたりきりになれるよう気を利かせてくれたのか、夫人が席を立つ。
「丸山さん……、いったい、どうして」
「美恵子からは、聞いてないのか」
「はい、まだ何も……」
「そうか……」
 丸山は意を決したように寝返りを打って、布団から半身を出した。予想通り、パジャマを着た上からでも、肉がごっそりそげ落ちているのがわかる。丸山は、右手でパジャマの左の袖をまくりあげた。
「見ろ」
 言われるまでもなく、私の目はむき出しになった丸山の左腕に釘付けになっていた。
 どのように表現すればよいのだろう。
 子供の頃、田舎で虫取りをしていて、迷い込んだ藪で蚊とブユの大群に襲われ、腕や脚を満遍なく刺されて、赤くでこぼこに腫れ上がったことがある。それを数倍ひどくしたものと思えばいいだろうか。あるいは、重度の火傷が治りかけた状態か。
 専門的には、丘疹というのかもしれない。丸山の腕の皮膚は、数ミリから一センチ程度の赤い発疹に埋め尽くされていた。埋め尽くす――という表現は大げさかもしれないが、少なくとも、まともな皮膚の割合の方がはるかに少ない。発疹以外にも、細かな切り傷が数え切れないほどあり、何ヶ所も絆創膏が貼られている。
 皮膚病なのか――。まさか、エイズの症状? 若い頃、海外でかなり無茶な遊びをしていたと聞いている私は、そんな想像までしてしまった。
「虫だよ」
 丸山がぽつりと言う。
「は? 虫刺されですか」
 思わず、間の抜けた返事をしてしまう。丸山は怒った様子も見せず、
「そうじゃない。この腫れている場所の全部に、虫がわいているんだ。わけのわからない、寄生虫がな」
「寄生虫……」
 丸山は袖を元に戻し、仰向けに返る。
「腕だけじゃないぞ。両脚も、腹も、背中も……。首から上以外は全部だ。何百匹いるのか、見当もつかん。何度も手術をして、摘出しているんだが、追いつきやしない。……俺も、年貢の納め時かな」
 どんな言葉をかけていいのか、わからなかった。ただ、茫然と丸山の顔を見るばかりだった。
「詳しいことは、先生に聞いてくれ。寄生虫に関しちゃ、日本でも指折りの権威だそうだ。行きつけの料理屋の親父に紹介してもらったんだがな……」
 そして、丸山は目を閉じた。
「疲れた、少し休む……。今日は、来てくれて、ありがとうな」

 病室を出た私は、応接室に通され、主治医の話を聞くことができた。美恵子夫人は同じ話を既に聞いているので、病室で丸山に付き添っている。
 受け取った名刺には『医学博士 鶴田聡一郎』とある。年齢はもう六十を過ぎているだろうか。薄くなりかけた髪には白髪が半分混じり、銀縁の眼鏡をかけ、口ひげをたくわえている。いかにも白衣を着て研究室で顕微鏡を覗いている姿が似合いそうだ。
「丸山さんの病気は、『芽殖弧虫症』です」
 落ち着いた口調で、鶴田医師は話し始めた。要約して紹介しよう。
『弧虫』というのは寄生虫学上の用語だ。特に条虫(サナダムシ)の幼虫で、成虫が何なのか不明な虫が発見された場合、こう呼ばれる。知られているものでは『マンソン弧虫』という、人間の皮膚の下を何十年もかけて動き回るこぶを摘出してみると、そこに白くて細長い虫が発見される例がある。ただし、この『マンソン弧虫』は、後にマンソン裂頭条虫というサナダムシの幼虫だと同定されている。ところが、丸山に感染した『芽殖弧虫』は、一九〇五年に初めて日本国内で発見されてから百年経っても、正体が不明な謎の寄生虫なのだという。きわめて珍しく、世界でも十数例しか報告されていない。うち日本での報告は七例で、丸山は八例目だそうだ。
 症状は、全身の皮膚に発疹が生じ、痒みや痛みを伴う。発疹の中には長さ数ミリの虫がいて、嚢胞に包まれていることもある。虫は『芽殖弧虫』という名の通り、次々と芽を出して増殖していく。駆虫剤による治療はほとんど効果がなく、外科的に手術して体内の虫を取り除くしかない。
 ここまで話を聞いて、私は丸山の腕に切り傷のようなものがたくさんあったことに合点がいった。あれは、手術で虫を取り出した痕だったのだ。
「しかし、虫をすべて手術で取り出すことなんて、可能なのですか」
 私は不安を押し隠せず、尋ねた。鶴田医師は難しい顔をして、目を伏せる。
「できる限りの手を尽くす――としか言えません」
 それが医師としての正直な回答なのだろう。一匹でも取り残しがあれば、ふたたび芽を出して増殖してしまう。
「それにしても、なぜ丸山さんが、そんな奇病に――」
「感染源は特定できません。ですが、おそらくは患者の食習慣に原因があると考えられます」
 私は愕然とした。人と違った丸山の食習慣といえば、ゲテモノ食いしかない。だとすれば、しばしばそれに付き合っていた私も――。鶴田医師は淡々と続ける。
「患者には、爬虫類や両生類、その他の生き物を生で食する機会が多かったそうですね。おそらく、それらの生肉、あるいは生き血などのいずれかに弧虫が潜んでいて、体内に取り込まれたものと推測できます。私はかねてから、安全性が保証されていない食材を火を通さずに食べることの危険性を訴えてきたのですが……」
「火を通せば――大丈夫なのですか」
「百パーセントとは申せませんが、熱すれば組織中の虫や虫卵は死にます。食べても感染することはありません」
 私はほっとため息をもらした。幼い頃から生ものが苦手だったことが、私を救ってくれたのだ。
 問わず語りに、鶴田医師の話は続く。
「私は、ゲテモノ料理という商売は否定しません。人の嗜好は様々ですからね。ですが、食材の管理など、安全性は厳格に守ってもらいたいと思っています。ですから、そういう商売の方々にも組合活動などの場を借りて、啓蒙を続けているのです」
 あ、そうか、と私は思った。先ほど丸山が、行きつけの料理屋の親父から鶴田医師を紹介されたと言っていた。料理屋の主人は、そのような啓蒙活動の場で鶴田のことを知っていたのだろう。
「『芽殖弧虫』の患者をこの手で診るのは、初めてのことです。ですが、寄生虫の研究に一生を捧げるつもりでいる私にとって、これはまさに天の配剤だと思っています。正直に申しまして、『芽殖弧虫症』の治癒例はありません。ですが、全身全霊をこめて、患者の延命に努めたいと思います」
 ここまで聞いた話から、丸山が不治の病に冒されているのはわかった。だから、美恵子夫人も誰にも知らせたがらなかったのだろう。だが、一方、真剣で熱意のこもった鶴田医師の言葉には、希望の光も感じられたのだった。

 私は赴任先へ帰り、忙しい日常へ戻った。丸山の容態も気になったが、あまりしげしげと美恵子夫人に電話をするのもためらわれ、次第に疎遠になっていった。
 何ヶ月かが過ぎた。
 週末の夜、美恵子夫人から電話がかかってきた。
 丸山の容態が悪化し、しきりに私に会いたがっているという。夫人の声にひそむ絶望的な響きから、丸山の死期が迫っていることが感じ取れた。
 私は、翌日の朝一番に単身赴任の社宅を出て、丸山のいる鶴田医院へ向かった。
 医院には美恵子夫人の姿はなかった。看護師に聞くと、付き添いの疲労がたまって体調を崩したので、自宅へいったん帰らせたという。
 丸山の病室へ行く前に、鶴田医師に話を聞いた。鶴田は以前に会った時よりも、いくぶんかやつれたように見え、所作も悲しみに沈んでいるようた。やはり、医師も患者と一緒に難病と闘っていたのだ。そして、今や敗北に打ちひしがれようとしている。
 鶴田は顔をくもらせて、語った。
「患者は末期症状になっています。患者の体力を保ちつつ、何度も摘出手術を繰り返し、無数の弧虫を駆除しましたが、延命は甚だ困難な状況です」
「話はできますか」
「まだ意識はありますが、まともな会話ができるかどうか……」
 鶴田は口ごもる。
「どういうことですか」
「患者は現在、脳にも弧虫が侵襲しています。そのため、精神障害や妄想が起こってきているのです」
『芽殖弧虫症』が進行すると、皮下だけでなく筋肉や内臓など、骨以外のあらゆる場所に虫が入り込み、増殖を続ける。そのため、内出血や機能障害が多発し、細菌感染も併発する。そして全身症状が悪化し、最後には死に至るのだという。
 たくましかった丸山が、全身を無気味な虫に食い荒らされているなど、想像もしたくない。だが、それは現実だ。私は、現実に向かい合う覚悟を決めた。
 丸山は、細菌感染を防ぐため、無菌テントに入っているという。私も手術着に帽子、マスクにゴム手袋を着け、映画『アウトブレイク』の登場人物のような格好で、丸山のベッドの脇に立った。
 顔しか見えないが、丸山はさらに縮み、ミイラのようにやせ衰えていた。苦しげに、浅い呼吸を繰り返している。
 私はそっと声をかけた。
 丸山は閉じていた目を開け、私の方を見る。私は背筋がぞっとするのを覚えた。丸山の目は血走り、かつて浮かんでいた人なつっこい表情など、微塵も感じられない。
「細田か……。時間がない、聞いてくれ。俺はもうだめだ。だが、あの医者の……、あいつは狂っている……。告発して、復讐してくれ、頼む……」
「ど、どういうことですか」
 私はたじろいだ。丸山は何を言っているのか。これが、鶴田が言っていた妄想の症状なのだろうか。
「いいから聞け」
「はい……」
 逆らうよりも、気が済むまで話させてやろう。そう思って、私は黙って耳を傾けた。
「俺は……はめられたんだ。あの、おまえと一緒に行ったゲテモノ料理屋の親父と、ここの医者は、ぐるだったんだ。親父が、妙な虫がわく食い物を食わせて、それから、この病院を紹介して、送り込む……。全部、最初から筋書きができていたんだ」
 どうやら、丸山の頭の中では、事実と妄想がごっちゃになっているようだ。
「その証拠がある……。あの店の屋号は『たづる屋』、ここは『鶴田医院』だ……。名前をひっくり返しただけじゃないか……」
 私もはっとしたが、すぐに思い直す。偶然だろう。それに、客に寄生虫を感染させて医者に送り込んだところで、何の意味があるというのか。
「いいか……、やつらは、虫を増やすための肉体がほしかったんだ……俺のような、頑丈でなかなか死なない人間のな。俺はここで、何度も手術を受けた……。たいていは全身麻酔だったが、一度、麻酔の効きが悪かったのか、途中で目が覚めたことがあった……。もちろん、身体は麻痺していたが、耳ははっきり聞こえた……。俺は、鶴田がひとり言をいうのを、聞いちまったんだ」
 私は魅入られたように、丸山の言葉に耳を傾けていた。
「あいつは、俺の太ももにメスを入れて、ごそごそやっていた……。ピンセットで虫を取り出したらしい。虫が出てきたとき、やつは嬉しそうに含み笑いをした……。それから、虫を洗う音がして、やつはうっとりとつぶやいた。『実に見事だ。美しい。大きさも申し分ない。これまでの中でも、絶品だ』と……」
 ここまで話すのが精いっぱいだったらしい。丸山は目を閉じ、首をがくりと落とすと、意識を失った。私はナースコールのボタンを押して看護師を呼び、後の世話を任せた。
 ふらふらと病室を出る。丸山の言葉が、頭の中をぐるぐる回っている。
 もちろん、虫が脳に入ってしまったせいで、妄想が生じているのだろう。しかし、丸山の最後の言葉は、あまりにも生々しかった。
 私は、マッドサイエンティストの巣窟に迷い込んでしまったのだろうか。
 ふと、研究室と書かれたドアが目に入った。
 説明できない衝動にかられ、私はそっとドアを押してみた。鍵はかかっておらず、ドアはかすかなきしみを立てて開いた。
 薄暗く狭い部屋で、右側にはガラスや金属製の実験器具や顕微鏡が並んだ机があり、奥には難しそうな文献が並ぶ書棚がある。左側はカーテンで仕切られており、中の様子は見えない。
 吸い寄せられるように、私はカーテンを開けた。
「これは――」
 私は息をのんだ。
 何段にも仕切られた棚には、直径五センチ、高さ十センチほどの円筒形の小さなガラス瓶が所狭しと並んでいる。満たされている液体はホルマリンだろうか。そして、中に差し込んである濃紺のガラス板に、ひとつずつ、異様な形の標本が止められていた。
 漂白されたように白いが、薬品のせいなのか、もともとそのような色なのかはわからない。どれも長さは五ミリから一センチ程度か。大きなものでは3センチ程度のものもある。ワサビの根か根ショウガのような形をしているが、よく目を凝らすと、ひとつひとつの形が微妙に違っている。いくつもの突起が突き出したもの、伝説の植物マンドラゴラの根のように人間じみた形をしたもの、菓子パンのコロネのような形をしたもの――。
 私は、完全に魅入られていた。これこそ、自然の造化の妙だ。どの博物館で見た標本よりも、どの水族館や動物園で見た異形の生物よりも、これらの標本には心惹かれる。
 しかし、これはいったい何なのだろうか。ガラス瓶に添えられたラベルには、難しいローマ字――ラテン語だろうか――の他には、日付と何種類かの記号しか記されていない。日付を見ると、いずれも、ここ数ヶ月のものだ。ここが寄生虫の権威の研究室である以上、これらの標本はなんらかの寄生虫と考えるのが妥当だろうが――。
「まさか――」
「見られてしまいましたか」
 背後で、落ち着いた声がした。鶴田医師だ。振り返った私に、うなずく。
「それらはすべて、丸山さんから摘出した『芽殖弧虫』です。とりわけ、形が良いものを選りすぐってあります」
 鶴田医師は、私の想像を――真実と認めたくなかった想像を裏付けた。
「いかが思いますか、ご覧になって」
 この問いに、私はわれ知らず、つぶやいていた。
「美しい……」
「あなたにも、わかりますか……。私は学生時代に『芽殖弧虫』の標本を目にした時から、この虫の多彩な形態に関心を抱いてきました。いつかは、自らの手で、この自然の妙たる虫の、至高の形態の標本を入手したい……と。もちろん、『芽殖弧虫症』の治療法を発見することも大切な使命ですが」
 鶴田医師の独白は続く。
「丸山さんは、ある意味では理想的な患者でした。頑健で、生命力が強い。予想以上に多数の虫のサンプルを採取できました。摘出手術のたびに、信じられないような素晴らしい形状の標本を見出すことができました……」
 鶴田医師はきびすを返した。私も後に続き、廊下に出る。
 後ろ手を組み、窓の外の景色をながめていた老医師は、振り返って、悲しげな眼差しを向けた。
「手は尽くしましたが、患者はもう長くないでしょう。たいへん、残念です」
 しかし、私にはわかっていた。
 鶴田医師が悲しんでいるのは、患者を救えなかったからではない。あの美しい『芽殖弧虫』が自然培養され、採取できる肉体が、もうすぐ失われてしまうからなのだ……。


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