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アルテナ様が見てる Vol.1


Scene−1

1日の終わりを告げる鐘の音が響いて、クルトは目を覚ました。
粗末な狭い木のベッドから身を起こすと、まずアルテナ様への短いお祈りを唱え、それから薄いカーテンを開けて窓の外を見下ろす。
秋の日はとっぷりと暮れ、すぐ下に広がるザールブルグの中央広場からも、人影は消えている。広場に面した酒場も店じまいを始めており、看板を明るく照らしていたランプの灯りも、見守るうちにぽつりぽつりと消されてゆく。看板になった酒場を追い出されて家路をたどる酔っ払いががなりたてる歌声も、次第に遠くなってゆく。
クルトはひとつ伸びをして身体をほぐすと、上着をはおり、サイドテーブルに載っていた携帯用のランプに灯を入れる。ブーツをはき、身支度を整えると、ドアを開けて、とことこと1階へ通じる階段を下りて行く。
礼拝堂では、父親がアルテナ様への夜のお祈りをしているはずだ。この由緒あるフローベル教会を預かる神父である父親は、朝な夕な、アルテナ様へのお祈りを欠かしたことはない。そんな父の教えを、物心ついた頃からクルトはよく守っている。
礼拝堂の脇の通廊を裏手に向かい、納屋から竹を編んだ手提げ用の小かごと先が丸くなった竹ざおを取ってくる。
もう一度、アルテナ様へ祈りを捧げると、クルトは通用口から外へ出た。
秋の夜空は雲ひとつなく、宝石を撒いたような星ぼしで埋め尽くされていた。空を見上げたクルトは、いつものようにシグザール城の尖塔の先の少し上に輝く、穏やかな赤い光の星に目を向けた。旅人の道しるべとなる“北のひとつ星”――常に天の真北で動かない純白の星――を見守り、つき従うかのようにとどまり続ける、暖かみのある星だ。人々は、古来より“アルテナの星”と呼び、慣れ親しんでいる。
クルトは、心の中で祈りをつぶやいた。
(アルテナ様、今夜もぼくを見守っていてください・・・)
そして、今宵の義務を果たすべく、広場の中央にある噴水に近づいていった。

クルト・フローベルは、今年の5月に10歳になったばかりだった。
医薬の女神アルテナを祀るフローベル教会の跡継ぎとして、クルトは将来、教会を守り担う神父となることが定められている。フローベル教会の神父の嫡男は、10歳の誕生日の次に来るアルテナ様の降誕祭にて洗礼を受け、神父見習い候補となる。そして、9月末の降誕祭からその年の終わりまで、修行を課せられることとなる。1日も欠かさず修行をこなし、将来の神父にふさわしいと認められた時は、新年を迎えると同時に聖職者の白いローブを与えられ、正式に神父見習いとして教会の正規の一員となることができる。それは、教会が建設された時より続くならわしであった。
クルトに課せられた修行とは――。
中央広場の噴水の池に投げ入れられた、アルテナ様への願いがこめられた銀貨や銅貨を拾い集め、教会の喜捨箱へ収めることだった。
ザールブルグの中央広場には、ザールブルグ市民はもちろんのこと、シグザール王国各地からやってくる旅の商人や観光客、キャラバンに冒険者、さらにはカリエルやドムハイトといった外国からの訪問者も集まってくる。かれらの目的は様々だが、広場に設けられたアルテナ像の噴水には、旅の幸運を祈ったり商売繁盛を願ったりする人々が、毎日のように小銭を投げ込み、祈りを捧げて行く。もちろん、ちゃんとした願い事がある者は、正規の礼法に則ってフローベル教会を訪れて祈りを捧げるわけだが、そのような時間がなかったり信心が足りなかったりする者は、このような簡便な方法で女神アルテナへの敬意を示すのだ。
季節によって、訪れる旅人の数も変わるから、投げ込まれて泉に沈んでいる銀貨や銅貨の数も変わるはずだし、普通に考えれば段々と増えていっていつかは泉からあふれ出してしまうはずなのだが、どの朝にながめても、小銭の量は常に同じように見える。それを不思議がる者もいない。人々は、そういうものだと思い込んでいる。
もちろんからくりがある。フローベル教会が、投げ込まれた小銭を集めては、他の大口の寄付などと合わせて、孤児院の経営や貧しい人々に食べ物や衣類を与えたりといった慈善活動に役立てているのだ。
だが、衆人環視の目の前で池から小銭を拾い集めるわけにはいかない。そのため、中央広場から人がいなくなる深夜に、回収作業は行われる。根こそぎかき集めて、泉を空っぽにしてしまうわけにもいかないので、ある程度の小銭は残しておくことになっている。
その作業を毎夜やっているのが、10歳のクルト少年だったのだ。
夕方の礼拝が済むと、夕食をとってベッドに入り、深夜の鐘で起きて作業を済ませ、再び朝まで寝る。まだ子供の身には不規則な生活はつらいが、これも修行のうちである。クルトの父も母も、教会にかつぎこまれた病人の世話や、亡くなった人の弔いなどで徹夜が続くことも珍しくない。この修行は、聖職者や医療従事者に付き物の不規則な生活に慣れるための鍛錬でもあるのだ。
クルトは両手にそっと息を吹きかけた。
秋が深まるにつれ、夜の冷え込みは厳しくなり、泉の水は氷のように冷たくなる。竹ざおで池の底を探り、かき集めた銀貨や銅貨を素手ですくうのが、夜毎につらい作業になっていた。真冬が来れば、氷を割って、その中に手を入れねばならないこともあるだろう。想像するだけで、身がすくんでしまう。
だが、クルトはこの仕事が好きだった。
自分が少しでもアルテナ様の役に立てていることを実感できたし、仕事の合間に空を見上げれば、“アルテナの星”が見える。アルテナ様が、いつも見守ってくれている。
だから、サボったり手を抜いたりすることなど、論外だった。
「さて・・・と」
クルトは石畳の広場に軽い足音をたてて、噴水へ近づいて行く。
月のない夜で、広場は暗かった。手にした小さなランプの灯だけが、クルトの周囲を照らし出す。広場を囲む建物は黒々とした影となってそびえ、風のそよぎが獣のうなり声のように聞こえる。
ふと、クルトは足をとめ、いぶかしげに前方をすかし見た。
噴水の陰から、水音と共に、なにやら押し殺した声が聞こえてくる。
「ちぇ、こんな小銭ばっかりかよ、しけてんなあ」
「ぼやくな、ぼやくな、一文無しよりは、よっぽどましじゃねえか。これだけありゃ、あったかいベッドと火酒の一杯くらいにはありつけるだろうよ」
「それもそうか」
みすぼらしい格好をした若者がふたり、顔を付け合うようにして、泉へ身を乗り出している。
会話を聞くまでもなく、泉水に沈んでいる銀貨をネコババしようとしているのだ。おおかた、食い詰めた冒険者か、よそから流れ込んできたごろつきだろう。
こんな時、どうしたらいいのか、クルトは聞かされていない。突発事件に出会った時、自分で考え、判断して行動するというのも修行のうちなのだ。
もちろん、このまま見なかったことにして、今夜はあまりコインは落ちていなかったことにすることもできる。子供の自分が、屈強な若者ふたりにかなうはずがない。幼い身を守ろうとするなら、この賽銭泥棒を見逃したところで、誰も責めはするまい。あるいは、教会へ駆け戻って、まだ礼拝をしているはずの父親に訴えるか。
だが、クルトは知っていた。天上で、アルテナ様がご覧になっている。
考え込んでしまえば、おびえが生まれる。そうなる前に、クルトは行動していた。
「だめだよ」
精一杯の威厳をこめて、声を出す。だが彼のボーイソプラノの声はか細く、震えていた。
ぎくりとしたように、男たちが振り返る。クルトは掲げたランプを突きつけた。
「だめだよ。アルテナ様に捧げられたお金を持って行っちゃいけないよ」
「何だと?」
男のひとりが立ち上がり、目に剣呑な光を宿して見下ろす。
「まだガキじゃねえか。子供はとっくに寝る時間だぜ」
もうひとりは身をかがめたまま、泉からかき集めた小銭をポケットに詰め込んでいる。
「やめてよ」
クルトは勇気を振り絞って、一歩、足を進めた。頭上にきらめく“アルテナの星”を、ちらりと見やる。暖かな星の光が、クルトを励ますようにまたたく。
「このガキ、利いた風な口をたたいてんじゃねえぞ。痛い目に遭いてえのか」
男がすごんだ。ベルトに差した短剣に手をやり、わざとらしくなでる。
怖くて、相手の顔を見ていられない。クルトは“アルテナの星”に目を向けたまま、叫んだ。
「間違ってるよ。それは正しいことじゃないよ」
「けっ、バカ言ってんじゃねえ」
「ここにある金は、みんな落としものじゃねえか。拾ったやつが使っていいんだぜ」
まだ泉の底を探りながら、もうひとりの男が言う。
「違うよ。ほら、アルテナ様が見てるんだから!」
クルトは、なんとか小銭を取り返そうと、かがみ込んでいる男に向かっていった。だが、後ろから上着の襟をつかまれる。
「うるせえガキだな。神父さんみてえな口ききやがって」
「思い出した! 見覚えがあると思ったら、教会のガキだぜ、こいつ」
「けっ、道理で、くだらねえごたくを並べるわけだ」
「騒がれると面倒だな、いっそのこと――」
「やめな」
野太い声が、背後の闇から聞こえ、ごろつきはびくっとして動きを止めた。
暗闇から、ごつい身体つきをした、冒険者姿の男が進み出る。
「うるさくて、野宿もできねえぜ。見りゃあ、どういうこったい。大の男が子供相手に立ち回りたぁ、情けねえぜ」
「うるせえ! 余計な口出ししやがると――」
「待て! 相手が悪い――」
クルトを放り出し、腰の短剣に手を伸ばそうとした男を、相棒が止める。そして、止めた方の男は新来の冒険者に向き直り、もみ手をしてぺこぺこ頭を下げ始めた。
「これは、ハインツの兄貴、ご機嫌うるわしゅう――」
「けっ、おめえらちんぴらに兄貴よばわりされる義理はねえぜ。大方、ばくちですってんてんになって、宿代にも事欠いて泉の賽銭泥棒でもやろうって魂胆だったんだろうが――」
「いいえ、滅相もねえ」
「バカ野郎、おめえのポケットにずっしり入ってるのは何だ。ことと次第によっちゃあ――」
「い、いえ、これは――」
男はあわてて泉に向き直ると、ポケットを裏返しにする勢いで、中身をざらざらと落とし込んだ。盛大な水音と共に、銀貨や銅貨が水中に山となる。
「このガキ――じゃなかった、ぼっちゃんのために、小銭を集めて差し上げてたんですよ」
へつらう口調で、ごろつきが言う。ハインツは鋭い瞳でぎろりとにらみつけ、凄みのある口調で、
「酒場の裏手へ行って、おとなしく待ってろ。逃げるんじゃねえぜ。妙な了見を起こしたりしやがったら、後でたっぷり――」
「ひっ、わかりやした!」
ごろつきどもは、転がるようにして広場から姿を消した。
あっけにとられて見ているクルトに、ハインツはしゃがみこんで目の高さを合わせ、頭をなでた。
「悪かったな、若いの。やつらにゃ、たっぷり焼きを入れとくから、勘弁してやってくれや」
「う、うん」
どう返事をしていいのかわからず、クルトはただこっくりとうなずいた。
「それにしても、さっきのおまえさんの啖呵、気に入ったぜ。アルテナ様は、何もかもお見通しってわけだ、なあ」
先ほど、ごろつきに対して言ったのとはがらりと変わった親しみのある口調で、ハインツはにやりと笑った。クルトの心もほぐれる。
「うん、ありがとう、おじさん」
「おいおい、おじさんはひでえな。これでも俺あ、まだ33だぜ」
豪快に笑いながら、ハインツが答える。
「さて、俺はそろそろ行くわ。おまえさんも、やることやったら早く帰れよ。夜風は子供にゃ毒だぞ」
ハインツは背を向けた。クルトは一歩下がると、去り行く冒険者の広い背中を見つめ、まじめな顔をして、父親が祭壇でしているように両手を組み、つぶやいた。
「あなたに、アルテナ様のご加護がありますように」
「おっと、悪いが、俺あばくちの神様と酒の神様しか信じねえんだ」
手をひらひらさせながら、街でも腕利きの冒険者ハインツ・マドックは闇の中へ消えていった。
クルトは泉水に向き直ると、黙々といつもの作業にかかった。


Scene−2

ザールブルグに冬がやって来た。
広場の街路樹は葉をすべて落とし、寂しくなった裸の枝が木枯らしに揺れている。はるか北にそびえるヴィラント山は雪化粧をまとい、ザールブルグに初雪がちらつくのも時間の問題だと、街行くおかみさんたちはささやき合っている。フローベル教会の礼拝堂では暖炉に火がたかれ、昼も夜も絶やされることがない。一夜の宿を求める旅人や、行き場のない宿無しの老人などが、礼拝堂の隅に丸くなって暖を取っている。
クルトは今夜も、小かごと竹ざおを持って、賽銭回収の仕事に出かけた。
残念ながら、今夜は分厚い雲が空をおおい、星ひとつ見えない。しかし、そのような晩の方が、晴れわたった晩よりもいくぶんか寒さが和らぐのだ。今日は、氷を割らずに済むかも知れない。
幸いなことに、先日、冒険者のハインツが賽銭泥棒を追い払ってくれて以来、トラブルは起こっていない。大気の寒さと水の冷たさを我慢すればいいだけだ。それに、冬の厳しさはアルテナ様が与えてくれた試練だと思っている。クルトは喜んで、それに耐えるつもりだった。
(あれ・・・?)
クルトはふと耳をそばだてた。
空が曇っている分、今夜はいつも以上に広場をおおう闇が濃い。ランプの灯りはクルトの周囲を照らし出すだけで、少し先へ行くとすぐさま闇に飲み込まれてしまう。
前方の闇の中、かすかな水音と、金属がチャリンチャリンと触れ合う音がする。
また、誰かが泉水の銀貨をネコババしようとしているのか?
今度は、先日のように助けは入らないかもしれない。
ごろつきに襟をつかまれた時の恐怖を思い出して、クルトは足がすくんだ。それに、今夜は、天上から自分を見守ってくれる“アルテナの星”も見えない。
それでも、自分に課せられた義務は果たさなければならない。そうでなければ、アルテナ様に身を捧げる資格はない。
勇気を出して、クルトは一歩一歩、噴水に近づいていった。
やがて、前方に泉水の縁と、そこに黒々とした影がわだかまっているのがおぼろげに見えてくる。
人なのだろうか。まさか、魔物なんてことは――?
「誰? そこで何をしているの?」
クルトのボーイソプラノの凛々しい声が、闇に響く。もっとも、若干震え気味だったが。
ひっと息をのむような音がし、影が動いた。
相手が襲い掛かって来なかったのにいくぶんか安心し、クルトはランプを突き出す。
薄暗い光の輪の中に、ぼろをまとった小柄な老婆の姿が浮かび上がった。身長はクルトよりも低いように見えるが、それは腰が曲がっているせいだ。しわくちゃな顔は、クルトには見覚えがない。
「ああ・・・。見逃しておくんなさい。おねげえです」
老婆の枯れ枝のような手には、数枚の銀貨が握られ、しずくをしたたらせている。泉水から拾い上げたばかりなのは一目瞭然だ。
クルトは言った。
「でも、それはいけないことだよ。アルテナ様に捧げられたお金なんだから」
「いけねえことだってのは、わかってます。でも、ひもじくて、どうしようもなくて・・・」
老婆は絶望しきったように腰を落とし、冷たい石畳に座り込んだ。どうしていいかわからず、クルトもランプを置いて、しゃがみこむ。
しばらくすると、老婆はひとりごとを言うように話し始めた。
若い頃から身よりもなく、旅から旅へ春をひさいで暮らしていたこと(クルトには『春をひさぐ』という言葉の意味はわからなかった)。その商売ができない歳になってからも、日雇いの仕事を求めて町や村を渡り歩き、数年前、小さい頃に捨てた息子を探し当てて、その家に転がり込んだこと。息子夫婦はここから馬車で数日かかる農村に住んでいるが、老婆は息子の嫁と折り合いが悪く、いさかいが絶えなかったこと。先日、大喧嘩をして家を飛び出し、もう家には帰らないつもりで街道を歩き通し、今日の夕方、着の身着のままでザールブルグにたどり着いたこと。ここまでの道中で路銀を使い果たし、3日も何も食べていないこと。どこかで住み込みで働かせてもらいたいが、つてもなく、どうしていいかわからず、途方にくれていたこと。
話しているうちに感極まってきたのか、老婆はおいおいと声をあげて泣き始めた。その手から、銀貨がぱらぱらと地面に落ちる。
クルトは思いをめぐらしていた。このおばあさんは、先夜のごろつきとは違う。本当に困っていて、どうしようもなくなって、アルテナ様のお金に手をつけてしまったんだ。こんな時、父だったら――いや、アルテナ様だったら、どうするだろう?
やがて、クルトは老婆の腕に手をかけた。顔をあげた老婆に、優しい口調で言う。
「だったら、今夜は教会に泊まればいいよ。あったかいし、スープくらいならあるよ」
だが、クルトの予想に反し、老婆はうつむいて首を横に振った。
「うんにゃ、わしゃあ、若え頃から、罰当たりな人生を送って来たんじゃ。アルテナ様なんぞ信じちゃいなかったし、教えに反したことばかりして、アルテナ様に唾を吐きかけるようなことしかして来んかった・・・。しかも、ついさっきも、アルテナ様のお金を盗むなんていう罰当たりな真似をしたばっかりじゃ。今さら神様に頼るなんぞ、恥ずかしくてできゃせん――」
クルトには老婆の言うことの半分も理解できなかった。だいたい、アルテナ様を信じない人間がいるなど、クルトには理解の外だったのだ。困った時には誰もがアルテナ様を頼り、その慈悲にすがる――それが唯一の、世界のあるべき姿だったはずだ。
クルトがいくら教会で過ごすよう言い聞かせても、老婆はかたくなに動こうとしなかった。
「ここでこの世におさらばするのも、潮時かも知れん・・・」
悟ったように、そんなことまで口にする。
クルトは必死に考えた。
このまま放っておいたら、きっとこのおばあさんは病気になって、遠からず死んでしまう。おばあさんにはお金が必要だ。でも、泉水の銀貨はアルテナ様に捧げられたもので、その使いみちを決められるのはアルテナ様だけだ。ぼくの考えで、アルテナ様のお金をおばあさんにあげるなんて、畏れ多くてできるはずがない・・・。
(アルテナ様・・・。ぼくはどうしたらいいのですか)
空を見上げたが、厚い雲におおいつくされている。しかし、雲の向こうの空では、今夜も“アルテナの星”が輝き、見守ってくれているはずだ。アルテナ様には、雲など何の障害にもならないだろう。
「そうだ!」
頭の中が電光のようにひらめいて、クルトは明るい声をあげた。きっと、これが正しいやり方なんだ。
「おばあさん! ちょっと待ってて! ぜったい待っててね!」
クルトは教会へ駆け戻ると、2階の自分の部屋へ駆け上がり、戸棚から小さな皮袋を取り出した。
それを下げて、再び階段を下り、外へ出て広場の噴水へ走った。
老婆は相変わらず、うずくまってなにやらぶつぶつつぶやいている。
「はい、おばあさん」
クルトは皮袋を老婆に手渡した。中でちゃらちゃらと小銭がぶつかり合う軽い金属音がする。
「こりゃあ、いってえ――?」
とまどう老婆に、にっこりしてクルトは言った。
「噴水の中のお金は、アルテナ様のものなんだ。だから、使い方はアルテナ様が決める。ぼくは、さだめ通りに、お金を拾い集めて教会に持っていかないといけない。でも、このお金は――」
皮袋を示す。
「ぼくが教会の仕事のお手伝いをして、もらったものだから、ぼくのものなんだ。だから、使い方もぼくが決められるんだよ」
しびれたように動けない老婆の代わりに、皮袋を持ち上げ、老婆の両手に中身をあける。
銅貨ばかりで、大した量ではないが、それでも安宿に泊まって暖かな食事をとるくらいのことはできる。
「だから、このお金はおばあさんにあげるよ」
きょとんとしたようにクルトの顔を見つめていた老婆の目から、再び涙があふれた。
「おおう、こんな罰当たりのばあさんに・・・。ありがてえこっちゃ、あんたは、神様のようなお子じゃあ・・・」
「あれ、おかしいな。さっきは神様なんか信じないって言ってたのに」
クルトの言葉に、老婆も泣き笑いのような表情を浮かべる。
銅貨を袋に戻すと、老婆はしわだらけの手でクルトの両手を握り締めた。クルトの手も、老婆の手も寒さでかじかみ、冷え切っている。
老婆はつぶやいた。
「冷たい手じゃな・・・。じゃが、冷たい手の持ち主は、それだけ心が温かいということじゃ」
「それじゃ・・・、おばあさんもだね」
「・・・・・・。口が減らないお子じゃ」
夜も更け、冷え込みが厳しくなってきたので、クルトは老婆に宿屋へ行くように言ったが、老婆はクルトの手伝いをすると言って聞かなかった。
そして、作業が終ると、老婆は何度も頭を下げ、『職人通り』の方へ去って行く。
「アルテナ様のご加護がありますように」
背を丸めた後姿に、クルトはアルテナ様の祝福を与えた。そして、小銭の詰まった小かごと竹ざおを手に、教会へ向かう。
背後では、老婆が震える声で、祈りの言葉をつぶやいていた。
「アルテナ様の・・・、ご加護が、ありますように・・・」
彼女が生まれて初めて唱えた、祈りの言葉であったかも知れない。


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