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カスターニェ買い出し紀行


工房のドアが、軽くノックされた。
のぞき込んでいたフラスコから顔を上げ、エリーが明るく応える。
「は〜い、開いてま〜す」
「こんにちは。ちょっといいかしら」
「あれえ、ルイーゼさん。珍しいですね、こんなところへ」

入って来たのは、アカデミーのショップ店員、ルイーゼだった。ライトブルーの錬金術服に白いマントをはおっている。軽くウェーブがかかった金髪が肩に流れ、大きな青い瞳によく似合っている。
ルイーゼは、いつもの夢見るような表情に微笑を浮かべ、珍しそうに工房の中を見回している。夢見るような・・・とは言っても、ルイーゼに夢想癖があるわけではなく、これが地顔なのだ。

エリーは散らかった作業台を片付け、ルイーゼに椅子をすすめた。ついでに、妖精のひとりにお茶を入れるよう指示する。
ルイーゼは腰を下ろすと、大きな目でじっとエリーを見つめた。いくぶん無遠慮に、といってもいいかもしれない。これも、彼女が強度の近視であるせいなのだが、それを知らないと、深い湖のような瞳から発せられる視線を誤解してしまうことにもなりかねない。毎年、アカデミーの男子新入生(と、ごく一部の女子)が、ショップでのこの視線にやられ、いわれのない恋の病に悩む者がつきないとか。

「あのね・・・。実は、お願いがあるのよ」
ルイーゼはゆっくりとした口調で切り出す。
「ええと、あたし、今度、しばらく出かけることになってしまったの。それで・・・」
「え、もしかして、また、そのあいだ代りにショップの店員をやってくれって話じゃ・・・?」

エリーの脳裏に、2年目のコンテストの直前、ルイーゼに頼まれてショップの店員を代行した時の記憶がよみがえった。
あの時は3日間だけだったが、慣れないせいもあって、お釣は間違えるは、違う品物を渡してしまうは、アカデミーに混乱を引き起こしてしまった。イングリド先生には「あなたはそんなことをしている余裕はないはずよ」と小言を言われるし、アイゼルには「もう! ほんとに鈍くさいんだから」といやみを言われるし、おかげで疲れと準備不足からコンテストの成績も散々だった。
今はもうマイスターランクに進んで、コンテストの苦しみからも解放されているエリーだが、ショップ店員のアルバイトは、トラウマとなって残っている。

いくぶん顔を曇らせたエリーに気付いたのか気付かないのか、ルイーゼはちょっと首を傾げるようにして、
「ううん、違うのよ。・・・実は、あなたに護衛を頼みたいのだけれど」
「ええっ、護衛ですか? なんであたしなんかに・・・。飛翔亭に行けば、ハレッシュさんとかルーウェンさんとか、冒険者の人たちをいろいろ雇えますけど・・・」
「それが、だめなのよ。あの人たちを、雇うわけにはいかないの」
「どうしてですか・・・? ひょっとして、お金がなくて護衛代を払えないとか?」
「違うわよ。お金は、あるの。あなたにだって、もちろんお礼をするつもりでいるわ。でも、酒場にいる人たちでは、どうしてもだめなのよ」

「う〜ん、わけがわからないや。ちゃんと理由を言ってもらわないと、いくらルイーゼさんの頼みでも、はい、そうですか・・・というわけにはいきませんよ」
「そうね・・・。じゃあ、恥ずかしいけど、言うわ。あたし、男の人と一緒に旅をしたことがなくて・・・だから、あまりよく知らない冒険者の人と一緒に出かけるなんて、恐くてできないのよ」
ルイーゼは目を伏せ、小さくため息をついた。
「へえ、ルイーゼさんって、男の人が苦手だったんですか。ちょっと意外です」
「だから、武闘大会で優勝したこともあるあなたが一緒に来てくれたら、心強いと思ったのだけれど・・・。どうかしら?」
「武闘大会のことは余計ですけど・・・わかりました。引き受けましょう。で、どこまで行くんですか」
「カスターニェという港町まで行きたいの」
「え、カスターニェですか!? あんな遠くまで、いったい何をしに?」

カスターニェというのは、ザールブルグから山を越えてはるか西の海沿いにある小さな港町だ。エリーが、命の恩人である錬金術師のマルローネの足跡を追ってその町まで行き、町を悩ませていた海竜を退治したのは、去年の夏のことだ。歩いて行けばひと月以上、馬車に乗っても17日かかる。
そんなところへ行こうとするルイーゼの真意がわからず、エリーは黙り込んでしまった。

その時、青妖精のピコが、ミスティカティのカップを載せたトレイを持って、よちよちとやって来た。
カップから一口すすったルイーゼは、エリーの言葉に安心したのか、口調も滑らかになった。
「あのね、竜が退治されたおかげで、ケントニス航路が復活したでしょう。それで、ザールブルグとケントニスのふたつのアカデミーの間で、定期的に交流会をしているのよ。今度の議題は、ショップの品揃えや値段をどうするかについてなんですって。ケントニスからもショップの店員が来るらしいわ。だから、あたしが行くことになったの」
「は、はぁ・・・」

「それにね、あたし、もうひとつカスターニェに行きたい理由があるのよ」
と、ルイーゼは微笑んだ。
「え、何ですか、その理由って?」
「うふふ、それは内緒。着いたらわかるわ」
「は、はぁ・・・」
ルイーゼは、ゆっくりとカップのお茶を飲み干し、立ち上がる。

「明後日には、出発したいんだけれど。いいかしら」
「わかりました。準備しておきます。・・・あ、ところでルイーゼさん」
見送ろうとしたエリーが、思い出したように尋ねる。
「留守の間、アカデミーのショップは、誰が代りをするんですか」
ルイーゼはけげんそうな顔をして振り向いたが、しばらくして大きな青い目を更に見開き、
「ああ、そうだわ、すっかり忘れてた。・・・ねえ、どうしよう、誰かいい人いないかしら?」

エリーは半分あきれ顔になったが、涙まで浮かべたすがるような瞳で見つめられては、なんとかしなくては、という気になってしまう。
しばらく思案顔のエリーだったが、やがて、ちらりと作業台の方へ視線を向けると、会心とも言っていい笑みを浮かべた。
「安心してください。いい考えがあります」
「え、本当?」
「はい、大丈夫ですよ」
と、ルイーゼを送り出したエリーは、(たぶんね・・・)と心の中で付け加えた。


2日後の朝。
エリーは外門の脇にある停車場でルイーゼと待ち合わせると、カスターニェ行きの馬車に乗り込んだ。
途中の山越えの道筋には山賊や狂暴な狼が巣食っている。そのため、エリーの考えでもう一人、南国出身の女性冒険者、ミューをメンバーに加えている。それでも、ルイーゼはまったく戦力として計算できず、男の冒険者が雇えないのだから、道中の敵への備えとしては不安が残った。

だが、ミューはいつも通りののんびりした調子で、出発するとすぐに居眠りを始めてしまい、「もう食べられないよ・・・」とか能天気な寝言を言っている。ルイーゼはルイーゼで、景色を眺めながら無邪気にはしゃいでいたかと思うと、不意に蒼い顔になってエリーの酔い止め薬の世話になっている。
「ふう・・・」
ため息をついたエリーは、遠くなっていくザールブルグの城壁を目で追いながら、もうひとつの不安材料に思いを馳せていた。
(ごめんね、ピコ。帰って来るまでのがまんだからね・・・)


その頃、アカデミーでは、アイゼルがショップのカウンターをいらいらと叩いていた。
「もう、何やってるのよ。早く竹と祝福のワインをよこしなさい。あ〜あ〜、それじゃないでしょ! 早くしないと授業が始まっちゃうじゃないの。ほんとにもう、鈍くさいんだから・・・。ルイーゼさんは、どこ行ったのよ!」

カウンターの中では、材料の包みや薬品のびんを抱えた青妖精が、息を切らせて駆けずり回っている。棚から棚へ、足音が途切れるたびに、本が倒れ、機材が崩れる音がけたたましく響く。
「あ、割れちゃった・・・片付けなきゃ」
「そんなのは後回しでいいのよ! とにかく、早くあたしが頼んだ品物をおよこしなさい!」
「はい、合わせて銀貨320枚です・・・あれ?」
「違うでしょ! 竹と祝福のワイン5個ずつだから・・・もう、なんであたしが計算までしてあげなくちゃならないのよ」

アイゼルが叩き付けるように置いて行った銀貨を数えながら、ピコは前日のエリーの言葉をうらめしく思い出していた。
(ねえピコ、採取も調合もそろそろ飽きたでしょう。いつもと違うお仕事をしてみない? きっといい経験になると思うよ。あたしとルイーゼさんが帰って来るまで、お願いね)
エリーが帰って来るのは、早くても一月半後だ。
「森へ、森へ帰りたい・・・」
割れたびんのかけらを拾い集めながら、ピコは悲しげにつぶやいた。


ザールブルグを出て7日目。
馬車は平地を過ぎ、山越えにかかろうとしていた。幸いなことに、ここまでは敵に出くわしていない。ルイーゼもようやく馬車の旅に慣れたようで、エリーは酔い止め薬のストックを心配しなくてもよくなった。
「あ〜あ、退屈だね。カスターニェまで、ずうっとこんな調子じゃ、体がなまっちゃうよ」
剣の手入れをしながら、ミューがぼやく。窓から外を眺めていたエリーは振り向き、答える。
「いいじゃないですか。平和な方が・・・」

そして、思い出したようにルイーゼに問い掛ける。
「そうだ、ルイーゼさん、ずっと聞きたかったんですけど、カスターニェへ行きたいもうひとつの理由って、何なんですか。もうあたし、夜も眠れないくらい気になって気になって・・・」
「うそぉ、あなた、毎晩大いびきじゃない」
ミューがまぜっかえす。
ルイーゼは顔を上げ、エリーを見詰めると、にっこりした。
「そうね・・・。言ってしまっても構わないわね。実は、カスターニェへ行ったら、ぜひ温泉に入ってみたいのよ」

「へ? 温泉って・・・? カスターニェに温泉なんて、聞いたことないですけど」
けげんな顔をするエリー。ところが、それを聞いたミューは、大きくうなずいた。
「あ〜、知ってる知ってる。千年亀温泉のことだよね。この春に見つかったばかりだって言うのに、よく知ってるね」
「この前、本で読んだのよ。なんでも、海岸の岩場に湧き出た温泉で、夜は満天の星の下、波音を聞きながらゆったりと入れるんですって」
「は、はぁ・・・」

「確かに昔から、ヴィラント山の火山脈が西へ伸びて海底までつながっているという学説はあったのよ。ミケネー島が大陸から切り離されたのも、海底火山脈の活動による水蒸気爆発が原因と言われているし、北から来る海流がなぜ暖かいかという謎も、深海に熱水噴出口が存在すると考えれば説明できるでしょう。だから、カスターニェの温泉も、見つかるべくして見つかったと思うのよね。きっと海底には、カノーネ岩の厚い層が形成されて・・・」
(う、うわぁ・・・。話について行けないよぉ・・・)
突然、饒舌になったルイーゼに、エリーは目を白黒させた。ミューはとっくに、たぬき寝入りを決め込んでいる。
(そう言えば、ルイーゼさんって、アカデミーの学生時代、筆記試験はいつも満点だったって聞いたことがある。知識の量は、あたしなんかの比じゃないんだ・・・。人は見かけによらないって、ほんとだね)

「・・・でね。その温泉の薬効成分は、目にいいんですって。だから、あたし・・・」
(そうか・・・ルイーゼさん、やっぱり目が悪いのを気にしてたんだ)
エリーはちょっとしんみりする。

その時だ。御者席から、大声が飛んだ。馬がかんだかくいななき、馬車が急停車する。
「狼だ! 全員、戦闘準備!」
「ほいきた! 出番だよ!」
ミューが張り切って飛び起き、剣を抜くと馬車を飛び出す。エリーも魔法の杖を片手に、窓から屋根によじ登る。

「あの、ええと・・・。あたしは、どうしたら・・・」
護身用の短剣をぎこちない手付きで握りしめ、ルイーゼが窓から顔を出そうとする。
エリーがどなる。
「ルイーゼさんは、中でじっとしていて!」
「きゃん」
かわいい悲鳴と一緒に、ルイーゼの頭が引っ込む。

「行くよ〜〜!」
前方では、早くもミューが長剣を振りかざし、狼の群れの中に突進して行く。
エリーは、側面から迫ってくる別の群れを、メガクラフトで一掃する。
何のことはない。カスターニェ街道では、日常茶飯事の光景である。


そして。
馬車は、無事、カスターニェの町へ到着した。
「じゃあね。出かける時には、また声かけてね。その辺をぶらぶらしてるからさ」
と、ミューはあっさり姿を消す。それを見送り、軽く肩をすくめたエリーが尋ねる。

「ルイーゼさん、アカデミーの交流会の会場って、どこなんですか」
「ええと・・・たしか『船首像』という宿屋でやるって聞いたけど」
『船首像』ならば、エリーも泊ったことがある。主人のボルトとも顔見知りだ。

ルイーゼは、眩しい日差しに目を細めながら、大きく伸びをして潮の香りを胸いっぱいに吸い込む。海からの涼風に金髪がなびき、一瞬、エリーは神話に出てくる水の精が目の前にいるような気がした。


Illustration by なかじまゆら様

(ルイーゼさんって、こんなにきれいだったっけ・・・)
そんなエリーに気付かず、大きく息をつくと、ルイーゼはにっこりと笑いかけ、
「でも、まだケントニスからの船が着くまで2日あるわ。それまでは、温泉にでも入ってのんびりしましょうよ」
「賛成です! いろいろ買い物もしたいし、それに・・・」
本当はミケネー島あたりまで採取に行きたいところだったが、今は雇われている身。わがままは言えず、エリーはぐっと言葉をのみ込んだ。

カスターニェの町は狭い。5分も歩けば、宿屋や商店が軒を並べている、町の中心地に出る。そこからまっすぐ西に下れば、港の向こうには大海原が広がっている。
シュマックの武器屋、オットーの雑貨屋など、エリーにとっては懐かしい家並みのはずれに、古いが手入れの行き届いた建物がある。町でただひとつの酒場兼宿屋、『船首像』だ。
「まず、部屋を取りましょう」
エリーが先頭に立ち、扉を押し開けた。


『船首像』の経営者であり、唯一の従業員でもあるボルト・ルクスは、酒場のカウンターでグラスを拭きながら、小さくため息をついた。
去年の夏、ふらりと現れた錬金術師の少女が、それまで町を悩ませていた海竜フラウ・シュトライトをあっさりと退治してしまった。それ以来、ケントニスとの交易路も再開され、春には温泉が発見されたこともあって、町に活気が戻ってきた。

それと共に、カスターニェを訪れる旅人が増え、町でただひとつの宿屋である『船首像』は、かつてない賑わいを見せるようになっていた。客が増えるのはありがたいが、その分てんてこまいの忙しさが続き、誰か手伝ってくれる人間を雇わないと、どうにもならない状況に立ち至っていたのだ。しかし、町の住民はみな忙しく、助っ人のあてはない。
今日も、昼間だと言うのにテーブルの半数以上が埋まり、酔っ払いが店内をうろつきまわっている。隅のポーカーテーブルでは、常連の老人と若者が、延々と一進一退の勝負を繰り広げている。

その時、入口の扉が開き、見慣れないいでたちのふたりが入って来た。裾の長い服に、マントをはおっている女性ふたり。
「おや、あれは・・・」
ボルトは目をみはった。先に入って来たのは、間違いなく、海竜を倒して町を救ってくれた錬金術師の少女だ。たしか、名前はエリーと言った。だが、ボルトの目を釘付けにしたのは、後から入って来たもうひとりの方だった。

金髪に、透き通るような白い肌。口許に微笑を浮かべ、海のような深みのある青い瞳で、ボルトをまっすぐに見つめている。水色の錬金術服が白い肌に映え、まるで海の泡から生まれたという美の女神のようだ。
仕事に疲れ、また普段は小麦色に日焼けした地元の娘しか見ていないボルトにとって、ルイーゼはそのように見えたのだった。
その女性は、しばらくボルトを見つめると、ふと視線をそらし、物珍しそうに店内を見回しながら、ゆっくりと歩きはじめた。

エリーがまっすぐカウンターに向かって歩いて来て、ボルトに話しかける。
「こんにちは。部屋は空いてますか」
「あ・・・ああ」
ボルトは上の空で答える。エリーがちょっとけげんな顔をする。エリーが知っているボルトは、海の男らしく、歯切れのいい口調で話す精悍な男だった。今日は、少しちがう・・・。

その間にも、ボルトは魅入られたようにエリーの連れを目で追う。エリーもつられたようにボルトの視線を追った。
ルイーゼは、ポーカーテーブルの前で足を止め、勝負に没頭している老人と若者をじっと見ている。

「さあて、そろそろ決着をつけようじゃねえか。勝負だ」
チップの山を押し出し、若者が挑発するように言う。対する白髪の老人は、
「若いの、そんなに焦っているようでは、わしには勝てんぞ」
と落ち着いた声で答える。
ふたりがカードを開こうとしたその時、ルイーゼが、すっと手を伸ばし、若者の左の袖口から1枚のカードを引っ張り出した。
「あら、こんなところにカードが1枚、隠れていましてよ」
ルイーゼはにっこり笑って、若者にカードを差し出した。若者の顔から、血の気が引く。

「あ、イカサマしてる・・・」
エリーがつぶやく。
「そうか・・・。どうもさっきから、おかしいと思っとったんじゃが、そうか、イカサマしとったのか・・・」
老人がゆっくりと立ち上がる。
「イカサマがバレた時の決まりは、わかっとるじゃろうな・・・」
「てめえ!」
若者は、ものすごい目付きでルイーゼをにらみつけた。殺気を感じたエリーが、息をのむ。
ところが当のルイーゼは、にこにこしている。ただひとり、状況を理解していない。

もちろんルイーゼは、ポーカーのルールも、イカサマも知らない。ただ、若者の袖口からカードの端がはみ出しているのに気付き、親切心で教えてあげただけなのだ。
ところが、イカサマを暴かれた若者の方は、ルイーゼの無邪気な笑顔を、自分をばかにしているものと感じたのだろう。
「ねえちゃん、ふざけた真似してくれるじゃねえか」
若者は言い放つと、ふところからナイフを抜いた。

「ルイーゼさん、危ない!」
エリーが叫ぶ。
「え、どうしたの?」
ルイーゼが振り向く。若者が、切りかかろうとする。
だが、すでにボルトがカウンターを飛び越え、若者に突進していた。ボルトの体当たりに、若者はテーブルに叩き付けられる。その隙に、エリーがルイーゼの手を引っ張り、騒ぎの場から遠ざけようとする。若者は素早く起き上がると、取り押さえようとしたボルトにいきなり切りつけた。

「くっ・・・」
切られた左腕を押え、ボルトがうずくまる。
若者は、椅子をひっくり返しながら、出口に向かって突進する。
「逃がさないわよ!」
叫んだエリーが、影縫い針を投げつける。見事に背中に命中し、若者はもんどりうって倒れたまま動かなくなった。
誰かが自警団を呼んだ。若者は麻痺したまま、縛り上げられ、連れ出されていった。

「ボルトさん、大丈夫ですか?」
エリーが心配そうに声をかける。
「ああ・・・平気だ。くそ、あの野郎、ただじゃおかねえ」
絞り出すようなボルトの声。左腕の傷口を押える指の間から、血がしたたりおちる。
「平気じゃないですよ。こんなに血が・・・どうしよう」
うろたえるエリーに、ルイーゼの落ち着いた声がかかる。
「大丈夫。浅いけれど、長い傷だからたくさん血が出ているように見えるのよ。あなた、傷薬を持っていない?」
「あ・・・はい、ここに」

エリーがアルテナの傷薬を取り出す。受け取ると、ルイーゼは落ち着き払ってボルトの傷口をぬぐい、たっぷりと薬を塗りつけると、包帯代わりに自分のスカーフで軽く縛った。
「これで大丈夫。あとは、あまり動かさないようにすれば、すぐに治るわ。傷薬の効力も高いはずだし」
「あ、いや、済まねえ・・・」
ボルトがあわてたように礼を言う。
エリーが感心したように、
「ルイーゼさん、すごいですね。あたしなんか、あわてちゃって、傷薬を持ってることも忘れちゃってたのに・・・」

「あら、驚くことないわよ」
と、にっこりするルイーゼ。
「アカデミーにいると、調合に失敗してけがをしたり火傷する生徒が毎日のように出るでしょ。だから、けがの手当てには慣れているのよ」
「ふうん、そうなんだ・・・。ところで、ボルトさん、部屋なんですけど」
「あ、ああ、そうだったな。待ってろ、最高級の部屋を用意してやるからよ」
ボルトは弾かれたように立ち上がり、2階に消えていった。

ルイーゼは再び店内の探検を始め、隅の大きな水槽の前で立ち止まる。ガラス越しに泳ぎ回る魚の群れを興味深そうに目で追いながら、
「ねえ、これって、イルカの子供かしら?」
「ええ? やだなあ、それ、はまちですよ、はまち」


翌日の深夜。
カウンターを片付け、翌朝の仕込みを終えたボルトは、『船首像』を出て千年亀温泉へ向かった。
千年亀温泉は、カスターニェの自治会が運営しており、24時間いつでも入れる。また、料金も特に決まっておらず、支払いは利用者の自由意志に任されている。ケントニス・アカデミーの調査によると、切り傷、打ち身、リウマチなどの他、様々な病気に効能があるという。

ボルトの左腕の傷は、ルイーゼの素早い処置とエリーの傷薬のおかげで、かなり回復してきている。ここで温泉につかって、さらに治りを良くしてやろう、とボルトは考えたのだ。
それだけではない。リラックスして、ゆっくりと考えてみたいことがあった。

浜辺に建つ丸太小屋が、温泉の入口だ。料金箱に小銭を放り込み、ボルトは『男性用』と書かれた扉を開け、中に入る。
時刻は真夜中を回っており、他の客の姿はない。脱衣所で服を脱ぎ捨てると、ランプの光に脇腹の大きな傷があらわになった。初めてフラウ・シュトライトに出くわした時につけられた古傷だ。
脱衣所の先は、外の岩場そのものだ。潮だまりのような天然の池に、温泉が湧き出している。
今夜は満月で、たちのぼる湯気が月光に青白く揺らめいている。
ボルトは、日焼けしたたくましい体を湯に沈め、じっと目を閉じた。

まぶたの裏に、流れるような金髪に真珠のような肌、大きな青い瞳と愛らしい微笑を浮かべた口許が浮かぶ。左腕には、傷を手当てしてくれた時の感触が、鮮やかに残っている。
宿帳に記された名前は、ルイーゼ・ローレンシウム。ザールブルグから来た、アカデミーの職員だという。

一目惚れ・・・かも知れない、とボルトは考える。
これまで、ボルトには、海と船と『船首像』しかなかった。若い頃には漁と、喧嘩と博打に明け暮れ、フラウ・シュトライトに襲われてからは、『船首像』を切り盛りするのに必死になっていた。
過去、女性に縁がなかったわけではない。しかし、今感じている気持は、ボルトにとって、初めて経験するものだった。
(温もり・・・。そうだ、あのひとは、俺に温もりを感じさせてくれた・・・。ずっと、身近に感じていたい、そんな温もりを・・・)
ここまで考えたボルトは、ふっと自嘲気味の笑いを浮かべた。
(ふ・・・どうしたってんだ、柄でもない。・・・俺も、歳をとったってことかな)

不意に、軽い水音が聞こえ、ボルトは目を開いた。誰かが入って来たらしい。
(やれやれ、こんな夜中に来る物好きが、俺の他にもいるんだな・・・)
新来者を見定めようと、入口の方に目をやる。

「な!?」
ボルトは凍り付いた。
それは・・・海から上がってきた水の精であろうか。
ボルトが先ほどから思い巡らせていた姿が、そこにあった。
波打つような長い金髪が微風になびき、月光に照らされた大理石のような素肌にまとわりつく。夢見るような表情を浮かべた青い瞳は、ボルトの方をまっすぐに見つめている。
(ル、ルイーゼさん・・・?)
ボルトは声にならない叫びを上げた。もちろん、ここは温泉だから、一糸まとわぬ姿でいても何の不思議もない。しかし、なぜ彼女がこんな時間にこんなところにいるのか。まるで、その瞳は彼になにかを訴えかけようとしているかに見える。

(ど、どうすりゃいいんだ、こんな時・・・?)
ボルトは身動きも取れず、途方に暮れていた。
ルイーゼが、ゆっくりと近付き、口を開く。だが、そこから出てきたのは、予想もしない言葉だった。
「エリー? ・・・どこにいるの?」

(へ!?)
あっけにとられるボルトを無視して、ルイーゼは続ける。
「満月をながめながら温泉に入ろうって誘ったのは、あなたでしょ。ねえ、どこに隠れているの?」

その時、男性用と女性用を区切る木製の仕切り壁の向こうから、エリーの声が響いてきた。
「ルイーゼさん! こっちですよ。どこにいるんですか? 声は聞こえるんですけど・・・」
ルイーゼが声のした方を振り向き、先ほどよりも大声で、
「こっちよ!」
あわてたようなエリーの声が返る。
「ルイーゼさん、ひょっとして・・・。そっち、男性用ですよ! 何やってるんですか。早く出て、こっちへ来てください!」
「え・・・そうなの? あたし、間違えちゃったのかしら・・・。でも、大丈夫よ、誰もいないし・・・。今、そっちへ行くわね」

と、入口へ向かおうとしたルイーゼが、足を滑らせた。
「きゃっ!」
倒れかかるルイーゼを、思わず足を踏み出したボルトが支える。ルイーゼが振り向く。
「あ、どうも」
にっこりして礼を言ったルイーゼだが、やがていぶかしげな表情に変る。ボルトは、ルイーゼの肩と背中を支えたまま、身じろぎひとつしない。ルイーゼの目に、理解のひらめきが宿る。

次の瞬間。
「きゃあああ〜〜〜!!!」
カスターニェ中に響き渡るような悲鳴と共に、ルイーゼは気を失ってぐったりとなる。
「どうしたんですか!? 大丈夫ですか、ルイーゼさん!」
仕切りの向こうから、エリーの大声。

ボルトはわれに返り、
「お、おい、ルイーゼさん、気を失っちゃだめだ、溺れちまうぞ! は、早く誰か来てくれ! あ、いや、来るな! いや、やっぱり・・・と、とにかく、誰か、助けてくれ〜〜!」
ボルトがこんなに取り乱したのは、大嵐の真っ只中、砕ける大波の後ろから現れたフラウ・シュトライトと顔を突き合わせて以来のことだった。


それから1週間。
両アカデミーの交流会も無事に終わり、ルイーゼとエリーがザールブルグに向かって出立する日が来ていた。
カウンターの奥で帳簿を付けながら、ボルトはこの1週間のことを思い出していた。

あの晩、エリーの助けを借りて、気絶したルイーゼを『船首像』に運んだ。
(それにしても、錬金術師ってやつは・・・。あの娘がルイーゼさんに指輪をはめたら、とたんにルイーゼさんの体が見えなくなっちまった。それに、小さな体で軽々とルイーゼさんを運んで行っちまうし・・・。後で、「グラビ結晶を使えば簡単ですよ」なんて、澄まして言ってたが・・・。ま、俺もおかげで助かったんだがな)
翌朝、目を覚ましたルイーゼは、自分が悪いのだから気にしないでくれとボルトに言いに来たが、やはりショックが残っていたのか、顔色が悪いままだった。ボルトの方もなんとなくばつが悪くて、あれ以降ちゃんとした話もできていない。

そして今日、ルイーゼはカスターニェを起ってしまう。
(このままで、いいのか?)
ボルトは自問する。
(いいはずが、ないだろう。・・・でも、いったい、どうすれば、彼女を引き止められるだろうか)
語るべき、いろいろな言葉が、心に浮かんでは消える。
ボルトの自問自答は続いた。

同じ頃、『船首像』の客室では、エリーとルイーゼが帰り支度をしていた。
交流会の間、することがないエリーは、ミューと漁師の娘のユーリカを誘ってミケネー島へ行き、材料採取に精を出していた。貴重品の絶滅寸前の実やドナーンの舌も入手でき、大満足だった。それらのアイテムを丁寧に梱包し、運びやすいようにかごに詰め込む。

隣では、ルイーゼがケントニス・アカデミーの司書イクシーから受け取った新入生向けのテキストをバスケットに詰めている。
その口から、小さなため息がもれた。
「帰らないと、いけないのね・・・」
ルイーゼのつぶやきを、エリーが聞きとがめる。
「どうしたんですか、ルイーゼさん」
「ううん、何でもないの。さあ、行きましょう」
と、ルイーゼはバスケットの蓋を閉め、立ち上がった。

階下へ下り、カウンターへ向かう。
いつも通り、ボルトがカウンターに立っている。宿泊代の銀貨を支払おうと近寄ったエリーが、ふと眉をひそめる。ボルトの様子が、普段と違うのだ。

(どうしたんだろう、顔が引きつってるよ)
いぶかりつつも、エリーは銀貨を渡し、挨拶する。
「どうもお世話になりました」
「あ、ああ、また来てくれ」
ボルトが答える。が、視線はエリーの背後を見ている。その方向には、旅支度を終えたルイーゼがたたずんでいる。

「そ、その、ルイーゼさん・・・。ちょっと、話があるんだが」
ボルトの声が震えているのが、はっきりとわかる。
「はい?」
ルイーゼが、小首をかしげ、カウンターに近づく。
「その、何だ、この町は、気に入ってくれたかい?」
「え?・・・ええ、とっても。いいところね」
「そうか。それで・・・、もし、あんたさえよかったらなんだが、ずっとこの町にいてくれないか? で、この店を、一緒に手伝ってくれたら、ありがたいんだが・・・」

仲間はずれにされたような形で会話を追っていたエリーが、目をみはる。
(も、もしかしたら、これって、プロポーズじゃないの!? ひええ〜〜、ボルトさんったら、そうだったのか・・・。でも、ルイーゼさん、気付いてるかなあ)
自分が言われたかのようにどぎまぎして、エリーはせわしなく二人に目線を行き来させる。
日焼けしていて目立たないが、ボルトの顔が真っ赤になっているのがわかる。
ルイーゼは、いつもの夢見がちな表情の中にも、わずかにとまどいの色を浮かべているように見える。

『船首像』の中は、時が止ったかのようだった。
水槽の魚が跳ね、ぽちゃん、と水音が響く。

と、ルイーゼが身じろぎした。大きな青い瞳でボルトを見、こくん、とうなずく。
「ルイーゼさん!」
エリーが思わず叫ぶ。
呪縛が解けたように、ボルトはカウンターから身を乗り出し、
「そ、それじゃあ・・・」
後は声にならない。

ルイーゼは、エリーとボルトを交互に見ながら、ゆっくりと、一言一言を選ぶようにしながら話す。
「あ、でも、誤解しないで。今のボルトさんの言葉は、とてもうれしいし、この町も気に行っているわ。でも、あたし、本当のところは、自分がどうするべきなのか、まだわからないの。あまりに急だし、とても大事なことだから、すぐにご返事はできないわ」

「・・・・・・」
「ザールブルグはあたしの故郷だし、アカデミーの仕事も好きよ。でも、ここへ来てみて、なんとなく、自分に合ったところだなって思って・・・。それに、宿屋や酒場の仕事というのも、面白そうね」
ルイーゼはボルトに向かい、
「そんなわけですから、今は、ザールブルグに戻ります。でも、必ずこちらに帰ってきますから、ご返事は、それまで待ってくださいますか?」
「も、もちろんです!」
ほとんど、直立不動で見送るボルトだった。


「ああ、びっくりした。ルイーゼさん、このままカスターニェに残っちゃうのかと思いましたよ」
『船首像』を出て、停車場に向かう途中、エリーがしみじみと言う。
「そう? ふふふ、この1週間、考えていたのよ。本当に、ここにずっといようかな、なんて」
「は、はぁ・・・」
「とにかく、海と星空が素晴らしくって・・・。単純に、それだけなのよ。ボルトさんが、どうとかじゃなくてね」

突然、エリーが思い出したように、
「そう言えば、ルイーゼさんって、男性恐怖症じゃなかったでしたっけ? ボルトさんって、男の中の男ってイメージがあるんですけど、平気なんですか?」

ルイーゼは、海風に金髪をなびかせながら、答える。
「それが、自分でも不思議なのだけれど、あの温泉での事件のショックが大きすぎたのか、なんとなく男の人が苦手でなくなってしまったみたいなの。・・・それとも、もしかしたら、ボルトさんは、あたしにとって特別な人だったってことかしら?」
そして、ルイーゼは、輝くように微笑んだ。

停車場が見えてくる。出発準備を整えた馬車の横では、先に来たミューが待っている。
「さあ、帰りましょう、ザールブルグに」
エリーにうながされて馬車に乗り込む直前、ルイーゼは振り返ると、自分の第二の故郷になるかもしれないカスターニェの街並みに、大きく腕を振った。

<おわり>


○にのあとがき>

実は、ぼくはルイーゼさん(なぜか「さん」付け)が大好きでして、ぜひ1回、主役を張らせてみたかったんです。
で、書いてみたのが、これ。

ルイーゼさんの特徴である、天然ボケ(でも実は知識豊富で意外と頼りになる)と近眼を生かそうとしたら、こんなストーリーになりました。温泉のシーンは、まあ「お約束」ということで。う〜ん、ちょっと美化しすぎかなあ。

アイゼルとピコのからみは、この頃からぼくの小説の定番になりました。・・・というか、第1作の「ピコ!」を引きずってる。

作品のタイトルは、某アフタヌーン誌連載の「ヨコハマ買い出し紀行」から取っています。

作中の挿し絵は、なかじまゆらさん作のイラストを、ご好意により使用させていただきました。


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