戻る

〜30000HIT(ニアピン賞)記念リクエスト小説<理珈さまへ>〜

103番目の願いごと


Episode−1

「お姉さんのところに、行って来るね!」
朝ご飯の片づけを終えると、ルイーゼは母親に声をかけ、部屋を出ようとした。
「だめよ、“お姉さん”なんて言っては! ちゃんと“お嬢様”とお呼びしなさい。何度言ったらわかるんだろうね、この娘は・・・」
母親の小言を聞き流し、ルイーゼは小さな家を出ると、緑豊かな芝生が広がる中庭を横切り、“お屋敷”の方へ駆け出して行く。白い上衣に水色のスカート、吹きすぎる涼風にふわふわした金髪をなびかせる姿は、地上に降りてきた天使のようだ。
ルイーゼ・ローレンシウム。年は8歳である。
“お屋敷”の裏手に回ると、ルイーゼは南に大きな池を望む白木作りのテラスの階段を上って、サンルームへ入った。
お姉さんは、いつもそこに独りでいて、本を読みながら朝食後のお茶を飲んでいる。午後からは、家庭教師をしているルイーゼの父親が来て勉強の時間になってしまうが、それまでにはまだ十分な時間があった。
「お姉さん!」
母さんは“お嬢様”と呼ぶように言ってたけれど、当のお姉さんが、そんな呼び方をしてはいやだと言ったのだもの。ルイーゼは、いつものように、自分の唯一の友達である年上の少女に呼びかけた。
「あら、ルイーゼ、いらっしゃい。あなたもお茶を召し上がる?」
にこやかに微笑んで、少女はルイーゼに椅子を勧める。
「あ、またご本を読んでるんだ。今日はどんな本なの?」
ルイーゼはテーブルの上にティーカップと並んで広げられた大判の本を、目ざとく見つけて尋ねる。
「これはね・・・。世界中の珍しい食べ物やお料理が載っているご本なの。ほら、きれいでしょう」
朝の陽光が、ガラスの天井から差しこみ、天井を這うツタがまだらな影を作っている。その木漏れ日の中で、ふたりの少女は顔を寄せ合うようにして、本に見入った。色鮮やかな南の国の果物や、様々なケーキやデザートの絵が並び、ルイーゼの目を惹きつけた。そして、年上の少女は、絵のそばに記された説明文を声に出して、まだ字が十分に読めないルイーゼに読み聞かせる。
この、切り取られた時間の中、ザールブルグ郊外の瀟洒な荘園の一画では、ふたりの少女の身分の違いなど、どこにも見出せなかった。ひとりが“貴族”でひとりが“平民”であったにしても。また、“主人の娘”と“使用人の娘”であったにしても。
「さ、次のページをめくるわよ」
少女の声に、ルイーゼはわくわくして身を乗り出す。
「わあ、すごい・・・」
ルイーゼの空色の瞳が、大きく見開かれる。
新しいページには、ページの上半分を占領して、きれいな料理の絵が描いてあった。
どこか異国のデザートなのだろうか、きらめく薄青色のガラスの器に真っ白なホイップクリームのようなものが盛られ、その隙間から、下にあるオレンジ色のつややかな果肉が見え隠れしている。
「ねえ、これ、なんて言うお料理なの?」
ルイーゼがせがむ。
「ええと、これはね・・・」
その時、あわただしい足音と叫び声に、ふたりだけの時間はさえぎられた。
「お嬢様! 一大事でございます! 旦那様が・・・!」
転がるように飛び込んできた侍女のひとりが、悲鳴に近い声をあげてくずおれる。
その背後から、戦鎧に身を固め、抜き身の剣をかざした数人の騎士が、どやどやと姿を現す。

その日、ルイーゼの両親は職と家を失った。
貴族たちの勢力争いに巻き込まれ、あるじをなくしたのだ。まだ小さなルイーゼには、その時、何が起こったのか、理解できるはずもなかった。
しかし、その日を境にルイーゼは、大好きな“お姉さん”と会うことは二度となかった。
思い出の中で、最後にお姉さんと一緒に眺めた、あのきれいな料理の絵だけが、鮮明に心に焼き付いていた。


Episode−2

「ふう・・・」
ルイーゼは、片づけの手をふと休めると、窓辺に近寄る。そして、夢見るような表情で、外を見下ろした。
手で触れられるほどの近くに、大きな木が梢を伸ばしているが、その枝葉越しに、アカデミーの中庭をそぞろ歩く生徒たちの姿が見え隠れする。
「どうしたの? 疲れた?」
背後からの声に、ルイーゼは振り向くと、深みのある空色の目に微笑みを浮かべ、ゆっくりとした口調で答える。
「いいえ。ただ、ちょっと・・・。明日から、ここに住むなんて、夢みたいだな・・・って思って」
「あら、明日からじゃないわ、今日からよ」
この部屋の、これまでの住人アウラが、くすっと笑った。
「あなたなら、この仕事にぴったりだと思うわ。あたしも、安心してお嫁に行ける」
ここは、錬金術を教える魔法学院ザールブルグ・アカデミーの事務棟の最上階にあたる。アカデミーの職員に与えられる個室である。
ルイーゼは、つい先日アカデミーを卒業したばかりだった。
知識は一流だが実験が苦手なルイーゼは、あまり名誉とはいえない留年を2回繰り返して、ようやく卒業したのだった。留年してからは、アカデミーの寮にいることもできず、ザールブルグの下町で下宿屋を営むおばの家から通っていた。
そんなルイーゼに、アカデミーは、結婚退職するアウラの後がまとして司書兼ショップ店員の職を申し出たのだった。
「・・・でも、あなた、ずいぶんあっさりと決めてしまったのね」
アウラの言葉に、ルイーゼはうなずく。
「ええ。ここでなら、探し物もできると思いますし・・・」
「え? 探し物?」
「はい」
ルイーゼは空色の瞳を見開き、夢見がちな表情で答える。もっとも、それがルイーゼの地顔なのだが。
「ある本を、探しているんです・・・」
そう言って、ルイーゼは幼い日の思い出を語った。あの日、不意に断ち切られてしまった平穏な日々の記憶とともに、心の奥に深く刻まれた不思議な料理の絵。
「あたし、あの本の名前も覚えていません。でも、アカデミーで仕事をしていれば、いろいろな本と出会う機会も多くなりますし、そうしていれば、いつか、あの本とめぐりあえるんじゃないか、あの料理の名前がわかるんじゃないか・・・って」
「そうか、思い出探し・・・か」
アウラはつぶやいて、箱に詰めて持ち出すばかりになった自分の荷物をぽんと叩いた。
「そういう本だったら、もしかしたら、ケントニスのアカデミーにあるかも知れないわね」
「ケントニス、ですか?」
ケントニスとは、西の海を渡った先にある別の大陸にある町で、錬金術の発祥の地である。このザールブルグにアカデミーを建設した現校長のドルニエや、教師のイングリドも、ケントニスからやってきたのだ。
「あたしは、行ったことはないけれど。でも、あなたなら、いつか、行けるかも知れないわ」
そして、アウラは窓際に寄り、ルイーゼに寄り添うように空を見上げる。
「ねえ、あなた、星を見るのは好き?」
青い空に目をやったまま、アウラが尋ねる。
「はい、とても。本当に神秘的で、素敵ですよね」
「そう、良かったわ。ここからは、よく星が見えるのよ。あたしも、よく星を見上げて、願い事をしたものだわ」
「願い事、ですか・・・」
ルイーゼも、肩を並べて空を見やる。今は見えないはずの星が、見えているかのように。
「かないました? 願い事」
ルイーゼの邪気のない問いに、アウラは微笑む。
「ふふ、秘密よ」
アウラの脳裏には、アカデミーの主席を守り続け、今はマイスターランクに進んでいる弟の姿と、同じ空の下、どこか遠くの土地を旅している型破りな錬金術師の少女の姿が浮かんでいた。
「そうですか。秘密、ですか」
ルイーゼがつぶやくように言う。
「かなうといいわね、あなたの願い事」
と、アウラは向き直ると、部屋の奥に作り付けられた本棚に目をやる。そこは、8割方、いろいろな本が詰まっていた。これまでアウラが集めた本である。
「この本は、本当に置いて行っていいのね? 荷物にならないから、あたしは助かるけれど」
「ええ、もちろん。本は、大好きですから」
ルイーゼは言って、太陽のように微笑んだ。


Episode−3

時刻は昼を過ぎたばかりだったが、太陽の位置は低かった。
冬の穏やかな日差しが、目の届く限り広がる砂丘の連なりを照らし、静かに打ち寄せる波の音だけが響いてくる。
その砂丘のそこここに散って、みっつの人影が動き回っていた。
「どの辺を探せばいいんだい?」
皮鎧の上に緑のマントをはおった冒険者のルーウェンが、顔を上げて尋ねる。
「ええと、潮が満ちてくるぎりぎりのあたりの砂を掘ってみてくださ〜い」
砂丘の陰から、声だけが返ってくる。
「でも、エリーちゃん、本当にその情報、信用できるの?」
ルーウェンの反対側の斜面に取り付いていたロマージュが言う。冬だと言うのに露出度が高い踊り子の服をまとい、南国生まれらしい褐色の肌がむき出しになっている。
「それしか手がかりがないんですから、信じるしかないじゃないですか。ボルトさんの言うことなら、信用できるし・・・」
声とともに、別の砂丘のてっぺんから、オレンジ色の奇妙な帽子をかぶった頭だけが、ひょいと現われる。ふたりの雇い主である、錬金術師のエリーだ。
エリーたち3人は、冬の初めにザールブルグから、西の海辺の町カスターニェにやって来ていた。もちろん、目的は錬金術の材料の採取である。旅の途中、あるいは採取先でも、魔物や盗賊に襲われることがある。それに備えるための護衛として、ルーウェンとロマージュがついて来ているのだった。
そして、もう冬も終わりに近い。結局、ひと冬をカスターニェで過ごしたことになる。その間、ミケネー島やアーベントの丘など、珍しいアイテムが採取できる場所を回り、何度も荷物をザールブルグのエリーの工房へと送り出していた。
今日は、帰る前の最後の採取として、カスターニェから1日の距離にある千年亀砂丘に来ていた。これまで手に入っていない珍しい『千年亀のタマゴ』を探しているのだ。
定宿にしている『船首像』の主人ボルトから、千年亀がタマゴを生みそうな場所について聞いて来ている。
だが、これまでのところ、成果は上がっていない。
「あああ、いい加減、腰が痛くなったぜ」
ルーウェンが剣を杖代りにして起き上がり、大きく伸びをする。
その動きが、途中で止まった。
「なんだ、ありゃあ?」
ロマージュも背伸びをするように、手をかざしてルーウェンの視線を追う。そして、いつものように気だるげな口調で言った。
「敵がいるわよ」
「へ?」
まるで、「いい天気ね」と言うのと同じような口ぶりで言われたもので、エリーも間の抜けたような返事しかできない。
その間に、砂煙をあげて、恐ろしげな姿をした怪物が近づいてくる。
ごつごつした岩のような肌をしており、頭には鋭い角が生え、口からは剣のような牙がむき出しになっている。全体として、小型の恐竜のように見える。
「ドナーンじゃねえか! なんでこんなところにいるんだよ!」
「そうよ、ミケネー島にしかいないはずなのに!」
ルーウェンとエリーの驚きの叫びが交錯する。
「でも、いるものはいるんだもの、しょうがないじゃない」
ゆっくりした色っぽい口調とは裏腹の素早い動作で、ロマージュは両手に短剣を構える。
「そうだな、戦うしかねえな」
ルーウェンも長剣をすらりと抜き、水平にかざす。
「エリー、あんたは援護してくれ」
言うと、ルーウェンはちらりとロマージュを見やった。
ふたりの視線が一瞬、行き交う。
獲物だと判断したのか、二本足で歩く大きなトカゲのようなドナーンは、どすどすと足音を響かせ、3人に向かってくる。
ルーウェンとロマージュの足が、砂を蹴った。
同時に、動きを止めたドナーンが首を大きくそらすと、巨大な口から炎を吹き出した。
動きを止めず斜めにステップして、ルーウェンもロマージュもそれをかわす。炎はエリーにまでは届かない。
ドナーンが次の炎を吐き出す前に、ふたりは間合いを詰めていた。
「上!」
「下!」
気迫のこもった叫びが交錯する。
身体を反転させて宙を飛んだロマージュが、回転した勢いのまま、ドナーンの左目に短剣を突き刺す。
同時に、身を低くして怪物の前足を避けたルーウェンが、長剣でドナーンの腹を深々と切り裂く。ドナーンは、腹の部分の鱗が柔らかくなっていて、ここが急所なのだ。
グワアッ!!
悲鳴ともつかない咆哮をあげ、ドナーンが大きく首をのけぞらす。
そののど元を狙って、身体を反転させたルーウェンが、長剣を突き出す。狙い通り、長剣は固い鱗の隙間をぬって根元まで突き刺さった。
さらに、身軽にとんぼ返りをしたロマージュが、もう1本の短剣をドナーンの無事な方の目に全体重を乗せて叩き込んだ。
ドナーンは、吼え声も動きも止める。
ルーウェンが剣を引き抜いた傷から、噴水のように血が噴き出す。
白い砂に、どす黒い池が広がっていく。
そして・・・。
ドナーンの巨体が、崩れるように倒れこんだ。
「ルーウェンさん! ロマージュさん!」
エリーが駆け寄ってくる。
ルーウェンは、マントの端で剣に付いた血をぬぐうと、ゆっくりと鞘に収めた。ロマージュも、うまく血だまりを避けて死体に近寄り、短剣を回収する。
「さ、俺たちの仕事は済んだ。あとはエリー、あんたの好きにしな」
ルーウェンは長剣を肩にかつぎ、ドナーンの死体にあごをしゃくる。
「ええっ、あたしがやるんですかぁ!?」
エリーのうんざりした声。
この怪物ドナーンの舌は、錬金術の材料になる貴重品なのだ。しかし、それを手に入れるには、死んだドナーンの口をこじ開け、そこに手を入れてナイフで切り取るしかない。
「そうよ。あたしたちは、お給料分の仕事はしたもの」
ロマージュもうなずく。
「そういうこと」
ルーウェンは、
「ああ、疲れたぜ」
と、わざとらしく砂に座り込む。
ロマージュはルーウェンに近寄ると、色っぽい声で、
「そこに横になりなさいな。マッサージしてあ・げ・る」
そして、力を抜いてうつ伏せになったルーウェンの腰から肩にかけて、もみはじめる。
うらめしそうに見ているエリーに、何事もないように言う。
「あら、エリーちゃん、何してるの? 早くしないと、腐っちゃうわよ」
「ぶー」
エリーはふくれて見せると、肩をすくめてナイフを手に、ドナーンの死体にかがみこむ。
胸が悪くなるような思いで、鋭い歯に傷つけられないようにしながら、舌をまさぐる。
「え・・・? あれえ!?」
エリーが目を丸くする。
魔物が倒れた衝撃で砂が崩れたのか、死体の脇にぽっかりと穴が開いている。
その穴の中に、つやつやした真ん丸の白い物体が、いくつも積み重なっているのが見えた。
「どうしたの、エリーちゃん?」
エリーの素っ頓狂な声に、ロマージュも顔を上げる。
「やったぁ! 見つけたよ、『千年亀のタマゴ』!」
エリーの歓声が、砂丘に響いた。

「そうか、そいつは良かったな」
カスターニェに戻ったエリーたちは、ザールブルグ行きの馬車の出発までの時間をつぶすために、オットーの雑貨屋に立ち寄っていた。
『千年亀のタマゴ』を見つけた話をすると、オットーはにっこり笑って祝福してくれた。
「そういえば、以前あんたが来た時にあげた本は、役に立ってるかい?」
オットーが言っているのは、『珍味の旅』という本のことである。エリーが初めてカスターニェに来た時に、買い物のおまけとしてオットーがくれた本だ。
「ええ、ほんとに役に立ってます。おかげさまで、いろいろな食べ物を作ることができるようになりましたし・・・」
エリーの返事に嬉しそうな表情をしたオットーは、やや声をひそめて言う。
「ところでな、噂に聞いたんだが、もっとすごい食べ物の本があるらしいんだ」
「もっとすごい本?」
「ああ、なんでも、世界の珍味中の珍味を集めた本だという話だ。『世界の珍味』という面白くもなんともない名前だが、作られた数が少なく、“幻の本”と呼ばれているそうだ」
「ふうん、そうなんだ・・・」
「お〜い、エリー、そろそろ時間だぞ!」
入口からルーウェンが呼ぶ。エリーはオットーに一礼する。
「あ、それじゃ、また来ます」
「ああ、またよろしく頼むぜ」
オットーは笑顔を見せた。


Episode−4

「どう、エリー、メンバーは見つかって?」
アカデミーのロビーでエリーに声をかけたのは、同期生のアイゼルだ。高級そうなピンクの錬金術服は、地味な服装が多いアカデミーの中では目立つ。
大きなエメラルド色の瞳で射すくめるように見つめ、高飛車な口調だが、別に腹を立てているわけではない。いつものアイゼルの調子なのだ。
エリーはいつもの元気さはどこへやら、暗い目付きで肩をすくめる。
「それが・・・」
「まあ! だめだったの?」
「うん」
「何よ、魔物が出ない4月のうちに、女性だけでミュラ温泉に骨休めに行こうって言ったのはあなたでしょ。メンバーもすぐ集めるから任せておけって、あんなに自信たっぷりだったじゃない」
「うん、そう思っていたんだけど・・・」
エリーはがっくりと肩を落とす。
「ミューさんはどこへ行ったんだか行方不明だし、ロマージュさんは『飛翔亭』との契約があるからスケジュールを空けられないって言うし。ミルカッセは教会学校の先生をやっているからだめだって言うし、フレアさんも誘ってみたんだけど、それを聞いたハレッシュさんが俺も一緒に行くって言い出して、ディオさんと喧嘩になっちゃうし。カスターニェからユーリカを呼ぶわけにはいかないし、マルローネさんは遠いケントニスだし」
「まさか、ヘルミーナ先生やイングリド先生に声をかけるわけにもいかないわね・・・」
アイゼルが引き取って言う。
「はああ、誰かいないかなあ・・・」
ため息をついたエリーの視線が、ふと止まる。
アイゼルが、その視線を追う。
ふたりの視線の先には、ショップのカウンターがあった。
「はい?」
カウンターの向こうで、ルイーゼがきょとんとしてふたりの視線を受け止めていた。

そんなわけで。
エリー、アイゼル、ルイーゼの3人は、ヴィラント山の頂上近くに来ていた。
前月末に王室騎士隊が魔物討伐に出ているため、今の時期はヴィラント山といえど魔物の姿はない。
エリーたちの目的地は、山頂近くに湧き出している天然の温泉、ミュラ温泉である。温泉には薬効成分が多く含まれており、疲労回復に大いに効果がある。
もちろん、骨休めが主目的であっても、途中で材料採取もできるので、エリーとアイゼルは、めいめい採取かごを背負って来ていた。ルイーゼは、温泉に入った後にお茶とデザートを楽しもうと、食べ物と飲み物を詰めたバスケットを持って来ている。
岩場に刻まれた急勾配の階段を登りきると、眼下に湯気が立ち昇っている。
「わあいっ!」
歓声を上げて、先頭のエリーが駆け下りる。
岩場の隙間に溜まった土から生えている潅木の陰に荷物を置き、着替えると、3人はそろそろと温泉に身を沈めた。
「ああああ、気持ちいい!」
お湯の中で、エリーが大きく伸びをする。
「でも、良かったんですか、ルイーゼさん? 半月近くショップを休むなんて」
アイゼルが肩のあたりをもみほぐしながら尋ねる。ルイーゼはにっこり笑って、答える。
「ええ、大丈夫よ。だって、考えてみたら、あたし、ショップに勤めるようになってから、1回も休暇を取ってなかったんですもの」
「それにしても、ルイーゼさんって、肌がきれいですね。出るところも出てるし・・・」
エリーがしみじみと言う。
たしかに、流れるような金髪をゆったりとまとめ、白い肌をほんのりと上気させたルイーゼは、水の精のようだ。
アイゼルはくすっと笑って、
「そりゃあ、幼児体型のエリーには、ルイーゼさんのスタイルはうらやましいわよねえ」
「な、なによ、アイゼル。あなたはどうなの?」
「あら、あたしは今のスタイルで十分だわ」
「なによぉ、ちゃんと鏡を見てるの? あたしと大して変わらないじゃない」
「ふふふ」
無邪気に言い合うエリーとアイゼルを見て、ルイーゼが微笑む。
ルイーゼが、ふと眉をひそめた。
「あら、何の音かしら」
ルイーゼは、空色の瞳を大きく見開いて、天然岩の壁の方を見やる。とは言っても、ルイーゼは強度の近視なので、はっきり物が見えるわけではないのだが。
「え、何ですか?」
エリーもルイーゼの視線の先を追う。
そこへ・・・。
がらがらと音を立てて、なにかが転げ落ちてきた。
大きな水音とともに、水面に波紋が広がる。
「きゃ! 何!?」
いちばん冷静に見ていたのは、もっとも遠くにいたアイゼルだった。
「エリー!! それ、あなたの採取かごじゃないの! ちゃんと木に結んでおかなかったの!?」
不安定な岩場に無造作に置いてあったエリーの採取かごが、風にでも吹かれたのだろうか、バランスを失って転がり落ちてきたのだった。
「たいへん! 早く拾わなくちゃ」
エリーがお湯をかき分けて近づこうとする。
「ちょっと待って」
ルイーゼが止めた。
「たしか、中には採取した『カノーネ岩』が入っていたわよね」
「え、ええ。少しですが、入ってますけど」
「危ないわ。そばに行かない方がいい」
ルイーゼはいつになく真剣な声だ。
「あまり知られていないことだけれど、『カノーネ岩』を、特定のミネラル分を含んだ一定温度以上のお湯にさらすと、高熱を出して崩壊するのよ。このミュラ温泉の温度は高いから、たぶん臨界温度を越えていると思う。気を付けないと、やけどすることになるわ」
「ええっ!? そんなこと、参考書には書いてなかったけれど」
アイゼルが目をひそめる。ルイーゼは落ち着いた口調で、
「アカデミーの普通の参考書には書いていないわ。以前に読んだ本に、たまたま注釈として載っていただけ」
「はあ・・・」
ルイーゼの豊富な知識に、エリーは目を白黒させている。
「だから、一度お湯からあがって、服を着てから引き上げた方がいいわ」
エリーもアイゼルも、反論することなくルイーゼの言葉に従った。

「せえの!」
近くから枯れ枝を見つけてきたエリーが、かごの肩ひもに引っかけようと、枝を伸ばす。別の方向から、アイゼルも枝を操ってかごの位置を都合よくずらしていく。
「よし! 引っかかった!」
エリーは身を乗り出して、水面から半分顔を出したかごのへりに手をかける。ルイーゼが、エリーが落ちないように身体を支える。
岩場を回ってきたアイゼルも手伝って、水を吸って重くなった採取かごをやっとのことで引き上げる。
「ふう・・・。一段落だね」
「ふうじゃないわよ! おかげで、また汗をかいちゃったわ」
アイゼルは文句たらたらだ。
「まあまあ。また後で、入り直せばいいわよ」
ルイーゼがとりなすように言う。
「それに、かごの中身が温泉の中に散らばってたら、それも拾わないといけないじゃない。そこまで手伝う義理はなくってよ」
「大丈夫だよ。中身は『カノーネ岩』だけだったから、みんな溶けちゃったし・・・あれえ!?」
確認するためにかごを覗き込んだエリーが、驚きの声をあげる。
「そうだった・・・。忘れてたよ。とほほ・・・」
エリーはかごの底から、布の包みを取り出した。お湯がしたたる。
「何なの、それ」
アイゼルの問いにも答えず、エリーは半べそをかいている。
「カスターニェでせっかく見つけたのに・・・。帰ってから、取り出すのを忘れてたんだ・・・」
「だから、何なのよ、それ」
「・・・。千年亀の・・・タマゴ」
「はあ?」
アイゼルとルイーゼは、顔を見合わせた。
「ふぇぇん、どうしよう。お湯に浸かっちゃったら、もう材料として使えないよぉ」
「エリーったら。自業自得じゃない。でも、どうなったか調べてみましょうよ」
アイゼルは、エリーから包みを取り上げると、平らな岩の上に置いて、中身を取り出す。
つやつやとした真っ白な殻をした、真ん丸のタマゴがいくつも現われる。
「見た目は、どうということもないわね。でも、中身はどうかしら」
つぶやくと、アイゼルはタマゴのひとつを取り上げ、岩角に打ち付けて割ろうとした。が、ふと手を止めて、
「入れ物が要るわね」
と、自分の採取かごの中から、紙包みを取り出してくる。
包みの中から出て来たのは、きれいにカッティングがほどこされたガラス製の器だ。
「これにデザートを入れて食べるつもりだったのだけれど、ま、いいわね」
アイゼルは、軽くタマゴを岩に打ち付けてひびを入れると、器用な手付きでガラスの鉢に中身をあけた。
「まあ・・・」
タマゴは、程よい半熟に仕上がっていた。
白身は柔らかなホイップクリームのようにガラス器に広がり、その半透明の隙間から、オレンジ色に近い黄身が透けて見えている。
「これって・・・」
エリーが目を丸くする。
それ以上に、ルイーゼの青い瞳は大きく見開かれていた。
「まさか・・・。あの本の絵の料理って・・・」
ルイーゼはつぶやいた。


Episode−5

ケントニス・アカデミーの図書室では、研究員のマルローネが、脚立の上で背伸びをしていた。
「ううん・・・っと。もう少し・・・」
手を伸ばし、書棚の最上段に乗っている本を取ろうとしているのだ。
背表紙の下端に、ようやく指が引っ掛かっている状態だ。
「よおし・・・。このまま引っ張れば・・・」
力をこめ、本を引く。
ようやく、数センチ引き出すことができた。後は、右手で背表紙をつかみ、引っ張ればよい。
「あと、ちょ・・・っと」
「おや、マルローネさん、何をあぶなっかしい格好をしているのですか」
冷ややかな声が、下から聞こえてくる。
「なんだ、クライスか・・・。見ればわかるでしょ。本を取ってるのよ」
「そうですか。私はまた、軽業師になる練習でもしているのかと思いましたよ」
同じく研究員としてケントニス・アカデミーに滞在しているクライスは、ザールブルグ時代からの腐れ縁だ。皮肉屋のクライスと奔放なマルローネは、ことある毎に角を突き合わせているのだが、どちらも飽きるということがないようだ。
「用がないならさっさとあっちへ行ってよ。・・・それともまさか、あんた、覗き?」
「じょ、冗談じゃありません。誰が覗きなんかしますか! 言うに事欠いて、まったく・・・」
「あ、取れる・・・」
ところが、目的の本と並んでいた数冊の本が、一緒に出て来てしまった。
「きゃあっ!」
予想外の重みに、バランスを崩したマルローネが、脚立を踏み外した。同時に、分厚い本が何冊も落ちてくる。
「わあっ!」
あっという間に、クライスはマルローネの下敷きになっていた。
けたたましい音が、静かな図書室に響き渡る。
「何事ですか!」
ドアが開き、司書のイクシーがすっ飛んでくる。
「また、あなたがたですか」
目を三角にしたイクシーが、あきれたように言う。
「ご、誤解です・・・。私は、単なる被害者です・・・」
マルローネの尻に敷かれたクライスが、弱々しい声で抗議するが、イクシーは取り合わない。
「まったく・・・。ここのコーナーの蔵書は、希書ばかりなのですから、もう少しデリカシーを持って扱っていただきたいものです」
と、イクシーは手近に落ちていた大判の本を取り上げ、埃を払う。
「特に、この『世界の珍味』という書物などは、さる貴族が作らせたものだそうで、世界に数冊しか残っていないというものなのですよ」
イクシーが、書物を開いてみせる。
鮮やかな色遣いで描かれた料理の絵が、マルローネの目に突き刺さってくる。
「あれえ? その料理って・・・」
マルローネがつぶやき、クライスの上に座りこんだまま、説明文に目を走らせる。
「ふうん。『温泉卵』って、珍味だったんだ・・・」

<おわり>


○にのあとがき>

25000に続き、30000ヒットもジャスト申告なしでした(泣)。そんなわけで、いちばん近い30003を申告してくださった理珈さんに、リクエスト権を差し上げました。
で、いただいたリクのお題が、『ルイーゼさんと本』。その他に、楽しいルーロマが見たい、とか、ルイーゼさんに温泉に入ってほしい、とか、いろいろ。
それらのネタを全部まとめてぶちこんだら、こんな作品ができてしまいました。ついでに恒例(?)のちびキャラも(^^;

『103番目の願いごと』というタイトルですが、これは解説の必要があると思います(解説が必要なタイトルなんか付けるな、という説も)。
ローレンシウムというのは、原子番号103番の元素の名前でもありますので、それにちなんだものです。

長さの割りにはオールスターキャストになってしまいましたが、お楽しみいただければと(^^;


戻る